「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2023年12月10日


「夜と霧の隅で」、北杜夫

<「掲示板」に書き込まれた感想>

克己 黎さん 2023/11/8 21:45

「夜と霧の隅で」を読んで  克己 黎

まず、今回の幹事からの課題について回答をします。

<Q1> この病院には治療にあたる医師が4人います。
(1)ケルセンブロック、(2) ラードルフ、(3) ヴァイゼ、(4) ゼッツラーです。
 あなたがこの病院の医師なら、誰に近い行動をしますか。
 よろしければ、回答した理由を教えてください。

→私の答え
(3)ヴァイゼ
患者の心に寄り添うのが医師だと信じているので。

あなたはケルセンブロックの行動を肯定しますか、肯定しませんか。一つ選んでください。「わからない」「どちらでもない」の選択肢はありません。

→私の答え
(2) 肯定しない
患者は医師のための実験対象ではないと考えるから。

読書が好きな人として『読み手』の立場で感想、批評などがあれば、書いてください。

→私の答え
読みやすい文章だと思う。読み手としては、スラスラ読めただけに、怖さも増して感じられました。

文横などで発表する人として『書き手』としての立場で感想、批評などがあれば、書いてください。

→私の答え
くどくなく淡々と精神病院やナチス・ドイツのことを書いている。書き手として冷静でありながらメッセージも盛り込み、文章力が感じられる作品だと感じた。

次に、今回の作品の読後感について述べます。

恐ろしくつらく難しいテーマの小説でした。

戦争という悪夢のなかでは、健常者も異常者になり得ます。また精神病患者には、先天性と後天性があると思いますが、患者にも人格があり、人生があり、生きる権利があると思います。人権があると思います。

それを実験し新しい治療法を強引に試したり、ロボトミー実験や去勢手術、安死術を行ったのは横暴であり、医者が悪魔の手先になったにほかならないと感じました。

新薬や新しい手術のしかたの開発は、患者たちが自身の身を医者に預けた、まさに挺身した、数々の積み重ねの果てに成功したものだと、わかっていながらも、ケルセンブロックが強い電流を流し、薬剤を過剰に投与して、患者たちを弱らせていってしまったのに、恐ろしいと感じました。

でも、ガス室に送られる前になんとしてでも患者を救い出したいと強引に荒療治をする気持ちも感じられ、なんだか葛藤する医師の一面を見るようでした。

高島が自殺したのは何故かと考えましたが、やはりアンナが死んだ事実から目をそむけていたものの、覚醒して我に返り、アンナを失ったつらさに耐えられずまた戦争という悪夢の世界から逃れるために、自らの意志を持って自殺を選んだのだと感じました。

老ツェラー院長先生が最後の院長回診をしたときの患者たちのよろこぶ姿に、院長先生があたたかい気持ちで患者に寄り添ってきたのだ、と感じました。

女医ヴァイゼが女性患者に寄り添う姿と似てると思いました。

この小説によって、精神病患者の去勢や、ロボトミー実験、ガス室送り、安死術などが恐ろしいことが行われていたのだと知りました。

この小説のなかにロシアが脅威として書かれていて、令和5年現在のロシアとウクライナの戦争状況をふまえると、この小説のなかに書いてあった「理想のための戦争なんだ」(146頁)というところや、「血液と人種そのものが凋落にむかうときに、民族は戦争の勝敗にかかわりなく滅びてゆくのだ」(221、222頁)というところに、いまのロシアを感じ、また、「誤った? 戦争に誤ったも正しいもないのではないか? いずれにせよ戦争は終結させねばならないものだ」(232頁)と、外国にいる日本人として、戦争の終結を思いました。

汝、隣人を愛せよ、とキリスト教でいっているように、医師は患者の心に寄り添い、また国は隣の国に寄り添わなければ、患者は治らず、国と国は争いを続けるだけであると思います。

夜が朝になり、霧が晴れるように、患者の闇が消え、晴れやかになるのを願いました。

人間とはなにか、人権とはなにかを問う作品であり、少し前の作品ですが改めて今の時代にまさに読むべき小説だと感じました。

読みながら恐ろしさを感じましたが、自分からは選ばなかった本なので、今回の課題として読ませていただき、生きるとは何かを考えさせられるきっかけを与えていただきました。ありがとうございました。
2023.11.8感想

池内健さん 2023/11/21 23:30

北杜夫「夜と霧の隅で」

 北杜夫はトーマス・マンが好きで、ペンネームも「トニオ・クレーガー」の主人公トニオにあやかったという。「夜と霧の隅で」のタイトルは、強制収容所の体験を描いたフランクル「夜と霧」を想起させるが、語り口に独特の叙情性があって、「トニオ・クレーガー」や「魔の山」の味わいに近いと感じた。北が、マンの翻訳で知られる望月市恵が教鞭をとった旧制松本高校で青春時代を過ごしたことも影響しているのだろう。

<Q1> 医師4人のうち、誰に近い行動をとるか=(2) ラードブルフ
 自身を振り返ると体勢順応派なので、時代の価値観に押し流されていただろう。「遺伝因子がこれだけ強い場合、一体そのほかの処置が考えられますかね。こういうときに必要なのは、理性、ただこいつだけだ。感情という奴はいつだって最も低級な形式にすぎない」。断種を肯定するこのセリフは今の価値観からすると非人道的であり、やまゆり園事件すら想起させるが、個人より国家が優先される当時においては合理的な判断と見なされただろう。そして、結果をもたらさない情緒は切り捨ててしまったと思う。
 でも、こうありたいと思ったのはツェラー院長だ。<知識自体はなんの役にも立たず、単なる認識の結果は治療上の虚無主義となる、医者はただ癒すためにいるのだ、というのが彼の持論で、病院内の官舎から毎日とぼとぼと病院に出てくる彼の貧弱な姿全体にそれが具現されていた>。これこそ医者のあるべき姿だと思う。

<Q2> ケルセンブロックの行動を肯定するか=(1) 肯定する
 病気を治すことよりも昆虫採集のように脳の試料を集めるのが好きな内向的なオタクだったのに、患者がSSのバスで連れ去られるのを見て突然スイッチが入り、狂ったように荒療治の可能性にかける。結局ケルセンブロックの不器用な行動は何も生み出さず、患者を苦しめるだけだったのだから本来は肯定すべきではないのだろうけれども、傍観者的な立場を離れて一瞬なりとも現実と切り結んだことは評価したい。猫背気味だった背を伸ばして大股で廊下を歩くラストシーンに、「がんばれよ」と声をかけたくなった。

<Q3>『読み手』としての感想
 まったく気負いのない文章で読みやすい。ユーモアもある。貴族的でナチス嫌いのハラスが、患者の獣じみた咆吼に驚くSS将校に「本院には六名ほどの総統がおられます」と説明するシーンは、にやりとさせられる。

<Q4>『書き手』としての感想
 日本人を登場させることで、「遠い国の昔話」ではないという親近感を抱かせている。また、ドイツをめぐる客観的な国際情勢を自然に語る役回りも演じさせている。以前読書会で課題本となった遠藤周作の芥川賞受賞作「白い人」もナチスの残虐性がテーマだったが、登場人物がすべてヨーロッパ人で、やや遠い世界に感じられたことを考えると、日本の小説としては「夜と霧の隅で」の方が一枚上手だ。

上終結城さん 2023/11/24 14:29

1.北杜夫『夜と霧の隅で』について
 これまで北杜夫の作品は『どくとるマンボウ航海記』を読んだだけで、本作は初めてでした。タイトルから、V. E. フランクルの名著『夜と霧』(わたしが二十歳のときに読み、いまでもときどき読み返す「わたしの一冊」的な著作)と関連があるのか、と想像しました。たしかに時代背景は同じで、ナチス(ヒットラー)のいわゆる「夜と霧 Nacht und Nebel」命令によって引き起こされた歴史上の出来事が題材になっています。しかし舞台は強制収容所ではなく、南独の州立精神病院です。

2.医師たちの四つの反応パターン(ネタバレあり、要注意)
 回復の見込みのない精神病患者に対して「安死術」を施す指令がでます。この指令(合法的であることが恐ろしい)に対する病院の医師たちの姿が四つ提示されます。
(1)ケルセンブロック(年長の医師)
 本来は自分の医学研究に没頭したいタイプ。安死術の対象になる患者をできるだけ減らすため、無謀ともいえる過激な治療(電気衝撃法、インシュリン療法、果てはロボトミー手術)を試みる。治療効果がなく徒労であることがわかると、結局、自分の病理実験室へと帰ってゆく。
(2)ラードブルフ(陽気な現実主義者)
 「すべてはドイツのためだ」とわりきり、為政者に迎合。安死術を積極的に支持。回復の見込みがある患者だけを治療する。
(3)ヴァイゼ(若い女医)
 指令(法律)を批判し、安死術に反対を表明。むしろ不治患者につきっきりになる。医者の良心を代表。
(4)ゼッツラー(ロシア戦線で戦傷した若い医師)
 安死術を消極的に容認(ラードブルフに協力)。戦場体験が心の傷となって、アルコールとモルヒネの依存症になる。自分を臆病者と呼んでいる。

3.設問について
<Q1> この病院には治療にあたる医師が4人います。(1)ケルセンブロック、(2) ラードブルフ、(3) ヴァイぜ、(4) ゼッツラーです。
 あなたがこの病院の医師なら、誰に近い行動をしますか。
【回答】
 戦時中の異常な集団心理状態のなかで、どのような行動をとるか、とることができるか、平和な現代に暮らすわれわれが、軽々に断言することはできないでしょう。その後の歴史と評価を知っているものが、後知恵で当時の人々の行動を批判するのはたやすいからです。
 わたしの内心ではヴァイゼのような態度をとりたいですが、結局はゼッツラーのように消極的に現実を容認してしまうのではないでしょうか。あるいは、できるだけ現実を見ないようにして、自己弁護の理屈をこしらえ、韜晦してしまうような気がします。遠藤周作『沈黙』に登場するキチジローの姿が自分と重なります。安死術指令を批判すれば親衛隊(SS)に目をつけられ、何をされるかわからないという恐怖から、黙認を選択しそうです。

<Q2>あなたはケルセンブロックの行動を肯定しますか、肯定しませんか。
【回答】
 (2) 肯定しない(「わからないと答えたいが選択肢がないので肯定しない」)
<理由>
 回復見込みがあることを実証しようとするあまり、治療としては当時の常識外れの方法を試み、勝算の低い、人体実験に近いことをおこなっています。とくにロボトミー手術(前頭葉切除)は当時発表されたばかりで、その危険性は未知の方法でした。
 しかしケルセンブロックの行動は、自分の学術的興味や名誉欲からではなく、この患者たちに安死術がおこなわれないための努力でした。そこが医学倫理上、賛否判断の難しいところです。

<Q3>読書が好きな人として『読み手』の立場で感想、批評などがあれば、書いてください。
【回答】
 「命の選択」という重いテーマなので、正直、読んでいてしんどかったです。ただ前述のV. E. フランクル『夜と霧』は、どんなにしんどくても、一度は読んでおきたい書物と思います。(わたしが持っているのは霜山徳爾訳1971年版。いまは池田香代子訳の新版あり)

<Q4>文横などで発表する人として『書き手』としての立場で感想、批評などがあれば、書いてください。
【回答】
 非常に困難な倫理上の問題を提示した作品です。作者はケルセンブロックの行動を中心に描いていますが、医者の態度・行動パターンを四つ示し、読者が判断する選択肢を提供している点、客観的で公平な姿勢と思いました。

港朔さん 2023/11/24 15:12

恐縮ではあるけれど、まずは北杜夫の父親である斎藤茂吉の短歌について述べさせていただきたい。斎藤茂吉の短歌は、小生が高校生のときに好きだったが、社会人となって年を経るにつれて自分としての好感度は低くなっていった。表現するのが難しいが、その訳を述べると、茂吉の歌は《短歌》として(短歌という世間から)求められている《何か》を、ただ短歌に乗せていて、そしてその乗せ方が上手なだけなのではないか、と思われてきたからである。文化勲章を受賞されている碩学に、まことに申し訳なくも生意気なことを申し上げているわけだが、有体にいうと「わざとらしい」と思われてきたのだ。
 以下に茂吉の歌と、そして小生が若いときにも、またお迎えが近づいてきた今でも、かわらずに素晴らしいと感じている若山牧水の歌を掲げて比較してみる。

   斎藤茂吉『死にたまふ母』より
  みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる
  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
  死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはず天に聞ゆる

   「若山牧水短歌集」より
  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
  白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ
  白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

 いずれも人口に膾炙している歌だが、茂吉の歌は小生の感じるところ「これでもか、これでもか」と畳みかける調子で、とても力が入っているように思われる。他方、牧水は全く力が抜けていて自然である。その世界に安心して没入することができる。
 わかっていただけるだろうか。感覚の問題だから「わからないよ」と言われればそれまでのことなのだが、小生はそう感じるのである。

 北杜夫の作品は、高校生の時に『どくとるマンボウ航海記』を読んだ。遠い昔のことなので内容はほとんど覚えていないけれど、面白かった記憶がある。だから課題図書のようなシリアスなものを書く人だとは思っていなかった。
 今回課題作『夜と霧の隅で』と、同書にあった他の作品も読ませていただいて感じたことは、上記斎藤茂吉について述べたこととほぼ同様であった。「作り物」という感じがどうしても拭えない。どんな作品でも「作り物」であることは違いないのだけれども、それでもそうは感じさせないものがあり、そんなものが好い作品だと思っているので、小生にとっては気にかかるところなのだ。
 例えばAIに小説をつくらせたら、この書にあるような一連の作品ができあがるのではないだろうか。AIが作った小説が某文学賞を受賞したという話を聞いているが、AIがもっと進歩したら、冗談ではなく課題作と同じような小説をつくるのではないか、と思われてくるのである。

≪Q1〜4≫については、小生としては応え難いです。上記より推測してください。

里井雪さん 2023/11/27 16:55

北杜夫『夜と霧の隅で』について

 本作は、現実にあった「異常な日常」における人の心理について、深く洞察しており、普段、私が選ばないタイプの作品でもある。よい小説を読ませてもらった。ありがとうございます。

医師4人?
(1)ケルセンブロック
 現代の価値観とは異なる環境の中で、自分なりに考え、行動している点は首肯できる。

ケルセンブロックの行動を肯定?
(1)肯定する
 「ホロコーストは根本的に間違っている」とは思うが、その前提で考察した上での「肯定、否定」は意味がないだろう。でも述べたが、彼の「積極的な行動」については評価できる。

『読み手』の立場
 アマゾンのレビューを見ていると、「ホロコーストはユダヤ人だけを対象としたものではない」ことに「衝撃を受けた」というものが多い。実は、これを読む前「T4作戦」の知識があったことから、そこまでの衝撃はなかった。
 また、日本人を登場させたのはどうだろう、身近な物語と感じるより、むしろ違和感がある。

『書き手』の立場
 私が「T4作戦」を知っていたのは、大量虐殺をテーマに作品を書いたことがあるからだ。ただ『夜と霧の隅で』のような、リアリティーは求めず、異世界物、こことは別世界の物語とした。これは、私のメインフィールドがラノベである、という点よりも、フィクションらしいフィクションを描きたい、というポリシーがあるからだ。

<その他>
 発砲率という言葉をご存知だろうか? 例えば、第二次世界大戦のアメリカ陸軍で、敵に向かって発砲できた兵士は二割程度といわれている。ところが「さすが」アメリカというべきか、これを分析、兵士の教育法を変え、ベトナム戦争での発砲率は九割に達したらしい。
 だが、本質的に「人は人を殺したがらない」「そう簡単に人は人を殺せるものではない」ともいえる。
 ならば、ホロコーストのようなことが、なぜ、起きるのか? 為政者の「洗脳だろうか。トランプが煽るレイシズムも、その類かもしれない。
 ただ、だからといって、虐殺を行った当事者を為政者に操られた「可哀想な被害者」と考えてしまうのも、どうかと思う、このあたりをテーマにした小説あるのかな? ああ、自分で書いてみますか……。

十河孔士さん 2023/11/28 21:04

(1)第1章に小説全体の見取り図ともいうべきものが書かれていて、どこへ向かう物語であるかはあらかじめわかる。また、題名からもこの小説の「位置」がわかる。が、重々しく悲惨なテーマであり、小説世界の醸す雰囲気は暗く陰惨で、読みすすめるのに勇気が必要だった。
 断章をいくつも積み重ねて物語世界を構築していく手法。若干あちこち飛ぶ感じがあったのは残念。
 ロボトミーの場面の臨場感は、医師作家ならでは。

(2)フランクル「夜と霧」は未読だったので、急いで読んだ。「夜と霧」やこの小説に書かれてあることを、なぜ人間は実行できたのだろうと陰鬱になる。戦争はこれほどまでに人間を非情・残酷にするということか。

(3)第2次世界大戦中のホロコーストの犠牲者であるユダヤ人の国イスラエルと、パレスチナ・ハマスとの紛争がまさに現在進行中であるという事実は、この小説世界が終わってしまった過去のことではなく、現代にまでも陸続きであることを実感させる。

(4)−a.かつて日本に優生保護法というのがあったが、それについて若い頃のぼくは大きな疑問を感じなかった。
−b.どうしてユダヤ人がヨーロッパで嫌われ続けるのか、日本にいてはわからない気がする。

(5)今回この小説で作者の今まで知らなかった面を知った。医者として一度は取りあげたいテーマであったのかもしれない。ユーモア作家でもあるし、間口の広さには驚く。ぼくとしては茂吉の評伝を書く時の北杜夫が、いちばん親しみを覚える。

成合武光さん 2023/11/29 13:53

『夜と霧の隅で』 感想
最初の作品『岩尾根にて』は、人の心理について深く考える人でなくては書けない作品かなと思った。危険な行為について、人は心が惹かれると同時に危険を察知して身を震わせるが、時には夢遊病のように事を起こしてしまうこともあるようだ。危険に挑戦する。と言う話もあるが、怖い話だと思った。
他の作品も、惹かれる、夢中になる、ということの極限が書かれていると思った。そのような動機がなければ、発見も発明もないのでしょうが、考えさせられました。作品の中の自然描写は凄い。想像だけでは書けないだろうとも思うと、怖くもなりました。
『夜と霧の隅で』は、戦時下多くの国で、戦争に勝つためとして、人体研究がおこなわれていたとも聞きますが、まったく怖い話です。しかし、優生学についてもその発端は、スポーツ選手に優れた選手を求めるように、自然な発生とも思えるような展開ですが、人類全体の発展と幸せについての考え(思想・哲学)が遅かったとも思える。間違いが生じてからでなくては気付かれないことが多いようなのも心配です。
作中の医師ケルセンブロックの孤独も、追い詰められた孤独と言う気がする。これもやはり戦争の生む悪の一つでしょうか。とにもかくにも戦争は諸悪の基です。平和について常に考えていなければいけないと思いました。
このような作品が書けた作者に驚いています。 2023・11/29

金田清志さん 2023/11/29 18:17

「夜と霧の隅で」感想

 だいぶ前に読んだ記憶がある。
その時は何かおどろおどろしい感じがして、優性法とか精神病者の断種とか不治患者の選別とかの言葉に気味悪さを感じた記憶がある。
恐らくその時にはそのような言葉に囚われていたのだと思う。

 今回読んで、この小説の視点は、
@戦時中における分裂病患者の扱いを巡る時の社会とか政権との医者の立ち位置の苦悩であり、
A恋愛、しいて言えば文化の異なる中で生きた人間同士の愛に揺れるユダヤ人・アンナを妻にした患者・高島、
の物語りと読んだ。

@の視点から言うと、
 この物語は絶対的な専制者の国で、しかも戦時中と言う極めて特異な背景の中で、それも隔離された病院で分裂病患者を診る医者の人間模様、苦悩が描かれている。

ラードブルフに「分裂病患者は本当の荒廃におちいったら、少なくとも現在の医学では我々の手の及ばない領分だ。」
と言わせているが、恐らく「脳・心」に起因する病気は半世紀以上たった現在でもそんなに変わっていない、と思う。

その中で大量安死術に繋がるだろう不治患者の選別を強いられる医者はまさにその人間性をさらけ出す事になる。
しかし平和な現代においても災害等で多くの病人が生じた場合、どちらを先に診るかの峻別とは異なるが、やはりそれも選別には違いなく、同じようにどの薬をどれ程投与するか、病状によっては生死に関わる事で、
重症の病人に対して医者は絶えずそのような認識を持っているのではなかろうか。

ただ、作品世界では如何にも社会の退廃感がにじみ出ていて登場人物にもその影響は隠せない。

Aの視点で言えば、
 高島の友人・佐藤はアンナが高島に近づいた事を、
「しかしなあ、君は狙われたんだよ、はっきりいうと」と言う。
 有態にいえば佐藤はユダヤ人が嫌いだった。〜。〜。その際の彼らの計算をむき出しにした顔つきが嫌いであった。
と続く。
その言葉の裏には虐げられたユダヤ人が生き延びるには異なる国の国籍を得たいがためとの暗喩が含まれている。高島は現実と妄想の中で益々混乱したに違いない。が、高島にしてみればアンナとの愛をあくまでも信じている。

作品ではアンナの自死については結果だけしか書かれていないが、高島が本当に快復しての退院なのかは不明だが、退院のその日に作者は高島を自殺させた。それは作者が「高島のアンナへの愛」を信じていたからだと思う。

和田能卓さん 2023/11/29 19:07

カイエ・北杜夫『夜と霧の隅で』
高校受験のころ、友人に気分転換にと奨められて『どくとるマンボウ航海記』、というか、北杜夫さんの作品に出合いました。遠藤周作さんをはじめとする同世代作家のエンターテイメント物の世界に惹かれることになる切っ掛けでした。今回の課題本には、過去に触れたはずですが、手元になく、Amazonに注文しました。ちなみにV.E.フランクルの『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002)は、かつて地元・練馬区の読書会で読みました。
以下、『夜と霧の隅で』の感想文、というか「思うところ」を書きます。
里井雪さん指摘のT4作戦https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6が、今、この国あるいは世界規模で実行されれば、私も排除される身(難病患者で身体障害者手帳持ち)なのですが、本作の対象は精神障害者のほうでした。・・・なぜか読んでいる間中、遠藤周作さんの『海と毒薬』が明滅していました。
本作中、私は、なかんずく日本人患者の高島に惹きつけられました。彼がなぜ入院することになったのか全く説明なく、終わり近くになって、それが判明する構成に感心しました。
ユダヤ人の妻・アンナが自殺したと佐藤に告げられますが、高島は病気のせいで、記憶に留めておくことはできませんでした。(実はアンナの死こそが、彼の発症の原因だったのでしょう)
それが、「正体のわからぬ薬を注射」するという治療ののち寛解し、アンナがすでに死んだことを悟り、〈生〉の方向へと歩みはじめました。
ここに私は福永武彦文学に通じる〈魂の死〉からの生還を見、本作の肝があると観じました。高島をめぐっての叙述にこそ、北杜夫『夜と霧の隅で』の真のテーマが存するものであると考えます。が、けっきょく自裁するとは。僕の見方は破綻?

和田能卓さん 2023/11/29 22:51

上記には、早合点(見落とし)による論理破綻があります。削除・訂正しようとしたのですが、なぜかパスワード不一致で実行できず、このままにいたします。結論部分、〈魂の死〉からの生還は、撤回したものとお考え下さい。
ですが、高島の部分に深い意味がある、という見解は、変えません。

匿名さん 2023/12/1 20:10

(1960年上期)芥川賞受賞「夜と霧の隅で」北杜夫作12月テーマ本 感想
2023年12月1日  石野夏実

 短編原則の芥川賞受賞作品にしては、かなりの分量がある小説であったが(原稿用紙212枚の中編)しかし途中でダレルことなく読み終えることができた。純文学ではあるが、私的なテーマの小説ではない。600人もの精神病患者を院長を含めわずか6人の精神科医で診ている第2次世界大戦末期のドイツ南部の州立精神病院での話である。ヒトラーの大量虐殺対象はユダヤ人だけでなく精神病患者にも向けられていた。
 この北杜夫の小説と「夜と霧」という題名のアウシュビッツからの帰還者で精神科医ヴィクトール・E・フランクル著の世界的超ロングセラーとの関係性を知りたいと思い、池田香代子訳の新版を中古本で頼んだ。
やっと一昨日届いたのであるが、時間切れでまだ第一段階の「収容」のところまでしか読んでいない。
フランクルの「夜と霧」は46年に書き下ろしとして刊行され56年に和訳されたが、北杜夫の「夜と霧の隅で」は60年5月に「新潮」に発表された。6月には刊行され7月に芥川賞受賞となった。発表から受賞までがとても速いスピードで驚いたが、それは後述することにして、「夜と霧」に触発されたとは思うものの、時間不足でそれを証明する文献にあたることができなかった。※戦時下には「夜と霧」という作戦もあり、ホロコーストのドキュメンタリー映画「夜と霧」〈56年)も作られた。

   当時の芥川賞の選者のひとり舟橋聖一は、開高と大江の時のように2作品同時受賞を推奨したが、そうはならなかった。川端康成は欠席。永井龍男は舟橋と共に同時受賞推奨。次点は私が好きな作家の倉橋由美子作「パルタイ」であった。因みに1960年は安保闘争の年。北杜夫は戦争の狂気を、倉橋由美子は政治関連の秘密結社名を「パルタイ」と名付け小説の題にして、その狂気を描いた。

「夜と霧の隅で」であるが、この作品の時代背景は今となっては徹底的に暗い気持ちにしかなれない恐怖政治の全体主義のヒットラー時代である。
そして渡独中にユダヤ人を妻にした日本人の研究者高島を分裂症の患者として登場させ時には真理を語らせたが、それはドイツの異常な時代を私たち読み手に接近させた。
 小説としては書き出しの引力が強いためイメージしやすく引き込まれ読み進むのであるが、しかし不気味さは全編通して充満している。
 当時の精神病の治療法は今から思えばかなりグロテスクな手術や療法であったが、戦後の画期的に進歩した新薬の開発は投与患者たちの恐怖や負担を減らしたと思う。
 現代は精神疾患への理解が深まることにより、精神科系を訪れる人も増えた。今では誰もがなってしまう可能性がある病として認識され、早目に診察に訪れる人が救われる場合も多い。
 埴谷雄高の解説は、北杜夫初期作品文学論として読むことができ、さすがに説得力のある素晴らしい評論だった。
 最後にひとつ紹介したい。(検索で見つけた文献です)
信州大学精神医学の高橋徹氏と東大名誉教授の松下正明氏の共同研究文献によれば、北杜夫の双極性障害(躁うつ病)は、本人も兄の茂太なども39歳ごろからと言っているが、もっと早い時期から始まっていたのではないかと記述している。「ドクトルまんぼう航海記」が59年12月に脱稿され60年3月に出版された頃の精神状況を、北杜夫と親友のパリ在住の辻邦生との往復書簡の文面から推察し、「うつ病相」(うつ状態)の後期が「躁」に向かう上昇期の「軽躁期」で、執筆活動に適した時期であったと記している。
「ドクトルまんぼう航海記」を私も読んでいるが、なぜこの小説「夜と霧の隅で」と同時期に前後して系統の全く違う2作品が集中して書かれ発表されたのか、不思議なのであったが合点がいった。
「まんぼう」執筆の前から取り掛かり中座していた「夜と霧の隅で」は「まんぼう」が出版されたあと超人的な物凄いスピードで(ひと月200枚)書き上げられ完成されたようである。「マンボウ」は10月末に執筆が始まり12月の9日に脱稿である。こちらも月産200枚の最速ペースで書かれたと両学者は調査した。私的には、北杜夫の作品を通して、小説家の執筆や集中のエネルギーの源及び背景を理論的に知ることができとても参考になった。

<Q1> この病院には治療にあたる医師が4人います。
(1)ケルセンブロック、(2) ラードルフ、(3) ヴァイぜ、(4) ゼッツラーです。
 あなたがこの病院の医師なら、誰に近い行動をしますか。
 よろしければ、回答した理由を教えてください。

答 初期は(3)の女医ヴァイゼです。医者である以上患者に寄り添いたいです。
心情的には〈4〉のゼッツラーを一番理解します。
最後の行動支持では(1)のケルセンブロックです。

あなたはケルセンブロックの行動を肯定しますか、肯定しませんか。一つ選んでください。「わからない」「どちらでもない」の選択肢はありません。

(1) 肯定する (「肯定する」、「どちらかといえば肯定する」、「わからないと答えたいが選択肢がないので肯定する」)
(2) 肯定しない(「肯定しない」、「どちらかといえば肯定しない」、「わからないと答えたいが選択肢がないので肯定しない」)

 よろしければ回答を選んだ理由を教えてください。

答(1)です。
 最初は、脳みその研究がグロくて気持ち悪かったので、何という冷酷な人物なのだろうと思ったが、最後は人として医師として救える命があるならば危険は承知で挑戦しなければと決断するその気持ちを支持します。 

読書が好きな人として『読み手』の立場で感想、批評などがあれば、書いてください。
答 99%は悲劇で終わっても1%は希望が欲しい。 

文横などで発表する人として『書き手』としての立場で感想、批評などがあれば、書いてください。

答 こうあって欲しいと作者の考えを登場人物に託すのが文学であるならば、この小説は無茶なりにも説得力があった。

※おまけです=かって、楡家の人々、幽霊、マンボウ酔族館を読みましたが、細かい記憶、今はなし。それらを拾い読みしながら「どくとるマンボウ航海記」が我が家に2冊あるのを発見。新潮文庫版と中公文庫版があり、中公文庫の解説を北杜夫の麻布と慶応医局の後輩で同人誌の後輩でもある“なだいなだ”が書いています。これがとてもユーモラスで面白く書かれているので、もし買われるなら中公文庫版をお勧めします。新潮文庫版は村松剛が書いていますが、オーソドックスで味気ないです。

※※ 今回は興味あるものを次々に発見したので感想を書き上げるのが前日になってしまいました。野本様、テーマ本のご選択をありがとうございました。

石野夏実さん 2023/12/1 21:30

野守様  失礼しました。野本様と書いてしまいました。

森山里望さん 2023/12/2 11:00

当日の投稿で申し訳ありません(昨夜読み終えたもので…)。
<Q.1> 2ラードルフ 
 ヴァイゼでありたいが この時代の社会体制、潮流にあっては護身、逃避の心理も働いてラードルフに近い行動をとったと思う。ただ、若ければゼッツラーであったと思う。
<Q.2> 1 肯定する
 ケルセンブロックの行動は残忍で狂気じみていてとても認められないと思いながら読み進んだ。が読了してみると、言論でも武力でもない医者の立場としての体制批判、抵抗であったのではないかと思う。善悪では判定できないこと。
<Q.3> 今今、イスラエルとパレスチナ、ウクライナとロシア、ミャンマー内戦等々が日々ニュースになって、銃撃、流血、破壊、憎悪…の映像が流れ知らされる中、読むのは辛く苦しい作品でした。逆にこの現状にあって読んだからこそ病院内の環境、患者・医者の心理を平穏な中で読むより現実味をもって感じられたかもしれないとも思います。
タカシマという日本人の存在と、治癒していく経過は外国の重く閉鎖された空間のなかでわずかな希望と親近感をもたせてくれた。
<Q.4> 執筆中の葛藤と苦悩はとうてい計り知れない

野守水矢さん 2023/12/1 18:06

明日12月2日の読書会で配布する資料をアップロードしました。当日映写資料の図版を削除して、モノクロにしたものです。
掲示板への投稿は締め切っていません。明日は、これ以後の投稿を反映させた資料を配布します。
12月読書会資料(配布用)

(文学横浜の会)


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