「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年10月10日


「火垂るの墓」サブ「アメリカひじき」野坂昭如

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん 2023/9/5 09:30

野坂昭如は小説家だとは知っていたが、どちらかと言うとCM関係の仕事をしているイメージの方が強い。TV CMでは本人が出てウイスキーやらタバコの宣伝をしているイメージが印象的である。
CM中挿入歌の哲学者(ソクラテス・プラトン・ニーチェ・サルトル)や文学者(シェークスピア・井原西鶴・ゲーテ・シラー)にたとえて、「俺もおまえも」悩んで大きくなった大物だと歌うものは子供のころ流行った。
職業不詳、ダンディで白の上下スーツ、サングラスというどこか業界人の典型で、型破りなイメージもある。
大島渚と殴り合いという芸能ネタもあった。その頃から酒癖の悪さが何かと話題になっていた。
常識をわきまえない酒癖の悪いどこか不良少年っぽい人なのかと勝手に思い込んでいた。

『火垂るの墓』は、ジブリ映画で観て知っていたが、原作を読むのは初めてである。
同じく『アメリカひじき』も初めて読んだ。両作ともに内容は対照的だが、読み応えのある作品であった。

【火垂るの墓】

 『火垂るの墓』が野坂昭如原作という事を知った時、イメージが繋がらなかったが、もしかすると彼のあの不良少年っぽさが生み出したストーリーなのかなとも感じた。
今回小説を読み、ウィキペディアで彼の生い立ちから人在を振り返って知った時、戦中戦後の食うに食えない食糧難の中生きながらえることの難しさを改めて知った。
 野坂の実体験による幼き妹の衰弱死、一人生きながらえた自分、彼はどうしても4歳で亡くなった幼き妹の兄に恨み言ひとつ言わなかった姿にそしてそんな妹をたった4歳の生涯しか送らせてあげられなかった自分に対してのレクイエムと自己への生涯の戒めの為に『火垂るの墓』を書かずにはいられなかったと自分は考える。
 彼の文章はどこか詩的であり、若干読みにくいところがある。
 だが却ってその詩的な表現が『火垂るの墓』では生きることの辛さや妹を守り切りたいという思いを生々しく伝える効果をなしていると思う。

【アメリカひじき】

 こちらは戦後20年を経たあるサラリーマン一家が外国人老夫婦をホームステイさせるコミカルな話である。
戦後間もなくの頃のアメリカ進駐軍に群がり「ギブミーチョコレート」と乞うた敗戦国日本の卑屈だった自分、20年を経てアメリカ老夫婦をホームステイさせても、その卑屈さは消えず、老夫にコールガールを紹介したりご機嫌取りをしている。
敗戦国の日本、その渦中にあった自分、自分の父を戦争で亡くし、アメリカに対して何とかしてぎゃふんと言わせてみたいと思っているのだが、その通りに物事は
進まない。
 むしろやればやるほど卑屈になっていく自分に気付き、自己嫌悪に陥るばかりである。
 野坂の文学は主人公の回顧や内面に志向が向けられており、その思いが野坂自身にも思えてきて笑える。
 日本人サラリーマンの小心ぶりが露呈されている。妻の最初の舞い上がりぶり、そして老婦人の横暴ぶりに振り回されて怒りを爆発させていく様は滑稽以外の何物でもない。実に読ませる作品である。
 タイトルの『アメリカひじき』がまたいい。
アメリカティーをひじきと勘違いして煮込んで食べる、それは到底食べられたものではなく、味も失われている。
 これはつまり日本人のアメリカに対する過大な思い込みと実態のへの幻滅が比喩されているのではないか?
そんなことを考えた。

 野坂昭如は昭和5年10月生まれということで、自分の母親と同い年である。
彼は思い立ったら即実践するタイプであり、実に様々な分野に顔を出しては挑戦することを忘れなかった。
彼は「エロ」について様々な自分の考えを記しているが、僕は彼の「エロ」表現が好きである。
 彼の生涯を眺めていると、「シンパシー」を感じてしまう。昭和のエロ親父は、どこまでも頑固で負けず嫌いで、思いやりのある男であった。

 母の四十九日を終え、昭和の激動の時代を一生懸命生きた母親世代をすごいと思うのである。

石野夏実さん 2023/9/15 14:24

2023.10.7読書会 野坂昭如作「火垂るの墓」 9.14 石野夏実

 大学3年生になった頃、文学部でもなく文学少女でもなかった私が、やっと生身の大人の小説に出会ったおかげで、読書の食わず嫌いがなくなった記念すべき一冊は、野坂昭如のデビュー作「エロ事師たち」〈63年)であった。
読み返すことがなかったためか、主人公スブやんの名前と仕事しか思い出せない。

 今回のテーマ本「火垂るの墓」は、野坂が67年度下期の第58回直木賞を「アメリカひじき」と共に受賞した作品である。
当時の次のもう1冊「骨餓身峠死人葛」(ほねがみとうげほとけかずら)も読んだはずであるが表紙絵だけを思い出し、内容は覚えていない。
何度もの引っ越しで、野坂の上記数冊の本は行方不明になってしまっていたようだ。
探せば出てくると思ったが、今回は日数もなかったので文庫本の中古で綺麗そうなものを早々に入手し読み終えた。「アメリカひじき」は、読み始めると内容を少し思い出したが、途中で読むのを止め完読していない。

 アニメの「火垂るの墓」はTVで何度か観ているが、最初から最後までじっと座って観たという記憶がないため、私には小説での細かい描写の方がリアリティーがあってインパクトも強かった。
しかしメッセージ性でいえば、アニメの方かなとも思う。
この話は野坂の実体験をもとに書かれているが、フィクションも多く、実際の妹(たち)とここでの妹=4歳の節子との年齢も違う。
細かい違いは多々あるが、伝えたいことが読者の心に届くことの方が、一番肝心だと思う。
これでもかと描かれる空襲や飢餓の様子。節子の衰弱と身体の悲惨さ。
親がいないなかでの14歳の兄の清太から4歳の妹への親代わりの愛情。ふたりで最後に暮らした真っ暗な防空壕の明り取りのために放ったたくさんの蛍。翌朝には半分が死んでしまう。蛍の墓を作る心優しい節子。
その節子が息を引き取り穴を掘り行李に遺体を入れ火葬した清太。ローセキのかけらのように細かく砕けていた遺骨を仕舞ったドロップの空き缶。
その清太は浮浪児として駅構内で野垂れ死にした。戦争がなければ,こんな悲惨な目にあうこともない異常な時代。二度と繰り返してはならない、反戦は野坂のライフワークであり生涯を通してのメッセージだ。

 野坂の小説で使われいるこの文体を何と呼ベばいいのかと思ったのであるが、私は「講談調」だとずっと思っていたが少し違うらしい。
この時の直木賞の選考委員は豪華メンバーで松本清張は「前回も推した。今回は『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』。饒舌体である」と評価している。なるほど、これを饒舌体と呼ぶのだと清張先生に教わった。
他の選考委員である水上勉も、海音寺潮五郎も大佛次郎も柴田錬三郎も「火垂るの墓」に感動したとベタ褒めであった。
大先輩の作家たちを押し並べて感動したと言わしめたこの小説は、戦争の悲惨さを語り継ぐ戦後の不朽の名作としてこれからも読まれ視聴され続いていくことであろう。

 興味深かったのは、落選組に筒井康隆と渡辺淳一の名前があったことだった。
もう一つおまけを書いておくと、昔、五木寛之との対談で、「僕たちの世代は歯磨きなんかしませんよ。シュワっと果汁が口に広がるリンゴをかじればいいんです」とふたりで意気投合していたのを50年ぶりに思い出した。五木寛之は野坂より2歳年下でもうすぐ91歳。今年も元気で各地の講演会に出かけているようだ。
 野坂の葬儀委員長を務め、その半年後に亡くなった2歳半年下の永六輔は「いちども喧嘩をしたことがなく早稲田の時から70年近い親交があった」という。

ハンサムではないけれど、女性にはモテたであろう風貌と貫く独自ダンディズム。
童謡の「おもちゃのチャチャチャ」は「エロ事師たち」の作家デビューと同じ年63年にレコード大賞作詞賞を受賞。
長谷川きよしや加藤登紀子も歌った野坂の持ち歌「黒の舟歌」の作詞をしているのは作曲もした桜井順であるが、いつも野坂のそばにいて一心同体で出来上がったそうである。

 6月の読書会の作家の開高健と同い年であるから、何かの接点があるのではと思って検索したら、開高が母校の高校に招かれ滅多に引き受けない講演会で話している内容に、野坂の話が短いながらも数か所が出てきていたので、そこそこの知り合いであったのであろうと推測した。
ふたりが同じ日に亡くなったと知って驚いた。もちろん長生きしたのは野坂であり85歳、開高は58歳で12月9日に亡くなった。
最愛のパートナーと生涯暮らせたのは野坂だ。
家庭での開高健は孤独だったと思う。

里井雪さん 2023/9/16 18:30

「火垂るの墓」について

「アメリカひじき」含め、読みましたので、感想です。

【火垂るの墓】

 私もジブリの映画で観ました。
 小説版で読むのはもちろん、野坂昭如の作品自体、初めてでした。詳細は別項としますが、慣れるまでは、少々読みにくい文体でした。
 アニメ映画から入った「火垂るの墓」ですので、同じ戦争モノとして浮かぶのが「はだしのゲン」です。
 いずれも、哀しい、悲惨だ、という情緒だけではなく、「戦争を起こしてはならない」というメッセージが込められていると思います。ならば、功利的にみて、どのようなストーリーが最も「効率よく」そのメッセージを伝えられるか?
 「アメリカひじき」の方に印象深いセリフがありました。

>「8月15日の記憶を新たになんていやね。苦しかったことを自慢しているみたいで」

 戦争を実体験した人の偽らざる心境でしょうし、あまり大上段に構えても、読者や視聴者が素直にメッセージを受け取れなくなるのではないでしょうか?
 「はだしのゲン」については、リアルでシリアス、作画のあくも強く、少々「濃過ぎる」気がします。一方、その対局にあるアニメが「この世界の片隅に」。ただ、こちらは「薄過ぎ」、何を言いたいのか? が分からない作品になってしまっています。いずれも、過ぎたるは及ばざるが如し、でしょう。
 その点「火垂るの墓」は中庸、振り切れていないとも言えますが、私は絶妙のバランスだと思っています。後世に残したい戦争小説、アニメ映画です。

【アメリカひじき】
 ここまで来ると野坂文体にも慣れて楽に読めました。
 一転、こちらはコミカルな内容、最後、ヒギンズ夫婦は詐欺師だった! というオチが来るかな? と思いましたが、そこまで遊んではいないようです。結局、彼らも主人公夫婦をいいように利用しただけ、という終わり方でした。
 「アンポを知らない子供たち」の私にはピンと来ませんが、戦争に負け、進駐軍にひれ伏し、深いトラウマを負った日本人像が上手く描かれています。

>親父を殺した国なのに、恨みはない、サービスしたくなる、ギャフンと言わせたいからか? 

 そこで白黒ショーかよ! と思いますが、この心の綾は、とても興味深かったです。
 ところで「貝塚をつくる」でも思ったのですが、メインではないところを、あえてタイトルとするのは、文学的なんでしょうか?

【文体】
 最初は、面食らいました。センテンスが長い、めちゃくちゃ長い、たたみかけ、のたうつ、ような文章。重文、復文も随所にでてきます。しかも、現代のことを語っていると思ったら、突然、過去のことになっている。何の説明もなしに、今と昔が入り乱れる。
 ただ、複雑でありながら、そこに、人、行動、情景、心理、時空さえも閉じ込める、とても、アーティスティックで、独自性のある文体だとは思います。一方、野坂はコマーシャリズムにどっぷり浸かった人、俗物と言われたくなくて文学性を求めた、と、穿った見方もできますね。
 作家としてどこまで読者を意識するか? 読む人の立場で小説を書くか? 何らかの形で人の目に触れるものなれば、程度の差こそあれ、読者への配慮は不可欠だと思います。
 そう考えると、改めて芥川や太宰には凄みを感じます。太宰治の「女性徒」、これも句点が少なく、読点が延々続く文章です。でも、こっちの方が読みやすい……。
 太宰は、私も真似てみるのですが、そのままだと、小学生の作文みたいになってしまいます。これこそが才能の差なんでしょう。三島由紀夫の文章も論理的で分かりやすく、お手本にしたいのですが、言葉が難しい。両者の中を取る形で、書いています。
 ですが、さすがに、さすがに、野坂の真似は不可能だと思います。カッコイイけど。

上終結城さん 2023/9/17 15:43

1. 野坂昭如の印象

 わたし(S31生まれ)にとって野坂昭如は、黒眼鏡で酒のCMやTV番組に出演し、『マリリン・モンロー・ノーリターン』、『黒の舟唄』などを歌うといった、出たがりでおっちょこちょいな人物、ある種のトリックスター的な人物との印象がある。しかしエキセントリックに見える彼の内面には、羞恥心が強く、人一倍傷つきやすい人間がいることも想像させる。

2.『火垂るの墓』について

 野坂自ら語っているように、実際の体験では1945年当時野坂(14歳)は自分のことで手一杯であり、義妹(恵子。1歳4ヶ月)にやさしく接する余裕はなかったらしい。そのことが後悔としてずっと残っていた。『火垂るの墓』の作中、清太が妹節子をけなげに、やさしくかわいがるのは、野坂にとって、死んだ妹への贖罪の意味があったのだろう。

 ねばりつくような独特の文体で、悲惨な状況でも「泣かせ」がなく、感傷も美化も抑制され、退けられている。描写は実体験にもとづくリアリティに満ちているが、そのグロテスクな現実の中に「蛍のはかない光」に象徴される作者の詩情が明滅している。

 この野坂の文体は饒舌体とも連綿体とも称されるらしい。しかしわたしには柴田錬三郎が言った「戯作者的文章」との表現が一番しっくりきた(文章の形というより作者の姿勢として)。

3.その他

 ジブリ映画『火垂るの墓』は観ていません。次回読書会(10/7(土))は所用があり残念ながら参加できませんが、感想のみ投稿しました。

由宇(ふくしま)さん 2023/9/23 06:50

火垂るの墓

〜現代(いま)も何も変わらない精神危機〜

10月7日参加させていただきます、よろしくお願いいたします。

映画を先に見ており、原作を忠実にを再現できている映画と感じました。

(映画は)数えきれないくらい観て、いまだに見続けている作品のひとつです。

また、(映画は)原作における「隠された野坂の悲哀」を浮かびあがらせている

とも感じました。

野坂の文章は、これまで敬遠しておりまして、(正直、好きになれなくて)今回初めてトライしました。

で、感想。

映画のほうが、感銘を与える(感動を刻印する)という意味で原作よりも数十倍、秀作だと

感じます。

銘作の自分なりの定義があるのですが、見るたびに発見があること、

「視点が変わる自己の変容を計測できること」

簡単に言えば成長を認知させてもらえる作品ということです。

映画「火垂るの墓」にはそれがあり、原作にはおそらくない。。。でしょう。

戦争記録になっており、悲惨さは写実に伝わってきます。

でも、難解というか、伝わりにくい・・・。

冒頭に申した、「隠された野坂の悲哀」とは、”兄の妹に対する偏執な恋ごころ”

が透けて見えます。

ペシミストを気取りながら、妹だけに優しい清太。に野坂の贖罪が透けて見えるのは

私だけでしょうか。

この時代のペシミストは悲惨です。『隣組』と繋がらないことは食料の断絶を意味します。

ましてや、自我が肥大化する14歳。他人との交流を拒否しながら異性に芽生えるこの青年期

のはじまりに4歳の少女の存在は過酷すぎる年齢なのです。(いろいろな意味で)

14歳と4歳。

絶妙な人生脚本のアンギュレーション(起伏角度)です。

恋に近い、愛情を抱きながら、事実は妹の食料をうばって野坂は生き残った。

それは、今、野坂が生きているという事自体がエビデンス(証拠)となっている。。。

その贖罪なのではないでしょうか。

現代ペシミスト(厭世家)への痛烈なアンチテーゼでもあります。

ただ、それを生み出す社会。戦時下と今もあまり変わらないとの思いを馳せる作品でした。

=アメリカひじき

「終戦」という言葉で調整的なアジテートに対して

あれは、紛れもなく「敗戦」だったと、断言していますよね。

飾らない当時の庶民の記録して貴重だと思いました。

池内健さん 2023/9/24 10:35

独特の文体は、夏目漱石たちが近代日本文学のスタイルを確立する以前の、たとえば仏教説話や浪花節のようだ。「型破りの小説家、猥雑きわまる現実を、同じく猥雑きわまりない措辞と語法によって描き出しつつ、しかもその表現のたった一行とても、下品であったり野暮であったりすることのない不思議な文章家」。二つ年長で、あらゆる点でおよそ対蹠的な人物である澁澤龍彦の野坂評が、すべてを言い尽くしている。

 蛍は「死者の魂」とも言われ、「火垂るの墓」のなかで何度も象徴的に描かれている。たとえば、三宮駅の駅員が、節子の骨が入ったドロップ缶を投げる場面では、「草に宿っていた蛍おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる」。糞尿にまみれて惨めに餓死する清太の姿とは対照的で、仏教の「厭離穢土欣求浄土」(穢れたこの世界を離れ、清浄な仏の国土に生まれることを願い求める)を思い起こさせる。節子を最後まで守った清太は浄土に行き、苦しみから解放されたと思いたい。

 旧日本軍および戦時中の内閣は兵站を軽視し、精神論で糊塗していた。そのため、「火垂るの墓」もそうだが、日本の戦争文学では「飢餓」が大きなテーマとなってきたし、仮に今後、日本を巻き込む戦争が勃発した場合にも同様の事態に陥る可能性が高い。一方、現在戦争が続くウクライナとロシアはともに世界有数の食糧生産大国。庶民が戦火に苦しむ構図は日本と同じだが、少なくとも飢餓に関しては事情が異なるのではないか。

克己 黎さん 2023/9/24 14:02

「火垂るの墓・アメリカひじき」を読んで    克己 黎

先に「アメリカひじき」を読んでから「火垂るの墓」を読んだ。

「アメリカひじき」が、やや下品なまでに社会風俗を入り混ぜた戦争批判なのに対し、「火垂るの墓」は穏やかな、純粋な、少年清太と妹節子の戦中の貧しい避難生活を描き、節子と清太がつらい生活の中栄養失調で亡くなるという、悲しい結末を書いたことで、弱者から見た痛烈な戦争批判と、叔母ら大人社会の利己的な浅ましさをえぐり出してみせている。

「火垂るの墓」はスタジオ・ジブリのアニメーション映画で何度も見ていたが、原作を読んだことがなかったため、今回課題図書という機会をいただいて読んでみて、スタジオ・ジブリのアニメーションが原作の内容をやや柔らかく子供にもわかりやすく、また死体の様子などはあまり細かく描写せず、清太と節子の避難生活を描いていたのに対し、原作は写実的な描写が多くあり、それだけに戦争の悲惨さや爆撃の恐ろしさ、傷跡の生々しさ、貧しさからくる栄養失調、ノミやシラミがたかる様子、また栄養失調からきた最期の節子のおままごとのような石をごはんに見立てた、見えてしまっていた錯綜など、短編ながら戦争のむごさを感じられる作品であった。

「アメリカひじき」は戦中の「火垂るの墓」に対し、戦中戦後まもなく、そして戦後22年後を描き、やや社会風俗描写があり、パンパンのポン引き、闇市、チューインガム、落下傘の特配などの様子を書いている。戦中の英単語を禁じていた頃から、戦後英単語が巷にあふれ出し、授業でも英単語を教えられるようになった様子や、主人公俊夫がパンパンのポン引きまがいのことを英語で行っていたことと、現在のヒギンズに売春婦やセックス・ショーを紹介したことを対比させて、俊夫の中でかつてアメリカの「占領軍に怯えた心」を「帳消しにするつもり」「熱中させ屈服させたい」とヒギンズに下品な売春婦の紹介をさせる様子は「アメリカひじき」つまりはアメリカの紅茶の茶葉をひじきと勘違いして煮詰めてしまったように、味も香りもあったものではなく、また、俊夫の妻・京子もハワイでヒギンズ夫妻に親切にされたことで日本に招いたのだが、ヒギンズ夫妻の図々しさもやがては知ることになる。俊夫は「俺の中のアメリカはわかるわけない」と敗戦国の国民として、アメリカの脅威と、日本の惨めな状態を払拭すべく、次は芸者でも紹介することになるだろう、と予期している。

「火垂るの墓」は悲しみが、「アメリカひじき」は悔しみが、感じられる作品であり、やや、長い1文節も、慣れると読みやすく感じた。

戦争がいまロシアとウクライナで起こっているが、戦争は決して起きてはならないことだと、2つの短編を読んで感じる。 2023.9.24

成合武光さん 2023/9/28 14:15

『火垂の墓』野坂昭如作 の感想

『火垂の墓』の有名なことは度々耳にしていました。テレビの番組にそれを見て、どんなんやろか? 見るだけ見てみまほと、まったくのお付き合いと言う気持ちで観ました。

 『火垂の墓』の評判と野坂昭如とが、どうしても結びつかない。奇異に感じられたのは私も同じでした。

 終わりに近い場面、洞窟の外に蛍がいっぱい飛んでいる。とてもきれいでした。悲しみが頂点に達しました。感動しました。

アニメの始まりの方では、リヤカーを引き、間借りをしていた親戚の家から出て行く場面。多くの物語にこのような場面が出てきます。見慣れた場面だな、少し描写が明る過ぎる。リヤカーを引く兄の表情に深刻さが出ていない。アニメだから仕方がないかなと、その時は思いました。蝉の声だけが激しく聞こえていました。

しかし『火垂の墓』と聞くと、今でもこのはじめと、終わりの場面が浮かんできます。はじめに淡く感じた分だけ、その画面は能面の虚無を出そうとしていたのかと思われる。

昭和32~34年頃までは、蛍の乱舞が全国で見られていたかと思う。その後農薬の普及、灌漑用水の整備、宅地化等の開発で少なくなってきました。残念です。

『火垂の墓』の作品を文章で読んだのは、今回が初めてです。同じように驚きました。しかし、言われる通りの名文です。誰にも真似のできない文章だと感嘆しました。課題としての提案がなかったら、アニメだけで感心していて、本を読むことはなかっただろうと思います。提案に感謝します。

『エロ業師』は、日活ロマンポルノで見ました。最後の舟の中で、海に流れ行くことも考えず、鑿(のみ)を振るっている職人の姿だけが記憶に強く残っています。これも『火垂の墓』の作者とどうしても結びつきません。そのどちらにも共通するのは「虚無」でしょうか。華やかなTV出演をしていた作者の本質が「虚無」だとしたら、太宰よりも哀しい人生を歩いたのではなかろうかと、思います。

現今、第三次世界大戦に進行中ともいえる状況です。哀しいですね。提案ありがとうございました。                          2023.09.28

港朔さん 2023/9/30 21:23

アニメの『火垂るの墓』は、スタジオジプリの映画を何作か纏めて鑑賞したことがあり、その時に観たことがある。高畑勲という名前をそのときに知って、ジプリは宮崎駿だけではないんだということも知った。宮崎の作品のいくつかは知っていたが、高畑の作品ははじめてだった。そして高畑の作品の方が自分の性に会うと思った。高畑作品をほかにも探して、観てみたいと思ったが、その時はまだ現役の勤労者だったので忙しさに紛れてそのままになってしまった。原作が野坂昭如だということを知ったのはその後のことで、その原作を実際に読んだのは今回が初めてだった。
 経験上、原作の文字による作品と二次的な映像作品があれば、比較してみると原作の文字作品の方が好い(感動させられる)という場合が多い。しかし今回の『火垂るの墓』については、以前に見た映像作品の方が好かった。両者を同時期に鑑賞すれば感想もまた異なってくるかもしれないけれど、今回読んでみた文字作品よりは、過去に観た映像作品の記憶に残る感動の量の方が、はるかに勝っていた。

 野坂昭如の文体については数々の指摘があるが、自分としては紫式部を思い出させる文章だ。文に切れ目がなく、だらだらとどこまでも続いていく ‥‥ 紫式部は、詳しい人の話によると「くどくどと、とてもしつこいのが彼女の特徴。そのしつこさで、くどくどと恨みごとなどを書き連ねていたりすると ‥‥ 源氏物語ではそんなところが何か所かはあるそうだ ‥‥ 読んでいる方もいいかげん疲れる、とのこと。とはいってもそんな中にも、ちょっとした風景描写や人の表情・仕草などの描き方には王朝時代の美意識というものが貫かれていて、流石 ‥‥ 」と云う話で、それを思い出した。
 野坂の文体も、かなりくどくどしているし、どこまでも続いていきそうな切れ目のない文章ではないか。読みにくさ、というのはその辺に原因があるのではないかと思った。しかし野坂の場合には、敗戦という大変すぎる体験で浄化されたといえるのか、紫式部ほどのしつこさは、和らげられているように思う。

山口愛理さん 2023/10/3 17:35

「火垂るの墓」を読んで。

「火垂るの墓」は、独特の文体が読みにくく、初めはとても疲れた。
内容としては、アニメで通して観たのではないが、ドロップの缶に妹の骨を入れておくという有名なシーンは知っており、小説でもそのシーンは際立っているのかと思っていた。

だが、小説では、実際に亡くなった妹の遺骨をドロップの缶に収める場面は無く、冒頭の清太の死後に遺体から落ちる缶を駅員が投げるところに登場する。また、妹が亡くなってから後の清太の心情の表現はそれほど多くなく、粛々と遺体の処理などを施す場面が続く。また清太の死についても淡々と第三者的な視点から事象のみが語られている。

これらの表現方法が、結果として読者に深い感銘をもたらしていると思う。かけがえのない二人の幼い命は、客観的には、戦争によって失われた多くの命のごく一部でしかないのだ。

また、不潔な環境、進みゆく症状などは細部までリアルであり、嫌でも戦争の悲惨さを物語る。暗い壕で蛍を放ってその光を頼りにする幼い兄妹、妹を全力で守ろうとする兄、蛍のお墓を作る愛らしさが悲しみを誘う妹。この残酷さと儚さの同居が、この小説が長く読まれている理由だろう。

読みにくかった講談調ともいえる文体も、最後にはこれが返って悲惨な現実を伝えるには良かったのかもと思えた。

和田能卓さん 2023/10/4 10:47

野坂昭如は、2002年の『文壇』(文藝春秋、のち文庫化)と、それに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞した。昭和36年初秋の中央公論新人賞授賞式の場面から始まり、『火垂るの墓』『アメリカひじき』での直木賞受賞後までを描いた自伝的作品で、多くの文学者が登場する。Wikipediaではエッセイではなく、小説に分類されている。
この『文壇』には野坂の文体についての記述があって、その個性的文体の由来を知ることができる。が、今回の課題本である『火垂るの墓』『アメリカひじき』についての述懐には、さらに興味深いものがある。
野坂昭如さんとは一度だけ電話で短い時間話したことがあり、学生時代にはビール瓶片手に、?ソ、ソ、ソクラテスかーバイロンかーと歌い踊った縁がある。『黒の舟歌』『マリリンモンロー・ノー・リターン』は、しんみりと。
以下、『文壇』中に見られる『火垂るの墓』にかかわる部分をいくつか抄出し、引用したく思う。わが福永武彦はロマンシェであり、野坂昭如も亦、虚構性を第一にした作家だったようである・・・その虚構作品『火垂るの墓』に、私は、つよく心を揺さぶられた、涙ぐまされた。
それにしても「蚊帳の中に、せめて妹をなぐさめようと兄が蛍を放つ、妹がそのほのかな灯の動きを追い「上った、下った」という」くだりに、昭和39年の半年、大阪に暮らして知った、駄玩具「浮沈子」がかかわっていたとは、・・・なつかしい想いに包まれた。

[引用]

「しんみりしっとり」私小説、題名は「蛍の川」とし、すぐ伊藤桂一の受賞作「蛍の河」に思い当り、しかし蛍に執着があった。百科事典をひくと、古語に「火垂る」、火が垂れる、つまり空襲、すぐ「墓」とつづいた。書き始めたのが午前六時、正午近くまで机に向い、ことさらかわいそうな戦災孤児の兄妹、舞台は、空襲後二ケ月余り過ごしたあたりに設定。実際の妹は一歳四ケ月、これでは会話ができない。十六年生れということにし、急性腸炎で三日寝つき死んだ、前の妹と同年。あの妹が生きていたらと、はっきり残る面影をしのび、戦時下とはいえ、暮しにゆとりがあって、ぼくは確かにかわいがった。この気持ちを、まったく異なる戦時下に置きかえた。
 夜泣きをうるさいと小突き、脳震盪起させた兄ではない、書くうち、意識して、いかにも書き手自身と、読者が考えるだろう、兄の優しい心を強調、周辺の大人を意地悪に描く。兄妹は、苛酷な明け暮れを憐れ健気に生きる、その細部、とめどなく文字となる。初めの妹に抱いていた、これはまぎれもない愛情、養家先で初めて抱いた気持。血はつながっていないが、いとしく、何ものにも替えがたく思った気持をそのまま写した。自分を美化しているとの自覚が、さらに妹をいたわる虚構について、確かに、自虐的に書きこませる。わけ判らずではない、自分をいたぶる気持があった。こんな風な美しい兄妹愛を知らない。ただ文字は当時の自分の気持、しかとはつかめないが、これとまったくかけ離れた万全の配慮を記し、兄は妹にとってのすべて。妹もすべてを兄に預け、さらにいたわり兄の愛情にこたえる。周辺の、人間関係以外、ほぼ体験したことだから、絵空事ではない。ありもしない妹の可憐な台詞が滾々と生れ、これを耳にする兄の気持が升目を埋めつくし溢れる。蚊帳の中に、せめて妹をなぐさめようと兄が蛍を放つ、妹がそのほのかな灯の動きを追い「上った、下った」という。この台詞は四年の夏、林間学校で、液体を入れた試験管に封じ込められた玉が、上部のゴムの膜を押すことで上下、少し知恵遅れの子供の呟いていた言葉。朝になると死んでいる蛍の埋葬は、映画「禁じられた遊び」。妹が死んだ時、僕は重荷から解放された思い、悲しみは片鱗もない。妹の骨と皮の遺体を眼にした。焼く時、火加減が判らず、骨は爪の先ほどしか残らなかった。何も考えなかった。
(124頁から125頁)

『火垂るの墓』は、いかにも自分の体験に基づいているかの如く文字を連ね、大嘘である。自己弁護とまで考えないが、卑しい心根に基づくフィクション、どう?をついてもかまわない特権はあるのかもしれないが、この嘘はいかがわしい、小説家にさえ、これは許されないような気がする。
(127頁)

十二月、直木賞候補作が発表され、筒井、原田八束、豊田穣 渡辺淳一、早乙女貢、三好徹、姫野梅子、加藤葵、加藤以外名前は知っているが、候補となった作品は読んでいない。ぼくも入っていて、ただ「アメリカひじき」「火垂るの墓」二作、こういう前例はあるのか、訊ねると、第一回の川口松太郎が「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」等。他に戦前二人、共に後がつづかず、戦後では壇。ぼくの場合、二作セットは「振興会」の配慮と見当がつく。まったく「傾向」の違う二つ並べて、受賞「対策」。はっきり賞と、意識して書いたながら、「火垂るの墓」には困惑した。もし受賞して、養母が読み、どう思うか。主人公である兄の、妹思いを際立たせるため、周辺の大人を意地悪に仕立て上げている。実録ではないが舞台が同じ、受賞したら、二十年六月八日から七月いっぱい、一年四ケ月の妹と過ごした、六甲山地東の外れ、甲山を望む貯水池あたりには足踏み入れられない、なかでも一人、裕福な、戦争の翳いささかもうかがえぬ美しい未亡人、そのまま登場させている、時代はまるで違うとはいえいい気持はしないだろう。こんなことは末節、主人公の妹を思いやる気持、読者にぼく自身を錯覚させる、そして、ひょいと、吉行の言葉がよみがえった。「火垂るの墓」は、渾身の力をこめて書いた作品じゃないが、井戸掘る如く、大作を手がけるうち、思いがけぬ脇から、水が滲み出るように小品のテーマがといっていた。締め切に追われた作家が、無意識のうちに書きとばした文章を、後で読み、思いがけず幼少時の自ら犯した殺人がよみがえる、そして現在、殺した男の妹をめとっているというのはどうか、こりゃ怪奇小説か。さほど深刻に考えていたわけではない、というより、深みへひきずりこまれない舵取り。
(133頁から134頁)

東京へ戻り、文春本社に挨拶、その足で、「銀座壱番館」へ寄り、授賞式のための白タキシードを注文した、「火垂るの墓」を書いたことのうしろめたさよりさらに強い不安感があった、この後、果して書けるのか、この賞の権威を汚すに違いない。
(135頁)

真面目というなら、純文学小説は、芸術をめざして、血を流す覚悟らしいが、読んで後、いったいあんた何いいたいねん、関西訛でつぶやくことが多い。もっとも、いくらか読んだのは昭和二十年代、三島作品の他に、「暗い絵」「桜島」「顔の中の赤い月」「死の影の下に」「蝮のすゑ」、花田清輝「復興期の精神」、「俘虜記」「広場の孤独」あたり、わりに親しんでいた。太宰、安吾は世間の認める作品にそっぽを向き、織田作に耽溺、愛読したのが石川淳、「火垂るの墓」より、「焼跡のイエス」がはるかに上と、評論家の言葉に、ムチャいうなの感じ。
(179頁)

※引用は野坂昭如『文壇』(署名本)、2002年第一刷、文藝春秋、による。

保坂融さん (8vx8qqs0)2023/10/4 16:13

「火垂るの墓」は大分昔に読んだ記憶がありますが、その当時は野坂が焼跡闇市派作家を自認しているぐらいの認識しか持たず、内容的にもあまり興味を持ちませんでした(読みづらさもその一因でした)。また野坂の派手な振る舞いをマスメディアが取り上げていることを知っている程度のことでした。その後に制作されたアニメは見ていません。
今回改めて「火垂るの墓」を読み、同時にこの作品に係わるいくつかの資料に目を通して、野坂の複雑な心境を知ることになりました。たとえば野坂は次のような発言をしています。
「ぼくは自分のついた嘘、つまり、自分をあわれな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄の如く描いた嘘が、一種の重荷として、はっきりのしかかって来た。本当のことを、やはり書かなければいけないと考え、満池谷へ、この原稿にとりかかる前、出かけたのだ。そして、やはり書けないのだ」(「アドリブ自叙伝」)
このように、野坂は「火垂るの墓」の呪縛に長く苦しむことになったようです。ちなみに、次のようにも記しています。
「小説とは嘘ばかり。そしてぼくは、嘘が服を着て歩いているような人間だ」(「20世紀断層」補巻あとがき)
こうした状況を考えると、表向きの派手な振る舞いとは裏腹に、野坂のまったく違った面を見るようで心が重くなりました。

いまほりゆうささん 2023/10/4 16:37

「火垂るの墓」を読んで
 野坂昭之の作品を読むのは初めてだった。スタジオジブリのアニメで観て強く印象に残っているが、あまりに辛い映画だった。そのため、小説を読み出したものの辛すぎて一度は本を閉じてしまったが、気を沈めてもう一度最初から読み直してみた。戦争中の様子、母親が死んだ時の様子などが淡々としかし克明に描かれている。私が一番辛く感じたのは親戚の未亡人宅に身を寄せていた時の部分で、清太と節子が自分本位な大人のそばで何を感じどう追い詰められて行ったのかが心に迫ってきた。冒頭からP11中ほどまでの所、三宮駅構内で清太の命が失われていく様やその周りの様子そ描かれ方は特に秀逸だと感じた。そして最後には、このように死んでいったのは清太高ではないこと、名もなき多くの浮浪児たちの命に思いを馳せる凄い作品だと思った。

大倉れんさん 2023/10/5 12:18

2023.10.7 読書会
火垂るの墓 アメリカひじき
 以前小学校図書館に勤務していたころ、戦争児童文学をテーマにした講座をうけました。
 教材、資料として取り上げられた中に
野坂昭如 著
「八月の風船」 
「凧になったお母さん」
「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話」(日本放送出版協会)がありました。
この作品についての講師の評は、絵がひどい、客観性がない、心理描写がなくただ残酷、負の感情のオンパレードで感傷的なだけ、責任の所在がない、児童文学であれば未来への希望を持てるメッセージが必要、、、等々酷いものでした。そう酷評した講師が「火垂るの墓」は別、読んでおいた方がいいでしょうと言っていたのを思い出しました。
 参考までに他に取り上げられた本
 ・木槿の咲く庭 /パーク著(新潮社)
 ・あらしの前 /ヨング著(岩波)
 ・アンネ フランク/リー著(偕成社)
 ・ガラスのうさぎ /高木敏子著(金の星社)
 ・広島のピカ /丸木敏作(小峰書店)…他10点ぐらい

 火垂るの墓・アメリカひじきとも初めて読みました。牛のよだれのごとく切れそうで切れないセンテンスの長〜い文。言葉の積み木を積んでいきながら、途中均衡がとれなくなって崩れそうで崩れない独特の文体…読みにくかったです。
 どちらも太平洋戦争のさなかの、戦争の末端にいて真実を知らされない立場の人を書いている。これは、戦争の先頭、中央にいる者たちが知らなかった、知ろうとしなかった戦争の戦況を書きたかったのだと思いました。れっきとした事実として残すべきという意思を感じました。
「火垂るの墓」は8月の猛暑の中、部屋のクーラーもつけずに読んだ。読み始めてなんとなく涼しく快適にしてはいけない気になって。清太の最期が自分の感じている熱さと汗に滲んでくるような感覚になった。後半に行くほど、この長く息苦しくさえ感じる文体が、清太の苦境、心情に沿うようであった。ジブリアニメより生々しいと思った。
 「アメリカひじき」とかくアメリカを前にすると、卑屈で滑稽で哀れに奔走してしまう日本人。戦後80年近くたってもその感覚は日本人に残っているように思う。

野守水矢さん 2023/10/6 15:07

【火垂るの墓】【アメリカひじき】
両作品とも、人間の、ふだんは隠して見せないようにしている嫌な内面を、くっきりと見せつけられ、衝撃を受けた。
助詞を省略した独特の関西弁の会話体が、生活感を醸し出している。

【火垂るの墓】は空襲から終戦直後までの神戸を舞台にして、兄妹の短い命を描いているが、
頼ってくる幼い兄妹を見殺しにする親族の姿。ゴミでも扱うように瀕死の少年、死体になった少年を扱う駅員の姿。人間の醜い面を、見せつけられる。
空襲の悲惨さを空襲の後に皺寄せした、これ以上皺を寄せる先のない最も弱い兄妹に、全てが降りかかる。
蛍の淡くはかない光が小さな魂を象徴する一方、焼夷弾の飴を連装させる『火垂る』の文字に、空襲そのものを墓に入れてしまいたい、もう二度と戦争はごめんだ、という作者の意思を読み取った。
結局は、人の本心はエゴなのかねえ、と感じて、少し虚無的になった。

【アメリカひじき】は【火垂るの墓】からおよそ20年が経った高度成長期の日本。T V C Mの仕事や日本製アニメがあって、東京オリンピックや大阪万博が話題にないから、1960年代前半が舞台か。
俊夫は戦後すぐの生活でアメリカ人への劣等感を心に刷り込んでいる。内心はこの劣等感に苛立ちながらも、ついつい卑屈な接待をしてしまう。

京子は、涙ぐましいほどの背伸びをして、ヒギンズ夫妻を迎えようとするが、これもまた俊夫と同じコンプレックスから。そして、努力も虚しく、夫妻には、気を遣ってもらえない。

少し出てきた黒白ショーの男の失態にも、同様のコンプレックスが示唆されているので、当時の日本人の普遍的な感情だったのだろうか。
いいところを見せようと必死で背伸びして、あるいはポン引きレベルの卑屈さで接待して、それで報われない、滑稽な悲哀を感じた。ぼくの世代は戦争も焼け跡闇も経験していないので、この心情は、共感までしないが「なんとなくわかる」程度。

十河孔士さん 2023/10/7 06:40

10月課題 野坂昭如「火垂るの墓」「アメリカひじき」
 戦後焼け跡派野坂による2短編。両方とも初見。

「火垂るの墓」
 終戦の年昭和20年の6月から9月までの話。空襲で母に死なれ、戦災孤児となった兄妹清太14歳と節子4歳が、神戸・西宮を歩き回り、苦労して生きのびる術を模索する。しかし、最後には栄養失調により死んでいく物語。

・一文の息の長い畳みかける文章で、緊迫した逃避行が、次々と展開する場面や短い会話で活写される。心理を追う描写は少ないが、対象に密着した文章は雄弁。関西弁が場を生き生きさせる。井原西鶴の書きぶりを意識したか?

・「8月22日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた」(P.39):ポーンと投げ出すような、突っ放した書きぶり。それが逆に心に食い入る。終戦一週間前のこととしたのも、読者の胸をつぶす。

・夏の夜を飛びちがう蛍は、静かで平和の象徴であるとともに、はかなさをも思わせる。蛍を持ちだしたことで、物語の悲劇性が浮き彫りになり、余韻を残すものとなった。

・短い物語の中でも時間が一直線に流れず、過去や現在へと行きつ戻りつしながらの描写が興味深かった。最初に昭和20年9月22日、清太が三ノ宮駅で餓死する。ここから過去にもどり、6月5日からの時間を追っての兄妹のこと。8月22日節子の死。清太の死の短い記述、など。

・未亡人の存在がややステレオタイプ。緊迫した状況下では自分のあるいは自分の家族の欲望を優先させる人物がいるのは、当然ではあろうが。

「アメリカひじき」
 戦後22年(1967年=昭和42年。東京オリンピックは1964年=昭和39年)の、戦争の傷跡よりようやく立ち直った東京に住む、中年男を主人公とする物語。妻がハワイ旅行で知りあったアメリカ人夫妻を家に招くことに関しての、てんやわんやを描く。この男、戦中戦後の混乱期に関西に育っていて、窮乏生活を体験していた。その忘れられない悲惨な体験を思い出しつつ、アメリカ人夫妻を招待するまでの、心の葛藤を描く.

・大きく二つに分けられる。@ヒギンズ夫妻を迎えるまでAヒギンズ夫妻が日本にやってきてから。
 @は「火垂るの墓」に通じる戦後混乱期の世相の生きいきした写し取り。その思い出。
 Aは主人公俊夫が、アメリカからの客人ヒギンズ氏に対して、性的な接待をくり返すなどする話。その俊夫は「不治の病いのめりけんアレルギー」(P.101)に侵されていると自己分析する。ここで性的なもてなしが突然出てくる話には、驚いた。作者にとりこうした取りあげは自家薬籠中のものでもあり、俊夫のねじくれたアレルギーを表すのに適当との判断だろうが、唐突感は否めない。

・ユーモラスな描写が多々出てくるが、敗戦に起因するアメリカに対するねじ曲がったコンプレックスがその後いつまでも生き続けている様を描いたこの読書は「面白うてやがて悲しきもの」になった。主人公俊夫とぼくは20歳以上離れている計算だが、書かれていることに思い当たる節が色々とあった。

・ここで描かれた「めりけんアレルギー」は、アメリカの中核を担う白人=WASPに対してのものではないかと疑う。アメリカは多人種国家で白人以外にも黒人、ヒスパニック系、アジア系など世界のあらゆるところから人が集まる国である。さて、この小説の俊夫はこれらの人々に対してもアレルギーを持っていたのか? 白人に対してのぬぐいきれない卑屈なアレルギーは、白人以外のアメリカ人――ひいてはアメリカ以外の非白人一般に対する、ぬぐいきれない高慢な偏見と対になっていたのではないか?
 「冬のソナタ」、BTSなどの韓流ブーム、中国やベトナムからの人々の流入などをへて、人口減少の現代日本において人種的偏見はずいぶん薄まったと表面的には見えるが、さて日本人の深層心理ではどうだろうか、と考えさせられた。

(文学横浜の会)


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