「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年11月13日


「飼育」大江健三郎

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん  2022/8/8 08:51

飼育(大江健三郎著)を読んで

 大江健三郎の作品を読むのは実は初めてである。今回、石野さんが大江健三郎をチョイスしていただき、読めたことに貴重な機会を得ることができたと感謝したい。

 恥ずかしながら、川端康成に続き日本人で二人目のノーベル文学賞を受賞していること、丸メガネの容貌で、知的障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生でも話題になったことくらいの知識しか持ち合わせていなかった。

飼育(1958)で東京大学在学中に芥川賞を受賞、当時最年少の23歳で芥川賞を受賞し、新進作家として脚光を浴びている。

■数々の文学賞を総なめにしている。(ウィキペディア)
・芥川龍之介賞(1958年)
・新潮社文学賞(1964年)
・谷崎潤一郎賞(1967年)
・野間文芸賞(1973年)
・読売文学賞(1983年)
・大佛次郎賞(1983年)
・川端康成文学賞(1984年)
・伊藤整文学賞(1990年)
・ノーベル文学賞(1994年)
・朝日賞(1995年)
・レジオンドヌール勲章(コマンドゥール)(2002年)

■ノーベル文学賞の受賞理由
 詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている。

■簡単なあらすじ
 さて「飼育」であるが、終戦間際、僕たちの住む村に戦闘機が不時着し、そこで一人の黒人兵を捕虜にする。
 それまで戦争と無縁で過ごしていた生活が、この黒人兵の捕虜を捕えた事から一変して行く。今までこの村では恐らく外国人を生で見た事はなかったであろうし、ましてや巨大な黒人ともなれば、初めて見た村人たちは、真っ黒な巨大凶暴動物に感じたであろう。それをひとまず地下倉庫に足枷を嵌めて保管したまではいいが、それの扱い方が分からない。村では県に報告するが、それの引き取り方法など詳細が決まらない為、しばらく村では飼う事になる。
村の子供たち、僕、兎口、弟の三人はその黒人の生態、挙動に興味津々である。
 食事を届けに行く役割を任された僕は、最初、戦々恐々とそれに近づき食事を与えるが、日が経つにつれ、それほど凶暴ではない事に安堵し、足枷を外して自由に動けるようにしてやる。言葉こそ理解できないものの、外国人と子供の間では、言語は必要なく、ボディランゲージで、相手との意思疎通ができるまでになる。
地下倉庫から出して、いろいろな場所に連れて回る。
池で裸になり、垢で塗れた体を洗い流したりする。
 やがて村でもその黒人の存在は違和感がなくなり、自然の景色の一部になって行く。
そして、その黒人の移送が決定する。
その決定にがっかりした僕は、その事を黒人に伝えに行くのだが、黒人はそれを自分の処刑と勘違いしたのか、今までの無垢な態度から一変して、僕を人質にして地下倉庫に立て篭もる。
やがて村人は立て篭もった黒人兵を子供に危害を加えようとしている害獣の如く、地下倉庫に降りて来て、殺害する。
僕は手を粉砕されるが、命は助かる。
 何も娯楽という娯楽がなかった村が、黒人という獲物を飼い、それを鑑賞し、余興として楽しめていたものが、最後こんな形で失ってしまったことから、子供たちは空疎感に襲われる。

テーマ
@「飼育」を読んでのオリジナリティのある感想を教えてください。 
A大江文学について、思うところを率直にお書きください。

@「飼育」を読んでのオリジナリティのある感想を教えてください。 
■感想
 昭和33年に発表されている本作だが、これは戦時中恐らく昭和18?20年あたりの出来事だろう。直に外国人を見たこともない田舎町で、突然起きた外国人でなおかつ黒人の捕虜ということで、その田舎町ではその捕虜の取扱いに戸惑ってしまう情景が実に上手く描写されている。
その捕虜というのが馬鹿でかい黒々とした筋肉隆々物体。同じ人間とは思えない牛や熊みたいに映る。
 子供の頃。「巨人の星」というアニメがやっていたが、僕には「オズマ」のイメージと重なる。その黒々とした静かな物体は、僕や兎口、弟にとってはいい鑑賞物であり、連れて回るには像使い然と映り、鼻高々である。
それがいよいよ町に帰さなくてはいけなくなった時、僕は動揺する。今までの楽しみ、黒人兵との楽しいひと時が失われてしまうと焦り、その決定をいち早く知らせるとともに、ややもすれば逃げるように促そうとしたのか?
黒人兵はその僕のただならぬ態度に、町の人々に公開処刑でもされると勘違いしたのだろうか、僕を無理矢理拘束し、人質にして立て篭もる。

 一転凶暴化した黒人兵は自らの命を守ろうと冷静さを失い、常軌を逸した興奮状態に陥る。
村の人々は地下倉庫への蓋を力づくで壊し、相手を説得もすることもなく、その黒人兵の頭をかち割り、殺害する。
正に、田舎で戦時中の外国兵捕虜を捕らえた事件の予期せぬ終わり方であった。

A大江文学について、思うところを率直にお書きください。
 大江健三郎の表現力が群を抜いている。
 文庫に収められている他の、「死者の奢り」、「他人の足」、「人間の羊」、「不意の?」、「戦いの今日」いずれも戦後間も無くの話であるが、敗戦後、日本人は今後どうなって行くのかが分からず、迷い、戸惑っている姿が細かな心理描写を交えてうまく書かれていると感じた。生き抜くためのバイタリティ、貪欲さが現代と比べ物にならない。東大仏文科にいた大江の目には、これらの作品を書いて書いて書きまくるしか自分の将来を展望できなかったのかもしれないと感じた。

阿王 陽子さん  2022/9/25 14:01

一、飼育を読んで

正直、私にはおそろしい小説としか思えなかった。
戦時下の集落(おそらく被差別部落)に起きた、敵兵の外国人捕虜である黒人とのいっときの交流と死を描いた作品。

集落の凶々しさをあらゆるおそろしい、なまぐさい表現で表している。

「甲虫の一種が僕らの硬くなった指の腹に?」
「僕らは油にとらわれた羽虫のように?」
「僕は狼のように凶暴な眼を」
「大きい獣のようにうずくまっている倉庫へ」
「天井の裸の梁に腐った桑の葉を」
「夜の森にひそんで獲物に跳びかかろうとする獣のように」
「黴と小動物の臭いのする湿っぽい空気を」
「僕の皮膚を殺したばかりの鶏の内臓のように」
「蛹の腹部のように」

黒人のことを、
「躰中、牛の臭いがする」
「あいつは獣同然だ」
と、集落の人たちは言うが、しかし、それは自分たち自身が忌み嫌われていたことに対する言葉でもあった。

裸の兎唇が、「女の子供たちに、彼の薔薇色のセクスを小さな人形のように可愛がらせていた」
ことは、あまりに下品であり、倫理観もまるきりない、知性がない、教育や大人の目が行き届いていない、まさに「獣」の行為であり、野生の動物のようである。

本編中、凶々しい、おぞましい表現で埋め尽くされた文章で気味が悪い。
しかしそれが戦時下の集落であり、被差別部落であるだろう集落を表現したことでもある。

戦争は、獣になること。
そのようにこの小説は反戦を表しているのではないか。
最後、書記は死ぬ前に、自身のタバコではなく、黒人から献上されたパイプを吸っている。そして、「書記があおむけに横たわって微笑んでいた」ように黒人の橇にのって死ぬ。

黒人を飼育してから虐げられていた日常から一時でも解放される僕や兎唇。町役場の書記は町側の人間でありながら、義肢であり、しいたげられる集落側とつながっている。

戦争は、捕虜を産む。弱肉強食の、獣のような世界なのだ。また、被差別部落である、この集落もまた、昭和年代にもあったことであるだろう。

この小説は、なかなか見たくないもの、目を塞いでしまうもの、蓋を閉じてしまうものをさらけ出したような、差別や、戦争への批判を描いたものと思った。

二、大江健三郎作品について

「飼育」は初めて読んだ。また、ほかの作品は読んだことはなく、苦手意識がある作家である。

石野夏実さん  2022/10/6 21:49

大江健三郎「飼育」補遺@              
                2022.10.6  石野夏実    

<年譜>
※省略

<受賞歴>
※省略

<課題書の「飼育」についての担当の感想>

見事な書き出し(※「死者の奢り」も同様に)であるが、他の箇所も含め、何度でも読み返すのに耐えうる硬質でありながらも詩的な描写は、読者の眼前に光景を大きくイメージさせる。
故郷の大自然の中で、陽光や風を感じながら大江自身が少年時代までに育んだ感性と、青年期(高校生〜大学生)に詩集や翻訳物等により蓄積された豊かな語彙が、独自の詩的表現で美しさを最大限に放出していると思った。
戦後の新しい個性的な小説=大江文学の出現である。
テーマは「少年の『僕』がおとなになるということ」といわれているが、子どもの遊びはもうできない、一生破壊された手と共に生きてゆく人生の始まりということなのだろうか。
この物語は「少年と父の物語」でもあると思う。
また「捕虜である黒人兵の決められていたかのような死」と「役所で働く書記と呼ばれる義足の男の偶然の死」のふたつの「死」を並べることで、その先にあるものを思考させているのではないだろうか。
戦争さえなければ、こんなことは起きなかったし、ふたりの死もなかった。

☆飼育☆
「飼育」とは何であろう。尾翼だけを残しばらばらになり燃え尽きた敵方飛行機の捕虜が黒人兵であるからか、牛を飼うように「飼育」するということらしい。
P.88=「どうするの、あいつ」と僕は思い切って訊ねた
「町の考えがわかるまで飼う」
「飼う」と驚いて僕はいった。「動物みたいに?」
「あいつは獣同然だ」と重おもしく父が言った。「躰じゅう、牛の臭いがする」
※白人兵なら「飼育」というイメージは湧かないのだろうか。

僕と弟と父の三人の住まいは「家」と呼べるような住居ではなかった。例えバラック小屋でも、定住し続けていればもう少し暮らしぶりが窺えるが、彼らは村の中央にある共同倉庫の2階のもう使われていない狭い養蚕部屋に寝床だけを持ち、土間で鍋で煮炊きをし家具は何一つ持っていなかった。地域に慣れているので流れ者ではないと思うが、村での位置づけが私にはわからなかった。隠れて住んでいるわけではないし、父親は町に交渉にも行く。
「兎口」と呼ばれる少年と主人公の「僕」は、子ども達の中では腕力も強く一目置かれる存在のようだ。
父親の仕事は猟師で、これのみで僕と弟の3人の生計を立てている。それでも僕と弟はたくましく生きているのであるが。
もともと「町」とは頻繁に行き来するわけでもなかった彼らの村は、梅雨時の洪水によって、つり橋は押しつぶされ小学校の分教場は閉鎖されている。
隔絶されていてもいなくても、大して影響もない孤立した集落だったのであると思えた。
阿王さんも書かれているように、やはり被差別部落であろうか。

当時の芥川賞選考時の委員の選評を少し紹介したいと思います。大江はこの「飼育」で第39回の芥川賞を受賞したのですがその前の第38回で開高健の「裸の王様」と大江の「死者の奢り」が接戦となり、開高健の「裸の王様」が受賞しました。選者たちは38回と同じメンバーに加え39回からは井伏鱒二と永井龍男が直木賞選者から芥川賞選者に移行し、2名増え11名になりました。
※参考のため当時の委員の年齢も入れておきます。

石川達三(53)、川端康成(59)、中村光夫〈47〉、丹羽文雄〈53〉、瀧井孝作(64)、佐藤春夫〈66〉、井伏鱒二(60)、舟橋聖一〈53〉、永井龍男(54)、井上靖〈51〉、宇野浩二(66)の11名でした。
選者たちは前回の「死者の奢り」と今回の「飼育」を比較したり、「飼育」と同じく候補に残った大江のもう1篇「鳩」の感想を述べたりしましたが、賛成7(石川、川端、丹羽、井伏、舟橋、永井、井上)対反対4(中村、瀧井、佐藤、宇野)で授賞が決まりました。
石川は、賛成ではあるがわざと難しく書いているのではないだろうかと述べ、佐藤春夫はじめ反対者の意見は、十分有名になっているのだから新人に与える芥川賞は彼には必要ない相応しくないとの意見。
川端は大賛成であり、新選考委員の井伏も永井も強く推した。

※最初の年譜の紹介に年月と作品名を細かく書きましたが、いかに短期間で大江が多くの短編を発表し時代の寵児になったのかは一目瞭然だと思います。
※※これほどの作品を短期間で書いた大江に対し平野啓一郎は、「天才の仕事」として絶賛しています=「大江氏の傑出した初期短編群の中でも私は殊の外、「不意の唖」が好きだ。一作家として読むと、些か気が滅入ってくるような天才の仕事」

石野夏実さん 2022/10/8 12:00

大江健三郎「飼育」 補遺A    10.8  石野夏実

「飼育」も「死者の奢り」も“見事な書き出し、何度でも読み返すのに耐えうる硬質でありながらも詩的な描写は〜”とは、「詩的」であることが美しいとは限らないこともあると思います。
「飼育」での大江独自の美しい描写は、何度も登場する倉庫の羽目板の隙間からなだれこむ朝の光や、夕焼け後の村の様子、谷間の村特有の霧の様子などと思いました。

清水 伸子さん  2022/10/18 08:33

「飼育」感想
 @大学生の頃、大江健三郎の作品を何作か読んで好きだった記憶があるが、この作品は初めて読んだ。そしてその読後感は衝撃的だった。どうしてこんな小説が書けるのだろうか。経歴を読む限り、彼の生い立ちと被差別部落とは特に接点が見当たらないのに、そこに生きる特に子どもたちの姿はあまりにリアルだ。兎唇と呼ばれる少年が首に皮帯を巻いて単身山犬の巣に行き全身を?まれながら山犬の仔を抱いて帰ってくるという逸話ひとつでこの少年の姿がくっきりと浮かび上がってくる。黒人兵にまつわる一連の話で、人の中に抱える感情が多様にうねりながら変化していく様が描かれ、心を許し繋がりあえたかと思った直後の暗転で、多分「僕」はそれまでの世界、大人への信頼を喪失して子供時代と決別する。世界は非情だが弟が彼に寄せる信頼と優しさに暖かい光を感じる。また、書記の存在と死がとても気になる。町の人間たちの中で唯一「僕」たちと関わっている大人だが、それは彼が義足というハンデを負っているためなのか?そして彼の唐突な死を小説の終わりにもってきたのはなぜなのか?何かを象徴しているように思うが、つかみきれないもどかしさがあり、皆様のご意見をうかがいたいと思います。
 Aについては大江文学について語れるほど作品を読みこんでいないので書けません。ごめんなさい。

池内健さん  2022/10/24 11:38

@「飼育」を読んでのオリジナリティのある感想を教えてください。

 最初の数ページを読み、人間をけだもの扱いする話なので倫理的に受け入れられないと思った。しかし、小説は道徳の教科書ではないので、そういう読み方はいけない、そもそも過去の作品に現在の価値観を押し付けてはならない、と思い直して読み進めた。少年の無邪気で鮮烈な冒険に心を奪われ、誰もがいつかは大人にならなくてはいけない哀しみを感じた。

 物語は、外部との交流が限られた小さな山村に突然、言葉の通じない黒人兵が空から舞い降りてきたことから動き出す。これが「白人兵」だったら「敵」と見なされて殺され、物語は始まる前に終わっていただろう。

 動物好きで、兎口や義肢の書記といった異形にも興味津々の「僕」は、黒人兵の雄大な肉体に強くひかれる。自分が住んでいる建物の地下に黒人兵が収容されたのは「豪華で冒険的な、僕らにとって全く信じられないほどの事実」であり、「黒人兵を獣のように飼う」というイメージに興奮する。鍛冶仕事をきっかけに「人間的」な交流がはじまり、共同水汲場の泉で一緒に遊ぶシーンはオリンポスの神々が戯れる神話的イメージすら感じさせる。糞尿の樽を子供たちが運びたがる場面は、「トム・ソーヤーの冒険」でトムがいたずらの罰として課せられたペンキ塗りをまるで特権のように子供たちに割り当てるエピソードに呼応し、ほほえましい。

 こうした輝かしい冒険の日々は黒人兵の反抗と「僕」自身の負傷によって終わる。大人の書記が子供をまねて尾翼の橇で斜面を滑り、死んでしまうラストシーンには、少年時代に戻ることは決してできないのだというメッセージを感じた。

A大江文学について、思うところを率直にお書きください。

 文章が読みにくい。修飾・被修飾の関係が分かりづらいからだ。井伏鱒二も芥川賞選評で「その文章文脈は、もしも日本語に西欧風の関係代名詞があったなら、更らに明快だろうと思われるほど西欧風だと思いました」と書いている。大江は同い年の小澤征爾との対談で「妻からは、最初の原稿は分かりやすいのであまり手を入れないでくださいと言われる」という趣旨の発言をしていたので、確信犯なのだろう。

 ただ、大江の描写はイメージを喚起する力がとても強い。「飼育」でも黒人兵を官能的に描いている。「喉から胸へかけての皮膚は内側に黒ずんだ葡萄色の光を押しくるんでいて、彼の脂ぎって太い首が強靱な皺を作りながらねじれるごとに僕の心を捉えてしまうのだった」「そして濃い乳は熟れすぎた果肉を糸でくくったように痛ましくさえ見える脣の両端からあふれて剥き出した喉を伝い、はだけたシャツを濡らして胸を流れ、黒く光る強靱な皮膚の上で脂のように凝縮し、ひりひり震えた」など引用したい部分は限りなく、全ページを写してしまいかねない。

藤原芳明さん  2022/10/24 17:03

いま感想文を投稿しようとしたところ、すぐ前の池内さんの感想文とかなり内容が近いことに気づきました(とくにAについて)。また文体の例として引用した個所もかぶってしまいした。が、いまさら変えるのも面倒なのでそのまま投稿します。

1.大江健三郎の作品について
 大学時代(今から四十数年前)に大江健三郎の作品はかなり熱心に読んだ。初期の作品から『個人的な体験』までは全部読んだと思う。初めて読んだ作品集は『性的人間』で、私が高校二年のときだった。その中に収められていた『セブンティーン』が当時の自分の年齢と同じだったので覚えている。そして大江を、開高健とともに日本文学の新しい地平を切り拓いている作家として注目していた。
 課題作品『飼育』も大学時代に読んだ。ただプロットの概略をうっすら記憶しているだけで詳細は忘れていた。今回約四十五年ぶりに読み返したことになる。作品集『死者の奢り・飼育』の中から『死者の奢り』と『人間の羊』の二作も今回再読した。
 『個人的な体験』以降の大江作品は、残念ながらほとんど読んでいない。理由はとくにないが、おそらく大江の政治的な立ち位置や扱う文学テーマ、そして遊び心が感じられない大江の生真面目さが、私には次第に重くなったのだろう。

2.『飼育』のテーマと文体
 この作品集『死者の奢り・飼育』で繰り返されるテーマは、ある閉鎖環境のなかで主人公「僕」と特異な物や事象(例えば、捕らわれた黒人兵、医学解剖用死体、バスの中で受ける屈辱的暴行など)との間で生じる化学反応または無反応であり、その詳細な描写である。
 ここでとくに『飼育』において大江が採用している文体について考えてみる。まず眼を引くのは、関係代名詞がいくつも連なる外国語を日本語に翻訳したような長々とした形容が続く、粘着質で独特のリズムを持った文体であることだ。そして例えば黒人兵の巨大な肉体や強い体臭に対して主人公「僕」や村の子供達が示す官能的なといってよいほどの興奮と歓喜、その一見グロテスクな対象(そこにはしばしば性的な事柄が含まれる)を詩的でありながら明晰なイメージを喚起させる豊富な語彙とレトリックで表現している。

 「‥僕は乳が黒人兵の薔薇色に輝く広大な口腔へ流しこまれるのを見た。黒人兵の喉は排水孔に水が空気粒をまじえて流入する時のような音をたて、そして濃い乳は熟れすぎた果肉を糸でくくったように痛ましくさえ見える唇の両端からあふれて剥き出した喉を伝い、はだけたシャツを濡らして胸を流れ、黒く光る強靭な皮膚の上で脂のように凝縮し、ひりひり震えた。‥」(『飼育』p106)

 私はフランス語が読めないので日本語に翻訳された作品からしか想像できないが、この『飼育』の文体はサルトルの『嘔吐』(白井浩司訳)の文体とは見かけ上あまり似ていない。また解説の江藤淳が示唆したピエル・ガスカールという作家を私は知らないので、その文体との類似性はわからない。
 私の記憶にあるフランス文学作品のなかからあえていえば、このグロテスクにも見える対象、とくに性的な対象を詩的な美しさで表現する大江の文体は、怪物作家といわれたジャン・ジュネの『花のノートルダム』(堀口大学訳)や『泥棒日記』(朝吹三吉訳)の文章をわずかに思い出させる。もちろんジュネと大江ではその生い立ちや思想、文学に天と地ほどの差があり、重なる部分はないように思える。二人は詩人としての資質が共通しているのかもしれない。ただしジュネの文章がジュネ生得の詩情(ポエジー)が自然に流れ出ているのに対し、大江の文体は人工的な印象をあたえる。

藤本珠美さん  2022/10/25 09:26

『飼育』を読んで
30年以上前に読んで、とても心に残る作品だと思っていたが、今回読み直してみて、新たな感想を抱いた。
ある村落での、米兵が捕虜となることで、持つ者と持たざる者との立場が逆転し、人間の憎しみが米兵へと集中してゆく。
そういう内容だと思っていたが、子供たちの存在に気づいていなかった。
今回、子供たちの米兵への、まっすぐではないが、愛着のような感情が、きめ細かく描かれていると感じた。そしてあるきっかけ(米兵が「僕」を盾としたこと)から、米兵を亡き者としてしまう大人たちとは違った視点で、主人公の少年は「僕はもう子供ではない」という思いに至るところが、夏の終わりの空しい風が吹き抜けてゆくように、心に残った。昔ある人から、「自分の形容詞で書け」といわれたことがあるが、この作品にあらわれる形容詞は、オリジナリティがすごいと思った。

十河孔士さん  2022/10/28 05:14

(1)今回読んで思ったこと  大江さんの23歳の時の作品。これから世に出ようという有為な学生の、強い意志が感じられる。小説の書き方は、当然ながら作者が意図的に選びとったもの。それまでの日本の温暖湿潤的文学にはなかった文体で、新たな文学の地平を開いていこうとする情熱が感じられる。若い力のみなぎる作品だといえる。

 解説の江藤淳は「大江の抒情は、周囲をとりまく悪意にみちた世界に屈伏せず、かえってそれに激しくつきあたろうとしている点で、過去のどの抒情家のそれとも異質であった」といい、「このような抒情は新しい文体を要求する」と書いている。非常によく分かる解説。

 今回読んで、子供たちが黒人兵を地下倉から外に誘い出すところから、いっしょに泳いだりする「古代めいた水浴」を経て、最終的に黒人兵が地下倉の中で鉈で殺される場面などは、鮮烈なイメージを喚起させる力強い文章だと思った。

 性的なものの取りあげ、黒人、(おそらくは四国の)山の中の谷の村など、後の大江作品に出てくるものがすでに用意されていることにも、今さらながら驚いた。

(2)この作品・この作家との関わり  「飼育」は、以下の理由でぼくの読解力のなさを痛烈に指摘する作品。経緯を思うと今だに残念な気持ちがある。

 読むのは今回で何回目か。最初は若いころに読んだが、薄い記憶しかない。最後まで読めなかったのかもしれない。しかし大江さんの存在は社会的に大きかったし、この小説は大江文学の初心者にはふさわしいといわれていたから、義務感めいたものからその後何回かは手に取った。始めから新潮のこの文庫本。ぼくにとり「飼育」は江藤淳の解説とともにあった。江藤淳はこの小説と遭遇したときの驚きを書いているが、ぼくにはあまり面白くなかった。

 今回、なぜぼくはこの小説を面白くないと思ったのかを考えながら読んだ。@欧文和訳調の、即物的な書きよう。A言葉の選択、比喩の仕方などが意表をつき、ゴツゴツして抵抗のある表現=原色の絵の具をぶちまけたような、ある種現代絵画の手法を思わせる文体。――こうしたものにつまずいて、この小説に対してあまりいい印象は持てていなかった。「死者の奢り」など、この文庫本に収められている他の作品も同様。当然のごとく、この小説を書いた作家も。

 大江さんは勤勉で、次々と新しい作品を産みだし、現代の諸問題にコミットするなど、長らく八面六臂の活躍だった。家庭でも光くんを支えて、完璧で非の打ちどころがなかった。。だからなのか、逆に敬して遠ざけるところがあった。作家というより、面白みに欠ける小説を書く知識人としてとらえていた節がある。今だに自分がいい読者だとはいえない。

 大江さんへの見方が変わったのは「万延元年のフットボール」や「個人的な体験」などを読んでから。とくに前者の印象は大きくて決定的で、この作家が現代文学の大きな存在であることを再認識した。

 大江さんは「飼育」のあと10年ぐらいで「万延元年のフットボール」を書いている。そんなに大化けすることを、江藤淳は「飼育」ゲラ版の最初の2,3ページを読んだだけで見抜いた。江藤はもしかしたら大江さんとは向かうところの違う評論家かもしれないが、それでもその才能を見誤ることはなかった。それだけの読解力があったということ。

 しかしぼくはそれだけの読解ができなかった。ずいぶん長い間この作品と作家をほったらかしにしてきた。以上ようなことから、この作品をめぐる読書体験は、ぼくにとりちょっと屈折したものになっている。みなさんがこの作品・この作家とどう関わってきたのか、興味深く話を聞きたい。

寺村 博行さん  2022/10/28 20:52

大江健三郎の作品は、学生時代に一度、読もうとして手に取ったことがあったけれど、自分にとっては魅力を感じるような作家ではなく、読むのを途中で止めてしまった記憶がある。 ‥‥ もってまわったしつこい文章と、原色で過剰すぎる派手な表現、そして内容のどぎつさは、自分としては好感が持てる部分がほとんどなかったといってよく、その時手に取った作品が何であったのかも、今となってはもう憶えていない。
今回課題図書として、改めて丁寧に読んでみたところ、確かに文章力がすごいというか、これに捕らわれると案外コアなファンになってしまう人も居そうだな、ということは感じた。けれど昔受けた印象は、今回もそれほど変わるところはなかった。今回、当時に比べればよほど大人になったからかもしれないが、大江の表現は外国人には受けるかもしれない、と感じるところがあった。原色で荒々しく派手な文章表現、暴力とセックスに塗れた内容のどぎつさ ‥‥ これはハリウッド映画と同様の特色だと思った。その後ノーベル文学賞を受賞した、という新しい事実ができたからそう思ったのかもしれない。

文学・芸術には、なにを美と感じるかという、いわば美の概念といったものがある。例えば、平安時代の様々の物語に書き継がれてきた<あはれ>があり、室町時代の足利義政、安土桃山時代の千利休、また元禄江戸期俳諧の松尾芭蕉などに受け継がれ、現在でも多くの日本人の美意識の基礎となっている<わび・さび>がある。江戸時代になると、文化の担い手として庶民も参加するようになって、新しく<いき>というような概念も言語化されてきた。
千数百年の長きに渡って蓄積されてきた日本文学の特長は、いずれも大江文学とは対極にあるように思われる。良くも悪くも大江は、日本文学の伝統からは、やや外れたところにいると思う。世界大戦における敗戦、という大事件のちょうど十三年後に(日本の)芥川賞を受賞したが、その時は、日本文学としての新しさが眼を引いたのではないだろうか。そして、敗戦の約五十年後に(世界の)ノーベル賞を受賞することになったのは、日本文学の伝統からは外れていたからこそ、外国人には理解しやすくて、高く評価されたのではないだろうかと、私には思われる。

☆★ 新潮文庫『死者の奢り・飼育』所収の六つの作品について
『死者の奢り』 ‥‥ 医学部の死体置き場でのアルバイトの話。
『他人の足』 ‥‥ 脊椎カリエスの療養所での話。
『飼育』 ‥‥ 戦争中、墜落した飛行機に乗っていた黒人のアメリカ兵と、彼をしばらく預からなければならなくなった村の物語。
『人間の羊』 ‥‥ 占領期の、乗合バス車内で起きた事件。
『不意の?』 ‥‥ ある集落にやってきたアメリカ兵と通訳と住民たちの事件。
『戦いの今日』 ‥‥ 米軍基地と、それに反対している日本人の若者と、匿われた脱走兵が織りなす物語。
上記六つの短編を全体としてみると、すべてが敗戦から戦後占領期の物語であり、その時期の世相を色濃く反映している。だからこそ混乱の中にあって行方もしれない生活の中にあった人々の心をとらえたのだと思う。どの作品も当時においては、切実な問題提起であったのではないだろうか。いずれも刺激的な題材で、またそれを刺激的な言葉と表現で、それまでに無かった翻訳調の新しい文体と感性で描いているが、社会的な意味は大きかったのではないかと思う。敗戦から間もない頃のことだったので、今に比べれば、人の心はずっと荒々しかったし、何もかもが汚かったし、人の命は軽かった。
個人的なことだが、小学生のときの初詣で毎年目にしていたものは、白い衣をまとって、足が無く、手が無く、眼が潰れていて、そのような人が、道の傍にすき間なく並んで施しを求めていた風景であった。小学三年生の時、はじめて通った塾の先生は、戦争で片目と片足を無くして、移動はいつも松葉杖で、とても不自由そうだった。そんな情景を、憶い出した。
『人間の羊』『不意の?』『戦いの今日』は、占領軍とのかかわりを描いたもの。
『人間の羊』は、タイトルのとおり、日本人を人間とは思っていないような米国軍人の行為について描かれている。この時代、米軍MPのジープが銀座の目抜き通りで、大勢の人通りのある中で、有名な落語家を撥ねて死なせたが、助けもせずに走り去ったという事件があった。勇気ある記者のおかげで新聞に載ることは載ったが、何の捜査も行われずにそのままにされて、犯罪が追及されることもなかった。そんな時代だったから、この物語のようなことは日本各地に数知れずあったに違いない。それを社会問題として描かずに、個人の心の問題(サルトル的実存主義的主体性の問題とでもいうのか?)として描いたところが、カモフラージュとしてはうまいところなのかもしれない。
『飼育』は、おそらく大江の子供のころの経験を元にしたものだと思われる。現在の愛媛県内子町の生れとのことだから、米軍の飛行機が飛んでくることも多かっただろう。不時着した黒人兵の、ことの真偽はよくわからないが、この内容をすべて想像で書いたとしたらそれはものすごい想像力だ。似たような事件が日本のどこかにあって、それを題材にしたものだろうか。
黒人兵がこの集落に、しばらくの間でも置かれることになったのは、戦争も末期で行政が混乱していたからだろう。県庁所在地が空襲で焼かれていれば、司令が来ないのは当然。 ‥‥ 130頁辺りでは、黒人兵の排泄物を子供たちが共同堆肥場へ運ぶ様子を、作者独特の筆致で事細かく記しているが、その意図は何だろうか ‥‥ 確かにこのようなことが不自然でもなんでもない時代ではあった。

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杉田尚文さん  2022/10/31 19:48

大江健三郎を知ったのは1966年のサルトル来日時、TVにインタビューアとして登場したときだった。ひどい吃音の青年で早口で語っていたが、サルトルへの畏敬の念だけは感じた。サルトルは移動に乗った山手線の活気のある雰囲気から「日本の将来は明るい」といったのだと、後で倫理社会の教師から聞いた記憶がある。
 「個人的な体験」は40年余前に読んだ。私は商社に勤めていたが、たまたま直属の上司との会社の帰りに読後感想を述べたところ、以外にも上司が読んでいて「あんなもんじゃないよ」といった。上司は障害を持った子を持っていて苦しんでいた。それでも、言外にこの本が上司を励ましていることを知った。上司は「カミソリ」と称され仕事の出来る人で、この人の下で鍛えられた。このことは今でもありがたいと思っている。本との幸福な出会いが人生に多大の影響を及ぼした事例だった。
 今回、「万延元年のフットボール」もできれば読むようにとのことだったので読んでみた。3週間もかかって読んだ。読みにくい本で、すらすらとは読めない。何度も中断した。クリア、シンプル、リズミカルに書いたものを、意図的して難解に、複雑に、重厚に書き直している。これで何が起きるかというと、読者の脳に長く立ち止まらせ、あたかも、読者自身の実体験と思わせることができる。最悪の状況を体験し、励まされ、再生しようとなるが、実は脳が騙されている。これはカウンセリングや、薬よりも良く効く、読書の効能だと思う。この数年来の憂さが雲散霧消した。もっと前に読んでおきたい本だった。
 「飼育」は、小林秀雄や三島由紀夫等の東京の中心からの視点ではなく、四国の谷の子供たちから見た戦争から派生した一つの事件を鮮やかに切り取り、いろどり豊かに絵にした芥川賞にふさわしい短編だと思った。暴力シーンなどもきっちり描いて、リアリズムを徹底していて迫力があった。地方からの視点、弱者からの視点が好ましいと思った。
 今回は「万延元年のフットボール」を読めたことが収穫で、読書会の刺激がなければ読むことはなかった。感謝申し上げます。

金田清志さん 2022/11/3 06:49

飼育 感想

「飼育」は学生時代に読みました。

大江健三郎は、戦後のベビーブーム世代の文学好きなら、一度は読む作家の一人だと思う。

当時の記憶から言うと「死者の奢り」をまず読んで、感動した事を今でもはっきり覚えている。
こんな小説を書けるのはきっと才能がある人物に違いない、とその時に思ったものだ。

そして芥川賞の「飼育」を読んでその内容、と言うか作風の違いに面食らった記憶がある。

つまり賞を取った作だからきっともっと素晴らしいとの思いで読んだのだが、なかなか作品の世界に入り込めず、読むのが苦痛だった。
どうも自分の感性には合わないのだろうと、生意気にもその時に思った。

その後の大江作品を幾つか読んだか、テーマは「それぞれ違うのだが、「飼育」と同じ感想を持っている。
つまり自分は大江作品の良き読者ではないのだろう。

「飼育」についていえば、恐らく、戦時中、四国の町から隔絶した山村に突如米軍の飛行機が墜落し、
たった一人捕虜になった黒人兵を巡る大人達の騒動を少年の目を通して描いた作と読んだ。

書き方としては形容表現が多く、すんなりついていけない部分や、集中していないと眠くなったり、
或いは分からなくなって再度そいの部分を読み直したりした。

若い時に読んだ記憶もそうだから、きっと今の自分がボケた、という事ではないと思う。
まぁ、すこしはボケているとは思うが。

という事で2度読む気持ちにはならなかった。

成合武光さん (8bg7qdx9)2022/11/4 14:22

『飼育』大江健三郎著 の感想   成合武光

今月の課題本であるので、『飼育』を最初に読みました。
若いころに彼の作品を読んでみようとしました。作品は何だったか忘れました。とても難渋な文で訳が分からない。読むのを止めました。以後作者にも興味を抱かなくなって忘れてしまっていた作者でした。ノーベル賞なども取り、名高く言われるのも不思議に思いつつ、世界の違う人だと思っていました。私の理解力もそんなもんです。的外れでも勘弁してください。  
W実存Wまさしくそうだったのでしよう。原因が何であったか、やっとわかりました。
芥川賞の批評で石川達三が「わざと描いているんだろう」と言ったと、石野さんの紹介文を読み、納得しました。石野さんありがとうございます。『飼育』を読んで最初に思ったのは、平野敬一郎の『日食』の時と同じように「若さ」です。才能を持て余している若さです。あとがきの江藤淳がW実存Wと言っています。そうか、と思いました。
 私が文横の編集員を手伝っていたとして、この作品が回ってきたら、熟語と文のつながりがおかしいと、たくさんの付箋を入れていたと思います。当時の流行だったのでしょう。
他の作品ではふつうに口語文です。納得しました。
 舞台は被差別部落か? と言う感想がありましたが事実でしょうか。どこで分かるのか教えて下さい。作者は意識しているのでしょうか。問題にしていないように思う。私は作者がどれだけ関係しているのかが気になりました。当時似たような話は沢山あったと思います。作品がその発祥点でしょうか。日本中が貧しかった当時、貧村は珍しくないと思う。
 最後の少年の自立も、考えると不自然です。物語的です。倉庫の二階で父と子が生活しているという。日々の用はどうしているのでしょう? 兎口の子も居てもおかしくはないです。自然かとは思いますが、W実存Wでしょうか。暴露でしょうか。 水遊び場の様子も大らかでよく書けていると思います。田舎では、水に入るとき下着などを来て入る子供は、男の子ではまだいなかったのではないでしょうか。しかし、これを読んでいると、森鴎外が『ヰタセクスリアス』を書きたくなった気持ちが何となくわかる気がします。私もそんな歳になったのかと、不思議にも驚くようです。そんなところでしょうか。
 この作品で‘実存‘と言われるところを教えて下さい。実存とは何かを知りたいです。
 一緒に編集されている作品を読むと、目の付け所と言うか、創作力の高さに感嘆します。ノーベル賞作家となって行ったのも納得できそうです。本の紹介ありがとぅございます。拙い感想でごめんなさい。

山口愛理さん (8beiy2ls)2022/11/4 16:19

「飼育」を読んで

大江健三郎は若い頃、『雨の木を聴く女たち』だけ読んだことがある。非常に読みにくくて難しかったが、物凄い「知性」を感じさせる作家だと思った記憶がある。今回『飼育』をはじめ『死者の驕り』『他人の足』『人間の羊』を読んだ。
先ず『飼育』について。
粗筋を読んだ時には人間を飼育するというその表現に嫌悪感があった。が、本編を読むと残酷な表現であってもなぜか抒情的で詩的で、文体に独特のリズムを持つ作家だと思った。少年は黒人兵とのわずかな心の触れ合いを感じた後に裏切られ、父親の手によって肉体を欠損するとともに自分を捕らえ密着していた黒人兵の命の終わりを体感する。この衝撃的な事件は、子供から大人になる、ということを超越するほどの出来事ではないか。遠くで起こっているはずの戦争の片鱗が突然、身に降りかかる。そして最後にはさっきまで話していた大人=書記が簡単に、唐突に命を失う。死はひとつひとつ違っているが、死そのものの概念は一つだということに少年は気が付いたのではないだろうか。
次に読んだ『死者の驕り』の内容の方が私にはスッと入って来た。
「そういうことだ、と僕は思った。死は<物>なのだ。ところが僕は死を意識の面でしか捉えはしなかった。意識が終わった後で<物>としての死が始まる。」このあたりの死生観は少し仏教的で面白い。主人公の学生が、妊娠中の女子学生やこの仕事に誇りを持つ管理人や自分勝手な教授などに振り回されながら、死体処理のアルバイトを遂行していく。それは途中から徒労に終わりそうになる。その様がちょっとコミカルでありながら、しかし内容は非常に深い。死体処理室の水槽に浮かぶ死体と対峙した学生の一日がとても濃く感じる。
これらの作品を22〜23歳の時に書いたとなると、その完成度の高さに驚く。読みにくさもあり、好きか嫌いかといえば好みの作品とは言い切れないが、死生観を「知性」と「抒情」と「凄み」のある文体で捉えた作風は、他にあまり類を見ないと思う。異形のものを登場させる語り口や、サスペンスのような心理描写も素晴らしい。

森山里望さん  2022/11/5 11:46

大江の作品は、新聞の寄稿、エッセイにしか触れたことがなく、小説ははじめて読んだ。凄まじいとでもいうのだろうか、読んで受けた感想をどう言葉にしていいかわからない。一貫して暗く湿りふさいだ状況の中に、光がさしている感覚があった。思うことは、戦争が起こるということは、実戦の現場からどれほど距離が遠く離れていても、時間が経過してもあらゆる人を当事者にしてしまうということ。

石野夏実さん 2022/11/5 13:34

<成合様へ>

私も、阿王さんの書いている被差別部落を支持しましたので、その根拠を考えました。
火葬された人骨の形の良いものを「記章」にするため、骨を拾いに行く場面が書き出しなので、これで先ず「驚き」の先制パンチを食らいました。
死者への配慮もない野蛮な行為と思いましたが、彼らにはためらいが全くない。狩猟を生業とし、友達の「兎口」は山犬の子犬を盗みに首を噛まれないよう皮帯を首に巻いて出かけている。子供たちもその周りの子たちも風呂には入らず垢でまみれている。主人公の首は垢で干からびているとの描写。それだけで「被差別部落か?」と書くのは短絡的過ぎました。
今回、父と連れ立っていなければ町の子たちは僕をはやし立て石を投げつけただろう。それは単によそ者だからなのか、虐げているからなのか。腕白坊主たちのよその集落の子供へのよくある話でもあるので。

☆(小休止)↓↓この思春期入り口の「僕」の異性(少女)を意識する描写、とてもよく書けていると思いました。

父と役場での用事もすみ街はずれの橋まで来て握り飯の弁当を食べていたら食事の終わりに「橋の上を鳥のようにすがすがしい首をした少女が歩いてきた〜」ので「僕」はすばやく自分の服装と容姿について検討し<町>のどの子供よりも立派でしっかりしていると考え靴を履いた両足を前に突きだして少女が僕の前を通り過ぎるのをまちうけた。熱い血が耳の中で鳴っていた。少女は僕を非常に短い時間、見つめ眉をひそめて駆け出して行った。僕は食欲を急に亡くした〜水は暗褐色に濁って汚いのだ。僕は自分がひどくみすぼらしく貧しいと考えた。

<実存主義と大江の小説(飼育)について>
高校の倫社の時間に現代哲学でサルトルの「実存主義」を教わりましたが、「実存」とは「あるがままの姿」とわたっかようなわからないような説明で分かった気になっていました。サルトルと一緒に暮らした妻のボーボワールの人気が女性の間ではとても高く「第2の性」という代表的な書物を貫く「人は女に生まれない、女になるのだ」この一言は実存主義を最もよく表していると思います。
実存主義を語るのに、例えで有名なのはペーパーナイフですが、私は今すぐそばに消しゴムがありますので、それで例えますと〜
消しゴムのように作られた物体は用途が初めから決まっていて、それを「本質」という。このようにモノの場合は「本質」が先に決まっているので「実存」より先に立つ。
しかし人間は最初は何ものでもなく(実存だけがある)、あとになってはじめて人間になるのであり人間自ら作ったところのもの(本質)になっていく。
つまり人間は「実存」が「本質」に先立つ。そして「本質」は他者を感じる力として重層されていくのではと思うのですが。
ということを踏まえて、自分なりに「飼育」を解釈すると、書き出しの「人骨の採集」は抵抗感のない他者の「死」にはじまり、最後の黒人兵の「死」、そして友人であった書記の突然の「死」で終わっているため、このひと夏の間に「僕」を子供からおとなへ変えていったのはそれらの「死」の経験であり、「死」への少年の意識の変化を「本質」と呼ぶならば、「飼育」は「実存主義の作品」といえるのではないでしょうか。
また、成合さんの書かれているもの、私が書いているもの、その表出されたすべてがその人の「本質」であるといえると思います。

阿王 陽子さん  22/11/5 15:58

以前の感想投稿で、この「飼育」の村が被差別部落だと書いてしまったことを間違いだと、訂正させてください。

皮剥を生業にしている「町」とは離れた村落だからといって、被差別部落と断定するような読み方は良くないし、また、被差別部落と軽はずみに言ってしまったことに後悔しています。

大学時代に「破戒」を読んだり被差別部落の歴史の授業を、受けましたが、いまでも差別を受けて苦しんだりしているかたや地域があるのに、かえって先入観や偏見を与えてしまう解釈でした。
戦時下の田舎の或る村とすべきでした。
申し訳ありません。

或る村、とすべきかと思います。言葉や解釈に気をつけたいと思います。

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