「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年01月17日


「推し燃ゆ」宇佐見りん

<「掲示板」に書き込まれた感想>

成合武光さん  2023/1/25 15:53

『推し、燃ゆ』(宇佐美りん作)  の感想  成合武光

風評では、アイドルの追っかけ、気違い沙汰とも聞こえましたので、関心が湧かないままでした。読んでびっくりしました。驚きました。
21歳、現役大学生の作品、受賞です。異次元の存在かと思います。文学について年は関係ないことですが。主人公の人生はこのあとどうなるのか、心配になりました。この主人公の人生について追及してほしい。作品として世に提案したという責を、被せたいという気がします。勿論責任はありません、常識ですが。しかし、放っておくには主人公が可哀そうだ。
 「推し」に熱い人は大勢いると思える。推し自体は悪いことではない。しかし、ズック等については、商い、営業社の目論見もあるかと思う。ほどほどがいいと思う。
 「推し」に夢中になることで生きている。生きている実感が持てるというのも分かる。人は何かを手に持っているとき、竹の棒でも石ころでも、その所持感に自分を感じられることが多い。休み明けに学生、生徒の自殺が多いというのも、誰しも多少の経験から理解できることでしょう。どうしても勉強に気が向かない。仕事に出ていけないなど。結果、主人公は中退する。現代社会でも大変なことです。現実問題の一つです。どのような解決があるのか、見てみたい。現実にある問題を作品にして、良く書けていると感心しました。

いまほり ゆうささん  2023/1/27 11:21

「推し燃ゆ」を読んで
実はこの作品を読むのは二度目です。昨年娘がこの本を購入した際に一度読み、今回テーマとなったので再度借りて読み直しました。
二年ほど前から、娘の長女…私の孫娘がある音楽ユニットの一人を推しているのです。
何よりもこの「推し」のユーチューブでの配信を楽しみにしている彼女の様子を思い浮かべながら読みましたが、私自身としては全く共感できず重苦しい気持ちが読後感として残りました。
ただ、原さんも書いておられるように、言葉の感覚が鋭く表現力に優れていると感じました。
そして本の帯には「21歳、驚異の才能、現る」とあり、小川洋子、村田沙耶香、町田康、朝井リョウ、島本理生、高橋源一郎ら様々な作家の好意的な書評が連なっています。例をとると、「『推し』とは個人的な奇跡。全ての言葉に、
この作家にしか書けない神経と細胞があるのが伝わってくる」(村田沙耶香)、
「推しとの関係が、肉体の痛みとともに描かれている点に心を惹かれた」(小川洋子)、
「今を生きるすべての人にとって歪ででも切実な自尊心の保ち方、を描いた作品」(町田康)、
「うわべでも理屈でもない命のようなものが、言葉として表現されている力量に圧倒された」(島本理生)、などである。
これらの書評を読むとなるほどと思いました。

森山里望さん 2023/1/27 16:40

この小説を知ったとき、タイトルに戸惑った。「推し」という新しく生まれ現代社会に瞬く間に浸透した単語と、「燃ゆ」という古語(?でいいのかな)の取り合わせにまったくどんな小説なのか見当もつかなかった。
読んでみて、このタイトルから受けるちぐはぐな感じこそが主人公あかりの生きずらさ、生き下手さかとも思えた。
推し活している間しか自己肯定感、生命力をもてず、推し活以外のときは社会不適合者のごとくになる。

芸能界に推しといえるほど好きな人を持ったことのない私は、あかりに感情移入して読めなかったが、あかりの心情をわがことのように理解できる人が、かなり多くいるのだろうと思う。

現代社会を鮮明に切り取った小説ながら、古典的な構成・内容だと思った。

石野夏実さん 2023/1/27 23:49

同人になる前から、同人になってからはほぼ毎回、芥川賞受賞作品が掲載されている「文藝春秋」を買っている。

受賞作を読むかどうかは、書き出しの箇所だけ目を通し、面白そうかどうか、その直感だけで決めているが、昨今、ほとんどが「積ん読」になっている。
今回の課題書「推し、燃ゆ」は、受賞決定のニュースが流れた時、読んでみようかなと珍しく思った作品だった。

 題はストレートで4文字だが「自分が追いかけている大ファンのアイドルが(何かが原因で)収拾がつかないほど炎上するように叩かれている」という意味に解釈した。

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」の文で、この小説は始まる。 

題材が今風で面白いのはもちろん、女子高生言葉で書かれている会話などの箇所と、一方では風景や状況説明、心情描写は、新鮮で説得力のある表現、純文学愛好者の嗜好に合致する語彙で並べられていて、読者の好感度が高くなるのは必至だと思った。

 話し言葉と説明描写の違和感のない配置と融合に読者が頷きながら読み進むことができれば、著者への評価はとても高くなるであろうとも思った。

 芥川賞受賞作品の読者は、年齢層の幅もかなり広いと思うのであるが、じっくり読めばどの層の読み手にもストライクど真ん中の心に届く久しぶりの若者文学であると思った。

 主人公のあかりは「推し」の上野真幸の存在だけが「生きる」ための全てだ。
「生きる」ためにどうしても真幸の存在が必要なのだ。彼女はそれを「背骨」と呼ぶ。

いかにあかりが(ほかの子も)真幸の大ファンであるかは、随所に「推し」で追っかけの子たちがバイト等で稼いだ大金を使って購入するグッズやCDの異常な多さが書かれているので、それが生きがいなのだから、仕方がない時期なのだとも思うものの痛々しさが胸を突く。
絶対的な存在、情熱を傾けられるものがあるのは、それだけで救いなのかもしれないとも思うのであるが。。

何か具体的な支えがなければ、「生きづらさ」を抱えている子たちは、死にたくなってしまうのかもしれない。

 あかりの不安定さは、母親はもちろん、姉にも父親にも原因があるように思える。
拘りの強い「ASD」(自閉症スペクトラム障害)と「ADHD」(集中力のない忘れっぽい、じっとしていられない発達障害)のような精神的な障害を持っていると思えるが、その起因となったのは家族関係であろう。

愛情のない家庭で育ったとしか思えない。あかりは、仲の良い母姉関係から疎外され父親は長期赴任の不在で、ひとりぼっちだった。

 真幸の突然の結婚と引退発表で、彼女を支えるものが消滅した。

 最後の描写がとても良い。陽光が部屋全体を明るく晒し出し、中心(背骨)ではなく全体が、自分の生きてきた結果であると。
骨も肉もすべてが自分。背骨だけで生きていないと自覚し、出しっぱなしのコップ、汁の入ったどんぶり、リモコン。
結局、投げつけるには後始末が楽な綿棒のケースを選んだら、気泡のようにわらいが込み上げてきて、ぷつんと消えた。 (冷静な自己判断ができるから病んでいない)

 ばら撒いた綿棒を四つん這いで拾う姿は、ゆっくりでももう一度赤ちゃんのようにハイハイから始めようとする意志だと、私は受け止めたかった。

時間はかかるだろうけれど、白く黴の生えたおにぎりを拾い、空のコーラのペットボトルを拾い、その先に長い長い道のりが見える。。。と書いている。

自分で自分を孤独に支えるのは辛い。心から理解してくれる家族でも友だちでも、ひとりでもいてくれれば、人は生きようと思うだろう。
いないから「生きづらくて悲しくて死にたい」のではないだろうか。

カウンセリングを受けてでも家族関係を再構築できるのか、ひかりのブログの愛読者の中から、
わかりあえる親友を見つけることができるか、この状況から抜け出すには、どちらも叶うといい。

池内健さん 2023/1/28 09:24

「命にかかわる」存在である「推し」(精神的支柱)に寄りすがって「肉」の世界(リアルな社会)から目を背けてきた主人公が、その推しを失い、這いつくばりながらも「肉」の世界で生きていくことを決意する。今風の教養小説(成長物語)だと思う。

「みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる」主人公のあかりは、偶然見つけた昔のDVDで小さい頃に好きだった「ピーターパン」を見返し、飼い慣らしていたはずの「衝撃にも似た痛み」を感じる。それによって「点の痛覚からぱっと拡散するように肉体が感覚を取り戻してゆき、粗い映像に色と光がほとばしって世界が鮮明になる」。ピーターパンを演じていたアイドル真幸を「推し」として追いかける生活が始まる。

真幸への向きあい方は、言動を解釈し続けるという精神的なものだった。それは、推しと肉体的に仲よくなることを目指す友人・成美との対比で、より鮮明に提示されている。ホールケーキをひとりで食べて吐くシーンでは「あたしはそのきつさを求めているのかもしれないと思った。(略)体力やお金、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある」と、ほとんど宗教的法悦の境地を吐露する。

真幸はファンを殴ったらしいというスキャンダルをきっかけに引退、結婚する。あかりは精神的な拠り所を失い、重くてうっとうしかった「自分の肉」を壊そうと決意する。しかし、実際に怒りをぶつけたのは、後片付けが楽な綿棒だった。無意識に、生きる道を選択していたことに気づき、「二足歩行は向いてなかった」「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う」。

アイドルの真幸も、物語の中で一種の成長を遂げる。無邪気なピーターパンから、アイドルグループの一員となり、青のイメージカラーを割り当てられる。「青」は「秘密戦隊ゴレンジャー」のアオレンジャーや「科学忍者隊ガッチャマン」のコンドルのジョーのように、ちょっと斜に構えた二番手で、正義の熱血漢とは少し距離を置くイメージがある。実際、真幸は中学時代に母親の家出を経験していて、性格形成や家庭への憧れにつながっている。ファンを殴った理由は明かされていないが、虚勢を張る空虚なアイドル活動から解脱するための手段だったような気がする(同時に、母親が家出したのも父親の家庭内暴力が原因だったのでは、と連想させる)。

作者の文章は映像や匂い、手触りを喚起する力が強く、また感情を伝える表現も巧みだと思う。たとえば以下の文章。

「電車が停まり、蝉の声がふくらむ」(音)
「入ってしまえば気にならないのに、タイルの上を流れてくる水はどこかぬるついている気がする。垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している」(感触)
「どんなときでも推しはかわいい。甘めな感じのフリルとかリボンとかピンク色とか、そういうものに対するかわいい、とは違う。顔立ちそのものに対するかわいいとも違う。どちらかと言えば、からす、なぜ鳴くの、からすはやまに、かわいい七つの子があるからよ、の歌にあるような『かわいい』だと思う」(感情)

アイドルグループ名の「まざま座」とか曲名「ウンディーネの二枚舌」とか、ちょっとねじれた命名のセンスも面白かった。

港 朔さん 2023/1/29 17:23

はじめ、タイトル「押し、燃ゆ」の意味も分からなかったけれど、ゆっくり読み進むうちに、タイトルだけではなく他の言葉の意味も、だいたいは取れるようになっていった。二回目を読むと、はじめ宇宙語のようだった文章の意味も理解できるようになり、時代・男女・年齢の違いはあっても、同じ言葉を使う同じ日本人なのだと感じることができるようになっていった。私にとってみれば宇宙人のような女子高校生だけれど、同じ言葉を使うという繋がり、距離の近さというものは確かにあるんだ、ということを感じた。

物語は一人称で書かれているが、作者はこの物語の主人公と、あるいは主人公のモデルとなった人物と、リアルにはどのような関係が、またどの程度の関係があるのだろうか。この物語の主人公は、日常生活においては破綻していると言っても過言ではなく、「押しを押す」とき以外は活力というものがほとんど感じられない。ところが作者は、この作品のような目を瞠る小説を書き、文学の最高賞と云われる芥川賞を手にすることのできる、いわば活力あふれる若い女性である。
モデルとなる人物はいなくても、この程度の人物を作り出す想像力、あるいは創造力は、作家としては当然のことなのだろうか。私にはとても真似のできない能力である。

まず感じたのは、文章表現の非凡さだった。
九頁の叙述 ‥‥ 「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。/ 保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた。薬を飲んだら気分が悪くなり、何度も予約をばっくれるうちに、病院に足を運ぶのさえ億劫になった。肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分を感じてもいた。推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。」
生きていることの重さ・ダルさ、そのダルさは「押しを押す」ときにだけ逃れられる ‥‥ この頁の数行の叙述は、主人公のいまを的確に表現している ‥‥ 秀逸ではないだろうか ‥‥ このように才能の片鱗を示す叙述は、作品の中では、他の部分にもところ狭しと散りばめられている。(芥川賞の)並みいる審査員たちの目を瞠らせるには充分だったのではないかと思う。

若い女性の芥川賞受賞者という意味では、昨年十月課題『十二月の窓辺』の津村紀久子と比べてみたくなった。同じ芥川賞作家でも二人はとても違う。津村は、イジメという本当に辛かったであろう体験を経て、四捨五入すれば十年という、長い期間の後にやっとそれを作品にすることができた。かたや宇佐美は、溢れる才能にまかせて、いとも容易く作品をモノしているように見える。
学生の芥川賞作家という意味では、そしてきらびやかなデビューと才能の表現という点では、大江健三郎を思い出す。大江は時代に敏感に反応し、占領された日本を描いて喝采を浴びたが、宇佐美は同じく時代に敏感に反応し、当作品においては、SNSで繋がる少女たちとアイドル、マスコミと広がるネット社会を描いた。

いま令和の時代、きらびやかな才能をもって颯爽と現れた新進女流作家=宇佐美りん ‥‥ 宇佐美りん氏においては、有り余る才能をより膨らませて、大きく日本文学に貢献できる大作家に成長していただけることを期待し、祈念するものであります。

阿王 陽子さん 2023/1/30 12:58

宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読んで                          阿王 陽子

思春期の時期に、あるいは一生をかけて、自分の憧れのアイドルを応援する【推し】活動について、頭に入ってきやすい短い簡潔な文体でありながら、鋭利にかつ情熱的に述べられているこの小説は、令和初頭の文化そのものであり、アイデアに見事としか言えないぐらい、グッと来た。読むのが楽しくて、ワクワクした。私にも一時期ハマっていた歌手がいたので、推しに熱中していた時期を思い出しながら読むことができた。(本作と同様、推しの結婚により彼に熱中するのを私も辞めてしまった。)この小説は青春小説として、爽やかで熱い傑作だと思う。

読み終わった後、宇佐見りんの他の作品も読みたくなってしまい、「かか」「くるまの娘」も購入した。 「かか」は娘とおそらく更年期であり若干精神的に不安定な母親との関係を描いているが、「うーちゃんは・・・」と語りだす、独特の口調に、また、作者のアイデアの閃きを感じた。また、生理まで晒しだすなまぐさい露骨な描写は、若い女性ならではかもしれないと思った。 「くるまの娘」は今、読みかけたばかりだが、こちらも面白そうだ。

金田清志さん 2023/1/30 19:01

「推し、燃ゆ」感想、

「文藝春秋」2021年3月号で読みました。

 一読して、「これは子供から大人への不安定な、思春期の小説かな」と感じた。
再読して、現在話題になっている「元統一教会の献金問題」を連想した。
動機、背景、問題の本質は全く異なるが「自分を失う」という事象は同じだ。

人間は(誰でもというわけではないが)生きがいがなければ不安になる時期がある。年齢を重ねても韓流ドラマにはまったり、お気に入りのタレントの追っかけをしたりと、誰でも生きがいはある。しかし通常は自分の全て(全財産)を賭けて、とはならない。

人によっては魚が好きな者もいるし、虫が好きな者もいるし、動物が好きな者もいるが、なんでそんなに好きなのかと聞いて「だって、可愛い」等と言われても、他人には理解できない。
が、タレントの「推し」をするからには他人には理解できる・できなにしろ、それなりの理由がある筈だ。

この小説の主人公は真幸を推すことに生き甲斐を感じているのだから、周りのどんな忠告も受け入れられない。
問題はどうして「真幸を推す」事になったのかだが、作者は明確に言い切ってはいないが、読み手の自分は知りたい。

主人公は4歳の時に観た「ピーターパン」が心の中に残っていて、そのCDを観て、真幸への推しへ傾いていく。
作者は主人公に、
「ピーターパンは劇中何度も、大人になんかなりたくない、と言う。 <略> あたしは何かを叩き割られるみたいに、
それを自分の一番深い場所で聞いた。<略>]
と言わせている。

これから大人になる思春期の不安定な子供にとって避けて通れない時期を共有しているような感じをうけたのではないか。推しを推す理由はそれだけではないかも知れないが、大きなウエイトを占めていたに違いない。思春期の小説と言う理由である。

だが、終わり方が自分にはすっきりしなかった。

この小説は他の方も言うように表現が巧みであり、独特の表現もあり読みがいのある作だった。
が、意味の解らない言葉もあったが、年齢の差なのだろう。

藤原芳明さん 2023/1/31 14:16

1. 人間の抱く幻想
 岸田秀によると、人間以外の野生動物は本能にしたがって、生まれ、生き、子孫を残し、死ぬ。しかし人間は生きるための基本的な本能が壊れた動物であるため、本能の代わりに生きる拠りどころとなる何らかの「幻想」を創り出さなければ、生きられなくなった。たとえば成人したヒトのオスは妻子のところへ食料(狩猟で得た獣など)またはそれに代わる給料(金銭)などを持ち帰らなければならない、という社会通念がある。これは本能の壊れた人間が子孫を残すため、種族を維持するために編み出した共同幻想なのだという(『ものぐさ精神分析』)。
 要するに人間は、大なり小なり自分または自分の属する集団が創り出した幻想に寄りかかって生きざるを得ない。その幻想が正しいか間違っているかの基準はなく、ただ他の多くの人が抱いている共同幻想と自分の幻想が似ているか、似ていないかの差があるだけである。とすれば、たとえば「学校に通ってちゃんと勉強すること」、「社会に出て就職し働くこと」、または「自分にはあるべき姿が別にあって、その姿に近づくこと、すなわち『自己実現』こそ人生の目的だ」などなど、これらはすべてひとつの共同幻想にすぎないことになる。

2.何かに入れ込むこと
 『推し、燃ゆ』の主人公あかりにとっては、彼女の“推す”男性アイドルが、というより何ものかを熱烈に応援し入れ込む行為そのものが、彼女の生きる中心軸(背骨)になっている。しかしこんな女子高生(結局中退するが)の生きる姿は特殊なケースかというと、そんなことはない。その人間の背骨になっている幻想が、他の人間の抱く幻想(社会通念)と似ていないだけで、どちらも人間が創り出した実体のない幻想であることはおなじである。
 他人にはまったく理解できない変わった趣味を持ち、その趣味を充足させることが生きがいである人は、私のまわりにもけっこういる。その人の社会的地位や立場(たとえば普通の会社員)は、じつはその趣味を続けるために必要な最低限の収入を得るためだけの意味しかない場合もある。特定の野球チームの応援で一年中頭がいっぱいの人、魚を釣ることにしか興味がない人、地元の祭りの数日間だけが生きがいで終わったその日から翌年の祭りのことを考え出す人。私の知り合い(シニア世代男性。仕事あり)にも「ももいろクローバーZ」の応援(追っかけ)に情熱とエネルギーとお金を注ぎ込んでいる人がいる。
 つまり何かに入れ込むという行為は、老若男女の違いまたは個人によって対象が異なるだけで、他人には容易に理解されない点では同じである。ただ厄介なことに人間には、親が子を養育するのは義務という共同幻想(社会通念。法律まである)が存在する。このため、”推し”に入れ込んでいつまでも自立しそうにない主人公あかりのような娘は、親にとって心配の種なのだろう。

3.『推し、燃ゆ』について
 かつて庄司薫は『赤頭巾ちゃん気をつけて(1969)』で男子高校生の心情を十代の若者らしい饒舌な告白体で描いた。宇佐見りんは『推し、燃ゆ』で、ひとりの男性アイドルを“推す”ことが生きがいだった女子高生の、デリケートで複雑な心の動きひとつひとつを、内面の襞(ひだ)がわかるような精密さで描いている。その表現力、イメージ喚起力の高さに驚かされる。
 この小説のおわりに「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う」とある。 “推し”を失くした主人公の、それでも生きることへの肯定的な思いが示されている点に、少し救われた気がした。

4.作者について
 余談だがNet情報によると、作者は本作の発表当時、慶応大学文学部の学生だったらしい。家庭も円満なようで、当然だが主人公あかりと作者は別もののようだ。

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