「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2023年09月05日
「旧約聖書 ヨブ記」岩波文庫
<「掲示板」に書き込まれた感想>
池内健さん 2023/8/20 09:31
善良なヨブが神の理不尽な試練を受ける物語。因果応報ではないので、現世で苦しんでいる人にとっては、「自分が悪いから罰を受けている」と思わなくて済むという意味で救いとなる。また、「理屈を超越した、ただ従うべき存在」としての神を提示することで、バラバラになりがちな人々をまとめ、キリスト教社会の安定にも寄与してきたのではないか。人間は、他の人間に従えなくても、超越的な存在にならひれ伏すことができる。
Q1:神の前に腰砕けになった理由
Q2:神が3人の友に怒った理由
Q3:幼児性丸出しの神の一面を示したこの本が、旧約に納められている理由
神は人間の理解を超えた(=理不尽な)存在だからこそ、ひれ伏すことができる。理屈(議論)によって考え方を変えるような存在であれば、畏れることはできない。
Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について
Q5:人間が神を作ったのか
Q6:宗教=神が必要な理由
Q7:神が創造神であることを強調する理由
港 朔さん 2023/8/23 17:58
【 一神教について 】
一応通して読みました。そしてこれは、神がヨブに対して執拗に何回も災厄を与えて試す物語かと理解した。しかし自分の感性にはとても合わない。これほど執拗に人を試す、その意味がわからない。ここに書かれていることは、現在の日本の標準にあてはめれば、イジメ・パワハラを越えて、犯罪に認定されても充分な行為ではないかと思われる。ところ替われば品替わるとはいえ、その違いはとてつもなく大きいと思わざるを得ない。
キリスト教に対する私の認識は、主体的なものではなく客観的なもので「現世界に存在する3つの一神教の一つ」というものです。三つの一神教とはユダヤ教・キリスト教・イスラム教を指す。それ以外に一神教というものが存在するのかどうかは知らないけれど、主なものはこの三つなのではないか。そして三つはお互いに関係がある。
【 キリスト教について 】
私の周辺は、キリスト教は比較的身近な存在だった。幼稚園はカソリックで、朝礼と終礼では胸に十字を切るのが日毎のルーティンであった。誘われて街の教会に通っていたこともある。こちらでは十字を切ることはなかったが、ことある毎に賛美歌を合唱していた。プロテスタント系だったと思われる。
以上のように、聖書は拾い読みをしたことはあるが、いずれの項目についても最初から最後まで通して読んだことはなかった。一方、聖書はヨーロッパ文化にとって重要な書物でもあるし、だから今回の『ヨブ記』はいい機会だと思ったので、最初から最後まで通して読む、という課題を自分に課してみようと思った。旧約聖書はユダヤ人の書である。過去にも少し読んでみたことはあるが、新約とは違って、全くといってよいほどに、内容には入っていけなかった。いい機会だから頑張ってみようと思った。
【 宗教について 】
世の中には、人間にとってはなんとも為し難い大きな現象があり、それらのものがときに大きな恵みをもたらし、あるときには大きな災厄をもたらす。ほとんどは地球規模の自然現象であるが、そんなものに対して古代人がどう感じどう考えたか、ということを考えてみる。
しかし本当は自然現象には意志はない。とても肯定し難いことだが、そこに意志は存在しない。そこにはただ宇宙を支配する法則=なんの意志もなくなんの感情もない、ただ単なる物理法則が存在するだけだ。究極的には人間の存在そのものも物理現象の産物なのだけれど、意志というものを持ってしまった人間にとってみれば、単なる自然現象=なんの意志もなくなんらの感情もない、そんな現象の結果で、大きな災厄をもたらす巨大な現象が起こるなんて、とても受け入れられない、とても信じられない。意志というか、意識というものの必然的な動態は、どうしてもそのように考えてしまうもののようである。
【 『ヨブ記』の思想について 】
『ヨブ記』では、人を単純に善人と悪人に分け、善人は報われ悪人は裁かれる、とする応報思想について議論を続けている。しかし解説を読むと、ここで議論されている応報思想はそんなに単純なものではなく、深い信仰の問題だということのようだ。p.224~225の解説においては「信仰における神中心と人間中心という問題、宗教における幸福主義の問題であり、人は神のゆえに神を信じるのではなく、結局は自己の利益のために神を信じるのだ」とある。そして「幸福主義を乗り越え、人間中心から神中心へ、また神のゆえに神を信じる本当の信仰へ」という道筋が説かれている。
単純な応報思想、つまり単純に「善人は報われ悪人は裁かれる」という思想は、いずれの世界にもあり、またいずれの人間にとっても関心の高いことなので、人々はずっと昔から考え続けてきた。そして長い歴史の間には考え方も少しは進歩したのか、現代においては単純に善と悪に二つに切り分ける、という考え方は少なくなってきているように感じる。単純な応報思想というのは、それを信じさせれば人を善に導くことができる、という社会的効用はあるが、残念ながら現実の世の中はそんなにめでたくはできていない。少しでも自分の頭を使って考え、自分の目を見開いて観察することのできる人ならば、応報思想が現実には為されていないことを容易く見破ることができるだろう。
ヨブ記の作者は不明だが、作者がこの書を書いた意図はわかる気がする。この書は、無条件に絶対的に神(ヤハウェ)を信仰するように仕向けるための書という気がする。迫害されていたユダヤ人が生きる道は、まず団結することであっただろう。そのための紐帯がユダヤ教であってみれば、それを強固にすることが民族を救う道だった。作者はそのことをよく理解していたのだと思う。つまり旧約聖書とヨブ記は、あくまでユダヤ人の書なのである。課題提出者のQ1〜7に応えるということは、このヨブ記に巧みに仕組まれたユダヤ教の精神的策略の迷路に嵌っていくように思われる。私は信者ではないので応えにくいし、応えたくない。わがままを許していただきたい。
原 りんりさん 2023/8/24 12:02
この機会に、一度旧約聖書なるものを読んでみようとチャレンジしましたが、失敗しました。普段からあまり“神”に縁のない生活をしているので、文章そのものが入ってきませんでした。私自身は“神”には懐疑的ですが、宗教そのものは、なくならないと思っています。ただ、一神教はそれ同士が対立する要素を持っているので、できれば世界は多神教で賑やかに穏やかに進んでほしいと思っています。ヒンズー教なんてほんとに馬鹿っぽくて楽しいし、日本の神道もあちこちに色々な神が存在して、人々を敬虔な感情へと誘います。天皇はそのトップにたつ神官です。
余談ですが、今回の池内さんと港さんのコメントは、とても勉強になりました。コピーして保存したいくらいです。
金田清志さん 2023/8/25 06:34
感想
外国の小説を理解するには、或いは西欧諸国の考え方やイスラム諸国の考え方を知るにはその国の文化を知る必要がある。その国の文化とはまさにその国の歴史であり宗教と密接に関係している。或いは宗教は人間の幸せ・安心の為のものなのに、宗教が関係した争いが生じているのは何故なのか。
そういう事で、当方の視点で「旧約聖書 ヨブ記」を初めて読みました。
まず、提案者は「読みやすい」と言いますが、当方には読みにくかった。
以下、当方の視点で読んだ感想です。
主人公のヨブは今でいう、資産家で特権階級です。ヨブの資産、羊や駱駝、牛等と共におびただしい僕碑(ぼくひ)、とあります。僕碑とは奴隷、使用人の類と思われ、今でいう一般人と想像されて、この宗教は特権階級のものだったのだろう。
労働は苦役だとして嫌う考えが西洋には見受けられるが、労働は僕碑が行うものとの考えが根底にあり、「ヨブの弁論」からもそれは感じられるが、そのまま西洋思想の根底に残っているのだろうか。
証人とか保証とかの語彙がこの時代にあり、裁判に勝てば正しい、と言う発想の根源はもうこの頃からあったのか?
この書物に限らず宗教的な書は内容が哲学的で、断定的なもの言いや曖昧な記述もあり、恐らく教祖の言葉であれ、教えであれ、誰かが何年か、或いは何十年も経って書いたからだろう。
内容的にはヤハウェを他の神に置き換えても読めると思う。
と言う事で、以上が一読した宗教素人の当方の感想です。
里井雪さん 2023/8/25 13:27
「ヨブ記」について
異世界物やSFを書いている私ですから、聖書を「ネタ」として使っています。その延長線で書くと、宗教の専門家から顰蹙を買うのでは? 不謹慎と思われるのでは?
ですが、そもそも、ここは神学を論ずる場ではありません。ならば、J.P.ホーガン「星を継ぐもの」のように、フィクションを創る者の発想でもいいかな?
聖書を、誰かは知らねど、人、ホモ・サピエンスが書いた物語として考察してみたら、という観点で書いております。失礼は平にご容赦を。
>Q1:神が姿を現した時、ヨブは腰砕けになったのはなぜか?
>Q2:ヨブとの対話の後で神は「わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」と言う。
>Q3:「ヨブ記」では神はヨブの疑問にちっとも答えていず、何にも解決していない。信仰を篤くするのに役立つのか?
創世記に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。すなわち、神は人を「特別扱いしている」というのが大前提です。しかし、ヨブの疑問に真っすぐに答えるとすれば、神は人という卑小な存在になど関心がない、ということになってしまわないでしょうか。
あなたは、今、踏んづけてしまった、靴の下の蟻を悼みますか? 神が宇宙を創った存在、とてつもなく大きな存在なら、一人の人の理不尽な不幸にまで注意を払うでしょうか。この言い方は、神が全知全能であることを否定してはいますが。
>Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について、どう思うか?
>Q5:神は自分に似せて人間をつくったといわれるが、実は逆ではないのか? 人間が神を作ったのではないか?
・自分の病気、愛する人の不運な死、多くの人が亡くなるような大事故も神の意思であり、……偶然に意味を与えて必然に変換できるのだ。(スティーブン・ホーキング)
・生物は、偶然によって生まれたとはとても考えられず、みごとに『デザイン』されているように思われる。(リチャード・ドーキンス=進化論学者)
私は後者に賛成です。人という生物学的に複雑極まりない存在が、ダーウィンのいうところの、突然変異と淘汰「だけ」で、生まれるでしょうか?
さらに言えば、宇宙そのもの、この営みの全てが偶然「だけ」で成り立っているのでしょうか? 宇宙の誕生?終焉までに繰り広げられる膨大な数の物理現象の中に、一つや二つ、何者か、すなわち、神の意図的な干渉があったとして、特に不思議はありません。そんなものが一切ないにも関わらず、今のような人、地球、宇宙があるというのは、あまりに出来過ぎで、むしろ不自然さを感じます。
もちろん「信じている」というのではなく、神がいる確率は「それなりに高い」と思っているだけです。
>Q6:人間は開闢以来、ずっと神と共に生きてきた。19世紀以降「神は死んだ」と言われても、信じることをやめようとしない。人間はどうして宗教=神を必要とするのか?
ですので、宗教というものが、絶えることなく続いている理由は「宗教はアヘンなり」に過ぎない、と思っています。
>Q7:ここでは神≒自然。人格神である「神」を持ちださなくても、「自然」だけで成り立つ論法ではないのか?
ただ、山が御神体だったり、自然を畏れる日本的な神、私は大好きです。人類を特別な存在と考え、さんざん環境破壊をした挙句、今更ながらのSDGs、いい加減にしてくれ! と思ってしまう今日この頃です。
野守水矢さん 2023/8/25 14:43
―A:最初に、テキストに関しての参加者全員の発言。(以下の質問への回答を適宜おり交ぜながらの全体的な感想。いつものように順繰りに発言してもらう。短く、まとめて。)
A1:ヨブは敬虔で、神を崇敬しているから。臣下が君主に反対しないのと同じで、ヨブにとっては、自然な対応だと思います。
Q2:ヨブとの対話の後で神は「わたしの怒りは君と君の2人の友人に対して燃える。君たちはわたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」(P.162)と言う。この文をどう理解するか?
A2:友人が自分のことを棚に上げて、自分よりも敬虔なヨブを、固定観念で避難したからだと思います。ヨブは、自分が敬虔であることを語ったが、友人はヨブは敬虔ではないと責めています。ヨブが敬虔であることはp10他で、神は認めています。
Q3:旧約聖書はそもそも、ユダヤ人が民族神ヤハウェへの信仰を篤くするために存在したもの。「ヨブ記」では神はヨブの疑問にちっとも答えていず、何にも解決していない。そしてその未解決は今日まで続いている。
A3 :私にはユダヤ教の知識がなく、ユダヤ教の思考ができない上、ユングの著作を読んでいないので言及できません。「神の幼児性」には違和感があります。
Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について、どう思うか?
〔否定論〕原因と結果は必ずしも結びつかないという思想。「誰の上にも雨は降る(マタイ5-45)。」
A4:旧約聖書の世界観は「否定論」なのでしょうね、神の、人智では理解できない超越性を説いているのだから。しかし最後に、ヨブが、神との対話によって、神の超越性を納得したので(原因)神はヨブに報いられた(結果)のは、「肯定論」だと思うのですが、いかがですか。
―B:テキストを離れての議論。(次に、以下の質問に関する回答を含んだ、参加者の挙手をしての発言。)
A5: これは「人間は神の不完全なレプリカなのか、神は人間の想像の産物なのか」という問いですね。創造説は信仰の問題だから、私にはなんとも答えられません。私自身は、「神は人間の想像の産物」だと思っていますが、「神に似せて人を作った」という信仰を否定しません。でも、学校で進化論を教えるなと言われると、さすがに引いてしまいます。
Q6:人間は開闢以来、ずっと神と共に生きてきた。地球上どこにいても、文明が進んでいる、進んでいないにかかわらず。結果として世界には神がひしめき合っている。19世紀以降「神は死んだ」と言われても、信じることをやめようとしない。人間はどうして宗教=神を必要とするのか?
A6:科学が天地創造説を否定しても、地上に不条理がはびこっても「それでも神は生きている」のが「信仰」だと思います。今、防空壕で祈りを捧げている人に、神は安らぎを与えてくれています。その人たちには、神は確かに生きていることでしょう。自分が本当に惨めで辛いと思ったときに、救いになるのは信仰のような気がします、たとえそれが、絶対的存在であれ人の心が創造したものであれ。
Q7:神は自分の偉大さをヨブに言う時、自分が創造神であることを強調している。自然とそこに住むもろもろのものはかくも完全で美しい。その自然を作ったのは自分なのだから、自分は完全で美しい、という論法。ここでは神≒自然。人格神である「神」を持ちださなくても、「自然」だけで成り立つ論法ではないのか?
A7:ヨブ記は、創造神が出てこないと説話にならないと思います。
上終結城さん 2023/8/27 00:51
1. はじめに
2.なぜこの世に「悪」や「不条理」が存在しつづけるのか
3.あるユダヤ人の記録
ヴィクトール.E.フランクル(ユダヤ人精神医学者)の『夜と霧』(1947)という著書があります。アウシュヴィッツ強制収容所での体験を精神医学者の視点から記録したものです。二十歳のときに読み、いまだにときどき読み返す、わたしがこれまでで最も感動した書物のひとつです。人間はここまで恐ろしいことができるのか、しかしその極限状況のなかでも知性と信仰を持ち続けた人間がいたのか、…『夜と霧』はわたしにとって人間理解の幅を劇的に広げた書物でした。
4.人間の救済について
5.信仰について
6.人間の歴史と宗教
成合武光さん 2023/8/30 15:44
『ヨブ記』 感想
(文学横浜の会)
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2007 文学横浜