「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年06月07日


「貝塚をつくる」開高健

<「掲示板」に書き込まれた感想>

藤原芳明さん 2023/5/16 10:56

開高健『貝塚をつくる』課題テーマ 藤原芳明

1. 開高健の略歴と作品(ウィキペディアから一部引用)
 開高健(かいこう たけし)1930(S5)年〜1989(H元年)年。享年58。大阪市立大学文学部卒。1954年洋酒会社壽屋(現サントリー)宣伝部に入社、コピーライターとして働く。1958年『裸の王様』で芥川賞受賞。これを機に壽屋退社、以後作家に専念。1964年11月から約3ヶ月、朝日新聞社特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンを拠点に南ベトナム軍の作戦に従軍。作戦中反政府ゲリラの待ち伏せに遭遇、九死に一生を得る(生還者は17人/200人)。このベトナム体験が開高の文学上のターニングポイントとなる。開高は小説の他にルポルタージュ、釣り紀行、評論、エッセイなど多方面に活動し多くの作品を残した。代表作と受賞歴を以下に示す。
『裸の王様』1957年(芥川賞)
『日本三文オペラ』1959年
『輝ける闇』1968年(毎日出版文化賞)
『夏の闇』1971年(文部大臣賞を打診されるが辞退)
『玉、砕ける』1978年(川端康成賞)
『ベトナム戦記』〜『もっと遠く!』『もっと広く!』
(開高のルポルタージュ文学に対し1981年菊池寛賞)
『耳の物語』1987年(日本文学大賞)

2.わたしの好きな開高作品
 わたしは学生時代に長編『夏の闇』を読んで以来、開高健の作品を愛読してきました。純文学作品としてはこの『夏の闇』が開高の最高傑作と思っています。わたしが読んでとくに面白かった、笑った、読み応えがあった、など推薦できる開高作品の例は以下の通りです。
【小説】『輝ける闇』、『夏の闇』、短編集『ロマネ・コンティ・一九三五年』
【ルポルタージュ、エッセイ】『声の狩人』(アイヒマン裁判傍聴記、サルトルとの対談など)、『オーパ!』(世界釣り紀行)、『食卓は笑う』(爆笑小話集)
【対談】『街に顔があった頃(浅草・銀座・新宿)』(開高健/吉行淳之介対談集)

3.『貝塚をつくる』に関する課題テーマ (1)この短編小説のモチーフ(創作の動機となること、作者が書きたいこと)は何だと思いますか? 自由に述べてください。

(2)開高健はコピーライターとしても活躍したように、文体、レトリック、語彙、表現に徹底してこだわった作家といわれています。創作をするうえで参考になった文章、表現などがあれば教えてください。また作品中、印象に残った場面はありましたか。 

(3)その他、感想を自由にお書きください。

後日(5/27頃)、本作品に対するわたしの感想をもう少し詳しく投稿します。

藤原芳明さん 2023/5/25 15:50

『貝塚をつくる』補足説明 藤原芳明 

4.開高健とベトナム戦争
 1963年から『週刊朝日』に連載したルポルタージュ『日本人の遊び場』、『ずばり東京』の評判が良かったので、『週刊朝日』が開高に、次に取材したいものはないか尋ねると、開高は即座に「ベトナム戦争をこの眼で見たい」と答えたという。開高の脳裏には、従軍記者の体験をもとに優れた文学作品を創作したヘミングウェイの姿があったかもしれない。そして1964年11月から3ヶ月、朝日新聞臨時特派員としてベトナムへ行く。ある作戦に従軍した開高はジャングルでの戦闘に遭遇、文字通り死ぬ目にあう。超大国の代理となってベトナム人同士が殺し合う戦争の現実を目の当たりにし、開高は「戦争に勝者はいない」ことを実感する。
 この取材体験はルポルタージュ『ベトナム戦記』(1965)として発表される。開高はその後この体験を自分の中で熟成させ、小説『輝ける闇』(1968)、『夏の闇』(1971)に結晶させる。短編集『ロマネ・コンティ・一九三五年』(1978)は開高がさまざまな経験をくぐり、文学的な円熟と達成を迎えた最も充実の時期(1973〜1978)に書かれた小説群(六編)である。このうち『玉、砕ける』は川端康成賞を受賞した。

5.『貝塚をつくる』について
(1)蔡健中という人物
 この小説の主人公はベトナムの商業中心地区ショロンに住む華僑の大物 蔡健中である。語り手である「私」はこの驚くべき怪物的な人物を克明に描写してゆく。そこには当然フィクションがあるとしても、実在のモデルがいるに違いない。そうでなければこれほどのリアリティをもってこの人物を描くことは不可能だろう。蔡という魅力的な紳士は、北京語(すなわち中華人民共和国)を疎んじ、ショロンで複数の会社を経営する実業家である一方で「とほうもない釣狂」である。釣りのパートナーとして「私」を品定めしたうえで一週間ほどの釣り旅行へ誘う。この釣狂同士の相手を値踏みするやりとりはスリリングだ。蔡は釣りのパートナーとして釣りの技量だけでなく、人格や教養、知性まで要求する。開高には『人とこの世界』という優れた人物評論があるが、開高の人物描写の確かさ、深さは群を抜いている。

(2)無人島の青年
 海釣りに同行し釣船を操作するのは漁師夫婦と二人息子家族だが、じつは夫婦にはもう一人長男がいて、南ベトナム軍を脱走して無人島に一年半隠れ暮らしている。青年はそこで炭焼きをしている。三〜四ヶ月に一度、両親は無人島へ寄り、長男に米とニョク・マム(ベトナムの調味料)を渡す。両親は炭を持ちかえって売り、その金で米とニョク・マムを買うのである。青年は毎日海岸で貝を採集してそれを食べる。青年の住む掘立小屋のそばに捨てられた貝殻が一年半の間に層のように堆積し、下の方は変質して「貝塚」のようになっていた。
 小説の終わり近くにこの無人島で暮らす青年のエピソードを置くことで、ベトナム戦争という不条理が、生まれたときから漁師であったひとりの青年とその家族に及ぼした厄災の実例を、効果的に印象付けている。

(3)遠景としてのベトナム戦争と太古から不変の自然
 この小説は戦争真っただ中のベトナムが舞台であるのに、登場人物である蔡と「私」は美食と釣りに耽る。ある夜、海釣りをしていると、陸では戦闘が始まり銃声や砲声が遠くから聞こえる。三十分ほどで戦闘は終わる。蔡は漢詩『楓橋夜泊』を書いて「私」へ渡す。漢詩の意味は「船の中で眠れずにいる私の眼に川辺の楓や漁火(いさりび)が飛び込んでくる」。蔡も「私」も釣りを続け、漁師家族は砲声を気にもせず寝ている。
 夜釣りをするランプの円光のなか、海中で繰りひろげられる生命体たちのひしめき合い、混沌が映し出される。それは「劫初(ごうしょ)」(この世の初め)から変わらない自然の営みである。また船が青年の無人島を離れたときの夕焼けは「史前期の大火のよう」だったと作者は記す。地上にへばりつく人間同士の争いごとなど無関係に自然は不変の循環を続ける、と言いたげである。

6.『貝塚をつくる』のモチーフについて
 この小説で開高が書きたかったこと(モチーフ)は開高本人ではないとわからないでしょうが、小生の感想は以下の通りです。
 生々しいベトナム戦争の現場をつぶさに見た観察者 開高はその現実をルポルタージュ等のノンフィクションにまとめた。しかし小説家 開高は、顔を背けたくなる過酷な戦場の一方で、そのすぐ隣りか同じ場所で暮らすさまざまな生活者、人間たちの姿をも文学的に表現したかったのではないだろうか。彼らにとって戦争は自国または居住国の現実であり、その影響(直接間接の違いはあるにしても)は免れないはずだが、作者の視線は、軍人や兵士ではないつぎのような人物たちを描き出す。

(1)ショロンで会社を経営する傍ら、美食と釣りと好色に耽る華僑の大物 蔡
(2)漁師としての日常を続ける家族
(3)その長男で軍隊から脱走し、戦争が終わるまで無人島で暮らすつもりの青年

彼らを観察する語り手である小説家(作品では記者とあるが開高本人であろう)の眼と詩情が描き出した、これもまたベトナム戦争、そして戦争そのものの姿であろう。

7.開高健の文体、修辞法について  司馬遼太郎は開高健葬式の弔辞で彼の文体についてつぎのように語った。「大地に深く爪を突き刺して掘りくずしてゆく巨大な土木機械を思わせるような文体」。その対象が人物であれ自然、状況、思想であれ、その本質や実体(それは単純ではなく、矛盾するいくつもの相が絡みあっている)を形容、描写するために、開高はニュアンスの異なる形容詞やあえて相反する言葉をいくつも重ね、たたみかけ、飽くことを知らなかった。その語彙の多様さと饒舌は、どの文学者にも似ていない開高独特の文体である。


 『貝塚をつくる』のなかから一例を抽出すれば、蔡健中を描写する一節。
「‥彼はしたたかに貪欲、性急、好色で、精巧をきわめた美食家でもあった。(p74)」。「‥いつもおなじ顔ぶれの仲間なので、いささか食傷しているところへ私があらわれたので、懈怠の眠りからむっくり体を起こした、というところであった。‥蜂がとびたつように私にむかってきた。(p75)」
 また夜釣りのランプの円光に映し出された海中の描写。「上下左右、縦横無尽の吹雪である。‥生命体と非生命体の阿鼻叫喚なのである。猛吹雪である。それは数知れぬ魚と貝と海藻の卵であり、幼生であり、プランクトンであり、マリン・スノーであり、ひとつひとつがしりぞけあい、食いあい、吸収し、同化し、反撥し、抗争しあう混沌の運動である。(p96)」
 開高は「言葉にできないほどの〇〇‥」などと表現をあきらめるのは文学者として敗北である、とどこかで言っていたが、その姿勢を体現しようと常に努力し、呻吟していたと思われる。

いまほり ゆうささん 2023/5/29 14:57

1 この作品の動機となる事、作者が書きたい事は何か?

 ベトナム戦争の真っ只中に裕福な華僑である蔡という人物に出会い、彼の多面性を知るに連れて人間の生命の深淵を覗いた感を抱いたのではないか、それを書きたかったのではないかと思いました。

2 創作する上で参考になった文章、表現は何か?

 この作品を何度も読み返す度に、彼の独自で多彩な表現力に圧倒され続け、私が参考に出来るというレベルを遥かに超えていると感じました。蔡という人物を表現するのに、P.80 1行目『この寝室には寝台と香水と垢まみれの釣り道具の他には壁の双喜字があるだけだとわかった』という端的な表現。P.1008行目あたりからドリアンについて『豊熟の一歩手前のこの果実はむんむんと芳烈な香りの最中にくっきりと爽涼をも含み、まるで細い冷たい渓流が流れるようなのだ』そしてP.101の3行目『この香りがあるためにしばしば私は全身にねばつく潮や軋む背骨や板のように張りつめたり、縄のようによじれたりする筋肉の苦痛などを忘れ、春の温室にさまよい混んだような忘我に浸る事ができる。翌朝になってそれをふりかえり官能は一つのきびしい知性にほかならないのだとさとされるのだ。貪婪な蔡の眼にしばしば近頃の私は冷徹な賢者の片影を見るようになっている』まさに独特の強烈な香りを放つドリアンが蔡のイメージと重なり溶け合って表現されているのもすごいと思いました.

3 自由感想

 すごい作品に出会ったと感じました.豪華な食材を山と積み上げる饗宴を催す一方で不潔を物ともしない逞しさ、釣りに行った先に調理道具一式を持参し自ら調理して美味しい物をふるまう繊細さ、中国の古典への深い造詣を持つ知性、そして軍隊を脱走した青年とその一家とも釣りを通して繋がる事のできる一面も併せ持つ人間力と行ったものは多分筆者である開高健との出合いによって互いに響き合い、引き出されたのではないかと思います.そして青年が食べ続けた貝殻が山となって貝塚となっているのを見た筆者が『私にはそれが廃物の変化というよりは若い漁師の渋くて苦そうな肉からの分泌物そのもののように見えたのだ.彼は生きながら遺跡を滲出しているのだ.滲出し続けるのだ』という部分を私はベトナム戦争が一人の青年の生き方を制限し続けた遺跡に思えると解釈しましたが他の皆さんのご意見を伺いたいと思いました.

石野夏実さん 2023/5/29 17:02

2023年6月文学横浜読書会課題「貝塚を作る」感想                  5月29日     石野夏実

 開高健の小説は、昨秋の読書当番で大江健三郎の芥川賞受賞作「飼育」を取り上げた時に、ひとつ前の芥川賞を大江と競り合い受賞した氏の「裸の王様」(1958年)を参考図書として読んでいた。
今回は「貝塚を作る」他「ロマネコンティ1935年」の6短編集文庫をひと通り読み、「裸の王様」当時とは文体が違ってきていると感じだ。

家に「輝ける闇」(新潮社の純文学書き下ろし特別作品集の1冊※この当時の新潮社書き下ろしシリーズは戦後純文学の作家たち、安部公房、倉橋由美子、大江健三郎、遠藤周作などの代表作がずらりと揃い素晴らしい)があり、読んでいなかったので読み始めているが、長編ゆえにこれもまた違う。

この「輝ける闇」は今回の課題小説「貝塚をつくる」の発表が文学界1978年2月号であるので、その10年前に当たる1968年に発行され毎日出版文化賞を受賞している。
したがって私的な直観ではあるが、開高健の小説は10年単位が節目の様な気がした。
58年「裸の王様」で芥川賞、68年「輝ける闇」で毎日出版文化賞を受賞。
78年の1月は「飽満の種子」、2月は「貝塚をつくる」、3月は「玉、砕ける」を発表し、この「玉、砕ける」で翌年79年の川端康成賞を受賞した。
同時に「貝塚をつくる」も最終候補に残った。
短編執筆に力を入れていた時期なのであろうか。短期間に連続して発表されたこの前半3篇は作風が似ている。香港、ヴェトナムの土地も人も風景も食べ物もお気に入りのようである。

行く先々で、仕事柄(小説家として)新聞社や商社などのツテがあり、それは全くの素人が知り合いを無から見つけだす難しさに比べ、どれほど恵まれた環境にあったのであろうと、読みながら強く感じた。
※氏のエッセーを1冊も読んでいないので感想が偏っているかもしれませんが、悪しからず。

代表作といわれる「輝ける闇」の函に書かれた著者の8行の文章を初めて読んで、余りにも詩的で重厚感があり吟味された一言一句の説得力に感動したので、参考までにここに記します。今回の課題小説と同じくヴェトナムが舞台であるという理由もあります。

「心は多頭の蛇である。どれほど切られても再生して人を咬む。孤独の汚水や衰退の酸もその歯を滅しえない。すべてを徒労と感ずる心も靴をはいてベッドから去る瞬間がある。誰も殺せず、誰も救えず、誰のためでもない、空と土の間を漂うしかない或る焦燥のリズムを、亜熱帯アジアの匂いと響きと色のなかで私は書きとめてみたかった。祈りもなく訴えもない巡礼の果てを書いてみたかった」

さて「貝塚をつくる」であるが、前出のように「ロマネ・コンティ・1935年」(文春文庫短編6集)を順番に読んでいって3番目の話であった。
ここに書かれている6短編中前半の3篇は、これを小説というのかエッセイというのか最初はよくわからなかったが、エッセイの様な作風の小説なのであった。
作り話ではなさそうであるが私小説でもないので、内面の独白や苦悩は書かれていない。
読む前には「貝塚をつくる」とは、いったい何?と思っていたのであるが、なるほど、最終部まで読んで初めてここから題名を取ってきたのかと納得した。

話の中心は一緒に登場している人物なのだ。面白おかしくユーモアも交え、一文は長いものも多いのであるが、長さを感じさせない。
その理由は、一文が選択された最適な語句で成り立っているため、短時間で脳の奥深くまで届いて浸透が速いからであろう。この語句選びを今風で言えばセンスが良すぎて「突き刺さる」という表現になるのであろうか。
色と匂いでいえば高級なウイスキーの濃い水割りや、もしくはロックの様な琥珀色であろうか。とにかくお酒でいえばウイスキーを感じた。
この小説題である「ロマネコンティ1935年物」のワインは、恐ろしく高価なものであるらしいが、転々とあちらこちらに運ばれ月日が経ち<酒のミイラ>になっていた。
早い話が、おりは多いし飲めた代物ではない。想像しただけでも美味しくなさそうであった。

********

(1)この短編小説のモチーフ(創作の動機となること、作者が書きたいこと)は何だと思いますか? 自由に述べてください。

ヴェトナム戦争中であっても(のんびりしているので末期だと思うが)、普通の人々の日常の暮らしはその人たちのペースで進められている。それが書きたかったのではないでしょうか。

会社を経営しているVIPな華僑は仕事で忙しがっているが、釣りキチであるのでその趣味に費やすエネルギーは半端ない。飛行機に乗って島にまで魚釣りに出かけられる状況が、可能な人には可能な現実。
自分に向かって弾が飛んで来たら終わりであるが、それもなさそうである。

ヴェトナム人の強さ、戦時下で彼らを支える人々(知り合いになった華僑もそのひとり)もいるし、プラスチック、金融、不動産、缶詰などの会社を経営するその知り合いになった華僑の暮らしぶりを書く中でヴェトナムにおける民間人としての華僑の位置も垣間見られた。会話での使用言語を含め、この会社経営の華僑は教養もあり人情にも厚い人だと思った。

今回のこの物語は、小説家である川師の私が、新聞社に遊びに来た商社マン経由で釣りキチの友となりそうなVIPの華僑である”蔡建中”を紹介してもらい、少し試され自宅にも招かれ展開していく。蔡が読み古し大事にしている雑誌に偶然にも私本人の釣り姿が掲載されていたため絶大な信用を得ることができた。一緒に1週間ほどフークォック島へプロペラ機で飛び漁港で一泊の後、専用の船を雇ってシャム湾の無人島に出かけ、そこで見た話である。
船には、知り合いの船頭とその妻、弟であるふたりの少年も同乗していた。
無人島には、脱走兵となって1年半が経つ船頭夫婦の30歳の息子が隠れて住んでいる。
住んでいることを悟られないよう色々工夫し、息子は炭を焼き親たちは南京袋に入った米と壺に入ったニョク・マムを持参し交換する。
息子は見つからない様に注意深く暮らしている。貝が種類も多くたくさん獲れるので主菜のように食べる。その貝殻は腐らないので堆積すると小山になる。
1年半も住んでいると中層では溶解が始まり低層では石灰質が流出して貝の形が失われごわごわの頑強な襞の群れになる。それは、廃物の変化というより若い漁師の渋くて苦そうな肉からの分泌物そのものに見えた。彼は生きながら遺跡を滲出しているのだ。滲出し続けるのだ。

ここまで読んでやっと「貝塚をつくる」の題名の意味がわかったような気がした。

島を離れる時の別れのさようならは悲しいが、早く一緒に住めるように、と平和を願わずにはいられなかった。
漁師生活をするよりここでの暮らしの方がいいといったその息子は、1年半の脱走兵生活、すでに30歳である。
船頭である父親は、記者としての私に蔡経由で「記者だから何でも知っているだろうが戦争はいつ終わるんだ」と尋ねた。
この小説はいつ頃の話かわからなかったが、この会話で終戦も近い頃と思った。

(2)開高健はコピーライターとしても活躍したように、文体、レトリック、語彙、表現に徹底してこだわった作家といわれています。創作をするうえで参考になった文章、表現などがあれば教えてください。また作品中、印象に残った場面はありましたか。

レトリックを感じた箇所は、私は蔡に彼が気に入っている釣り道具会社のアブ社の山荘に行った時の話をした→蔡の家のテーブルの上に私の釣り姿の写真が掲載されている古い雑誌があったので、本人であると言い認めさせた→蔡の信用を得た。

一番印象に残った表現は、一行を乗せた船の父母と弟たちと島の岩の上に立つ息子との別れの場面での夕焼けの表現。
「史前期の大火のような夕焼けの先駆が島のうえにあらわれかけていた。私の腕や胸が真紅と紫と紺青に光りはじめた」

(3)その他、感想を自由にお書きください。

  蔡との親しくなっていく過程の中で、蔡が魚よりも好物なのはドリアンのようであること、開高自身がニョキ・マムが大好きであることがよく伝わった。開高の臓物好きは「裸の王様」の画塾の先生の頃より続く嗜好癖であると思った。
私は香草、特にパクチーが苦手なので、ヴェトナム料理はあまり好きではない。
ニョキ・マム(ヌクマム)も苦手。
余談になりますが、20年近く前にカンボジアのアンコールワットを見に行った時、ヴェトナムのホーチミンから出入国しましたので、ホーチミンには行き帰り1泊ずつ立ち寄りました。
若者が多くて二人乗りバイクが町中に溢れ活気がありました。女性はアオザイを着ている人も見かけましたが、夜のレストランやバーの雰囲気は他の東南アジア各国と比べて洗練されていて洒落ていました。今はどうなんでしょう。

港 朔さん 2023/5/29 21:28

開高健の名前は、コマーシャルのコピーライターとして知っていた。また彼は大阪人でもあり、彼の書いたアウトドア書籍を購入したこともあったので、認知としては比較的近い存在であった。しかし本業の小説を読むのは今回がはじめてだった。
『ロマネコンティ・一九三五年』を読んで感じることは、当時の日本の作家としては新しいタイプであり、ユニークな作家だったのではなかったか、ということだ。日本の、小説というか物語の類いは、ほとんどが人物中心で、人物以外のものは問題にならないと思われるぐらいに書かれては来なかったように思われる。小説というものは人間模様を描くものだ、と信じられてきたようだが、この『ロマネコンティ・一九三五年』では、人物そのものよりも、釣り・冒険・阿片・美酒・美食など、重点が人物以外の方にシフトしているように感じられて、新大陸アメリカの作家、ポーやヘミングウェイの作風に似ていると思った。

『貝塚をつくる』は、釣りという趣味をつうじて知り合った蔡という人物と思いがけない冒険をするという物語だ。前半は蔡との出会いと釣狂(つりきち)ぶりについての記述、後半は釣り道具をもって出掛けたシャム湾での冒険の記述になっている。舞台はベトナムのサイゴンとシャム湾であって、舞台そのものがそれまでの日本の小説には描かれて来なかった新しい舞台ではないだろうか。また「ドリアンの香り」「ネズミはうまい」「足の指が鉤のようになる(野性生活では)」など ‥‥ 寡聞にしてよく知らないが、開高健以前にこのようなことを書いた小説家が日本にいただろうか、また東南アジアを描いた小説家がいただろうか。
日本は極東に位置した島国であり、外国との交渉が比較的少なかったという歴史があり、また明治維新以来おかれてきた、どうしても植民地支配は避けたいという政治的意志、どうしてもそうならなければならなかった歴史の窮屈さに起因するものだろうと思われるが、今は時代が異なる。これからは、第二第三の開高健が現れて、同様の方向を向いた作品が生まれてくるのではないだろうか。
最後に少し感じたこと ‥‥ (p.97~8)で、蔡さんが「私」に七言絶句を書きつけて渡したとき、「私」は『楓橋夜泊』と単にタイトルを書いて返したが、ここではそれに付け加えて「鐘声はちょっと五月蠅かったね。けれど花火が見えてきれいだったね」などと返したらどうだったろうか ‥‥ 蔡さんは喜んだのではないだろうか ‥‥ つまらないことかもしれないけれど ‥‥ 。 ベトナムの歴史は、歴代の中華帝国の圧迫に耐え続け、その後はフランス・アメリカの植民地支配に耐え続けた抵抗の歴史だと承知しているけれど、華僑という、少し冷めた位置で社会を観察できる立場にあった蔡さんであってみれば、そのようなエスプリを待ち望んでいたような気がする。

☆★ 課題テーマ ☆★
(1)戦争の街サイゴンで生きる華僑で釣狂の蔡建中、また代理戦争に巻き込まれた祖国で逞しく生きる(生きるしかないのだが)ベトナム人家族の生き様。そしてサイゴンの街の様子。
(2)参考になったのは、小説の舞台はどこにでもあるということで上記に記したとおりです。印象に残ったのは上記後半部分、(p.97~8)からで、砲弾・銃弾飛び交う光景の後、やりとりされる七言絶句の場面。蔡さんと「私」のやり取りでした。
(3)上記参照。

池内健さん 2023/5/30 11:12

開高健「貝塚をつくる」

 文芸春秋社長の池島信平は開高健のルポルタージュを高く評価し、顔をあわせるたびに「小説なんかやめて、こっち一本でやりなさい」とくどいた。自己紹介で必ず「小説家の開高健です」と名のっていた開高は「芥川賞をくれといてそんなことをいう社長も社長や」とぼやいたそうだ。
 「貝塚をつくる」も、優れたルポのような小説だ。釣狂の大金持ちと、戦争から逃れて孤島に隠れ住む貧しい漁師という対極にある二人の生態を、東南アジアの「豊満」と「爽涼」を体現する果物「ドリアン」の芳烈な香りに乗せてビビッドに描いている。機転と幸運によって金持ちの懐に入り込むことで観察できた、単なる観光客ではうかがい知れない世界を、小説の形で報告してくれたのだと思う。

(1)モチーフ
 東南アジアの豊穣な生命力ではないか。
 終戦時に15歳だった開高にとって、戦争は飢餓を意味していた。自伝的小説「青い月曜日」「破れた繭」などで、水道の水を飲んで飢えをごまかしたり、同級生にパンをもらっていたたまれなくなったりした苦い体験を繰り返し語っている。しかし、戦争下のベトナムは、大国アメリカと戦う構図は日本と同じだったにもかかわらず、飢えとは無縁だった。金持ちは主人公を家に招き、直径1メートルほどもある巨大な火鍋で牛、豚、鹿、カニ、エビ、イカ、石斑魚、豚の網脂、香菜……をとめどなく食う。貧しい漁師の青年も1年半で大量の貝を食べ、その残骸の貝殻は、まるで貝塚のような小さな山になっていた。
 飢えにさいなまれた反動から、開高にとって「食」は、グルメ(美食)というよりグルマン(大食)だった。貧しい漁師にすら「貝塚をつくる」ことを許す豊穣さは、開高と重なる主人公に強い印象を与えたに違いない。

(2)文体、レトリック、語彙、表現
 たとえばドリアンの味と香りを表現するのに「豊熟」「芳烈」「爽涼」「魔味」と、普通は使わない難しい漢語をこれでもかと饒舌に連打している。こってりしてややクセのある文体の魅力は、まるでドリアンそのものだが、この文体をまねるのは、いいドリアンを選ぶくらい難しい(一度、開高に心酔する女性編集者の回想録を読んだらこの文体をまねていて、鼻について仕方なかった)。
 印象に残ったシーンも、サンパンのへさきにころがったドリアン(くどい!)の香りの描写。「豊熟の一歩手前のこの果実はむんむんと芳烈な香りのさなかにくっきりと爽涼をも含み、まるで細い、冷たい渓流がながれるようなのだ」。腐ったタマネギにも似たドリアン独特の匂いが鼻の奥によみがえる。

(3)開高の取材力
 この作品では主人公が金持ちから出される課題を一つ一つクリアして信頼を勝ち取る過程が読みどころになっている。これは開高自身の特技で、取材力の源泉でもあった。そもそも世に出るきっかけとなった寿屋(サントリー)宣伝部での活躍も、経営者・佐治敬三に見込まれたのが始まりだった。
 相手が外国人でも変わらない。欧米ではジョークが珍重されることから、どんなに酔っ払っていても英語とフランス語で暗誦できるジョークをいくつも覚え込んでいた。
 また、開高と親しかった阿川弘之のエッセイ「アガワ渓谷紅葉列車」には、開高がモデルとみられる「甚六」という人物が登場する。阿川はカナダ旅行から帰国する直前、小さな町で電話帳をみて「アガワ」という名前が8軒載っていることに驚き、英語がうまい甚六に自分の代わりに電話するよう頼む。「いきなり電話をかけて、もしもしアガワさんですか、私はアガワですと言うの? 失礼だよ、そんなの」と最初は渋った甚六だが、公衆電話から1軒にかける。そして、8軒はいずれも日系人ではなくネイティブアメリカンで、「アガワ」は「winding river(屈曲した川)のshelter(避難所)」の意味だと聞き出す。これも単に英語ができるだけでは難しいハイレベルの取材力だと思う(ちなみに阿川は帰国後、諸橋の漢和辞典で「阿」には「水崖」「曲阜」「水之曲隅」、つまり「曲がりくねったところ」の意味があると知り、「winding river」との符合に驚く)。
 見ず知らずの人をたちまち虜にするのは、サービス精神があるからだろう。開高は家庭でもよく笑わせていた。文学者としての開高の才能に惚れこんでいた妻の牧羊子ですら、「その語り口の間合いのとり方の絶妙さにつられて、なんど聞いても笑い転げてしまい、そのたびごとに、あんた、職業をちがえたみたい。高座にのぼるべきであった、と神を畏れぬ暴言をつい吐いてしまう」ほどだった。

成合武光さん 2023/5/30 11:57

釣り場の秘境を訪ねるにいろいろな人との出会いやら、戦争、阿片体験などをノンフィクションとして様子が報告される。当時のベトナムの人々の様子が良く分かる。戦争の理不尽。過酷さ。『貝塚づくり』もそれをよく伝えています。貝塚が人間の愚かさを表象しているようです。作者の出会う人物たちが想像を絶する人たちで、只々驚かされます。これも人間の世界なのでしょう。
 開高健のことは良く知りませんでした。ただ名前だけはよく耳にしています。どんな作者か、作品があるのだろうとは思っていましたが、触れる機会がありませんでした。『貝塚づくり』では、その行動の広さに驚きました。世の中には大きなことのできる人が居るものですね。ベトナム戦争の頃、私は生活に追われ、ニュースで知らされることの他は、深くも考えられませんでした。これも現実です。
 作品の紹介ありがとぅございました。開高健の他の作品を読めば、彼の人となりが少しは分かるかなと思っています。

杉田尚文さん 2023/5/30 13:53

1975年にベトナム戦争は大国アメリカの敗戦により終結した。
この小説の舞台は戦時下の南ベトナム。無人島に貝塚を作りながら隠れ住む脱走兵の父の「戦争はいつ終わる?」の問いかけは手助けする人々の生死にも関わる重いものだ。
この小説の発表されたのは1978年、戦争が終わって3年後、読者は戦争が終わったこと、不敗の大国アメリカが敗れたことを知っている。大国のメンツのための戦争は自由と独立を求めるベトナム人に敗れた。米国内部の反戦運動に負けた。そこに明るさを見ることになります。戦争は必ず終わる。力が強いものが勝つとは限らない。侵略するものは敗退する。
ウクライナ侵攻の今、誰もが早期の戦争終結を願っている。先のベトナム戦争の経験は教訓に満ちている。プーチンに専制を許した大国ロシアは手ひどいしっぺ返しを味わうだろう。
行動する作家、釣師開高健の面目躍如の小説だった。起業家、蔡建中は釣狂でもある。釣師は釣狂にベトナムの釣りの指導を依頼する。釣狂は人物を試すとして、釣師に漢籍の謎をかける。アジアの教養が試される。置いてあるスウエーデン、アブ社の釣具雑誌に釣師の写真が載っていた、そのことを示すと人物試験は終了する。釣師は世界中を駆け回った、釣果を披露してしまい釣狂を刺激する。
二人は戦時下の砲火を聞きながら釣行をする。小舟の上からは花火とも見える砲火だが、実際は人間の腸をえぐり、脳漿を炸裂させる砲火である。ベトナム人は300万人が死んだ。アメリカ人も数万人が死に、それ以上の脱走兵がいた。(脱走兵の中には開高健の著書に触発されたものも少なくないと思う)。
反戦をテーマにした純文学だ。きらめく文体である。小舟に揺られて思う。シャム湾の夕陽の光は海面の波にきらめいている。その美は劫初から、今というこの一瞬まで変わらない。ところが、陸では戦争という殺し合いがある。
この小説では、戦争に咲いたグロテスクな貝塚を描写して、その苦さ、醜さを具体化していて、秀逸と思う。
釣という快楽を追及しながら、夜釣りの月の光の船の下に豊かな海の夥しい生命の吹雪が舞うシーンは圧巻の美しさだ。連綿と続いてきた生命の連鎖の美しさだろうか。
ホモサピエンス誕生以来20万年、貝塚をつくることから始めて、今に進化してきた人類。戦争が止んだことはない。戦火の中に死ぬものがいる。戦争は時を逆行させ、進化を止める。命に意味はない。しかし、進化は止まることはない。進化の中で視る世界に永遠を感じ、死を受け入れる。釣りたい魚を釣り、美味しい物を食べ、うまい酒を飲む。一瞬の生を愛でたいと思う。
この小説を読む機会をいただきありがとうございました。前から行きたいと思っていた茅ヶ崎にある開高健記念館に行ってきました。記念館の庭に石碑がありました。
「朝露の一滴にも天と地が映っている」
15歳で大阪大空襲に遇い、何を見たのでしょうか。諦観でしょうか。人間とは何かという問いでしょうか。わざわざ戦火の中に飛び込んだ作家には、死という破滅に至るかもしれない中、何かひりひりした渇望、どうしても戦場を生で経験し、描ききりたいという強いおもいがあった。59歳という若かりし死を惜しいと思いますが、濃い人生で、見事なまでの仕事をされた方と思いました。

森山里望さん 2023/5/30 22:17

文横 掲示板 2023/5 貝塚をつくる 開高健
 ロシアのウクライナ侵略から1年余り。時勢に思うところあっての幹事さんの選書でしょうか。
(1)作者が書きたいこと
「貝塚を作る」というよりは「貝塚のできてしまう暮らし」を突き付けられた。縄文時代あたりからさして変わらない原始的な暮らしを小説の最後において、その島から視覚的にフェイドアウトするように船で遠ざかっていく。戦を繰り返す人類の哀しい愚鈍・愚劣さを書いたのか。戦争の残虐、残忍、苛烈さに触れず、に感情に訴えることもなく、そこに深く大きく切り込んでいる。
(2)漢語、難しい熟語が多く改行も少ない。情景、場面場面がくっきり浮かび感情表現にたよらない潔い透明感のある文章だと感じた。文筆家、小説家としての圧倒的力量を感じた。

課題作「貝塚を作る」読んだのは「ロマネ・コンティ…」からではなく「流亡記/歩く影たち(集英社文庫)」からです。開高健は、ずいぶん前に「オーパ!」を読んで以来。
人間として、野性であろうとした、野性の目をもって書き続けた人だと感じた。

金田清志さん 2023/5/31 07:02

「貝塚をつくる」開高健  感想

 まず開高健という作家についてはベトナム戦争や世界的なスケールでの釣り行のノンフィクション物の印象が強く、それらに関する優れた本を出して、熱中して読んだ記憶がある。
想えばそうした本の記憶はあるが、小説の記憶は薄れている。そういう意味で、ぼくは開高健のよい読者ではない。

「貝塚をつくる」も今回初めて読みました。

短編集の中の1作ですが、どの短編も作者の体験した事をベースに書かれた作だと思いました。
釣りに興味のない方には「なにがそんなに面白いのか」と思うかも知れないが、圧倒的な表現力で読者をその世界に引き込むのはさすがです。
その中で描かれる人間の、それも普通とはとても思えないエネルギッシュな人物(「貝塚をつくる」では「蔡」)が登場しますが、恐らく、作家自身そうした人物とも数多く巡り合ったのだと思いますが、開高作品の魅力の一つだと思います。

それに「食」への拘りも強く、それも並みの食通を超えていて、時に知的な要素を絡めて物語りを展開させるのも読者を惹きつけるのだと思います。

想えば、これらの作品が書かれた時代背景はベトナム戦争の時代で、まさにベトナムを舞台に書かれていて、人間とは不思議なものです。一方では殺し合いをしている人達がいて、一方には釣りと食に拘る人がいる。「蔡」という人物もベトナム人ではないのでしょうが、考えようによっては人間とは本当に欲深いものです。

「貝塚をつくる」の後の方に出てくる脱走兵ついても、そして登場人物が自分の関心のある事に夢中になって生きるのも、人間は本来の自分を生きるのが自然なのではないか、と作者は言っているようにも思う。

国家間の紛争を武力で解決してはならない、国民を戦争に駆り出してはいけない、もうそんな時代ではない。
と、それが世界の常識になってほしいものだ。

金田

遠藤大志さん 2023/5/31 08:53

開高健を読むのは初めてである。
何となく釣りのイメージがあった。何かの表紙で釣用のベストを着て釣りに興じている写真を見た気がする。
酒好き、釣好き、自由人、好きなものしか書かない。こんなイメージである。
 今回「貝塚をつくる」を読んで、そのイメージが大方間違ってはいなかったと確信した次第である。
表現力、描写力は卓越したものがある。
 特に、蔡との出会い、やり取りは緊張感が伝わってくる。
そして釣り好きだったら分かる専門知識、釣りの面白さ、難しさ。
 だが、釣りに興味がない私にとっては、今一つ刺さるものが無かった。
華僑の蔡と釣りを通して親密になり、共に釣り旅行に出かける。
小さな事を気にしない自由人二人の姿を見ていると、羨ましい。
ただ好きな釣りの事だけを考えれば事足りる。


 そして船長の息子が暮らす島に到着する。
その息子は脱走兵だった。戦う事を嫌い、一人身を隠す様にひっそり島で暮らしている。
時折、その両親が島を訪れ、様子を見つつ、差し入れを行なっている。
その島からは未だ続く戦争がいやが上にも伝わってくる。
息子は、巡回船から見つからないために、細心の注意を払い、炭作りを行う。そして、戦争の終結を待つ。
主な食べ物は、無数に採れる貝である。
他の物は処分に困る事は無いが、貝だけは硬い殻の為、貝塚となっていく。
その殻の塚を見て、長きに渡り戦争が終わるのを首を長くして待っている時間の長さを推し量る事ができる。
自分はおおよそこんな話かと思った。

 ただ、「貝塚をつくっている」訳ではないと感じた。作られているのだと思う。
 また、脱走兵の元にちょくちょく(3、4か月に一度)差し入れに行く両親、そこに外部の蔡や主人公みたいな記者を連れて行く行為に違和感を感じずにはいられない。
炭に使う木を疎に伐採したり、日中はなるべく動かないなど、当人は細心の注意を払っている様に伺える。
脱走イコール処刑なのかどうかは分からないが、重罪である事に間違いない。少なくとも両親(肉親)だけに留め、他人にはその事を口外しないのが普通である気がする。
よっぽどの信頼があるか、ダメな両親である。
最後までこの違和感が残り、今一つ没入できなかった。

里井雪さん 2023/5/31 11:42

実は、開高健と同郷です。高校は彼の通った天王寺高校の隣りでしたが、団塊の世代後に生まれた、私。ベ平連と言われてもピンと来ませんが、皆さんの感想を読ませていただいて、熱量が高い、というか世代なんだなと感じます。

  さらに、彼は、休刊(実質廃刊)を決めた週刊朝日と馴染みの深い作者です。私の元いた会社と関連のある週刊誌ですし、知り合いもおりました。で、今はもう思い出しました、朝日ジャーナルも廃刊になって、もう三十年経つのですね。

 この作品、いろいろ調べてみましたがフィクションでしょうか。ただ、彼の実体験が多数、織り込まれているようで、いろいろ新しい発見がありました。まず、冒頭、ナマズの話が出てきます。「これは、開高健が苦労して大物を釣り上げるストーリーだ!」と思いました。ところが、同好の、どこか怪しげな華僑と知り合い、最後は兵役を拒否した地元の若者と出会う。貝塚ってどこよ? あれあれ?? 最後の最後で出てくる、という流れです。

 男らしいというか、細かく拘らない、計算しない、ストーリー展開、起承転結も三幕構成もシンデレラカープも全然意識していない。私が書く際には、まず結末を決めて、それに向けて伏線を入れ、物語全体の整合性をとことんまで追求し、となるのですが、うわぁ?、私、なにやってるんだろ? と思わせるような、サッパリ割り切った内容でした。

 そもそも人というものは、会話において、常に当意即妙な答えをするとは限りません。作者当人は頑張って、考え尽くしたフィクションのつもりですが、登場するキャラクター、賢明過ぎて逆にリアリティーを欠いていないか? と反省してしまいました。ストーリー展開についても、同様です、人が一々理にかなった行動をするのでしょうか?

 少々、話が脇道に逸れてしまいましたが、開高健の本作、そんな物語の流れから、主題がやや分かりづらくなっていると感じます。ですが、やっぱり、彼の主張は反戦なのでしょう。「悲惨だ!悲惨だ!」と繰り替えさず、さらりとそれを言っているところがいい。あるいは、読者をあえて、釣りストーリーにミスリードして、全体が説教臭くならぬような工夫だったのかもしません。だったら、計算し尽くされてるやん!

 その他、細かい文章では「なので、なので」「しばしば、しばしば」が短い間隔で繰り返されている。「耽溺であり研鑽である」? 耽溺する、研鑽を積む、という言い方はあると思うのですが、こういう表現もあるのでしょうか? あるいは彼流の「造語」でしょうか。

 ついでに「玉、砕ける」も読んでいて、ふと思いましたが、これらの短編が書かれたのは1970年代、70年安保という時代背景は、最初に述べましたが、この頃はまだPCはおろかワープロもなく、小説は原稿用紙にペンで書かれていたはずです。かつて、ニーチェは視力が落ち、手書きで文字を書くことが難しくなり、タイプライターで執筆をしたという。曰く「道具は思考に参加する」。すなわち、この小説は古きよき何かを包含してるとも言えます。

 最後に、また、思い出話になって恐縮ですが、少し前に亡くなった会社の後輩が、開高健の大ファンでした。会社に在籍していた際、何かと味方になってくれた男で、そういえば、とても男らしいヤツだったように思います。選者の方も、きっと、「男前」なのでしょう。

 今回から読書感想掲示板についても、お邪魔させていただくことになりました。PN:里井雪と申します。前回の会でもお話ししましたが、かつてハヤカワFTが大好きで、今は「小説家になろう」に異世界物などを書いています。定年後の道楽仕事、スタジオ業(マンションの一室に防音室を置いただけ)を営んでいる関係で、声優さんとのコネクションがあり、最近は、YouTubeボイスドラマのシナリオを書く仕事なども手掛けております。元職が某新聞社(書き出しで分かりますよね?)で、かつ、システムエンジニアなどもやっておりました。いろいろ変なヤツですが、みなさまとの交流を楽しみにしております。

遠藤大志さん 2023/5/31 13:08

(1)この短編小説のモチーフ(創作の動機となること、作者が書きたいこと)は何だと思いますか? 自由に述べてください。
 おそらくこの小説は実体験をモチーフにした小説であると自分は思った。
 実体験であるがゆえに、「矛盾」が見受けられる。
 それは何といっても、島を訪問する主人公の立場である。まったく素性の分からない人間を上陸させる危惧、危険性について戦時下という緊張感を感じさせなくしている側面がある。
 実体験であるが故に、貝塚ができていることに違和感とそこに孤独に暮らす様を書きたかったのだと思う。

(2)開高健はコピーライターとしても活躍したように、文体、レトリック、語彙、表現に徹底してこだわった作家といわれています。創作をするうえで参考になった文章、表現などがあれば教えてください。また作品中、印象に残った場面はありましたか。 
 深読みすれば、固い貝だが、やがてそれも浸食されて無くなっていくという表現。意思と置き換えることができる。
 長い事逃亡していると、心の緩みや寂しさに負けて、戦争終結まで続けられなくなる事の喩え。

(3)その他、感想を自由にお書きください。
 感想は上記に記載。

原 りんりさん 2023/6/1 17:49

原りんり        開高健  貝塚をつくる  

 例えば「もの食う人々」の辺見庸には“憤怒”といってもいいような激しい怒りの感情があるし、「深夜特急」の沢木耕太郎には印象派の絵画のようなすがすがしい喜びがあって、同じルポでも読んでいて分かりやすい。その辺もの凄く“混沌”としているのが開高健だというのが印象です。「ロマネ・コンティ」なんて、だからなんなの、勝手に飲んでりゃいいじゃん、わざわざ人に言うことかあ、と毒づきたくなります。あちこちでかなりラリってるし。

 “混沌”と書いたが、それがこの人の確信的スタンスなのではないかなあと思う。すべての対象を等間隔で捉える。釣りの醍醐味、高度成長期の成金男の持つ爬虫類的パワー、敗戦間近の南ベトナムの倦怠感、逃亡兵のもの食う日々。そこに作者の感情や意思を持ち込まない。あるがままに捉える方法というのを、ルポルタージュで初めてやってのけた人なのかもしれない。すごい人なのかもしれないけど、なんかかっこつけてる嫌いなタイプの男かも。

十河孔士さん 2023/6/1 21:53

・この短編集の他の作品と同じように、作者自身が実際に体験したことを下敷きにした小説のように思われる。その点ではルポルタージュの趣きの強い作品。
・出発したところにもどらず、円環を作って物語が終わるのではなく、一方通行的に物語が進み、突然終わる印象。「玉、砕ける」と同じように軽みのある、読者の意表を突く終わり方。
・主人公の思いを前面に出さず、多くを説明せず、体験したことを淡々とつづるところはハードボイルド的でもある。

・叙述は豊富な語彙や的確な比喩などで彩られて、ありきたりのルポを離れ、決して平板ではない。作者の新たな一面を見るような気がした。
・酒や釣りを愛した作者が、ベトナムという豊穣だけど南洋のカオスに包まれた国を舞台に(異国情緒も醸しだされる)、独特の文学的香気の漂う世界を作ることに成功しているように思った。

・題について:作者はコピーライターとして働いた一時期があるというが、この短編の題のつけ方もそういう人ならではのもののような気がした。

阿王 陽子さん 2023/6/3 03:21

「貝塚をつくる」を読んで 阿王陽子
?男の遊び、男の友情
?蔡が、著者に謎かけをして、知識をためしたところ
?釣りの楽しさを感じられる短編でした。ベトナム料理は好きですがますます好きになりました。

石野夏実さん (8que42yq)2023/6/3 14:05

藤原様〜準備されているはずの開高健のお話を聞きたいと思いましたのに、所用で参加できません。残念です。
今回は、早々長々と投稿しましたが、肝心なことを書いていませんでした。この「貝塚を作る」の小説はとても気に入りました。
開高健の本は家に何冊もありますが、昨年まで読んでいませんでした。
「裸の王様」と「貝塚をつくる」が個人的には気に入りました。比べてみて、どちらも完成度が高くどんどん読ませるのですが、初期と晩年の作品の読後の味残りが違っていました。前者はリンゴやサクランボ、後者はやはりドリアン。
ヴェトナム戦争に関わることがなかったら、氏の小説はどんな風になっていたのでしょう。

読書会は、読んだことがない作者の本を読む機会を得る喜びが大きいです。ご紹介をありがとうございました。

(文学横浜の会)


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