「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年07月05日


「堕落論・続堕落論」坂口安吾

<「掲示板」に書き込まれた感想>

阿王 陽子さん 2023/6/9 04:20

「堕落論・続堕落論」を読んで 阿王陽子

 本編で、安吾は(太宰を含めてもよい)「平和な世の中では真価を発揮できなかったが、戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」と規定しましたが、この視点について、賛成されますか?反対されますか? どちらかに応答をいただき、その理由をお書きいただければ幸いです。とのこと。

私は、本編二作品を読んで、坂口安吾は実際に戦争に従軍していない(年譜を見ると)のに、戦争の混乱や悲劇を軽視し、戦後の闇の女(パンパンやオンリーなど体を売っていた女性)や、戦争で夫を亡くした未亡人のことを卑俗に賤しめているように感じました。また、天皇制が、軍人の傀儡だったことや、農村の荘園などをとりあげていますが、非常に偏った考えで、二作品を読んで、私は、非常に憤りを感じました。

戦争の混乱の中、一致団結して、爆風爆発焼夷弾、いつ空襲になるかわからない、そんななかで、生きていることを噛みしめながら貧しさに耐えて、まさに清貧に過ごした日本国民を馬鹿にしています。

私自身は従軍画家について、大学院で取り上げました。それは身内の知人に従軍画家の息子さんがいて、戦争時に従軍して戦争時に尽くしたのに、戦後のGHQにより、また、戦後の日本人によって、ひどくののしられ、傷ついた従軍画家のことを取り上げました。しかし、大学院ではテーマは却下されましたが(天皇制に近い学習院だから)。しかし、二十年たったいまでも、靖国神社はたまに訪れますし、旧巣鴨プリズンのサンシャインシティは毎週末行きます。

従軍画家は息子を戦争時にとられ、亡くしながら画家として絵を描くことが職業だから書いて息抜き亡くなりました。その知人は、藤田嗣治の友人にあたりますが、友人の藤田嗣治は、戦争時に戦争画を描いたあと、日本にいられなくなり、フランスに逃げるようにいき、帰化して亡くなっています。

坂口安吾の戦争時に本領を発揮したという考えは、許されないと思います。戦争に行った人々、亡くなった方々、生き残った方々を蔑んでいるとしか思えません。

私は右翼でも左翼でもありませんし、キリスト教の学校で育ちましたが、これには反対というより、いまウクライナとロシアを見る限りにおいても、ひどい質問だと思いました。

 坂口安吾がとっつきにくい作家かそうでないかについてですが、初めて坂口安吾を今回、課題で読みました。映画などに関わっていた文化人のようですが、軍人や農村を馬鹿にしています。私は、不快に感じた作家でした。
ただ、文章は読みやすいわかりやすい文章でした。だからこそダイレクト過ぎました。

阿王 陽子さん 2023/6/9 08:07

息抜き、と誤変換しましたが、生き抜きか正解です。失礼しました。

里井雪さん  2023/6/9 14:56

「堕落論・続堕落論」について

 いやいや、こういうの、楽しいですね!! 新参者ですが、不遜にも参戦します。前提を書き加えたため、少々、長文となりますが、ご容赦ください。

 最近、ふと気になって三島由紀夫の「文章読本」を読んでいます。日本文学の歴史は、女性の仮名、と、男性の漢語、これを男女というジェンダーで区別したがる三島には賛同しかねますが、情と論理という分類には首肯できる部分もあります。

 戦争とは何か? に対し、見方、視点の違いがあるのではないでしょうか。前述の情と論理、ミクロとマクロ……。この堕落論は、論理でありマクロであり、一種の抽象化なのだと思います。

 例えば、

・太平洋戦争における兵士の死因の約7割は非戦闘行為、すなわち、餓死もしくは病死だった。

 ネットネタですので、割り引いて考える必要があるでしょうが、南方への補給断絶、マラリア対策の欠如、多数の方が敵の弾に当たることなく亡くなったというのは、想像に難くないでしょう。ならば、です。

・補給を重視し日本海海戦に勝利した秋山真之は傑物で、御前会議で「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる」などと曖昧な言い方で逃げた山本五十六、戦争=補給も知らぬ愚物だったのでしょうか?

 草を食んで飢えを凌いだ方々に思いを馳せていては、このような考察は難しい、と言いたいのです。

 本件、経営組織論的な観点からみて、当然の指摘が黙殺される構造、ガバナンスが欠如していたとは言えませんか? 「王様は裸だ」と言っても命を取られることなどない現代でも、同様のことが起きています。自動車の排ガス試験のデータ不正が長く公にならなかったのは、なぜでしょう? 本考察に込められた教訓もあると思うのです。

 ですので、私は客観性を求めた安吾の「抽象化」に賛成ですし、むしろ現代の反戦教育はその視点を欠いていると思います。しかも、しかもです、従軍していない彼、全ての人が生々しい戦争を実体験している、という中で、本論を公にしたのです。袋叩き、へたをすれば刺されかねない状況下で、です。その勇気にも敬意を払いたいと思います。

 ということで、まず、提示いただいたQについてのAです。

 ちなみに、私、70年安保の時は中学生。「赤頭巾ちゃん気をつけて」世代かな?

(1)本編で、安吾は「平和な世の中では……戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」
 堕落論について言えば、敗戦に伴い、既往の価値観、その全てが崩れ去る強烈なインパクトにより生まれた、何か? なのかな、と思います。戦争そのものではなく、戦争による混乱が生んだもの、が本領を発揮させた、という印象です。

(2)私は、とても安吾さんは ‥‥ スゴ過ぎて……もっととっつき易い作家さんを読んでいます
 すいません。私自身、坂口安吾をそこまで読んでいませんので、判断に迷います。この女性にとっては、与謝野源氏、吉屋信子がよいとうことではないでしょうか? ですが、彼の文章が読みづらいか? と言えば、そのようなことはなく、本当の文才というものは平易な言葉に宿ると感じます。司馬遼太郎の文章がよいなどと、私は決して思いません。

 続いて感想です。部分、部分で気になったところを挙げて行きます。

>大磯の話
 いきなり主題から外れますm(_ _)m
 坂田山心中、天国に結ぶ恋、のことでしょう。ちなみに、最近の男性は、童貞でることを恥じない傾向があるようです。私の若い頃は、女性を知らない=半人前と目されている気がして、一日も早く彼女と情を通じたいと焦っていました。ですから、そういう若者を「気持ち悪い」と思ってしまいます。ですが、よく考えてみると、ならば、なぜ、男性は女性に処女性を求めるのでしょう? 男女同権になっただけ、ではないのかな? と思い直しました。
 いずれにせよ「徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとした」という視点は賛同できる考え方であり、日本人らしい美学、かつ、悲喜劇でもあったと思います。

>この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか?
>天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった
>我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか

 ・東條英樹は、神風などというオカルトを信じた狂信者だったのでしょうか?
 ・当時の国民は、オカルトを間に受けていたのでしょうか?
 ・そんははずはありません。ならば、なぜ、国力十倍の国と勝ち目のない戦争をしたのでしょうか?

>日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。
 開戦を決めた時、既に東条は絞首台を見ていたのだと思います。「軍あって国なし」勇ましい発言をしないと、陸軍の予算が削られる。東条をして、合理性のない論理と知りつつ、歴史を動かす大きなムーブメントを変えられなかった、とすれば理屈は通ります。

>文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ
 戦争に思いっきり協力したマスコミ、朝日新聞社は1945年に「国民と共に立たん」などと書いていますが、はてさて、ちょっとご都合主義じゃないの?
 それはさておき、最近、マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を読みました。裁判にもなりましたし、猥褻だけが目立ってしまいますが、本質は別のところにあると思います。本編全てが聖書、キリスト教に対するアンチテーゼ、徹底したアイロニカルさで、その欺瞞を指摘しています。
 事程左様に作家の社会的使命は安吾の言う反逆にあるのではないでしょうか? 学者は学問という閉塞空間から決して抜け出すことはできません。ですが、作家というものは「なんでもアリ」なのです。であるが故に、政治に社会に真っ向から反逆することが可能です。
 ところが、ところがです。安吾の論によれば、結果としてその反逆は政治を利してしまう。ああ、なるほど! それはあるかもしれないですね。だとしても、です……。

後藤なおこさん 2023/6/9 15:42

『堕落論 続堕落論』坂口安吾を読んで

(1)かつて、
・節婦はニ夫に見えず
・忠臣はニ君に仕えず
・乙女であることに重きが置かれた時代がありました。
同じように天皇を祭り上げ殺戮の戦争を神聖化した時代
坂口安吾はここから堕落という形で抜け出せと言います。
だれもが価値の規範を失い迷っていた戦後、この論評に目の前の霧がはらわれた人も多いのではないでしょうか。

答え 賛同します。
(2)テンポよい文章で読みやすくはありました。
坂口安吾初読みにて時間の都合課題の2作品のみ読んだばかりなので、その深部まで読み解けたかといえば自信がありません。
他作品、安吾自身の生涯や歴史的背景など鑑みながら彼の思想を紐解くとするならば、なかなか手強い作家だと思います。

ものすごい速読をしての感想
申し訳ありませんが、投稿いたしますm(__)m

遠藤さん 2023/6/9 18:50

今回初めて読ませてもらいました。
 難しいが、面白かった。
 天皇制批判が随所に出てくるが、彼らしくて説得力があった。

【堕落論】について
 日本人の正しき堕落の勧め、仕方であろうか?
 戦争は一部の強かな政治家によって、天皇を神と崇める戦略によって引き起こされた。
 武士道も、貞操観念も一部の賢い人間がそういう考え方をさせるべく編み出した『方法』なのだ。そしてそれに扇動され、日本人は墜ちて行くのだ。だがこれからの日本はこんな一部の強かな賢い政治家の術中に嵌ってはいけない。自ら自分の中に、天皇制や、武士道を確立しなければならない。
そうしないと正しく堕落できない。

【続堕落論】について
 日本が堕落したのは、農村文化をおざなりにして都市文化を取り入れた為だという見方がある。
 しかし、農村文化は、脱税し、耐乏精神によって何の発展も生まなかった。
 また天皇制へ話が戻るが、天皇を何とも思っていない人間に限って、権力が欲しくて、天皇を崇拝して見せ、その権力の笠を着ようとするものである。
 人間の本当の姿というものは、嫌なものは嫌だとはっきり言う所である。
 天皇制、武士道、耐乏の精神など、そんなものに左右されず、自らの意思で堕落する事によって、真実の人間に復帰できるのである。
 堕落によって生み出されるものの存在は大きくはないが、小さくもない。

 坂口の作家としてのバイタリティを二作で感じる事ができた。

(1)本編で、安吾は(太宰を含めてもよい)「平和な世の中では真価を発揮できなかったが、戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」と規定しましたが、この視点について、賛成されますか?反対されますか? どちらかに応答をいただき、その理由をお書きいただければ幸いです。

 作家がその真価を発揮するということとは何なのか? がイマイチわかりませんが、戦争終結と共に、溜まり溜まった坂口の鬱憤が爆発したのだと思う。あからさまな天皇制批判などを見ると、そう感じ取れる。

(2)坂口安吾記念館「風の館」を訪ねた時にたまたま出会った女性に、安吾の話を振ると「私は、とても安吾さんは ‥‥ スゴ過ぎて、いけません。もっととっつき易い作家さんを読んでいます」とのことだった。ちょっと思いがけなかったのですが、安吾はそんなにとっつきにくい作家なのでしょうか。ご意見をお伺いしたいです。
 とっつきやすい作家ではないと思います。
 かと言ってとっつきにくい作家でもない。
 平和ボケした世の中に十年に一度、坂口の本作を読む時期があってもいいと思う。

藤原芳明さん 2023/6/10 17:17

『堕落論・続堕落論』感想

1. 坂口安吾について(私の好きな作品など)
 私は坂口安吾(以下、安吾と略す)の作品を二十歳前後から夢中になって読み、その読書体験は私の精神に深く影響をあたえた。安吾の言葉を日常思い起こす機会は少なくなったが、やはり私の心の宝として存在し続けている。今回、本棚から茶色く変色した文庫本「堕落論」(角川文庫。昭和五十一年発行)を取って読みなおし、多感だった頃の自分を思い出した。
 私の愛する安吾の作品は以下の通り。
(1)評論・エッセイ
 『堕落論』『青春論』。とくに『青春論』にある宮本武蔵の話。武蔵のすばらしさとは六十数回におよんだ決闘がすべてである。勝つため、生き残るために凝らした創意工夫の必死さ、決闘のひとつひとつが武蔵の命をかけた作品だ。二十八歳で決闘をやめた後の武蔵など凡庸でつまらない、六十歳で書いた『五輪書』もボンクラだ、と安吾は言い切る。それにくらべて勝海舟の父親 小吉(勝夢酔)の自伝『夢酔独言』の精神の高さはすばらしい、と激賞している(私もこの書を読んだ)。

(2)小説
 『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』『いずこへ』。とくに『いずこへ』は安吾が二十九歳の自分を描いた自伝的小説で、女流作家 矢田津世子との苦しい恋愛を忘れるため彷徨する姿が感動的。

2.『堕落論・続堕落論』について
 私の浪人時代(約四十八年前)、次兄(五歳上)が「いまのお前が読むのにふさわしい」と薦めたのが安吾の『堕落論』だった。浪人経験者でもあった兄が言わんとしたのは、挫折し自己肯定感がどん底になったいまのお前にはこの本がよく「効く」だろう、ということだったのか。
 安吾のいう「堕落」とは、既存の「健全なる道義」(そのなかには武士道、天皇制、滅私奉公の精神、教育勅語、婦道、耐乏倹約などの大義名分が含まれる)からの逸脱、転落を反語的に呼んだものと理解できる。その「堕落」を恐れず、自身が裸の原点に立ち戻り、まず「生活の必要」を尺度として自らの生き方を選択すること、それがこれまでの倫理観から外れたとしても、人はそのようにしてでも生きるほかない。敗戦によってさらけ出された「健全なる道義」の虚構性、その胡散臭さを内心うすうす感じながら信じたふりをしていた自己欺瞞。安吾の言葉は敗戦によって自分の中心軸を失い狼狽する日本人の胸を強く打ったのであろう。しかし「堕落」の道は必然的に社会の因襲的な道徳観(それは戦後も消えずに残っている)から後ろ指をさされる運命にあり、それは孤独を覚悟せざるを得ない道でもある。

3.課題テーマについて
(1)安吾の言葉が響くとき
 もし安吾が戦前戦中に世の中や時局に迎合的な発言をし、戦後の後知恵で『堕落論』を書いたのなら私は安吾を尊敬しないだろう。また同様に戦後生まれのわれわれが、戦時中の人々の言動を訳知り顔で批判するのも好まない(それはあまりに簡単なことだから)。しかし戦時中に発表された「日本文化私観」や「青春論」には、戦後の「堕落論」に通底する生きる姿勢や文化に関する考えが、ぶれることなく述べられている(もちろん発禁になるような天皇批判、軍部批判は避けられているが)。戦中からぶれない安吾の言葉だからこそ、敗戦の日本人に響いたのであろう。自己肯定感をぺちゃんこにされた日本人に、いまこそ裸の自分に戻るチャンスなのだ、過去の日本文化や伝統は燃えて消えてしまってもかまわない、これから生きる自分たちが創り出せばいいのだ、と安吾は訴えた。

(2)安吾の言葉の重たさ
 安吾は求道者(ぐどうしゃ)の如き厳しく孤独な存在である。上の課題テーマと関連するが、こちらが混乱し、迷い、弱っているとき(たとえば青春時代)、その思想は救いの言葉、励ましの言葉として響く。しかしこちらの生活が安定し、不満が減り、平和な日常が続くとき(たとえばおじさんになった後)、その思想は厳しすぎ、重すぎると感じるかもしれない。安吾の『堕落論』には、少し大げさかもしれないが、ニーチェの「生を肯定する哲学」にも通ずる思想があり、力(ちから)と毒が込められている。それは日常の安定と平和を切る刃物にもなり得、中高年にはもはや純粋すぎるのだろう。
 もっとも安吾には『不連続殺人事件』(推理小説)や『安吾巷談』『安吾捕物帳』などサービス精神を発揮した愉しい読み物もある。

池内健さん 2023/6/11 09:32

坂口安吾「堕落論」

みっとなくてもいいから、とにかく生きようぜ、というメッセージに、思わず体が熱くなった。「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」。安吾が現代に生きていたら、ロック歌手になっていたと思う。

勢い、逆接、はったり、偶像破壊……。タイトルに「論」とあるが、論文ではなくアジテーション、あるいは散文詩だろう。同じモチーフの文章の繰り返しも多いが、これはリフレインの役割。「続堕落論」では「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」とシャウトしている。

歴史に詳しいのでその援用も面白い。四十七士の処刑断行には「生き恥をさらし折角の名を汚す者が現れてはいけないという老婆心」があったとか、松永弾正が自害する直前に毎日の習慣どおり延命の灸をすえたとか。ちょっと笑える。

【課題テーマ】
(1)安吾は「戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」か
「堕落論」のヒットは戦後の混乱期に価値観の方向性を示したことによる。その意味で「本領を発揮」できたのは間違いない。安吾は「堕落論」で世に出たあと、「風と光と二十の私と」のような人間愛に満ちた小品や一連の歴史物などを書いて人気作家になった。戦後10年に49歳で死んだのは、忙しすぎて薬の力を借りるようになり、命を縮めた結果だ。「巷間の汚辱に満ちた世界」で生きる場所を失ったというより、才能と体力を搾取され尽くした果ての横死だと思う。

(2)安吾はとっつきにくい作家か
「堕落論」というゴツいタイトルの代表作を持つ無頼派の文豪、と聞けば、知らない人は怖じ気づくのが当たり前だ。また、「安吾風の館」を運営する新潟市は、様々な活動で新たな分野を切り開いている個人・団体を顕彰する「安吾賞」を主催している。そのため、同市内では安吾が何か非常に偉大な人物と受け止められていることも、もしかしたら敬して遠ざける一因になっているかもしれない。

石野夏実さん 2023/6/11 21:32

2023年7月読書会テーマ図書 坂口安吾作 評論『堕落論』
2023,6,11 石野夏実

ちょうど50年ぶりに再会の安吾でした。
もう1冊「青鬼の褌を洗う女」も読み直しました。文横の50号51号に書いた青春小説「なちゅれしばらく」に安吾ファンとして男子大学生を登場させています。
私の親友の恋人(その後結婚)がモデルですが、初対面で彼は「安吾ファンです。彼女を気に入った理由は安吾の『青鬼の褌を洗う女』の主人公のイメージにそっくりだったからです」と言ったのでした。

その時の安吾好きとユニークな風体の彼が気に入った私は早速[青鬼の〜]を買い読み始めましたが、お妾さんで贅沢好きなヒロインとどこが私の親友と似ているのか少しもわかりませんでした。
その後、何度もふたりに会っていますが、どこが似ているのか聞くこともなく、安吾話は終わっていました。
今回読み直し、口数少なくニコッと笑う彼女の笑顔が最高に好きだったんだなと、やっとわかりました。
50年前は「堕落論」が有名でしたのでついでに文庫を買って読みました。 
さて「堕落論」ですが、今回テーマ図書ということと内容はほとんど覚えていませんでしたので、新たな気持ちで読んでみました。

先日、もう手元に文庫はないだろうと本棚を探すこともせずkindleの青空文庫版で「続堕落論」を読みました。しかし何か物足りなかったので本棚に行きました。
そうしたら「きみの来るのを待っていたよ」とばかりに太宰の文庫と一緒にキチンと安吾も並んでいるではありませんか←入り乱れてくると夫が作者別仲間別に整理整頓する趣味あり、再会できて嬉しかったです。
奥付=角川文庫 堕落論 昭和32年5月30日初版発行 43年11月30日18版発行 45年6月10日改版7版発行 でした。定価は140円なり。
※かなりの売れ行き。しかも45年=1970年で改定版7版です!

さて、この課題本の感想です。まるで雄弁なアジテーターそのもので、安吾は激情型の作家なのだと思いました。もちろん史実も把握し提示しての抜群の説得力に圧倒されました。

間違ったことは書いていないので支持できるのですが、怒りの文学というジャンルがあれば、まさしくそれであろうと思いました。(この評論に関してだけです)怒りながら文章を書く、激情の人。気持ちいいほど決めつけができる人なので、すごいなあと。
しかし、書きすぎたかなと思うと少し優しさを混ぜている。。感も終わりの辺りにあり。

時の権力者によって祭り上げられ傀儡される「天皇」という存在。

ナンセンス!ナンセンス!とか嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!の怒り言葉の見事さよ!
しかし、怒りだけ書いて終わりなら戦後の評論の名著として「堕落論」は残っていなかったはずです。
「とことん堕落せよ そこから再生するには切ない人間の実相をまずもって最も厳しく見つめることが必要だ」がメッセージだと思いました。

道徳美徳の押しつけに合わせるのではなく、自分自身を発見し救済せよ!
欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ!
多くの人の心に届いたことでしょう。何もかもがなくなった敗戦からの出発に安吾の果たした役割は大きかったと思いました。

(1)本編で、安吾は(太宰を含めてもよい)「平和な世の中では真価を発揮できなかったが、戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」と規定しましたが、この視点について、賛成されますか?反対されますか? どちらかに応答をいただき、その理由をお書きいただければ幸いです。

=安吾の作品を多くは読んでませんのと戦争中に書いたものを読んでませんので〈1〉の返答にはならないかもしれませんが。。
先ず「真価を発揮」の意味がわかりません。27年10月に「文学界」に発表した素晴らしい評論「もう軍備はいらない」があります。今日見つけて読んだばかりですが、今日でも立派に通用する反戦評論です。その意味でも、担当者の視点には反対です。

また”太宰は戦争中、空爆下の東京で『お伽草紙』『新釈諸国噺』『盲人独笑』などの最高傑作を次々に生み出した。安吾は、敗戦を迎えるまでは無名といってもいい作家だったところ、敗戦から一年も経たない昭和21年4月に『堕落論』を発表して、一躍文壇に躍り出ることになった。価値観が180度ひっくり返って、どう生きていけばいいのか、人々が道を失っていた時期のことであった”と書かれていますので「戦争」ではなく「敗戦」ではないでしょうか。

文庫の年譜やwikiを読みますと、亡くなるまで薬物中毒や鬱病を繰り返しながらも作品発表はコンスタントに続けられていたと思います。短編や評論の流行作家として仕事はあったと思いました。
wikiで細かく人物紹介、経歴から作品紹介(柄谷行人、磯田光一の評価まで記載されている)がされていますので、読みごたえがありました。
「平和な世の中では真価を発揮できなかった」と書かれていますが、戦後の彼が生きた時代は、そんなに平和な時代だったのでしょうか、少々疑問に思えました。

彼の評論は彼の考えが如実に表れていますので無料kindleで「もう戦争は要らない」を読んでみました。現行憲法の素晴らしさを説いています。今でも立派に通用する反戦主義者の人です。時間不足、研究不足で安吾が戦争に行かずにすんだ理由を発見できませんでしたが、戦争不要を声高に訴えていたことはこの反戦評論でも強く書かれています。地獄のようなあの狂気の時代を繰り返してはならないということです。戦争に正統性はひとつもないと書き切っています。

※世の中の価値観が180度変わってしまい、全肯定から全否定へ、これまた極端な思想転換。誰も信じられない状況だったと純粋軍国少年だった吉本隆明も書いていました。私の両親も伯父伯母も「天皇制」のインチキ性に目覚め、もともと青春時代を繰り上げ卒業、学徒出陣、女学生は勤労奉仕で授業なしのパラシュート作りの日々。二度とあんな青春時代を子どもたちに送らせたくはないと、私の周囲の大人たちは口をそろえて言ってました。戦争を知っている人々も亡くなっていき、「憲法」と共に平和の日々を引き継いだ私たちには最近の内外の情勢を鑑みますとこの先が不安ですが、若い人たちに「不戦」「平和希求」の考えがもっと広がり継続しますようにと、声を上げ続けて生きていこうと思います。

(2)坂口安吾記念館「風の館」を訪ねた時にたまたま出会った女性に、安吾の話を振ると「私は、とても安吾さんは ‥‥ スゴ過ぎて、いけません。もっととっつき易い作家さんを読んでいます」とのことだった。ちょっと思いがけなかったのですが、安吾はそんなにとっつきにくい作家なのでしょうか。ご意見をお伺いしたいです。

=今は、決めつけることを多くの人は欲しない時代だと思います。きつい言葉も好まれません。私は好きですが。。
港さんは、私と同じ世代だと思いました。
私の大学もロックアウト期間が長くありました。いわゆる「全共闘」世代です。
合言葉は「ナンセンス!」「ナンセンス!」
まさか、昭和21年に坂口安吾が使っていたとは知りませんでした。何とモダンな人なのでしょう!と感嘆しました。

杉田尚文さん 2023/6/19 16:54

「堕落論」「続堕落論」坂口安吾
1.混乱の極致の中で本領発揮
賛成です。敗戦により、幼少より教育された教え(皇国史観)が否定された多くの人は混乱の中にあった。何も信じられない。そこに一つの座標軸を提供できたのが、坂口安吾であったと思います。「堕落論」の論旨は新しい教えとなり、今では古典となったと思います。
「文学のふるさと」は戦前に書かれたものですが、納得できる。混乱期でなくとも本領を発揮された方と思います。
2.「とっつきにくい」か?
読みやすいし、歯切れよく、論旨明解、よい文章と思います。全集を何度も読んで応えたいところですが、今回、初めて読みました。ご紹介いただきありがとうございました。
3.感想
・銀座のビル屋上の空襲のシーンは印象的です。銀座のイメージは華やかで、多くの人が幸福な晴れのシーンを共有しています。それだけに悲惨が際立っています。戦争を選んではいけないと強く思った。この本の価値はここにある。
・空襲警報が騒がしい。日本映画社の嘱託としては、避難はできず、ビルの5階から空襲を見ている。カメラマンは煙草をくわえ、あちこちに火災が発生している様子を映している。始めは石川島、次に麹町のお屋敷街、銀座のビルの四囲に焼夷弾がおとされる。ときおりの照明弾に人影は自分たちだけ。気づかれて狙われたら、命はない。恐ろしさに声は出ず、立っているのがやっとだ。昭和20年4月の空襲の描写が印象的です。3月は下町一体の東京大空襲により数万人が死んでいた。戦争犯罪だ。徹底的に叩きのめされたのだ。それでも8月まで、殴られ続ける。
・農村文化についての言及が面白かった。排他的、狡猾で、損得の執拗な計算が発達しているだけで、文化の本質である進歩のかけらもない。肉体の酷使耐乏生活など何も産まない。なるほどと思ったが違う。この方の見かたであろうが貴族的なのであろう。貴族的といっても悪い意味ではない。太宰のいう「選ばれたる者の恍惚と不安」と同種であり、宮沢賢治にはないものだ。
・「人類は永遠に続く、人間の一生は永遠の中の一滴」とは永遠はともかく一滴は真実だろう。永遠についてはどうしてそう考えることができるか説明が欲しい。一滴については、どこで、どうして、そう感じたのか例示があっていいと思う。
・進化の中で、世界をとらえる、人間をとらえるべきとあるが、さすがに古典にふさわしい認識と思う。どうしてそのように考えるに至ったかを、具体的に説明してほしいと思った。

野守水矢さん 2023/6/22 16:38

5-6月見学参加いたしました中川正広です。これからよろしくお願いします。

先月の回で開高健は初読だと申しましたが、坂口安吾も初読です。初読者の未熟な感想しか書けませんが、私見を披露いたします。
(1) 本編で、安吾は(太宰を含めてもよい)「平和な世の中では真価を発揮できなかったが、戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」と規定しましたが、この視点について、賛成されますか?反対されますか? どちらかに応答をいただき、その理由をお書きいただければ幸いです。
回答:反対です。
理由:「『戦争という混乱の極致の中で』、ではなく『敗戦と、それにともなう価値観の大転換の中で』本領を発揮することができた」のだと感じました。
世の中がひっくり返り、突然出現して人々を支配する新しい価値観と、かつて世の中を支配し、自分含め誰もが信奉していた旧い価値観。両者の間で、軸を失った自分自身の価値観が揺れ動く。葛藤して、翻弄されて彷徨う自分というカオス、世の中というカオス。信仰する新しい価値観が欲しいのに、手を離したはずの旧い価値観を捨てきれない自分を自覚する。迷いなんか捨ててとにかく、底なしに堕落することが再生の始まりなのだ。
苦しみながら堕ちきれない自分の矛盾と葛藤を吐露した作品なのだと思います。これが多くの人に読まれたのは、昭和21年当時、共鳴する人が多かったかなのでしょう。

(2) 坂口安吾記念館「風の館」を訪ねた時にたまたま出会った女性に、安吾の話を振ると「私は、とても安吾さんは ‥‥ スゴ過ぎて、いけません。もっととっつき易い作家さんを読んでいます」とのことだった。ちょっと思いがけなかったのですが、安吾はそんなにとっつきにくい作家なのでしょうか。ご意見をお伺いしたいです。

回答:よくわかりません
理由:
私が「とっつきにくい」と思っていた理由は「無頼派」という呼び方をのせいで、なんだか自分には合いそうもないなあ」と思って読まなかったのです。もともと「無頼派」「焼け跡闇市派」「戦後派」などという呼称は、レッテル貼りのような気がして好きではなかったせいもあります。レッテルを見るだけで値打ちがわかったような気がしてイヤになってしまうのです。
お会いになった女性は、作品を読んでの感想なので、私の思っていた「とっつきにくさ」とは質が違うのかな、と思います。

蛇足ながら、私はこの機会に初めて一冊購入したほか、図書館で借りて3冊読みました。読んでみると、とっつきにくい作家ではありませんでした。結構読みやすかったと思います。先入観はよくありませんね。
ところで、「桜の森の満開の下」は「スゴ過ぎ」ですね。でも、私はこのスゴ過ぎるくらいに鬼気迫る美しさに引き込まれました。
満開の桜に秘められた狂気と死。静寂と虚無。ですます調の文体が華麗に演出する鬼気迫る耽美の世界。坂口安吾が「堕落」の迷いを煮詰めた先に見つけたものなのでしょうか。そうだとすれば、これが「本領」なのでしょうか?

原 りんりさん 2023/6/24 13:55

坂口安吾 「堕落論」          原りんり

 1946年敗戦の翌年に発表された「堕落論」には、長い間の窮屈で閉塞された状況からの解放感が文章のそこかしこから溢れていて、読んでいて心地いい。天皇制絶対主義の軍国主義国家であった日本において、天皇のために死ぬことは美徳であり、鬼畜米英で隣組と称する相互の監視社会では、泥棒も存在できないほどの統制のとれた均一の価値観が“正義”であった。そういう“正義”から堕落して、善も悪も内包した人間として生きようというのが、「堕落論」の主要な趣旨ではあると思う。

 ただ、安吾が何を“堕落”と捉えていたのか、そもそも人間という生き物はどういう存在なのか、という根源的な“問い”については、なかなか簡単ではなく私には歯がたたないというのが正直なところだ。
 同じ年に発表された「白痴」という作品は、知的障害を持った女が突然転がり込んできて同居する話だが、主人公はこの女と肉体関係を持ちながらも人間扱いをしていない。ほとんど人間的な反応のないこの女は、はたして“人間”なのか、彼女を人間扱いしていない自分は、はたして“人間”なのかという問いかけを、安吾は堕落という言葉で投げかけている気がする。

 例えばやっと衆知されだしたLGBTについてだが、多くの人が他人事と思っている。そういう要素は、自分とは無関係なのだと思っている。次世代を生む男女のペアは太古の昔からというより動物として当然のごとく慣習化され制度化されてきた。しかしたとえばBLもの(若い男の子同士の恋愛もの)に“燃え”の女子達、宝塚歌劇団の追っかけのおばさん達に、同棲に対する特殊な感情は存在しないのか。例えば私の場合はゲイの人達は基本的に頭が良くて好きだが、若い男同士のキスは許せても汚いオヤジ同士のキスは嫌悪してしまう。ゲイのただの日常なのに、だ。
 私は差別などしていない、と思っていても、この嫌悪感、気持ち悪いなるべく近づきたくない排除の論理、そういうものが自然と自分の中で働いてしまう。人間の本源的な闇の部分は、頭で考えた観念とは時に離反する。安吾が「白痴」で書いた“問い”はそういうことなのではないかと考えている。

 ついでというわけではないが、「日本人は最も憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう」(p8)という日本人論についての指摘は、もの凄く鋭く先見的であると思う。これについては、またどこかで語りたい。

原 りんりさん 2023/6/24 21:56

一部、誤字がありました。「同棲」ではなく「同性」です。訂正お願いします。

金田清志さん 2023/6/27 05:39

感想

一読して、坂口安吾、日本論、のように思えた。
若い頃に読んだが、戦争直後の開放感が感じられ、思う事をなんの束縛もなく自由に書いているとの印象だった。

作者の言う「堕落」とはどう云う事なのか、具体的に読み取れなかったので、短いので3度読んだが、やはり読み取れなかった。
長生きすれば「堕落」なのかとも思えるが、云っている事はどうもそうではない。

天皇についても、戦前戦中なら絶対に書けなかった内容だろう。
「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉が結局大学を追われたのをみれば、まさに世の中は全く変わってしまったのだ。
「半年のうちに世相は変わった。」で始まる堕落論は当時の読者に大きな刺激を与えたに違いない。
知識人の混乱がみえるようだ。

日本における天皇論をこのように論じた事は、戦前・戦中の天皇像が染みついた一部の人達にとって衝撃的な書だと推察する。

成合武光さん 2023/6/27 20:56

堕落論・続堕落論』 感想 
 初めて読んだのは、20歳の頃か。小・中・高の学制から解放されたという喜び、開放感は自由になったという喜び。それが一番でしょう。そのころ、この本をなんとなく耳にして読んで見た。「好きに生きればいいのだ」そんな感想だったと思う。当たり前のような気がした。
次は30代の頃か、いろんなところで『堕落論』を耳にする。そんなに良かったかなと、思ってまた読んだ。年配の人達や新聞、読み物などで聞き、読んだ戦後の世情に対する悲憤・旧軍部への怒り、悪態。それに拍車をかけるのでなく、理解し慰撫していると思った。
「誰にも事情がある。人生がある。恥や外聞を気にしなくてもいい」そんな感想だったかと思う。
2023年、文横の課題。「しつこいな」と思ったのが第一番。仕方がないと読みました。素晴らしい本だ。あの当時にあってよく書けたものだと、感嘆しました。
「ファルス」に強く同感しました。文学の根本、なぜ、何のために書くのかと、改めて考えさせられました。
課題への提案、或いは躊躇もあったのではないでしょうか、ありがとうございました。

大倉 れんさん 2023/6/27 22:39

坂口安吾 「堕落論」「続堕落論」 を読んで

坂口安吾をはじめて読みました。
文体がバロックの宗教音楽フーガ、カノンのようだと感じた。同じ旋律=この場合同じ趣旨が言葉や引用を変えて一文一文、段落ごとに重なり畳みかけてくる。が、音楽のように心地よくも受け入れたくもゆだねたくもならない。乱暴な印象が残る。戦後の混沌、コンプライアンスの転変を思えば安吾自身の感情、思考が猛々しく熱っしていての筆だったのかもしれない。しかし、そう慮っても、平和に堕落しきった暮らしをしている身には、消化しにくかった。
1について
「本領を発揮した」というより、時世にマッチしたのではないか。国としても個人としても尊厳を失い迷走している最中、ある一つの道筋を鮮烈に示したということではないか。どんな名作も生まれるべくして生まれた時代背景があると思う。
2について 
とっつきにくい。
今回の2作他併載の中の何篇しか読んでいませんが、断言が多く読むものの思考や想像、反論を受け付けない一方的文章と思った。

十河孔士さん 2023/6/28 16:57

すべてを失った敗戦後の焼け跡に立った時に見えたもの、考えたものを書いた評論。外界だけでなく、内面の荒廃、作者のいら立ちといったものが読みとれる。こういったところから戦後は出発したのだな、と思わせるものがある。

 戦争によりそれまで日本社会をおおっていた建て前や制度が音を立てて崩れはてた。すなわち武士道や天皇制(この制度への安吾の非難は苛烈だ)、耐乏の精神などが。
 しかし人はまた新たな道義=カラクリを創り出すだろう。でも、それは単にカラクリにすぎない、と作者はいう。日本と日本人全体に対するペッシミズムといったものが読みとれる。
 敗戦のゼロ地点に立った今、人はそれまでのさまざまな因習を逃れて「堕落」しなければならない。堕落するところまで堕落して「裸となって真実の大地へ降り立たなければならない」。それが「真実の人間へ復帰」する方法だという。
 だが、人間は弱く、堕落するところまで落ちるのはむずかしい。せいぜい生々流転するのみだという。個の日本人に対してのペッシミズム。

 敗戦から78年。あれから日本・日本人はいろんなカラクリを作ってきた。そうしたものを組み合わせ、積み重ねてできた現在の日本の社会は、安吾の目にはどう映るだろうか、と思う。

 坂口安吾は初見。「堕落論」「続堕落論」の安吾についてはわかったが、総体としてどういう人なのかは、不勉強でよく知らない。ただ、この2つの評論を読んで、論理や話題があちこちに飛躍しすぎていて、それが作者の主張を弱めているように思った。もっと落ちついた語り口ならよかったのではないか。

由宇(ふくしま)さん 2023/6/28 19:54

『堕落論・続堕落論』

(1)戦争有事化での安吾文学の意味

物語や論評にふれる時、著者の根本にある「感情」を想像しながら読みます。
文の良しあし、難解度にかかわらず、感情はシンプルであり普遍的だからです。
感情を読み解けば、著者とのある種の一体感に包まれます。(片思いかもしれませんが・・)

さて、堕落論。根差した感情は「怒り」かと思いました。
戦争、天皇制、軍事支配への批判がそう感じたのですが、どうやら違いました。

結論から言えば、怒りでも批判でもなく「人間応援(歌)」であり
戦争批判でもなく、むしろ戦争肯定しているように感じます。

すなわち。

堕ちてこその人間。
堕ちる環境としての戦争。

とう意味で、劣悪な環境をポジテイブに乗り切っていこう!

という賛歌だと感じました。

堕落論は高校のとき、初見し、心酔しました、血気盛んな頃、体制批判に
しびれた記憶があります。

年輪をへて、読み方、感じ方が異なる自分の変遷を測れました。
物差しとしての堕落論でした。

さて、世は変われど、時代は移ろいながらも。 人間の感情は普遍的です。 安吾はその真理の理解者だと言えます。

カラクリや支配しているものに「いつく」事無く、堕ちて自分を見つめよ。
さすれば、そこに美はある。

うーん、?の答え、賛成です。

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今なら、コロナ騒動をどう表現するのでしょうか、安吾さん。

(二)安吾はとっつきにくかもしれません、けど本質は顔にでますから
きっと穏やかな顔をしているでしょう。(答えになってませんね、すみません)
穏やかなヒトが私はすきです。

保坂融さん 2023/6/29 12:39

「堕落論」は遠いむかしの学生時代に「触れた」ことがあります。「堕落論」ということばからダダイズムの臭いを感じて本書を読み始めたが、面白くもないと途中で読むのを止めた記憶があります。
今回、ほぼ半世紀ぶりに読みましたが、安吾の熱情を感じましたが、「堕落」の、具体的に実行可能なインプリケーションが分かりません。「堕落論」は小説ではないのですが、例えば大塚久雄などによる戦後民主主義の受け止め方と比べると明らかにナイーブなものであり、小説のかたちでは、以前に読書会で取り上げられた大江健三郎の「飼育」にみるような戦後民主主義をシンボリックに描いたものとも異なっていると感じました。

和田能卓さん 2023/6/30 10:24

坂口安吾『堕落論』は、末尾近くの「堕ちる 道 を 堕ち きる こと によって、 自分自身 を 発見 し、 救わ なけれ ば なら ない。(坂口 安吾. 堕落論 (p.12). 青空文庫. Kindle 版による) 」をテクスト論的に自分に引き付けて読むとき、以前よりもかなり不自由になった我が身体ながら、歩みを止めずに生きてゆくのだと、決意を新たにさせる作品です。

 安吾作品は『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『風と光と二十の私と』『白痴』などが記憶にあります。

 課題本提案者の問いに沿わず、申し訳ありませんが、以上です。

(文学横浜の会)


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