「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年09月05日


「旧約聖書 ヨブ記」岩波文庫

<「掲示板」に書き込まれた感想>

池内健さん 2023/8/20 09:31

善良なヨブが神の理不尽な試練を受ける物語。因果応報ではないので、現世で苦しんでいる人にとっては、「自分が悪いから罰を受けている」と思わなくて済むという意味で救いとなる。また、「理屈を超越した、ただ従うべき存在」としての神を提示することで、バラバラになりがちな人々をまとめ、キリスト教社会の安定にも寄与してきたのではないか。人間は、他の人間に従えなくても、超越的な存在にならひれ伏すことができる。

Q1:神の前に腰砕けになった理由
世界を創造し、(定義によって)全能である神にヨブは圧倒された。

Q2:神が3人の友に怒った理由
神による(理不尽な)試練を(浅はかにも)因果応報で解釈しようとしたから。

Q3:幼児性丸出しの神の一面を示したこの本が、旧約に納められている理由 神は人間の理解を超えた(=理不尽な)存在だからこそ、ひれ伏すことができる。理屈(議論)によって考え方を変えるような存在であれば、畏れることはできない。

Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について
旧約においては原因と結果は必ずしも結びつかない。「a’:神慮は人間の考えの及ぶところではない。浅薄な考えなどせずに、神の意思に従うべき」という世界である。

Q5:人間が神を作ったのか
そう思う。神がいると考えれば、世の中で起きることを最もうまく説明できるので。科学は宗教より物理的な世界を理解するのに役立つが、「人間の心」という最も厄介な存在をコントロールするには力不足。

Q6:宗教=神が必要な理由
死後の世界がどのようなものかわからないから。死んだら意識も存在しなくなる可能性が高いと思うが、もしかしたら肉体を離れても意識が存続するかもしれない。その場合、神が存在すると信じていながら実際にはいないことによる損害(予想に反する神の不在は残念という気持ち)は小さく、信じなかったのに実際は存在することによる損害(地獄行き)の損害は甚大。賭けとしては、信じる方が有利である。

Q7:神が創造神であることを強調する理由
人間の(不十分な)理解力を補うため人格神を持ち出している。疫病を鬼の姿で描写した日本の絵巻もその一例。アインシュタインは「主なる神はたくらみ深いが邪悪ではない(Raffiniert ist der Herrgott, aber boshaft ist er nicht)」と言い、自然(宇宙)の法則は正しい筋道で考えていけば解明できるはずだと強調した。自然のすべてが解明された時、神は人間にとって不要になるだろう。だが、それは人間の尺度では測れないほど先のことだ。また、仮にすべての謎が解明されたとして、それは幸せな瞬間なのか。謎が何ひとつとしてない世界は、生きるに値しないのではないか。

港 朔さん 2023/8/23 17:58

【 一神教について 】

 一応通して読みました。そしてこれは、神がヨブに対して執拗に何回も災厄を与えて試す物語かと理解した。しかし自分の感性にはとても合わない。これほど執拗に人を試す、その意味がわからない。ここに書かれていることは、現在の日本の標準にあてはめれば、イジメ・パワハラを越えて、犯罪に認定されても充分な行為ではないかと思われる。ところ替われば品替わるとはいえ、その違いはとてつもなく大きいと思わざるを得ない。

 キリスト教に対する私の認識は、主体的なものではなく客観的なもので「現世界に存在する3つの一神教の一つ」というものです。三つの一神教とはユダヤ教・キリスト教・イスラム教を指す。それ以外に一神教というものが存在するのかどうかは知らないけれど、主なものはこの三つなのではないか。そして三つはお互いに関係がある。
 一神教はユダヤ教に始まる。数千年前の紀元前の時代に、迫害されたユダヤ民族を救済する教えとしてユダヤ民族の中に生まれた。このユダヤ民族の書として編まれたのが旧約聖書で、その教えは、迫害に苦しむユダヤ民族を唯一~であるヤハウェが救う、というものだと理解している。
 西暦紀元0年からしばらく経った頃、ユダヤ人の中に、ある人物(キリストと呼ばれる)が現れ、彼がユダヤ教の教えを大きく変えた。ある人物は「我々ユダヤの唯一~ヤハウェは、単にユダヤ人のみを救うのではなく、すべての人々を救うのだ」とした。この人物によって、ユダヤ教は一民族のための宗教ではなく、全人類のための宗教(世界宗教)となった。後に教徒等によって新約聖書が編まれ、キリスト教は旧約と併せて二つの聖典を持つことになった。
 7世紀にアラビアの砂漠に現れたマホメットは、キリスト教や他の思想・宗教をも合わせて自分の教えを説いた。そしてその新しい教えに従ってコーランを編んだ。これがイスラム教(あるいは回教・マホメット教)と呼ばれる宗教である。イスラム教の一番の聖典はコーランだが、他にも二次的な聖典があり、その中に旧約聖書と新約聖書も含まれているとのことだ。
 以上の変遷の過程で、唯一~の概念は変化しないが呼称は、ヤハウェ(ヘブライ語)→ゴッド(英語の場合)→アッラー(アラビア語)と替わり、最高聖典は、旧約 → 新約 → コーラン へと替わっていった。 (以上の認識ですが、もし間違っていればご指摘ください)

 【 キリスト教について 】

 私の周辺は、キリスト教は比較的身近な存在だった。幼稚園はカソリックで、朝礼と終礼では胸に十字を切るのが日毎のルーティンであった。誘われて街の教会に通っていたこともある。こちらでは十字を切ることはなかったが、ことある毎に賛美歌を合唱していた。プロテスタント系だったと思われる。
 聖書については、新約の「マタイによる福音書」を、ときに拾い読みをすることがある。自分はバッハ音楽愛好者なので『マタイ受難曲』については、通して鑑賞したことが何回かはあるから「マタイによる福音書」についてもある程度は知っている。散りばめられた教訓や警句は素晴らしいと思う。合唱の練習曲として賛美歌などもよく歌ったが、賛美歌のメロディーやハーモニーの美しさは楽しめても、歌詞の方はピンと来なかったので、歌詞の意味は考えずに歌うことが癖になった。そのためだろうか、歌全般は今でも好きだが歌詞を覚えることはどうも苦手である。

 以上のように、聖書は拾い読みをしたことはあるが、いずれの項目についても最初から最後まで通して読んだことはなかった。一方、聖書はヨーロッパ文化にとって重要な書物でもあるし、だから今回の『ヨブ記』はいい機会だと思ったので、最初から最後まで通して読む、という課題を自分に課してみようと思った。旧約聖書はユダヤ人の書である。過去にも少し読んでみたことはあるが、新約とは違って、全くといってよいほどに、内容には入っていけなかった。いい機会だから頑張ってみようと思った。
 予想通りこれは困難な作業であった。他の書物であればこのぐらいの量は少しの面白みでもあれば、ほとんど努力なしで読めるのだが苦しかった。ときに2頁あるいは3頁という読み方を重ねてやっと最後まで辿り着いた。
 文化の違いというのか、一神教は自分の素直な感覚ではどうしても「遠いもの」と感じざるを得ない。

【 宗教について 】

 世の中には、人間にとってはなんとも為し難い大きな現象があり、それらのものがときに大きな恵みをもたらし、あるときには大きな災厄をもたらす。ほとんどは地球規模の自然現象であるが、そんなものに対して古代人がどう感じどう考えたか、ということを考えてみる。
 人間には意志というものがあるから、世の中のすべての現象に意志を感じてしまう。地震・雷・大風・干害・水害などの自然現象に対しても、誰かの意志によって引き起こされたものだと、どうしてもそう感じてしまう。
 では誰の意志なのか? ‥‥ 人間にはどうすることもできない意志、大いなる意志 ‥‥ そこに神という目に見えないものを仮定することになり、またそのように仮定しなければ心を安んすることができない。とくに大きな自然現象によって、大きな災害を被ったりした場合、災害を避けようとして、その大きな意志に対して能動的にかかわろうとすることになる。大きな意志に対してかかわる(お願いをする)ことによって、不安定になった心を鎮めようとする。また、そうすることによって災厄を乗り越え、再び立ち上がるエネルギーを得ることもできる。
 災厄を何回か経験すると、災害が来る前に、未然に災害を防ごうとするようになる。そのためのお願いをする、という知恵を編み出すようになる。その場合、その大きな意志(=神)に対しては、対価を支払わなくてはならない、対価がなくては聞いてはもらえないだろうと考えるのは、思考の道筋として当然だろう。そして対価は大切なものでなくてはならない ‥‥ とても大切なもの ‥‥ そこに生贄というものが発案される。世界各地に生贄の習慣があるのは、そういうことなのだろうと推察される。

 しかし本当は自然現象には意志はない。とても肯定し難いことだが、そこに意志は存在しない。そこにはただ宇宙を支配する法則=なんの意志もなくなんの感情もない、ただ単なる物理法則が存在するだけだ。究極的には人間の存在そのものも物理現象の産物なのだけれど、意志というものを持ってしまった人間にとってみれば、単なる自然現象=なんの意志もなくなんらの感情もない、そんな現象の結果で、大きな災厄をもたらす巨大な現象が起こるなんて、とても受け入れられない、とても信じられない。意志というか、意識というものの必然的な動態は、どうしてもそのように考えてしまうもののようである。

【 『ヨブ記』の思想について 】

 『ヨブ記』では、人を単純に善人と悪人に分け、善人は報われ悪人は裁かれる、とする応報思想について議論を続けている。しかし解説を読むと、ここで議論されている応報思想はそんなに単純なものではなく、深い信仰の問題だということのようだ。p.224~225の解説においては「信仰における神中心と人間中心という問題、宗教における幸福主義の問題であり、人は神のゆえに神を信じるのではなく、結局は自己の利益のために神を信じるのだ」とある。そして「幸福主義を乗り越え、人間中心から神中心へ、また神のゆえに神を信じる本当の信仰へ」という道筋が説かれている。
 しかし以上はユダヤ教徒、あるいはキリスト教徒にとっての重大問題で、そうではない者(信仰のないもの)にとっては問題にはならない。

 単純な応報思想、つまり単純に「善人は報われ悪人は裁かれる」という思想は、いずれの世界にもあり、またいずれの人間にとっても関心の高いことなので、人々はずっと昔から考え続けてきた。そして長い歴史の間には考え方も少しは進歩したのか、現代においては単純に善と悪に二つに切り分ける、という考え方は少なくなってきているように感じる。単純な応報思想というのは、それを信じさせれば人を善に導くことができる、という社会的効用はあるが、残念ながら現実の世の中はそんなにめでたくはできていない。少しでも自分の頭を使って考え、自分の目を見開いて観察することのできる人ならば、応報思想が現実には為されていないことを容易く見破ることができるだろう。

 ヨブ記の作者は不明だが、作者がこの書を書いた意図はわかる気がする。この書は、無条件に絶対的に神(ヤハウェ)を信仰するように仕向けるための書という気がする。迫害されていたユダヤ人が生きる道は、まず団結することであっただろう。そのための紐帯がユダヤ教であってみれば、それを強固にすることが民族を救う道だった。作者はそのことをよく理解していたのだと思う。つまり旧約聖書とヨブ記は、あくまでユダヤ人の書なのである。課題提出者のQ1〜7に応えるということは、このヨブ記に巧みに仕組まれたユダヤ教の精神的策略の迷路に嵌っていくように思われる。私は信者ではないので応えにくいし、応えたくない。わがままを許していただきたい。
( 以上 )

原 りんりさん 2023/8/24 12:02

この機会に、一度旧約聖書なるものを読んでみようとチャレンジしましたが、失敗しました。普段からあまり“神”に縁のない生活をしているので、文章そのものが入ってきませんでした。私自身は“神”には懐疑的ですが、宗教そのものは、なくならないと思っています。ただ、一神教はそれ同士が対立する要素を持っているので、できれば世界は多神教で賑やかに穏やかに進んでほしいと思っています。ヒンズー教なんてほんとに馬鹿っぽくて楽しいし、日本の神道もあちこちに色々な神が存在して、人々を敬虔な感情へと誘います。天皇はそのトップにたつ神官です。
 質問には全く答えられませんが、新訳聖書の方に「ヘブル11章」というのがあって、「主、その愛する者を懲らしめん」という文章があるそうです。「ヨブ」の困難に対する答えなのかもしれないと思いました。

 余談ですが、今回の池内さんと港さんのコメントは、とても勉強になりました。コピーして保存したいくらいです。

金田清志さん 2023/8/25 06:34

感想

外国の小説を理解するには、或いは西欧諸国の考え方やイスラム諸国の考え方を知るにはその国の文化を知る必要がある。その国の文化とはまさにその国の歴史であり宗教と密接に関係している。或いは宗教は人間の幸せ・安心の為のものなのに、宗教が関係した争いが生じているのは何故なのか。
そうした考えで聖書の類やイスラムについての書物を読んだ事がある。若い頃だ。

そういう事で、当方の視点で「旧約聖書 ヨブ記」を初めて読みました。

まず、提案者は「読みやすい」と言いますが、当方には読みにくかった。
理由はまずこうした書物に疎い事と、漢字をどう読むだらいいのか戸惑う事も度々で、これは当方の漢字力の無さなのかもしれないが。

以下、当方の視点で読んだ感想です。

主人公のヨブは今でいう、資産家で特権階級です。ヨブの資産、羊や駱駝、牛等と共におびただしい僕碑(ぼくひ)、とあります。僕碑とは奴隷、使用人の類と思われ、今でいう一般人と想像されて、この宗教は特権階級のものだったのだろう。
だとすればユダヤ教から派生したキリスト教がローマ帝国の貴族内で信者を増やし、皇帝をも信者にして、ついにローマ帝国の国教になり、それから圧倒的に信者数を増やした背景も理解できる。

労働は苦役だとして嫌う考えが西洋には見受けられるが、労働は僕碑が行うものとの考えが根底にあり、「ヨブの弁論」からもそれは感じられるが、そのまま西洋思想の根底に残っているのだろうか。

証人とか保証とかの語彙がこの時代にあり、裁判に勝てば正しい、と言う発想の根源はもうこの頃からあったのか?

この書物に限らず宗教的な書は内容が哲学的で、断定的なもの言いや曖昧な記述もあり、恐らく教祖の言葉であれ、教えであれ、誰かが何年か、或いは何十年も経って書いたからだろう。
その解釈によって、特に一神教においては様々な問題が今になって生じているのも明らかだ。

内容的にはヤハウェを他の神に置き換えても読めると思う。

と言う事で、以上が一読した宗教素人の当方の感想です。
内容を理解したとは思っていませんが、何度も読む気力もありません。

里井雪さん 2023/8/25 13:27

「ヨブ記」について

 異世界物やSFを書いている私ですから、聖書を「ネタ」として使っています。その延長線で書くと、宗教の専門家から顰蹙を買うのでは? 不謹慎と思われるのでは?

 ですが、そもそも、ここは神学を論ずる場ではありません。ならば、J.P.ホーガン「星を継ぐもの」のように、フィクションを創る者の発想でもいいかな?

 聖書を、誰かは知らねど、人、ホモ・サピエンスが書いた物語として考察してみたら、という観点で書いております。失礼は平にご容赦を。

>Q1:神が姿を現した時、ヨブは腰砕けになったのはなぜか?
 この時点で、ヨブは無謬、完全な人です。もしここで、ヨブが神に論戦を挑んだなら、神を論破してしまうのではないでしょうか。そんな結末にはできないので、やむを得ずデウス・エクス・マキナとした。

>Q2:ヨブとの対話の後で神は「わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」と言う。
 3人の友を非難することで、間接的に神もヨブが正しいことを認めた、ということではないでしょうか。

>Q3:「ヨブ記」では神はヨブの疑問にちっとも答えていず、何にも解決していない。信仰を篤くするのに役立つのか?
 信仰を篤くするのには役立たないが、答えてしまうと、信仰を否定することになりかねないのでは。そもそも「ヨブ記」は因果応報への疑問、正しい人が、なぜ幸せになれないのか? を考察するものだと思います。ところが、物語を書き進めるに従い、その答えが信仰に反すると、作者自身、気付いてしまったのでは?

 創世記に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。すなわち、神は人を「特別扱いしている」というのが大前提です。しかし、ヨブの疑問に真っすぐに答えるとすれば、神は人という卑小な存在になど関心がない、ということになってしまわないでしょうか。

 あなたは、今、踏んづけてしまった、靴の下の蟻を悼みますか? 神が宇宙を創った存在、とてつもなく大きな存在なら、一人の人の理不尽な不幸にまで注意を払うでしょうか。この言い方は、神が全知全能であることを否定してはいますが。

>Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について、どう思うか?
 私は、
>〔否定論〕原因と結果は必ずしも結びつかないという思想。「誰の上にも雨は降る(マタイ5-45)。」
> a’:神慮は人間の考えの及ぶところではない。浅薄な考えなどせずに、神の意思に従うべき。ヨブもそうあるべき。
 の立場です。神と人は大きく価値観の異なる存在だと思います。

>Q5:神は自分に似せて人間をつくったといわれるが、実は逆ではないのか? 人間が神を作ったのではないか?
 「人間が神を作った」は、神は人の創作物であり、いない、という意味でしょうか? であるのなら、私の答えはノーです。

 ・自分の病気、愛する人の不運な死、多くの人が亡くなるような大事故も神の意思であり、……偶然に意味を与えて必然に変換できるのだ。(スティーブン・ホーキング)

 ・生物は、偶然によって生まれたとはとても考えられず、みごとに『デザイン』されているように思われる。(リチャード・ドーキンス=進化論学者)

 私は後者に賛成です。人という生物学的に複雑極まりない存在が、ダーウィンのいうところの、突然変異と淘汰「だけ」で、生まれるでしょうか?

 さらに言えば、宇宙そのもの、この営みの全てが偶然「だけ」で成り立っているのでしょうか? 宇宙の誕生?終焉までに繰り広げられる膨大な数の物理現象の中に、一つや二つ、何者か、すなわち、神の意図的な干渉があったとして、特に不思議はありません。そんなものが一切ないにも関わらず、今のような人、地球、宇宙があるというのは、あまりに出来過ぎで、むしろ不自然さを感じます。

 もちろん「信じている」というのではなく、神がいる確率は「それなりに高い」と思っているだけです。

>Q6:人間は開闢以来、ずっと神と共に生きてきた。19世紀以降「神は死んだ」と言われても、信じることをやめようとしない。人間はどうして宗教=神を必要とするのか?
 まず、ニーチェの「神は死んだ」は神の存在を否定するというより宗教批判だと思っています。宗教は神の代弁者か? という点について、私は少々懐疑的、すなわち宗教≠神です。

 ですので、宗教というものが、絶えることなく続いている理由は「宗教はアヘンなり」に過ぎない、と思っています。

>Q7:ここでは神≒自然。人格神である「神」を持ちださなくても、「自然」だけで成り立つ論法ではないのか?
 ここは、神≒自然ではなく、神が自らの創った自然を自慢した、とストレートに解釈した方がいいと思います。自然≒神としてしまうと、その神は、アニミズムの神です。今まで議論してきた神は、なんらかの意志を持った存在、象徴的な意味で人格神であるべきではないかと思います。

 ただ、山が御神体だったり、自然を畏れる日本的な神、私は大好きです。人類を特別な存在と考え、さんざん環境破壊をした挙句、今更ながらのSDGs、いい加減にしてくれ! と思ってしまう今日この頃です。

野守水矢さん 2023/8/25 14:43

―A:最初に、テキストに関しての参加者全員の発言。(以下の質問への回答を適宜おり交ぜながらの全体的な感想。いつものように順繰りに発言してもらう。短く、まとめて。)
Q1:神が姿を現した時、ヨブは自分の疑問を投げかけず、言いたいことも主張しなかった(P.153、P.160)。腰砕けになったのはなぜか?この対応でよかったのか?

A1:ヨブは敬虔で、神を崇敬しているから。臣下が君主に反対しないのと同じで、ヨブにとっては、自然な対応だと思います。
  ディスカッションは、対等の立場で発言しないと成立しないから、この対応でよかったのか、というより、これしか対応の仕方がなかったのだと思います。ヨブの敬虔さを示すエピソードとして理解しました。

Q2:ヨブとの対話の後で神は「わたしの怒りは君と君の2人の友人に対して燃える。君たちはわたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」(P.162)と言う。この文をどう理解するか?

A2:友人が自分のことを棚に上げて、自分よりも敬虔なヨブを、固定観念で避難したからだと思います。ヨブは、自分が敬虔であることを語ったが、友人はヨブは敬虔ではないと責めています。ヨブが敬虔であることはp10他で、神は認めています。

Q3:旧約聖書はそもそも、ユダヤ人が民族神ヤハウェへの信仰を篤くするために存在したもの。「ヨブ記」では神はヨブの疑問にちっとも答えていず、何にも解決していない。そしてその未解決は今日まで続いている。
 ユングはその著「ヨブへの答え」で、強権を発動するのみで頑是ない神は「ある意味では人間以下」であると断ずる。それならばなぜ反省することをしない幼児性丸出しの神の一面を示したこの本が、旧約に納められているのか? 信仰を篤くするのに役立つのか?

A3 :私にはユダヤ教の知識がなく、ユダヤ教の思考ができない上、ユングの著作を読んでいないので言及できません。「神の幼児性」には違和感があります。

Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について、どう思うか?
〔肯定論〕原因と結果は結びつくという思想。
 a:「ヨブは神を畏れる全き人であり、神からひどい仕打ちを受けるいわれはない。ヨブが神に挑戦しようとしても当然だ。神が“契約”を破ったのだから。」裏を返せば「ヨブが災禍を被ったのは何か罪を犯したからだ。」
 b:「人は神の故に神を信ずるのではなく、結局は自己の利益のために神を信ずるのだ」(P.225)

〔否定論〕原因と結果は必ずしも結びつかないという思想。「誰の上にも雨は降る(マタイ5-45)。」
 a’:神慮は人間の考えの及ぶところではない。浅薄な考えなどせずに、神の意思に従うべき。ヨブもそうあるべき。
 b’:人は自己の利益のために神を信ずるのではなく、神であるが故に神を信ずるべき。

A4:旧約聖書の世界観は「否定論」なのでしょうね、神の、人智では理解できない超越性を説いているのだから。しかし最後に、ヨブが、神との対話によって、神の超越性を納得したので(原因)神はヨブに報いられた(結果)のは、「肯定論」だと思うのですが、いかがですか。

―B:テキストを離れての議論。(次に、以下の質問に関する回答を含んだ、参加者の挙手をしての発言。)
Q5:神は自分に似せて人間をつくったといわれるが、実は逆ではないのか? 人間が神を作ったのではないか? これについてどう思うか?

A5: これは「人間は神の不完全なレプリカなのか、神は人間の想像の産物なのか」という問いですね。創造説は信仰の問題だから、私にはなんとも答えられません。私自身は、「神は人間の想像の産物」だと思っていますが、「神に似せて人を作った」という信仰を否定しません。でも、学校で進化論を教えるなと言われると、さすがに引いてしまいます。

Q6:人間は開闢以来、ずっと神と共に生きてきた。地球上どこにいても、文明が進んでいる、進んでいないにかかわらず。結果として世界には神がひしめき合っている。19世紀以降「神は死んだ」と言われても、信じることをやめようとしない。人間はどうして宗教=神を必要とするのか?

A6:科学が天地創造説を否定しても、地上に不条理がはびこっても「それでも神は生きている」のが「信仰」だと思います。今、防空壕で祈りを捧げている人に、神は安らぎを与えてくれています。その人たちには、神は確かに生きていることでしょう。自分が本当に惨めで辛いと思ったときに、救いになるのは信仰のような気がします、たとえそれが、絶対的存在であれ人の心が創造したものであれ。

Q7:神は自分の偉大さをヨブに言う時、自分が創造神であることを強調している。自然とそこに住むもろもろのものはかくも完全で美しい。その自然を作ったのは自分なのだから、自分は完全で美しい、という論法。ここでは神≒自然。人格神である「神」を持ちださなくても、「自然」だけで成り立つ論法ではないのか?

A7:ヨブ記は、創造神が出てこないと説話にならないと思います。
ヨブ記を離れて考えると、「神とは無関係に、自然は美しい」は成り立つと思います。現実には、神も自然も、「美しい」だけでなく「厳しい」時もありますが。
(以上)

上終結城さん 2023/8/27 00:51

1. はじめに
 はじめに、わたしは親の代からのクリスチャン二世(プロテスタント系)です。今回の課題である『ヨブ記』は少なくとも一度は読んでいるはずですが、今回あらためて読みました。『ヨブ記』の概要、あらすじ、神学的意義などはこれまでもぼんやり理解していましたが、十河さんの課題説明の文章を読んで復習しました。クリスチャンといっても特別な人間ではありません。また「ガチクリ」(「ガチガチのクリスチャン」の意味と里井さんに教わりました)でもありませんし、どちらかと云えば柔らかいこと(エロいことを含む)が好きな方です。ですから文横メンバー内でのキリスト教に対する疑問、宗教批判、キリスト教批判等、まったく問題ありません。文横内で遠慮なく自由にトークしてください(笑)。さて、今回の課題とは離れるかもしれませんが、以下にいくつかコメントします。

2.なぜこの世に「悪」や「不条理」が存在しつづけるのか
 ヨブ記はヨブ個人に起こった艱難を扱っていますが、問題を少し普遍化して、「もし全能の神が本当に存在するなら、なぜこの世に悪や不条理(例えば、戦争、ホロコースト、幼児虐待、大災害など)がなくならず、人間は苦悩しつづけるのか。神はなぜこれらの災いを起こるに任せ、沈黙しているのか」という問いを考えてみます。
 結論から言えば、この問いに対する神からの答えはなく、人間には解くことのできない永遠の謎だと思います。あのイエスですら、十字架上の受難のさなかに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章)と訴えたくらいです。この「なぜ?」は人間には到底答えられない問いです。

3.あるユダヤ人の記録  ヴィクトール.E.フランクル(ユダヤ人精神医学者)の『夜と霧』(1947)という著書があります。アウシュヴィッツ強制収容所での体験を精神医学者の視点から記録したものです。二十歳のときに読み、いまだにときどき読み返す、わたしがこれまでで最も感動した書物のひとつです。人間はここまで恐ろしいことができるのか、しかしその極限状況のなかでも知性と信仰を持ち続けた人間がいたのか、…『夜と霧』はわたしにとって人間理解の幅を劇的に広げた書物でした。
 フランクルはアウシュヴィッツという史上最悪の地獄を体験し、奇跡的に生き延び、ついに収容所から解放されました(収容所のどこかで彼の母と妻は死にました)。彼はその著書の最後に、解放された後の感慨を「かくも悩んだ後には、この世界の何ものも…神以外には…恐れる必要はない」と締めくくっています。自分およびユダヤ民族がこうむったこの絶望的な不条理を体験してなお、フランクルは神を呪い憎むのではなく、むしろ神を「恐れる(畏れる)」と言っているわけです。これがユダヤ人、というよりフランクルの信仰だったのでしょう。すなわち自分に幸福をもたらすから信じる(幸福主義、人間中心)のではなく、たとえどのような艱難をこうむろうとも「神ゆえに畏れ、信じる」(神中心信仰)ことなのでしょう。
 というわけで、わたしは『ヨブ記』を読んで『夜と霧』を思い出しました。ヨブは神へずいぶん不平、不満を訴えていますが、フランクルは何も言っていない点が印象的です。

4.人間の救済について
 ここで話がすこし宗教っぽくなるのをお許しください。旧約聖書の世界ではまだ救世主は登場しません。ユダヤ教に詳しくないのでよくわかりませんが、ユダヤ教ではイエスを神の子 = 救世主と認めていませんから、いまでも救世主を待望しているのかもしれません。
 キリスト教(カトリック、プロテスタント共通)の立場では、イエスの十字架上の死が人間救済の唯一の根拠であり、その死によって人間の罪が贖(あがな)われたと考えます。
 数代前の教皇ヨハネ・パウロU世がその著書『希望の扉を開く』(2000。新潮文庫)の中で以下のように述べています。
「神は全能者としてふるまうことを放棄し、地上を人間の自由意思による営みに委ねた。その結果発生する悪、災害、不条理に対し、神はあたかも無能者のようにふるまうことを選択した。その象徴が、弱い人間としての屈辱的な死に方をした十字架上のイエスの姿である。しかしその姿は同時に、苦しむ人間に寄り添い、ともにその苦しみを共有する神の連帯の証しである。」

5.信仰について
 キリスト教についてどれほど知識があっても、「信仰すること」との間にはやはりおおきな隔たりがあると思います。わたしの場合を考えても、たとえクリスチャンホームに育ちキリスト教に対する偏見はなかったにしても、2000年も昔、パレスチナ地方にいたひとりの青年がはるか離れた日本のこのわたしの救い主である、と信ずるにはかなりの飛躍が何段階も必要だったでしょう。これはわたしの個人的感想ですが、このような飛躍が起こるためには、なんらかの「霊的体験」(神の存在を実感する出来事)とある種の「賭け」(見えないものに対する賭け)が必要なのだと思います。

6.人間の歴史と宗教
 最後に人間の歴史における宗教について考えます。
ユヴァル・ノア・ハラリ(イスラエル人歴史学者)の『サピエンス全史』(2011。河出書房新社)によると、人類種のなかで唯一生き延び繁栄できたホモ・サピエンス(現生人類)には、現実以外の事物すなわち「虚構」を想像し、他人と共有できる特殊な能力があったと言います(なぜその能力を獲得できたかは不明)。「虚構」には例えば噂話、神話、宗教、貨幣の価値、企業理念、国家の概念、などが含まれます。
 われわれホモ・サピエンスはこの能力のおかげで、その虚構(幻想)を共有する多数の人間(赤の他人)と協力して、大勢(例えば百人以上)の集団をつくることができたと考えられます。一方、ネアンデルタール人は血縁関係を中心にした数十人規模のコミュニティしかつくらなかったようです(遺跡の研究から判明)。ハラリはこの「虚構」の共有によって大きな集団をつくる能力こそ、ホモ・サピエンスが他の人類種を淘汰できた鍵と言っています。
 さてクリスチャンのわたしがそう言ってしまっていいのか疑問ですが、ハラリの本によると宗教は「虚構」の典型です。宗教は、最初アニミズム(人間は自然の一部)、つぎに多神教(世界は神と人間が支配)、そして多神教のなかから一神教(宇宙の至高の唯一神)が発生したとされます。多神教から二元論(善と悪)の宗教も生まれました。
 この善悪二元論なら、この世に悪がはびこる理由を説明しやすいでしょう(いまは悪が善よりも優勢とか。ヨブ記でも最初の散文パーツに敵対者(サタン?)を登場させています。この方が物語にしやすかったのでしょう)。しかし一神教では「完璧に善いはずの神が悪を許す理由の説明に四苦八苦している」とハラリはやや皮肉っぽく言っています。ここで「なぜこの世に悪や不条理があるのか?」の問いにまた戻るわけです。(ハラリはイスラエル人ですがユダヤ教かどうかはわかりません)

成合武光さん 2023/8/30 15:44

『ヨブ記』  感想
「初めに神ありき」これは真実であるかもしれません。しかし、全てが神の御業であるから、全てにそのまま服従するというのには従えない。「信じる」と言うことをどの宗教でも、初めに持ってきますが、同意できません。
 その不満は一般的に誰もが語ることと同じで、殊更なものではありません。
 一切を神任せにして、一言の苦しさも述べないヨブに、疑問を感じ、読んでいて苦痛でした。これがキリスト教を世々累々と、人々に浸透させた力だろうとは想像します。
 待っていれば(信じていれば)、報われる。そのようなことがその人自身の中で、どれだけあるか。「待っていても来ないゴード」です。或いは過ぎて行ったのかも知れません。
 キリスト教(聖書)の中の英知・愛には素晴らしいものが沢山あります。それは否定しません。しかし、困った時の神頼みから少しも進めない私です。やはり日本人だから、かなと、思うときもあります。その時々の人の心に期待し、夢を持とうと思うのみです。
 元阿部首相暗殺事件は、一つの石つぶてだったかもしれません。だが、その深刻さを世に報せました。宗教には疎い私も、そこまで? と驚き、思わず「間違っている」と声に出ました。『天は味方せず』(文横54号)は言うに言われぬものを感じながら、何の材料、知識もないまま「違うぞ」と、どうしても言いたかったのです。それだけです。
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 今、鴎外の『かのように』を思い出しております。課題の提案ありがとうございました。

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