「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年01月17日


「ウィリアム・ウィルソン」エドガー・アラン・ポー

<「掲示板」に書き込まれた感想>

原 りんりさん 2022/12/11 21:12

文横掲示版
       エドガーアランポー  ウィリアム・ウィルソン
                                原りんり

 最初の印象は、読後の連想する作品群だった。人によってまず思い浮かべる作品は、違うだろうと思ったし、それぞれ何を思い浮かべたか知りたいと思った。それほど、多分こういう自我の分裂をテーマにしたものは、古今東西多い気がする。

 私は、最初にオスカーワイルドの「ドリアン・グレー」を、次に村上春樹の「鏡」を連想した。みなさんは何だったのでしょうか。

 やはりすべてはポーから始まったと言われているように、自分の分身との闘いにそもそも着想した点はすごいと思う。19世紀前半の文学状況にあって、自分を分解して解釈するという方法は、なかなか斬新で人々の理解なり共感なりを得にくかったのではないかと推測する。その先見性についての評価は微動だにしないが、後の作品群を知ってしまっている現代人にとっては、やはりラストの描写はあまりに雑で未完だった。『おまえの勝ちだな、そして俺は負けた。しかし本日ただいまより、おまえもまた死ぬんだ』という台詞だけでは、分裂した二人がふたたび同一される理由にはならない。結局自殺であるならば、死の苦しみに悶えていたのは相手だけではないはずで、自分は傍観しているような描写は信憑性を持たないだろう。

 個人的な興味としては、もう一人のウィリアム・ウィルソンには咽喉機能に問題があって、どんなに声をだそうとしても低くささやく以上のことができなかったという設定にある。どんなイケメンでも声が悪いともてないという統計があるそうだ。女性の場合だが、配偶者を選ぶ際に無意識に声を最低基準にしているという話をどこかで読んだ記憶がある。それほど“声”というのは、人間の認識機能において重要な意味を持つらしい。すべて自分を真似ているはずの彼が、なぜ声だけ違うのか。私のような大声が出せないのか。低くささやく声は、もう一人の彼という人物像を肉感させる。その声というものの持つ力を、ポーが知っていたことにも驚愕させられた。

 最後になるが、大きな感想としては、真面目だなあと思った。悪とか良心とか正義とかについて、ポーという人はとても真剣で真面目で窮屈な感覚を持っている。19世紀という時代にあるからか、自堕落とか放蕩とかに対する嫌悪が全面に出ていて、それがちょっと意外だった。酒とか麻薬とかに溺れたイメージがあるが、禁酒同盟に参加したりして本人的には真剣に悩んでいたのではないだろうか。その辺が作品にも現れていて、ポーの作品群の中でブラックユーモアに属すると言われているものが、例えば『跳び蛙』などは怖いだけで到底笑えず、イマイチ鋭さに欠けるというか面白くないという印象を持った。

池内健さん 2022/12/22 21:17

主人公の前に現れるドッペルゲンガーは、主人公の「良心」。エピグラフに「いったいあれをどう言いあらわしたらいいのだろう、おぞましき良心を、行く手に立ちはだかるあの妖怪を?」とある通り、主人公が調子に乗っていかさまをしたり、不倫に走ろうとしたりしたときに登場する。しかし、わがまま放題に育った主人公の良心=ドッペルゲンガーは声が小さく、主人公を止められない。

では、なぜ良心は自分の似姿として現れるのか。

ドッペルゲンガーが初めて登場するのは寄宿学校に入ってからだ。これは、家庭教育がうまくいっていなかったことの裏返しでもあるのだろう。主人公は仲間との共同生活の中でも権勢をふるうようになるが、ドッペルゲンガーだけは主人公の指示にことごとく干渉する。

主人公は興奮しやすい性格のまま暴走を続ければ身を滅ぼすと薄々感じていた。誰かに止めてほしかった。しかし、小さなころから「一家の法」と化して両親の言うことさえ聞かなかった主人公が耳を傾けられるのは自分自身、つまり自分の似姿しかいなかった。そして、似姿の小さな声に揺さぶられながらも従うことができず、悲惨な死を迎えることになる。

主人公は死の間際に「仲間が心を――それも、喉から出かかっている言葉を使えば憐れみを――寄せてくれないものかと願う」。心を許せる友人がいれば、哀れな最期を避けられたのかもしれない。

藤原芳明さん 2023/1/6 20:17

『ウィリアム・ウィルソン』感想

1.『ウィリアム・ウィルソン』について
 この小説は自分の心の中の葛藤、自分とは異なる考えをささやく別の声、それがもうひとりの自分(分身)として実体化し、自分の前に現れるという怪奇譚です。自分の分身を幻覚として見るだけならまだ理解できるのですが、この作品の場合、その分身が物理的な存在として話し、ふるまい、周囲の人達も彼の存在を認めている点がわかりにくいところです。あるいは周囲の反応も含めて主人公の幻覚なのでしょうか。(怪奇譚ですので、あまりつっこむのも野暮ですが)
 ところで分身であるもうひとりのウィリアム・ウィルソンが代表しているものは主人公(またはポー自身)の中のなんでしょうか。当時正しいとされていたピューリタン的な倫理観や行動規範でしょうか。ポーは人間の恐怖や死が放つ暗く妖しい美に魅せられ、それらを文学的に定着しようとしました。彼はいくぶん精神を病んでいるような印象を与えがちですが、一方で良識的にふるまうことの大切さを十分承知していたと考えられます。そして自分がときに感情的になり、放埓な生活に陥りがちであることに内心苦しんでいたに違いありません。だからこそこのような作品を着想したのでしょう。

2.欧米人における心の葛藤について
 私はこの小説を中野好夫訳の短編集『黒猫 モルグ街の殺人事件 他五篇』で読んだのですが、今回の課題作のほかに『黒猫』、『裏切る心臓』、『天邪鬼』、『盗まれた手紙』も読んでみました(高校生時代に読んで以来約五十年ぶり)。これらの作品の内『裏切る心臓』と『天邪鬼』は(『ウィリアム・ウィルソン』のような分身こそ登場しませんが)心の中の葛藤、とくに自分がしてはいけない行いと強く思えば思うほど、それをやってしまう人間の不可解さを描いています。
 フロイト以降、人間の自我や無意識に対する科学的解明はずいぶんと進みました。しかし自分が正しいと思っていることと自分がやってしまうことのギャップ、矛盾は古来繰り返し指摘されてきたテーマでもあります。例えば新約聖書の『ローマの信徒への手紙』(パウロ書簡のひとつ。紀元56年頃)にはつぎのような記述があります。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(中略)そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(7章15〜17節)
 聖書の有名な箇所にこのように書かれている以上、ポーを含め当時の欧米人にとって「心の中の葛藤」や「正しき思いと行いとの矛盾」といったテーマは広く認識されていたものと思われます。

3.ドッペルゲンガー小説
 自分の分身が登場する小説をドッペルゲンガー小説と呼ぶことを今回初めて知りました。これに分類される小説として荒井さんが紹介しているドストエフスキーの『二重人格』は昔読んだかもしれませんが記憶にありません。Netで紹介されていた梶井基次郎の『Kの昇天』を(短いので)今回読み直してみましたが、『ウィリアム・ウィルソン』とはかなり趣の異なる作品です。たとえばスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』などもこの分類に入るのでしょうか。

寺村 博行さん 2023/1/9 22:24

エドガー・アラン・ポーを初めて読んだのは、小学生の頃だったような気がする。「少年少女世界名作全集」といった子供向けの本だったような記憶がある。そのなかで『黒猫』が非常に怖ろしかった。その恐怖が原因で今でも忘れない。しかし今回、約半世紀以上経って再読したわけだが、もうその時ほどの恐怖は戻っては来なかった。小学生用の『黒猫』は、筋がちょっと異なっていたように思う。子供用に「教育的配慮」がなされていたのではないかと思うが、それでも印象としてはこちらの方がずっと怖かった。今の私はいつお迎えが来てもいい年齢だし、ネタバレで読んでいるのだから当然かもしれないが、一抹の寂しさを感じた。
ポーの作品は、いつかまとめて読んでみたいとかねがね思っていたこともあり、今回課題図書に取り上げていただいたこの時を逃しては、もうそんな機会は巡ってこないだろうと思ったので、課題である新潮文庫の「第一集・ゴシック篇」に加えて「第二集・ミステリー篇」「第三集・SF&ファンタジー篇」をも、少々無理をして読んでみた。これらの作品の題材は多岐で、文学・芸術はおろか、自然現象や科学・技術、ゲームや博打、冒険・宝探しに至るまで、ありとあらゆる分野にわたっていて、理解不能のところも多くあったけれど、改めてポーの世界の広さ・深さを感じることができて、とても刺激的な時間を過ごすことができました。このような機会を与えていただいて感謝しています。ありがとうございました。
ポーは、怪奇小説・SFファンタジー小説・ミステリー・探偵小説などの先駆者だと、どこかで聞いた記憶があるが、まさにその通りで「天才」というのはこのような人のことを云うのだろうと思った。こんなに豊かな才能が、わずか40歳で立ち消えたのはとても惜しまれるけれど、古来天才と云われる人は薄命だ。ポーと同様の詩人ランボーは20歳で詩を放棄し、放浪の涯に37歳で世を去り、音楽の天才モーツァルトは貧困に喘ぎながら、病床で名曲『レクイエム』を作曲し、それを完成させる直前に、僅か35歳であの世へ旅立った。

日本では概して、小説というのは人と人との間の細かい心のやり取りを表現するものかのように思われているところがあるようだが、ポーの作品群で展開されている内容は、もっと行動的で広くて原初的なものである。これは日本と他の外国の物語を比べた場合にも、一般的に云えることではないかと思う。
ポーは、作品だけでなく彼自身の人間そのものがとてもミステリアスだと思う。彼の作品全体に醸し出されている狂気じみた雰囲気は、作品だけではなく彼自身もそうだったのではないだろうか。全体に狂気じみている ‥‥ しかしそれこそが彼の作品の魅力なのだ、ということは確実に云えると思う。ばくち打ちで不良で、酒と薬に溺れ、結局はそれがもとで命を落とす。そんな彼だからこそ、これほどの天才的な仕事が可能だった、とも言えそうだが、この辺は常人の我々にはとてもわかり兼ねるところではある。

アメリカ合衆国では、今でも進化論を、公式に法律で否定し公教育から締め出している州がいくつか存在すると聞く。キリスト教の圧力が強いのである。今でさえそうなのだから、19世紀前半の、未だ奴隷制が行われていて十数年後には南北戦争が始まろうかという御時世のポーの時代は、推して知るべしだろう。この辺りのことは、日本とキリスト教世界の根本的とも言えるぐらいの大きな違い(しかし進化論を生み出したのは、キリスト教世界である)ではないかと思う。これは彼自身と彼の作品の、狂気的な雰囲気に深く関係しているのではないかと私は思う。
既にアップロードされている原さんの感想 ‥‥ ≪大きな感想としては、真面目だなあと思った。悪とか良心とか正義とかについて、ポーという人はとても真剣で真面目で窮屈な感覚を持っている。≫ また、藤原さんの感想 ‥‥ ≪「心の中の葛藤」や「正しき思いと行いとの矛盾」といったテーマ≫ は、答えがあるとすればこの辺に潜んでいるのではないだろうかと思った。

☆★ 『ウィリアム・ウィルソン』とドッペルゲンガーについて
『黒猫』と同じ「少年少女世界名作全集」で読んだかもしれない。幽かに憶えているような気がするが、単に気がするだけかもしれない。この物語そのものは面白かったけれど、他にも多くの作品を読んで、そちらもすごいものばかりだったので、取り立てて『ウィリアム・ウィルソン』となると、ちょっと困ってしまう状態になっています。すみません。
ドッペルゲンガーについては、どこかで聞き覚えのある言葉だったけれど、その意味を知ったのは今回が初めてでした。そしてドッペルゲンガーについて、実は(個人的な)発見がありました。
手前味噌で恐縮ですが、述べさせていただきますと ‥‥ ‥‥ ネット検索をしたところ「ドッペルゲンガー」は「自己像幻視」と簡単に訳されていて、さらに「文学作品中のドッペルゲンガー」という項目に、そのままのタイトル「ドッペルゲンガー」というハイネの詩が挙げられていて、それにシューベルトが曲を付けていた ‥‥ それが、クラシック音楽愛好者ならご存知の方も多いだろうと思われる歌曲『影法師』だった(ここではドッペルゲンガーは、影法師と訳されている)。『影法師』なら、CDとドイツ語・日本語対訳の歌詞カードを持っている ‥‥ だからどこかで聞き覚えがあったのだった。

遠藤大志さん 2023/1/10 08:54

ウィリアム・ウィルスンを読んで

 エドガー・アラン・ポーの作品を読んだのは初めてである。
荒井さんが今作を取り上げてくれたことに感謝したい。
1800年初頭に活躍した作家であるが、当時においてはかなり斬新な作風であった事であろう。
本作「ウィリアム・ウイルスン」はドッペルゲンガーを扱った作品であるとのことである。

 ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身。第2の自我、生霊の類。
同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある。超常現象事典などでは超常現象のひとつとして扱われる。

 僕自身、「ドッペルゲンガー」と「多重人格者」との明確な違いが分からない。
本文では自分自身が二人現れるので、他者ではないのだろう。
「正義」「と「悪」の存在を両者で戦わせているようにも映る。
 人間の深層心理というのは複雑で、当人は分かっているようでいて、分かっていないということはよくある。
 現代においては、「ドッペルゲンガー」という言葉も定義も明確になっていて、これは「ドッペルゲンガー」について書かれてあると言えるが、1800年初頭にはこの言葉も無かったであろうし、明確な定義も無かったのだろうと思う。
 そう考えると、エドガー・アラン・ポー自身がまさにドッペルゲンガーの存在そのものであり、自らの経験を小説にしたと考えるのが妥当だと思う。

 今日同じ経験をする人間がいるとしたら、本小説の内容に共感できると思うし、自らが自らを傷つけ、殺してしまおうとまでは思わなくて済むのではないかと感じた次第である。

金田清志さん 2023/1/10 18:48

「ウィリアム・ウィルソン」感想

 「黒猫」ポー 富士川義之・訳 集英社文庫、で読みました。

 まず、なんの知識も解説も読まず一読しました。
ぼくの価値判断で「面白いか・面白くないか」を読みながら感覚的に感じますが、面白いとは思いませんでした。

次に、作者はこの作品で「何を書きたいのか・言いたいのか」を読みながら考えるのですが、内容から言って「ウィリアム・ウィルソン」と言う同姓同名、しかも生年月日も同じ人間が同時に登場して、現実世界ではまずあり得ない設定です。

つまりこの小説は人間の心の複雑な有りようを比喩的に描いた作に違いないと思いました。
「ウィリアム・ウィルソン」と言う同姓同名の人物を二人登場させていることから二重人格、或いは人間の行動に至る内面の深層心理、と言ったような人間の心の深層を問い詰めているのではないか。

ここで担当者の一文を読み、改めて「ドッペルゲンガー」と言う言葉も知りました。
投稿されている内容も読み、成程、と思う事も多々ありました。

小説を再読して、人間の心の有りよう、自身でも自制・コントロールのきかない行動、といったような心の闇を言い表しているのではないかと感じ、不気味な小説で、人間とはやっかいな生き物だ、との印象だけが残っています。

和田能卓さん 2023/1/11 18:16

ポー『ウイリアム・ウイルソン』
 独白体による怪奇小説。一視点で一人語りですから、語られる内容に客観性はなく、他人の目に〈それ〉が見えていたという叙述はありません。純粋な意識の流れ小説の水準には足らないものの、自己語りだけで小説を成り立たせているのには、いたく感じ入りました。いつか自分も、こういう語りから成る作品を書いてみたいものです。
『ウイリアム・ウイルソン』に描かれた、寄宿舎生活の描写のリアルさに伝記的反映があるのではないかと推測しました。幸い手元にあった佐渡谷重信氏の『エドガー=A=ポー』(清水書院CenturyBooks人と思想94、1990年9月)を紐解いてみると、「T エドガー=アラン=ポ―の生涯」に、以下のような記述あるのを見出だせました。

 一八一七年の秋期から、ロンドン郊外にあるストーク・ニューイントンのマナー・ハウス学校(校長はジョン=ブランズビー師)という私立学校に入学した。この学校の雰囲気は後に「ウイリアム・ウイルソン」のなかに映し出されている。

 ブランズビー師は『ウイリアム・ウイルソン』に校長のモデルとして、実名で登場します。ポー自身、賭博に身を持ち崩していたという伝記的事実も併せて、『ウイリアム・ウイルソン』には、ポーの自戒的な思いが横溢しているのではないか、と考えます。

和田能卓さん 2023/1/11 18:27

『ウィリアム・ウィルソン』本文は、創元推理文庫『ポオ小説全集1』1974・6・初版、1992・2・38版によりました。上記本文中の作品名『ウイリアム・ウイルソン』は、引用も含め、すべて『ウィリアム・ウィルソン』と訂正させていただきたく存じます。

森山里望さん 2023/1/12 16:11

ウィリアム・ウィルソン
 新潮文庫「黒猫・アッシャー家の崩壊」巽 孝之:訳で読みました。どの作品も光のささない閉鎖的な情景の中で、深淵な心理描写で進むので、読んで苦しくなりました。理論先行の四字熟語を駆使した隙のない文章という印象で難しかったです。
ウィリアム・ウィルソンは、個の中にある善悪のせめぎ合いをヒタヒタ、ヒタヒタッと追い詰めるように書いていく。ラストで「おまえの勝ちだな、そしておれは負けた。……」としていますが、どちらも敗者のような陰鬱な読後感が残ります。端的には善があるからお前(悪)が存在したととりましたが、逆もまた真なりで、悪の存在がなければ善行も良心も存在せず、その言葉や概念すらなかったのではないかと思います。
 幹事さんの述べている通り、人間の精神構造を学問や医学としてとらえ立証することのなかった時代に、その「超自我」を具象化したような作品を書いたことに驚嘆します。後世に残る小説とはそういうものでしょうか。
 課題にならなければ、終生手に取ることのなかった作家と思います。好みではありませんが、読んでよかったと思えます。取り上げてくださりありがとうございました。

山口愛理さん 2023/1/12 16:45

「ウィリアム・ウィルソン」感想
私とこの作品の出会いは『世にも怪奇な物語』という映画だった。三部作でロジェ・バディム監督『黒馬の哭く館』(ピーター、ジェーン・フォンダ姉弟の共演)、ルイ・マル監督『影を殺した男』(アラン・ドロン主演)、フェデリコ・フェリーニ監督『悪魔の首飾り』(トラウマになるほど怖い)と、全てポー原作のオムニバスだ。『ウイリアム・ウイルソン』を原作としているのは二作目の『影を殺した男』で、舞台となる寄宿舎の雰囲気とともにドロンのクールな魅力もあってミステリアスでとても面白かった。
その後なぜか縁があり、短大の英語の授業の副読本がこの映画を小説化した『世にも奇妙な物語』だったので、この作品には二度お目にかかることになる。授業で使われた原文はたぶん映画用に短くアレンジした小説だったのだと思う。
今回初めてポーの小説『ウイリアム・ウイルソン』を青空文庫で読んだのだが、細部は別にして映画もほとんど原作に忠実だった。
これはドッペルゲンガー現象を扱った小説としてかなりの先駆者らしい。第二の自我なのか、幻視なのか超常現象なのか。この小説の場合には、自己の中に眠る「良心」の表れのように感じる。そして抗っても「それ」と関わり過ぎると死んでしまう。なかなか興味深い流れだ。しかしポーの作品は時代性もあって少し読みずらいと感じた。
なお、ウイキペディアで調べていたら、ドッペルゲンガーを扱った日本の小説として梶井基次郎の『泥濘』『Kの昇天』が挙げてあって、なるほどそうなのかと思った。私は梶井が好きなので、またその視点から読み直してみたいと思った。

福島政雄さん 2023/1/12 21:55

=「ウイリアム ウイルソン」感想

精神を病む人と接する機会が多い仕事をしています。

彼らの共通項、はほぼ例外がありません。
端的に言えば、意識と無意識の葛藤です。
そんな状況を「2001年宇宙の旅」ではコンピュターhalの反乱で描かれて
いました。(インプットされたプログラムに矛盾があり、統合が失調するメカニズム
を表現していました)

自我(理性的なもの)とイド(本能的なもの)を支配する超自我の存在。
この関係バランスが崩れた状態を統合が失調された状態、「統合失調症」という病名
で表現されたりもします。ひと昔前まで「分裂病」と呼ばれていました。

私が今回、驚愕したのは1800年代の人間ポーが、20世紀に創設を見る「心理学(精神病)」の
構造を正確に的確に言い当てている事実です。
心理学の祖といわれるヴェントは1900年代初頭の学者です。

ただ、うがった見方を容赦していただけるならば、時代とともに新発見が
うまれる「精神・心理系 自己啓発書」の数々は、形をかえ、姿を変えて使いまわされているのすぎなく、
人間の苦悩の史実は世紀を超えたものなのかな、とも感じてしまいます。

本質は普遍的なのだと感じています。

成合武光さん 2023/1/13 20:59

成合武光

 文学横浜会員の皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

『ウィルアム・ウィルソン』の感想
ポーの文章は素晴らしいと、常によく聞くことですが、確かに素晴らしいと改めて思いました。しかし日本版では翻訳者が素晴らしいのではなかろうか、とも思いました。しかし、本文が素晴らしいから訳も素晴らしいのだろうと思います。流れるような見事な文章でした。ミステリー作品でなかったらよかったのにと、とても強く思いました。
 『ウィルアム・ウィルソン』ですが、耳にささやいた言葉に激怒して殺したとあります。どんな言葉であったのだろうと想像しましたが、分かりません。殺意を実行させたほどの言葉ですから、人格を否定するほどのひどい言葉なのでしょう。それを書かないで読者に想像させるというのにも驚きました。
 他に『赤顔』を読みました。現在のコロナ禍をも想像して怖かったです。
怖い話はコロナだけで沢山だと思いましたので、そのほかは遠慮しました。ポーの文章のすばらしさを、改めて知らされただけで満足です。ありがとうございました。

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