「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年12月07日


「園遊会」キャサリン・マンスフィールド

<「掲示板」に書き込まれた感想>

藤本珠美さん 2022/11/25 18:05

『園遊会』を読んで
マンスフィールドの作品も、作家名も知らなかったので、「解説」と照らし合わせながら読んだが、とても好きな作品だと思った。
「解説」には、当時の英文学の近辺のことも書いてあり、マンスフィールドの著作時代が、ジョイスやウルフと重なるというようなことが書いてあったが、「意識の流れ」(よくわからない)について描く、これらの作家群とつらなるのかも知れない。英国の重要な書店、Waterstoneが、20世紀文学として歴史に残るベスト3を、2000年頃、発表しているが、一位はプルースト(フランス)『失われた時を求めて』(全く読めない)、二位はジョイス(アイルランド)『ユリシーズ』(これもわからない)、三位はウルフ(イギリス)『燈台へ』(むずかしい)という内容であったと記憶している。マンスフィールドの『園遊会』はこの読み難さが、読みやすい文章で、しかし心理の微細さが深く描かれているように思った。
「解説」にチェーホフからの影響について書いてあったが、チェーホフがなかなか理解しづらかったけれども、マンスフィールドをとおすと、なんとなく親しめるように思った。
貴重な作家と作品をご紹介いただき、ありがとうございました。

藤原芳明さん 2022/11/25 21:15

1.『園遊会』について
 マンスフィールドの作品は今回初めて読んだ。その感想と、短編小説を創作するうえで参考になった点を記す。
 裕福な家庭に育つ多感な少女ローラは、近所に不幸(働き手である男の事故死)があったことを知り今日のパーティを中止すべきと思ったが、姉や母親の冷ややかな反応に抗しきれず、また来訪者たちに自分の帽子を褒められたりするうちに、結局パーティの中に取り込まれてしまう。パーティが終わった後、母親はローラに残り物をもって不幸があったお宅へ届けなさいと命ずる(無神経にも母はそれを善行と思っている)。ローラは言われるまま、悲しみに暮れる家族のもとへ残り物の入ったバスケットをもって来てしまう。しかし遺族たちの前でローラは自分の場違いさに恥じ入り、その場から逃げ出してしまう。
 亡くなった男の細君エムはローラやローラの家族をどう思ったか? ひとの不幸をよそに騒がしくパーティをしておいて、取ってつけたように弔問に来た無礼者と思われてもしかたないだろう。しかし小説にはエムの心中についてなにも書かれていない。
 また、不幸な家族を目の当たりにしたローラが兄ローリーに「人生って‥」と泣きながら言い、それ以上言葉にならなかったとき、ローリーはやさしく「そういうものだろうね」と慰める。しかしローラが話そうとして言えなかったその人生とはどういうものか? それは結局、説明されないまま小説は終わる。
 この余白の残し方、読者にその余白を想像で埋めさせることで小説が完結するようなエンディング。そこにはもっともらしい教訓や気の利いた警句はなく、ただじんわりとした味わいと余韻がある。これがこの作品の優れた点と感じた。

2.短編小説のスタイルについて
 小説(主に長編か)のスタイルについて、谷崎潤一郎と芥川龍之介がおこなった文学史上有名な論争がある(「文藝的な、余りに文藝的な」論争)。谷崎は、小説の醍醐味は話(プロット)の面白さであり、ストーリーがしっかり構築された小説こそ小説という器を有効に活用した文学形式である、と論じる。これに対し芥川は、明確なストーリーがなくとも詩的精神が豊かに表現された小説こそ純粋芸術としての文学だと主張した。(この論争についての小生の個人的な理解です)

 ところで上記の論点とも重なるが、短編小説のスタイルにはつぎの二つの型があると言われる。
(1)モーパッサン型:構成やストーリーに趣向があり、様々な伏線がしかけられ、あざやかなラストであっと言わせるタイプ
(2)チェーホフ型:筋らしい筋がなく、終わり方もあっけないタイプ

 思いつくままに作品をあげれば、サマセット・モームの『雨』や『赤毛』、ロアルド・ダールの諸作品などは前者の代表だろうし、今回のマンスフィールドやレイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)の作品などは後者の例だろう。
 モーム短編集の訳者、中野好夫の文庫解説によると、モームはチェーホフ流のいわゆる話のない短編には懐疑的で、短編小説とは究極において面白い話の語り(ストーリー・テリング)だと考えていたらしい。モームはモーパッサンを最大の短編作家と思っていた。一方、チェーホフ型であるレイモンド・カーヴァーは、小説の終わりにあっといわせるオチをもってくる技法を「安っぽいトリック」と言って軽蔑していたという。(丸谷才一『快楽としての読書』)
 また同じ作家の作品であっても、例えば志賀直哉の短編小説の中にも、『小僧の神様』のようなストーリー展開に趣向があり、工夫されたあざやかな終わり方をするものもあれば、『城の崎にて』のように作家の眼がとらえた湯治場での点景を描いただけで完成度の高い作品もある。ひとりの作家でも一概には括れないようだ。

 さて、小生は若い頃から「話のある小説」、面白いストーリー展開を見せてくれる小説に惹かれてきた。ただ近年、年齢を重ねるにしたがって、なにげない日常を描く文学のあっさりとした味も少しずつ楽しめるようになった気がする。

遠藤大志さん  2022/11/28 12:48

今回初めて、マンスフィールドの作品を読みました。
 山下さんが本著者の作品をテーマにしていただかなければ手に取らなかったかもしれません。
感謝いたします。

 さて園遊会(ガーデンパーティー)ですが、イギリスの富裕層家庭のいかにもという考え方や行ないを皮肉を込めて著しています。
主人公のローラの目線でその家族のエゴや非常識さを物語らせている。

 その日、シェリダン家では多くの人を招き園遊会(ガーデンパーティー)を催す為に朝からその大きな庭に花壇や天幕をどこに張るべきかで多くの職人が押し寄せていた。
シェリダン家の次女ローラも母から庭の配置を任され、活発に動いていた。
 そんな時に、シェリダン家の家の近くのごちゃごちゃした集落(貧困層)の一軒の主人が交通事故で亡くなったという話が聞こえてきた。
ローラはその話を聞き、園遊会どころではないと思い、姉のジョーンズに園遊会を取りやめにするにはどうしたらいいのかを相談する。
ジョーンズの答えは、ローラが想像だにしていなかった「園遊会の実施」だった。
 納得がいかないローラは母に同じように園遊会の中止を打診するが、母もローラの意見には耳を傾けてもらえず、心の中では皆が間違っていると思いつつ、説き伏せられてしまう。
一番の理解者である兄ローリーに再度園遊会の中止を持ち掛けてみようと思ったが、ローリーの能天気な態度を見た時、言えなくなってしまう。
 そして園遊会は始まり、盛大な内に幕を下ろす。
 終わった後に、家族が集まる中、母が父に日中のローラの「非常識」な発言を持ち出す。
 母はそんなにその家庭の事を気にするのなら、「余った」サンドイッチを持って行ってやりなさいと「ローラ」の本当の気持ちも知らないのに、訳知り顔で言う。
ローラは余ったサンドイッチをバスケっとに詰め、その夫が不慮の事故で無くなった家に向かう。
ローラの意志とは裏腹に、ローラはその家の中にまで招き入れられてしまう。
 横たわるその死体の表情を見た時、ローラは自分たちの表面的な金に裏打ちされた裕福さや喜びとは全く質の違う喜びを感じている満足した表情を発見し、愕然とし、涙する。
外には愛すべき兄の姿があった。
兄に、人生の素晴らしさを伝えるのであった。

 本作は富裕層家庭の奢りや貧困層への優越感、蔑みなどを主人公のローラの視点から他家族への違和感を感じながら描いている。
恐らく自らも富裕層家庭に育ち、同様の経験をしたことから書き記したのだろうと想像される。
 ただ、ローラ自身の中にも富裕層ならではのブルジョア階級の匂いが滲み出していることも否めない。
 最後に無神経な母から余ったサンドイッチを持っていくよう言われるが、その振る舞いを断り切れずにすごすごとお通夜の家に赴き、家の中に招き入れられる。
無知であるが故に、言われるままに行動している。
親からああした方がいいと言われれば、強い信念もなく流されて行動している。
そんなローラは世間知らずな「正義感」だけを口にしている少女である。

 少し皮肉な見方かもしれないが、そんなところを作者マンスフィールドは皮肉を込めて描いたのかもと思った次第です。

 短い作品ですが、味があり、また起承転結がはっきりと明示されており、読みやすい作品だと思いました。

池内健さん 2022/11/28 21:03

10年ほど前、福島県内で働いていたとき、ドライブがてら泉崎村にある「キャサリン・マンスフィールド記念館」を訪ねた。日本マンスフィールド協会会長で大正大学名誉教授の大沢銀作氏による私設記念館で、小さな別荘のようだった。庭の花がきれいだと思っただけでマンスフィールド自身にはまったく興味をもてず、「マイナーな分野の研究者が奇特なことを」と、冷めた目で見ていた。

 今回初めて作品集に触れ、じんわりした良さを感じた。泉崎村のホームページが「日本で言えば芥川龍之介に相当するニュージーランドを代表する国民的作家」と説明しているのも、うなずけた。

「園遊会」は、少女の純粋さや、みずみずしい感受性を描いた作品だと受け止めたが、それ以上なんと説明してよいかわからない。たまたま小川洋子が小説「ミーナの行進」の中で、ませた小学生の口を借りて「園遊会」の感想を記しているのをみつけた。「なるほど、こういうふうに読むのか」と思ったので引用したい。

「『園遊会』は、結末に驚きました。最初は、つまらないお話だと思ったんです。お金持ちの娘が貧乏な男に同情するだけのお話だと。でも、違いました」「えっと、つまり、お金持ちか貧乏かなんてどうでもよかったんです。最後、馬から落ちて死んだ男の死顔を見て、ローラがそこに美しさを発見する場面、あそこがこの小説のすべてなんです」「逆らわず、むしろ満足さえしながら、死を受け入れた男の尊さに、ローラは打たれたのです」

十河孔士さん 2022/11/29 21:03

この作家は初読。「園遊会」のみを読んでの感想。

 場所がどこかは特定されていないが、多分イギリス。時代は作家の生きた20世紀初頭の、社会に階級差が明らかに残っているころ。

 女性作家ならではの、繊細できめ細かな描写が印象に残る作品。

 冒頭から荷馬車屋のスコットの死で園遊会中止の話が出るまで、映画のゆっくりした長回しのよう。読者はカメラ目線で、上流階級の家で行われる園遊会の、当日の朝の準備の描写を読むことになる。

 園遊会そのものに焦点を当てれば、華やかな作品になったのかもしれない。しかし作者はそこに焦点を当てない。園遊会自体は簡単に描写されて過ぎさっている。社会に厳然と存在する階級の差異に焦点を当て、労働者階級に目をむけ、ローラをわざわざ坂の下に住んでいた死者の家に向かわせた。作者の興味がこちらにあり、階級の違いがひき起こすローラの心のざわめきや緊張を書くことに主眼があったことがわかる。作者のこの視点でより広い作品世界が得られたと思うが、物語のこうした展開は予想しなかった。

 海外の作品の場合、いつだって和訳の問題がある。人称の呼称、敬語などのむずかしさがあろうが、今回はさほど気にならなかった。ただ、上流社会の家庭で母から娘に「あんた」はどうだろうかと思った。

金田清志さん 2022/11/30 06:20

「園遊会」マンスフィールド 感想

初めて読みました。

短編集に掲載されている作品の半分ほど読んで、日常のちょっとした感情や心の綾を主にした作家なのかなと感じた。

自分には作品にすんなりのめり込めなかったので、解説を読み作家の概要を知って、成程、と作家を知ったような気分になった。

多くの古典で今でも読まれる作品のテーマと言えば7は愛、欲、業、等々の人間の本質にかかわる事柄だが、
この短編集に掲載されている作品のテーマは日常に潜む人間の心の綾なのではないか、と勝手に想像した。

このようなテーマは時代背景や社会常識も今とはだいぶ異なる中で、
また心の綾とかを文字に現すのは母語であっても難しい上に、それを翻訳するとなると更に作者の意図は伝わりにくくなるだろうな、
と思いながら再度「園遊会」を読み直した。

上流階級の家で「園遊会」を行おうとしていたまさにその日、近くの下流階級の近くで事故が起こり、人が亡くなった事を知り、
三女のローラが、近くでそんな不幸があったのに「園遊会」行うのはいかがなものかと家族に言うのだが、相手にされない。

パーティーが終わり、手つかずで残った食べ物を贈り物として、不幸に遭った下流階級のもとへ届けようという事になり、ローラがその役目をする。
この短編のクライマックスで、不幸に遭った家族と、ローラのやり取りが、なんとももどかししく感じた。

山口愛理さん 2022/11/30 12:17

『園遊会』キャサリン・マンスフィールドを読んで
キャサリン・マンスフィールドは初めて読んだ。冒頭からずっと続くローラの家族との会話や、使用人・職人とのやり取りで忙しい園遊会の準備の風景が浮かぶ。この辺の表現は素晴らしい。
そして後半、一転して近所の暗い事故死のニュース。この展開が鮮やか。ローラの訴えにもかかわらず、園遊会は中止にならず、終わってから母に命じられて残りの食べ物をバスケットに詰めてその家に持っていくローラ。不安な気持ちが良く表れている。
結末は意外なものだった。死んだ馬車屋の男性の、死を受け入れたような安らかな死に顔に、ローラは美しさと感動を覚えて思わず涙する。
ここは解釈が難しいところだった。この男性はまだ若く、妻と五人の幼い子供までいるのに、なぜこんなに安らかに死を受け入れることができたのだろうか。これが老人であれば話は別だが。何か宗教的なものが働いたのだろうか。
ローラは頭で理解するのではなく、感覚的に人生というものの一端に触れたのだろう。それがラストの兄との切れ切れの会話に表れている。
というわけで、私にはなかなか難しい作品だったが、もしかしたら読めば読むほど味わい深い作品なのかもしれない。いずれにしても、もう少し翻訳が上手かったら(作品と同じくデリケートだったら)感じ方も違ったのに、と思った。

石野夏実さん 2022/11/30 19:27

お金持ちの一家が暮らす屋敷の広い庭園で、テントを張りバンドを呼んで音楽を流す「園遊会」(※平凡社世界大百科事典から引用=イギリスのガーデン・パーティが手本なのでその概要をしるすと,晩春,初夏に芝生の緑と,満開の花壇と,新緑の木々とに飾られた庭園に客を招き,庭内の一部で音楽を奏し,テントを設けて紅茶,サンドイッチ,冷やしたレモネード,クラレット,季節の果物などを準備する)の開催日終日の様子が描かれている。
私は、貴族や何代も続いたお金持ちのように特権階級を自負している、あるいは所属していることに何の疑問も抱いていない人々の存在が好きではないので、彼らの物語もあまり好まない。成り上がった成り金の話はドラマチックであるため話としてはおもしろいが、ここでは登場していない。そもそも、ここの主人公一家は、どこに属するのであろうか。
この物語は「園遊会」が開けるほどの大きな庭園を持った家の思春期の娘ローラが主人公。その屋敷のすぐ近所に、貧しい人々が暮らす一角があり、そこで5人の子どもと妻と暮らすスコットという若い馬車屋の男が、園遊会当日の朝、トレーラーに怯えた馬に放り出され後頭部を打って死んだ。大きな屋敷とひとつの事件を絡めて、真に卑しい人間とは?を浮き彫りにしている。
ローラは行動的なおてんば娘のようだ。バタ付きパンを持ってテントの場所決めの采配に外に飛び出すという光景は、日本では作り話の中でも現実でも、皆無と思う。友人キティとの電話の中で、ローラが園遊会に誘う会話でも「ほんのありあわせの物ばかり、サンドイッチの切りくずやら壊れた玉子菓子の皮、何かと残り物だけよ」と。
理由はわからないが、冗談にしてもかなりきつくひどい内容だ。
ローラが思春期の真っ只中で、母親のような人物に成りたくないと自覚し自立して行く前途はきっとあるのだろうと余韻は残ったが、若い男の死に顔が穏やかで絵のように美しく幸福・・・幸福・・・「総てよし」の「解」が、私には出てこなかった。

杉田尚文さん 2022/12/1 09:14

初めて読みました。この作品が名作の一つとして世界的に高い評価を得ていることに賛同します。母と美しい三人姉妹は、海の見える小高い丘のテニスコートもある立派な庭で園遊会の準備です。百合の花咲く庭であるのに、花屋からたくさんの百合を買って、飾りつけをおこないます。カラカの木が立っているので場所はニュージーランドでしょう。作者の父はニュージーランド銀行頭取であったから、作者の若いころの体験が描かれているのでしょう。美しい描写が続いて、読み始めて半ばを過ぎたあたりで、近くに住む荷馬車屋の若い男の事故死が告げられる。三人姉妹の三女ローラは、通夜を園遊会の騒音が邪魔をしては気の毒だと、園遊会の中止を姉と母に具申する。しかし、高慢な母は拒否し、園遊会の終了後、そんなに同情深いのならと、余った菓子を不幸のあった家に持参するように指示する。
行くと喪服の一団がいて、派手なパーティードレスの場違いな若い娘をにらむ。ローラは恥ずかしくて逃げ出したいと思うが、案内されて、若い男の安らかに眠る死顔を見るに至る。
そこでローラは感動する。自分の恥ずかしいという感情、姉や母への恨みなどの小さな感情はどうでもよい。死を前にして、人の一生とは何か、人生とは何か。個人の存在を超えた力への畏敬の念を覚え、感動し、泣き出す。しかし、帰りはしっかりと歩く。
この小説は精緻な自然描写、繊細な心理描写により、的確に情景が浮かぶようにできている。さらに、リズムよく、すべてが美しく輝いている。そこに、事故死という事件をもってきて、故郷の美しさの中に主人公を揺さぶり、人間の死に初めて直面した感動の一日を描いて傑作だと思う。
作者は34歳で結核でなくなる。この作品を書いたとき、間もなく死ぬことを作者は知っていたに違いない。作者は19歳で家を出るとき、故郷には二度と戻らないと誓った。しかし、死に逝く今になって、故郷はなんと美しかったのだろうと思う。高慢と思えた母もほんとは私を愛してくれた。父も優しかった。親しかった弟は戦争で死んだ。私も死んだようなものだ。残された日は、美しかった故郷と家族の物語を描き残そう。その透徹した思いがこの小説を名作にした。

作者は21歳のとき、チェーホフ「ねむい」を模倣して「疲れた子」を書いた(「短編小説礼賛」阿部昭)そうです。作者は盗作と非難され、のちには、若い時に書いたものの扱いに過敏になったという。しかし、最後の日までチェーホフを読んでいたに違いないほど作者の日記や手紙に出てきて、チェーホフに最後まで心酔した。
チェーホフ「ねむい」は13歳の子守娘の過労による不眠と疲労を描き切ったものです。幻想による回想で、父の死の場面、それにラストが印象的です。
マンスフィールド「パーカーおばあさんの人生」も人生を書いています。家政婦であるパーカーおばあさんは主人に「孫は昨日埋葬しました」と告げ、出勤してきます。膝が痛いのに無理をして家事をしています。孫が死んだのに葬式もできず泣ける場所もないのです。
家事の合間に回想が入ります。16歳に女中に出て、ひどい家で手紙をかまどに投げ入れらえたこと。そこが倒産して、医者の手伝いのあとパン屋と結婚、」子供が13人、7人を亡くした。夫が死んだあと6人の子を育てた。
また別の家事があって、回想が始まります。孫のレニーは小さい、病弱な男の子、おばあさん子だった。その子がなくなったのです。「わたしが何をしたというのか」と独白します。そして、どこか、泣けるところはないかと探します。しかし、どこにも泣ける場所がありません。
このような悲惨な話です。
チェーホフの「子守する現在」と「幻想」、マンスフィールドの「家事の現在」と「回想」は似ておりはしますが、微妙に違います。マンスフィールドは回想の中に「独白」を挟み込みます。また回想を何回もこまめに大胆に取り入れているように思います。チェーホフを心から尊敬し、何とか乗り越えようとしたように思えます。
これら二つの作品はどちらも、「辛い生、老、病、死」を扱っているのが共通しています。

今年の初めの読書会のテーマはヘミングウェイ「移動祝祭日」でした。その中で、言いたい放題の毒舌の一節があります。ご参考にしてください。(P184)
「まだ、パリにやってくる前、トロントにいた頃、キャサリン・マンスフィールドはいい短編作家だ、いや偉大な短編作家だとすら聞かされていた。けれども、チェーホフのあとで彼女の作品を読むと、優れた純朴な作家でもある明晰で世故に長けた医師の作品と比べて、若いオールド・ミスが注意深く織り上げた人工的な物語を聞かされる観があった。マンスフィールドは低アルコール・ビールのようなものだった。水を飲むほうがまだマシだ。その点、チェーホフは水のように澄んではいるものの、水ではなかった。ジャーナリスティックな文章としか思えない作品もあったが、素晴らしい作品もあった」

成合武光さん 2022/12/1 12:41

『マンスフィールド短編集』の感想  成合武光

不思議な感銘を受けました。素晴らしい短編集です。
レンズを向けて街ゆく人、家の中の人、日々のさり気のない生活、そして歳月の流れ、人の生のふと現れる深淵。人の世を見る。表現する。文章にするに、これよりほかに真実を見る方法はない。とまで思わさせられるようです。
 私の単略な思いですが、『サザエさん』を想いました。表現の世界、目を向ける方向は全く違う。しかし、日々のさり気のない生活の中に大事なもの、真を見る。文章にしている、と思いました。
 感想は短いですが、内容は鯨のように大きく、大海を示しているかと思います。紹介していただき、ありがとうございました。

寺村 博行さん 2022/12/1 15:57

マンスフィールドは1888年にニュージーランドの首都ウェリントンで生まれ、1923年にパリ郊外のフォンテンブローで死んでいる。第一次世界大戦が1914〜18年、ロシア革命が1914年、ローザ・ルクセンブルクが殺されたのが1919年だから、ヨーロッパでは資本主義の社会矛盾が激化し、多くの人々が貧困に苦しみ、社会主義運動が盛り上がっていた時期と重なる。
しかしこの短編集には、そんな社会状況を匂わせるような話はほとんど出てこない。書かれている内容の多くは、ブルジョワの有閑マダムとその子供達の、言わばとるに足りない日常生活のちょっとした事柄だ。「とるに足りない」とは失礼な言い方かもしれないが、言い換えれば「世界が違う」ということになるだろうか。自分はプロレタリア文学を肯定するものではない(こちらも「世界が違う」)が、どちらにしてもあまりに「世界が違う」ものは好きではない。
課題図書として読み始めたが、はじめのうちは「なんだ、これは」と思うぐらいにつまらなかった。別に難しいことが書かれているわけではないが、思考の流れについていくのが辛い。世界が違うからだろうと思う。どこで止めようかと、いいかげんな気持ちで読み進んでいくうちに、とうとう最後までいって読了となってしまった。陽の没することがない大英帝国とその周辺の白人国家が、他の国とは隔絶して、いかに富貴に恵まれていたかがよく分かる。そういう面での資料的な価値があるように思われる。

自分にとっては以上に記したような作品群ではあったけれど、その中にあって『大佐の娘たち』は面白かった。最後の3〜4頁(新潮社184頁辺りから)の述懐には、人間共通の真実があふれている ‥‥ 二人の娘は、父が死んで重石がとれて身が軽くなってから、はじめて気がつく。「 ‥‥ あの後はずっと、父の世話をし、同時に父をなんとか避けることでいっぱいだった。だが、いまは? いまは? ‥‥ 」
 その辺りから最後までの筆の運びは流石だ。名曲の最後=コーダを鑑賞しているかのような趣きがある。こんなところに、解説者が短編小説の名手と力説する所以があるのだろうかと思った。しかし、これからもマンスフィールドの作品を読みたいか、と問われれば、答えは否である。

『園遊会』は短編の傑作だという ‥‥ 多くの貧困生活者を犠牲にして富貴な生活を享受しているブルジョワの娘が、たまたま貧民にやさしい心を示したからだろうか? ローラが、いい大人になってもその同じ心を持ちつづけ、同じような行動をしたならば、世間の反応は全く異なったものになるだろう。
ローラにパーティーの残り物を、「気の毒な人」に届けさせるという発想をした、母のシェリダン婦人には、富貴なブルジョワジーの鈍感な傲慢さを感じる。「気の毒な人」の奥さんは、まだ年端も行かない別世界の女の子が、突然葬儀に立ち現れたことに驚いただろう。はじめはきっと「イヤダ」と思ったに違いない。子供であったから、そんな気持ちを押さえることができた。どんな大人でも子供に対しては保護の心が働くものだ。
この物語の締めくくりは、肯定的にみる人からは「余韻を残して素晴らしい」との賛辞が聞こえてきそうだが、自分としては好きではない。死んだ男が ‥‥ 「私は満足している」だろうか? この男が、細君と五、六人の子供を残して、突然死ぬことになってしまって ‥‥ 「ただ、素晴らしかった」のだろうか? そのような感じ方は、私にはできない。

阿王 陽子さん 2022/12/1 20:38

最近、目が悪く、岩波文庫(1967年第一刷、1987年第19刷)の字が小さく、また、日本語訳が読みづらかったため、インターネットで、https://www.eastoftheweb.comおよびhttps://shinshin-seminal.blog.jp/archives/14872257.htmlの、ガーデンパーティーを読むことにした。
園遊会、と聞くと、なにやら行事のようだが、ガーデンパーティーというと、なんだかお茶会のイメージみたいである。

人が死んだのでガーデンパーティーを取りやめる、と、ローラが言うと、「もしも誰かが事故に遭うたびパーティーを取りやめるつもりなら、あなたはずいぶんと堅苦しい人生を送ることになるわね。あなたが感傷にひたっても、酔っ払いの職人を生き返らすことはできないのよ。」と、ジョズは言う。

このガーデンパーティーのテーマは、「死と感傷」「階級意識」であるだろう。また、ローラの「自意識」についても描かれている。
「最初に彼女の目に飛び込んできたのは鏡に映った魅力的な少女の姿だった?自分がそんな風にみえるなんて、彼女は想像もしなかった。」 

シェリダン夫人とシェリダン氏の会話は
階級意識の表れであるだろう。
シェリダン氏はまだいたわりの気持ちがあるが、シェリダン夫人は、他人の死より自分たちのパーティーが大事だと言う。
「お前たちは今日の残酷な事故のことを聞かなかったと思うが」?「聞いておりました。危うくパーティーがなくなるところでした。」

シェリダン夫人はそしてパーティーの残り物でほどこし、恵もうとする。
使わされたローラは、自分の派手な帽子をお赦しください、と言い、残り物の詰まったカゴを死んだ人の家族に渡してくる。

私は外国の作家では、女流作家のジェーン・オースティンが好きだが、「エマ」「高慢と偏見」
が恋愛や自我、結婚をテーマとしているのに対して、キャサリン・マンスフィールドの「ガーデンパーティー」は、もっと短編であり、また、人間の生活の機微が断片的に端的に描かれている。

なんとなくイギリスの作家っぽいな、と、生没年を調べてみると、
ジェーン・オースティン(1775?1817)、「嵐が丘」のエミリー・ブロンテ(1818?1848)、「ジェーン・エア」のシャーロット・ブロンテ(1816?1855)、に比べて、キャサリン・マンスフィールド(1888?1923)は、あとの作家だとわかった。

原文はシンプルで日本語訳により、受ける印象が違う。英語の勉強をかねて原文がベストかと感じた。

上条さんのテーマへの回答だが、

(1)展開が早い
(2)短編小説の名作である(原文)

と思う。

保坂融さん 2022/12/1 20:51

ドラマティックな出来事などがあるわけでもなく、ありふれた日常生活のなかで登場人物の繊細な感情を描出している点にマンスフィールドの真骨頂がうかがえる。
また、この「園遊会」では、当時の植民地のニュージーランドにおけるイギリス的な階級制度を風刺的に描いているようにも受け止められる。
さらに、園遊会後のローラがサンドイッチを持ってお悔やみに行き、荷馬車の男の亡骸を見て、「そこには、若い男が横になっていた・・・とても平和に。・・・心残りはない・・・と」(290ページ)とする記述は、この作品がマンスフィールドが死去する前年に書かれたことを思うと、マンスフィールドが自らの死に思いを寄せたのではないかと考えるは誤った見方だろうか。
なお、最終箇所でのローラとローリーとの簡潔な遣り取りは(291ページ)、阿部昭の、「短編というのは、省略からくる暗示というのが大切なんです。書いてないことは読者の想像にまかせるという書き方・・・」(『阿部昭対談集 短編小説を語る』)という指摘を踏まえてみると、肯ける。

森山里望さん 2022/12/1 23:00

小説は自身の中に先入観や課題を持たずに読みたい。なので、幹事さんからの問いやレジメは後から読ませていただきました。
「園遊会」も「ブリル女子」も、観点や描写がとても女性らしいと感じながら読んだ。
前半、園遊会の準備にいそしむ上流家庭の令嬢であるローラの、みずみずしい感性、野性味、自由奔放さ可憐さが匂うように書かれている。すぐそばの下に住む、文字通り下流の労働者の死を知り悼み慎もうとする素直な感情の動きと、社会的立場からくる価値観のはざまで苦悶する様子から、ローラ自身も気づかなかったこの娘の真の人間性が表される。荷馬車の男の亡骸に面して感じた「遠く…美しい…幸福な…等」は人の暮らし、命への尊厳のようなものだろうか。わからないが、この感覚を失うことなく成長してほしいと思った。特訓階級には特権階級にしか担えないそれ相応の重く厳しい社会的責務があるはずだから。
1)書く参考にしようとして読まなかったのですが、余韻の残し方がうまいと思った。
2)わからない。いい作品と思うが、個人的には短編は「?」で始まり「!」で終わる方が好きだ。

和田能卓さん 2022/12/2 16:18

起承転結が見事な作品で、前半の明るさと後半の暗さが対照的な印象に思われました。これは作品と作者の伝記的事実を重ね合わせて考えずとも、作中の上流階級の娘・ローラの立ち居振る舞いや思考の描写から来るものなのでしょう。
自分たちより下の身分である職人・人夫の言動に無邪気に惹かれたりするものの、集落の家を訪ねた彼女が目撃した光景・雰囲気には、衝撃を受けてしまう。自分たちとは大きく違う人びとの生活・現実に、人生の深淵を覗き見させられてしまう。その彼女を迎えに来た兄・ローリイの優しさがあたたかく包み込む。そして、終幕。
この末尾に、わたくしは静かな救いがあるのを感じました。短編小説・掌編小説に求められがちな「気の利いたオチ」ではなくても、よい物語は感動を与えられることが出来るのだ、という事実を、あらためて確認させてくれる作品でした。

(文学横浜の会)


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