「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年05月19日


「少将滋幹の母」谷崎潤一郎

<「掲示板」に書き込まれた感想>

成合武光さん 2023/4/26 14:54

『少将滋幹の母』の感想
時平の身分は左大臣で、時の権力者。國経は大納言。だが國経にとっては甥っ子である。位階は自分の方が低いが、持っている宝は勝ったものを持っている、という驕りもあったのであろう。そこへ身内の者であるという情愛が、心の緩みに働いていたのかもしれない。   或いは物語にもあるように、客として時の左大臣が拙宅に来てくれたということへの誇りと嬉しさに心躍りしつつ、現代でいうパワハラー、逆らえないという正直さへの徹底もあったのではなかろうか。國経のその時の心の様子、状態について考えさせられました。
一時の心の浮かれ、過ちが心の宝、自分のすべてであった妻を失ってしまった。そのように言う國経の哀しさに深く同情するほかはない。
又若い身で、老人の妻となっていることを、妻の身になっていろいろに考えると、若い妻が可哀そうだと國経は考える。人間とは何か、考えさせられました。

『幇間』の感想
己の好む世界からは逃れることもできないという、人間の哀しさの一面でもあろうか。或いは、そこまで徹底できる幸せと言うものがあるかもしれない。
描写、写実の優れていることに感嘆します。それが読者をぐいぐいと物語に引き込んでしまう。文豪と言うにふさわしいと納得しました。

遠遠藤大志さん 2023/4/27 09:11

今回河野さんのテーマ作品は谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」と「幇間」。
いかにも谷崎らしいふたつの作品である。
 「少将滋幹の母」は、孫ほど離れた美しい若妻をもらった男の寝取られるのではないかという不安が痛いほど伝わってくる男性心理を実に上手く表現している作品である。
ある日酒に酔っているとはいえ、自分の妻、北の方を藤原時平に献上してしまう。
そこから始まる藤原国経の葛藤、諦め、妻を穢れた存在にしようとする行いなど、涙ぐましい努力が続く。
そこまでしても忘れきれない。
そんな父を見ている藤原滋幹は、成長するうちに母に対して想いを募らせていく。
母は時平の元に行ってから、別れた国経や、我が子滋幹の事を思い出すことはあったのだろうか?
それについては触れられていない。
母は元々その若く美しい容姿を持て余しており、幾度となく夫の目を盗んで平中と浮気を繰り返す性分だったのである。
 最後滋幹は月夜の桜の樹の下で母、北の方と再会を果たす。
周りの情景描写などはSFチックであり、現実なのか妄想なのか分からなくさせるのに十分な効果を出している。
 この小説を読みツルゲーネフの「初恋」を思い出した。主人公ジナイーダのコケットぶりは北の方と年齢の差こそあれダブる。
無意識にまたは本能のままに生きると、周りの男たちを巻き込み、時に強く愛され、強く嫉妬され、その末路はあまり幸せとは言えない最期を迎える。
それでもそうすることしかできない女の性がそこにある。
ツルゲーネフの「初恋」も谷崎の「少将滋幹の母」も現代に通じる永遠のテーマになっているため、今読んでも新鮮な感動が生まれる作品である。

「幇間」
 幇間(ほうかん)とは、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業らしい。
別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれたとのことである。
谷崎自身の愛すべき存在が幇間だった事が伺える。
 本作の中で、主人公の桜井三平は元は兜町の相場師だったが、その時分から幇間という仕事に憧れを持っていた。
それは彼自身がその性格上、尊敬の念だとか恋慕の情だとか持たせるような性質では無かったからである。先天的に人から一種温かい軽蔑の心を以て、もしくは憐憫の情を以て親しまれ可愛がられる性分だったからである。
 また、女子供を可笑しがらせ。時々愛嬌たっぷりの目つきで見つめる。「人間社会の温か味」を強く感じられるのである。
谷崎自身もこんな人間が近くにいたら楽しいだろうなと感じたに違いない。

福島政雄さん 2023/5/1 20:35

「少将滋幹の母」「幇間」の独語所感です。

=少将の母

題名すなわち「少将母」に収れんされる女性像が見えます。
すなわち透明で実態のない、北の方ですが、唯一母としての顔に、人間としてのリアリテイがあり美しさの本質である、と言いたげです。

それまで、老人からの粘質な溺愛、
愛人からの偏愛
権威からの略奪愛などを
一身に受けながらも、ぶれることのない「高貴な優しさ」が描かれています。
ただ、北の方を直接に表現したものでなく、周囲の歌などを通じて、浮かび上がってきます。 幻想的(ファンタジー)です。

前半、大人の男たちからの変質的な「性」への憧れは現実的史実に基づきます。
一転、創作的で「ものがたり」である、母慕う少将の記は、文体こそ想像的ですが
描かれている「この思慕と母の受ける愛」を極めて現実的に実体感のあるものとして描かれています。

見事なコントラストです。

完全な文章だと思いました。

当時の文豪作(「破壊」の藤村など)社会的問題への記録を提起するという写実的な
作品郡は力強いながらも、わるく言えば、垢抜けしない、田舎土着の作品の空気感ですが

谷崎は変質的な性という、生活感のないフワフワは、極めて、urban(都会的)です。

洗練されて美しいのです。

恥部であり、隠したい人間の本性を美しい文章で浮かび上がらせる技術。
秀逸です、
谷崎、おそるべし・・・

=幇間
芸人の覚悟を言語化すると、三平になるのかなあ〜と思いました。
昨年、自死された芸人は、この谷崎の言う「あたたかな軽蔑」
に耐えられなかったのだなと、彷彿しました。

笑われこそ、すれ、尊敬されることのない人生。
覚悟が必要ですね、ラストの「プロフェッショナルな卑しさ」に
すべてが言い尽くされていると思いました。

=二作品を通じて読む企画、企図者様の深い意図をぜひ拝聴したいです!
 想像してみましたが、関連性がわかりませんでした。

寺村 博行さん 2023/5/5 16:08

幸いにしてというか、不幸にしてというか、小生の妻はこの物語のような絶世の美女ではなかったから、何かを深く感じるということもなく、また何かを深く考えるということもなく、どちらかというと、しずかで落ち着いた変化のない平凡な人生を歩んできた。
もし妻がこの物語のような絶世の美女であったとしたら、果たして人生はいかなるものになっていたのだろうか、とつい考えてみる。妻をとても大切にする男性、というのは、時代を問わず階級の上下を問わず、また地域を問わず存在するようだ。彼らは単にモラルとしてではなく、真に妻を大切に思っていて、実際にも大切にする。男の心をそのように掴むことのできる彼らの妻は、やはり相当な美人なのだろう。
しかし、もし本当に妻がこの物語のような絶世の美女であったとしたら、その快楽は想像を絶するものであるだろうし、楽と苦は表裏一体のものだというから、よってその苦しみも快楽に比例して増大するのだろうから、そんな場合の苦楽の総量は、常人が耐えることのできる限界をはるかに超えるものではないかと想像される。よってこの物語のようなことは現実にはあり得ない、というのが真相ではないだろうか。
文学にはさまざまな効用・役割があるが、その一つに、現実には無いものを仮想的に提示してみせる、という効用がある。この物語は「平安の時代背景を舞台に、幽玄な絶世美女空間というものを情趣あふれる筆致で構築」した日本文学の傑作、というものではないだろうか。美女伝は、いつの世においても文学として精彩を放つ材料であったし、これからも人の世が続く限りは、幾多の美女伝が創作されるだろう。しかし谷崎のこの物語を越える作品は、なかなか現われ難いのではないかと思ったりもする。舞台背景として平安時代をもってしたのも成功している。

谷崎の作品は、以前に『痴人の愛』を読んだことがある。そのメチャクチャな内容に驚き、またそんなメチャクチャを自分としては面白く感じたし、嬉しくもあった。『痴人の愛』は、次のような叙述が結びとなっている。
    ‥‥ これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。
   私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。
   ナオミは今年二十三で、私は三十六になります。
まことにとぼけた結びにして読者を煙に巻いている。しかしこれこそが谷崎の本領・持ち味であり真骨頂ではないだろうか、そしてまたこういうものこそが文学であり芸術なのではないかとも思った。常に時代の流行とは一線を画し、自分の道を貫いた作家としての矜持が、こんなところに、そして今回の課題作品『少将滋幹の母』にも、表現されているのではないかと思った。

最後に。とても面白い作品を紹介して頂き、ありがとうございました。この場で紹介してもらわなければ、おそらく一生読むことなく終わった作品です。私にとっては、昨年の太宰治『御伽草紙』以来の貴重な読書体験でした。

☆『幇間』は『少将滋幹の母』との関連性がいま一つ、ピンとこなかったです。

藤原芳明さん 2023/5/6 22:07

『少将滋幹の母・幇間』感想

1. 谷崎潤一郎作品 わたしのベスト作品
 谷崎潤一郎はわたしの好きな作家で、学生時代から今日にいたるまで、その作品を繰り返し読んでいる。また谷崎に関する作家論、評伝、書簡、近親者の回想などもかなり読んできた。わたしが谷崎を芸術家として尊敬するのは、彼が二十代の若い頃から七十九歳で死ぬまで、文学者・芸術家としての自分の資質を信じ、それを深く掘りつづけ、自らの才能を開拓しつづけたことである。そして自分の体験を新しい文学作品へと結晶させる営みを終生貫き通し、最晩年に至るまで谷崎らしい傑作を発表しつづけた。その生涯は芸術家として驚くべきものだ(ピカソの生涯を彷彿とさせる)。
 谷崎の代表作はいくつもあるが、長編ならば『痴人の愛』、『春琴抄』、『細雪』、そして本作『少将滋幹の母』などがすぐに挙がるだろう。もちろんこれらは素晴らしい。ただわたしの好みで云うと『蓼食う虫』、『吉野葛』、『猫と庄造と二人のをんな』、『瘋癲老人日記』などの味わいもまた格別である。

2.『少将滋幹の母』について
 この物語のクライマックスはもちろん、小説の前半、時平が国経の妻(北の方)を拉致する夜の出来事と、小説の最後、成人した息子の滋幹が老母と再会する場面のふたつである。このクライマックスを描き出す谷崎の文章力のすごさ、その情景を眼前にありありと映しだすその描写力は神がかっている。
 とくに国経老人が左大臣時平に、酒宴の酔いと興奮で魔が差したとはいえ、自分の若く美しい妻を差し出してしまった経緯、その心理的伏線(@自分に不釣り合いな美女を妻としていることへの負い目、 A老齢により若い妻を性的に満足させられない申し訳なさ、 B時平への感謝の念をどう表現するか腐心)を描き出す場面は圧巻である(「その三」〜「その五」)。

3.『山椒大夫』と『少将滋幹の母』
 森?外の名作『山椒大夫』は幼い姉弟(安寿と厨子王)と母が人さらいによって生き別れ、長い時を経た小説の最後に、成人した厨子王が佐渡の地で盲目となった老母と再会する物語である。ストーリーは『少将滋幹の母』とは異なるが、生き別れた息子の母恋いがテーマにある点、小説の最後に再会した母子が抱き合って終わる点など、二つの作品は構造的に似ている。
 しかし『山椒大夫』は文庫(岩波)でわずか四十二頁と短い。一方『少将滋幹の母』は文庫(中公文庫、挿絵入り)で百八十四頁と『山椒大夫』の約四倍である。もっとも『少将滋幹の母』では色好みの平中の失恋話や国経老人の不浄観の話など、サイドストーリーにかなりの頁を費やし、これも作品の分量が増えた理由である。しかしなんと云っても両者の違いは文章のスタイルにある。
 簡潔で無駄のない?外の文章は格調高く、心理描写はほとんどない。それでいて最後の母子再会の場面では、短い文章のうちに叙情と哀切があふれ感動的である。一方谷崎の方は、人物心理の細かなひだや情景の描写にたっぷりと時間をかけ、料理をゆっくり味わうように豊潤、流麗な文章である。芸術家としての?外と谷崎の個性の違いとしかいいようがない。

4.『幇間』について
 今回、この小説を約四十五年振りに読んだ。『幇間』は谷崎の心理的マゾヒズムの典型を作品化した初期の短編である。その道化たふるまいが人に可笑しがられ、からかわれ、笑われ、人に喜んでもらえること、それが主人公三平の無上の喜びである。三平のマゾ的な欲望が最も強く刺激されるのは、梅吉のような勝ち気で高飛車に男を扱う、美しく冷酷な女におもちゃにされるときである。梅吉は谷崎的ミューズ(美神。芸術家の創作意欲をかきたてる女性)の代表なのである。

5.谷崎のミューズたち
 谷崎が愛するミューズには、その初期から晩年まで一貫した傾向がある。すなわちファム・ファタール的な女、気位の高い臈長(ろうた)けた女、冷酷な美女‥などなど。谷崎の身近には常に、彼の芸術的感興をかきたてるようなミューズがいた、というより谷崎がそのような女性に自ら近づいていったのだろう。
 谷崎の作品に登場する女性とそのモデルとしては、『痴人の愛』のナオミ(最初の妻の妹・石川せい子)、『春琴抄』の春琴(三番目の妻・森田松子)、『細雪』の幸子・雪子(松子とその妹・渡辺重子)、『瘋癲老人日記』の颯子(重子の養子の嫁・渡辺千萬子)などが有名である。また谷崎の実母・関(谷崎が三十二歳頃に他界)は美しい婦人だったらしい。『少将滋幹の母』の主題であり、谷崎終生のテーマでもあった「母恋い」はこの母・関への想いが反映しているのだろう。

森山里望さん 2023/5/6 22:52

中央文庫で読みました。「小倉遊亀の挿絵のおかげでなんとか読むことができた」、というのが正直なところです。
 平安王朝の時代背景であることを踏まえても、女性を引き出物として扱うことに憤怒をぬぐえないまま読みました。滋幹の母・北の方については一貫して時平、平中、国経、滋幹の男性四人の視点からしか書かれておらず、美女ということ以外に彼女自身の内面、心情の動きなどがいま一つつかめずどういう人物なのかわからない。絶世の美女、衣に焚きしめた香り、命よりも大切なもの、独り寝の寂しさ等々の描写からは北の方に対するの愛情や恋愛の情は汲み取れず、この女性をある種ゲームで獲得すべきアイテムのように扱っているようにさえ思えた。
 求められるままに男性を受け入れるしかなかったとして、北の方には真に恋い思う男性は生涯なかったのだろうかと考えてしまう。
 幇間は読んでいません。

阿王 陽子さん 2023/5/7 12:12

「少将滋幹の母」を読んで  阿王陽子

谷崎潤一郎の作品は映画などで見たことがあったものの、原作の小説については、読んではいけないような禁忌の感じがあり、読んだことがなかった。 今回の課題を読むに当たり、最初数ページが読むのがつらかったが、途中から展開が面白くなり、読み終わることができた。

さて、この作品は、少将滋幹の母=帥の大納言の北の方が主人公であり、彼女を取り巻く、最初の夫、帥の大納言、と、彼女を愛する平中、そして彼女を得ようと策略を練る時平、そして帥の大納言と彼女の息子である滋幹、また、平中を袖にしたりじらしたりする侍従の君、らが筆者の視点で淡々と、ときに、歌のあたりはていねいな解釈をもって描かれているが、古典文学風の作品のなかでも、かなり卑猥な展開になっている。

侍従の君のおまるの所は、上品さを醸しながらすこぶる下品な流れになっており、また少将滋幹の母が時平に堂々と拉致される前後は、夜這いの平安時代であっても、寝取り寝取られるという破廉恥な展開であり、文学の線をギリギリに保ってはいるものの、官能小説に近い。

しかし不浄観の所で、色即是空のような展開になり、仏教の話に結ばれていくので、なんとか、文学を保っているが、この作品を読んで、なんだか、見てはならないものを見て、読んではいけないものを読んでしまったような気がした。

「幇間」は読みませんでした。

金田清志さん 2023/5/7 18:43

「少将滋幹の母」感想

谷崎潤一郎、の作品はいくつか読みました。読んだ作品にはどれも衝撃を受けましたが、特に今でも印象に残っているのは「猫と庄造と二人のをんな」の文体、というか文章はいつまでも心に沁みついています。
こういう、主題とマッチした文体で作品を書けるのは素晴らしい芸術家だと。

今回のテーマ作ですが、初めて読みました。

読後の感想は「さすが谷崎文学」。まだまだ読んでいない名作はいっぱいある、と実感しました。
この作品では「人間の、と言うか男の欲、本能がさらけ出されている」と読みました。

と同時に今後もこの小説は読み継がれるのか、との危惧も覚えました。
と言うのも時代が時代で、いくら本人が泥酔していたとはいえ、結果的に女房を譲る(小説では後半「奪われる」となっている)という内容は現代の女性読者に受け入れられるのか? と危惧したからです。外国では昔の黒人奴隷を扱った差別的な小説排斥の動きもあるとのニュースを耳にします。

とは言え、この小説は「万葉集」等の諸々の古い書物に書かれていた話から谷崎が創造した作であり、最後の少将滋幹が母と再会する件は「少将滋幹の日記」を含めて作家の創作であり、この小説を一層奥深い作にしています。

「幇間」も谷崎らしい短編だと思います。
人間の心理、心根の一端を作者の鋭い感性で抉り出した作だと思う。
それを作者のマゾヒズムといえば、恐らくそう言う事なのだろう。他の短編、例えば「少年」などでも特にそのように思う。

金田

池内健さん 2023/5/9 10:35

『少将滋幹の母』

「永遠に女性的なるもの」に救われたいという、ある意味陳腐な男の願望を照れもせずに堂々と美しい物語に仕上げている。絶対的な自信がなければ書けない種類の文章であり、凡人はただ賞味するしかない。

滋幹にとって永遠の女性は母親の北の方。絶世の美女であるがゆえに権力者・時平に奪われ、おぼろげな面影だけを抱いて生きていくことになる。母似で男前の異父弟へのコンプレックスもあって大人になっても会うことはできなかったが、夜桜のもと再会を果たし、膝にもたれてさめざめと泣く。この涙はこれまでの苦しみをすべて清めてくれる浄福の涙。幸せになれて良かったねと声を掛けたくなる。

権力の頂点にある時平が北の方を手に入れる場面は現代的にも思える。北の方の凡庸な夫・国経に、妻を譲るよう忖度させているからだ。いっそ強奪でもしてくれれば時平を憎しむことができたのに、自発的に譲った形だから諦めるしかない。国経が若い女の死骸を見る「不浄観」で美の思い出を断ち切ろうとする場面は哀れで凄まじい。プレーボーイの平中が美女・侍従の君のおまるの中身をみて幻滅しようとする場面がコミカルなのとは対照的だ。

物語では北の方の気持ちは描かれていない。男の勝手な気持ちを映し出す鏡のような存在だから、いろいろ発言して鏡面が揺れてしまってはいけないのだ。

十河孔士さん 2023/5/9 20:44

「少将滋幹の母」
・一読、「春琴抄」と書き方が似ているのに気づく。作者が過去の文献を参考にして物語をくりひろげるというスタイル。ただし「春琴抄」は最初から最後までまったくのフィクションなのに対して、「少将滋幹の母」の方は実在の人物が遠い昔にいて、複数の資料が残っていて、それをひもときながら小説を書くという違いがある。
 「春琴抄」の方が「少将滋幹の母」よりも寄り道が少なく直線的で、主題がはっきりしている。「少将滋幹の母」の方は滋幹の母をまん中にして、その周囲をめぐった者たちの生き死にを、作者の母恋いをにじませながら物語としている。

・該博な古典文学の知識に支えられて、手元の資料を融通無碍に出し入れしながら想像を膨らませて書きすすめる――その悠揚せまらぬ書きぶりに接して、いい読書体験をしたとの思いがある。鴎外の「渋江抽斎」も同じようなスタイルで書かれていて、似たような読後感をもった経験がある。

・書かれたのは戦後すぐの昭和24年。戦争前後は「源氏」の現代語訳(10年〜13年)や「細雪」(17年〜23年)に没頭していた。激動の時代にあっても自己の世界に閉じこもり、極めようとする姿勢は定家の「紅旗征戎吾がことに非ず」を思いださせる。

・会話文がほぼ現代語で書かれている。「ねえ、君、お願いだ、ねえ」「では、ほんとうにお待ちになるの?」(P.15)「やっぱり長生きはするものですね」(P.34)それはなぜか? なぜ時代を合わせ、当時の会話体を用いなかったのか? 会話文で書いたらどうなるのか疑問が残った。

「幇間」
・最初期に書かれた短編群のひとつ。『栴檀(せんだん)は双葉より芳し』のことわざどおり、すでにここには「刺青」「少年」「秘密」などの諸作品と同じように、後の大谷崎の萌芽が如実に見られる。女性崇拝、被虐的傾向などがいかに早くから作家の心を蝕んでいたかがわかる。
 そうした谷崎特有の性向はひとたび置くとしても、なお驚かされるのは語彙の豊富さ、叙景の的確さ、会話文の巧みさなど創作技術の高さと絢爛さである。

・ぼくには「少将滋幹の母」と同じように、時間の堆積の彼方の時代を舞台とした「二人の稚児」がおもしろかった。

杉田尚文さん 2023/5/11 17:55

・40年後の母との抱擁の幻想的なシーンがとても印象に残りました。母への愛こそが本当の自分である。そのことを表現したいということでしょうか。猥談と惚気話の得意とする平中、愛する妻を進呈してしまう父、権力に上り詰めたが一族もろとも呪い殺される左大臣。母をめぐる三人の哀れな男の様々なエピソードも、庵の桜の下にたたずむ美しい母を浮き上がらせるための描写でした。何でも描けると言いたげな圧倒的な筆力は「文豪」にふさわしい。

・「幇間」は当時の新しい人を書いたものと思います。他人を喜ばせることに快感を覚える人です。株屋の芸者をあげた舟遊びの宴会の様子が実況中継されます。これもまた、本当の自分を表現したいということでしょう。自虐、マゾヒズムに快感を覚える自分を発見したものと思います。

・谷崎の作品は「細雪」「陰影礼賛」「春琴抄」「卍」と読んできました。都度、あたらしい文体に挑戦し成功しています。その姿勢が素晴らしい。このような機会がなければ読めない作品です。ありがとうございました。

いまほり ゆうささん 2023/5/12 17:37

文章が美しいので、何とか最後まで読み通しました。平中、時平、国経、そして滋幹と一人一人に関するエピソードの分量が多かったのですが、平中が侍従への想いを断ち切るためにおまるを盗むなどというエピソードが面白かったです。そして北の方の美しさは、視覚的なのに対して、侍従は意地が悪いと表現されているのも面白いと感じました。

和田能卓さん 2023/5/12 18:19

古典文学に取材した小説作品に、すぐ芥川龍之介、堀辰雄、福永武彦を連想する和田です。まだまだ多くの近代作家が物していることは知っているものの、つい。それぞれアプローチ・作品化の方法はあるものだなあ、と感心しています。
 谷崎潤一郎の『源氏物語』の口語訳は与謝野晶子のそれと併せて金字塔。その谷崎の本作品、古代(折口名彙)世界を近代作品に生かす手腕、さすがと首(こうべ)を垂れております。

原 りんりさん 2023/5/12 20:16

5月例会 谷崎潤一郎  少将滋幹の母

 LGBTがやっと世間に認証され始めている現代からみると、谷崎潤一郎のエロティシズムはすごくオーソドックスで健全であるとさえ思う。もちろん、一方的な男性目線ではあるが。
 元々人が何に性的興奮を覚え何にどういうふうに刺激を受けるのかは、全く個人の問題であり、それこそ人間の数ほど多種多様だろう。性的興奮は背後にその人がかかえる深い闇に関わっているものでもあって、単純には論じられないだろうとも思う。。
 谷崎のフェティシズムについても、例えば女の足を舐めることで興奮するのは異常でも特殊でも何でもない。清朝の上流階級の女性達は「纏足」をしていたが、あれは逃げにくくするなどという目的ではなく、そこから漂う独特の香りが殿方に強く好まれたからであったらしい。(彼女たちは頻繁に足を洗い布地で毎回締め直していたそうだ)

 「細雪」でも、4姉妹の和服を脱ぎ着するシーンは異様に丁寧に描かれていることから、谷崎の和服好きがうかがえる。それに比べて洋服のシーンはまったく無味乾燥なのがちょと笑えた。「細雪」は一見大衆小説のように日常がだらだらと描写されていくが、個々の人物に対する観察力は非常に鋭く、それが行動や台詞に的確に表現されているのはさすがだと思った。

「少将滋幹の母」についても基本的には同じで、ああいう儚い人形のような女性を強烈に美しいと思うのであり、それは多分谷崎の美意識の象徴であるとも言えると思う。
 ああいう美しい母への憧憬といったものが、男性の中には本源的にあるのかどうかについては、とても興味のあるところだ。今の男の子たちは、母を美しい憧憬の対象として見るのだろうか。

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