「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2024年 1月18日
「舞姫」、川端康成
<「掲示板」に書き込まれた感想>
遠藤大志さん 2023/12/22 14:43
川端康成「舞姫」を読んで
まず初めに僕は舞姫の事を「舞妓(まいこ)」とか「舞子」(まいこ)と解釈した。
戦後間もない時期にバレエ教室もバレエを習う人もこんなに多くいたのかとまず驚いた。川端自身もこの状況に驚き、バレエダンサーに「舞姫」と名付け、小説にしようと考えたのではないだろうか?
川端なりのバレエ教室に群がる少女たちへの強烈な皮肉を込めた小説であると考えた。
池内健さん 2023/12/24 08:43
バレエ、仏像、朝鮮。川端康成の美意識のカタログのような作品だと思った。作中に登場する興福寺の沙羯羅像や広隆寺の弥勒菩薩はバレエダンサーのようなすらりとした姿態で男女を超越した美を示している。高男の美しい友人、松坂の描写もまるで仏像のようである。「半島の舞姫」崔承喜は戦前のアイドル的スターであるが、広隆寺の弥勒菩薩が半島伝来とも言われているなども考えると、現代の韓流スターも含めて朝鮮半島出身者の美的存在感の大きさは歴史的なものなのだろう。
波子と夫・矢木の関係は、同じく不倫を描いたトルストイ「アンナ・カレーニナ」の主人公アンナと夫カレーニンを思い起こさせる。日本文学史家の矢木は仏教美術にも関心を寄せるが、役人のカレーニンのように合理主義的・観念的で人間らしさに欠ける。官能を表現するバレリーナである波子とは価値観にズレがある。妻に面と向かって「この女」と、まるで(性的)商品のように扱い、<「魔界には、感傷がないのなら、ぼくは魔界を選ぶね。」と、矢木は捨てるように>(p.273)言い放つ。悪役である。
しかし、現実世界では理性的な矢木のような人間が社会的には模範とされ、別の男とつきあう波子は批判されるだろう。人間的であることと社会的であることは両立しないこともある。それが生きづらさにつながるのだと思う。
◆美と現実
官能に身を任せながら社会的にも許容される生き方は、非常に難しくなっている。かつて役者(特に歌舞伎役者)の女遊びは「芸の肥やし」と言われていたが、今は認められない。「セクハラ」「パワハラ」は別として、両者が合意し、妻が大目に見ているケースですら、世間(無関係の第三者)の批判にさらされ、役者としての商品価値が低減してしまうからだ。
◆生きるための幻想と必要悪
里井雪さん 2023/12/25 11:54
『舞姫』について
川端康成といえば『眠れる美女』が出てくるような偏向読者ですので、「らしい」作品をご紹介いただき、ありがとうございます。
>リアルの壁と一見は対立する軸におかれる芸術や美といったもの・・・。
リアルがリアルであることの哲学的意味はなんでしょう?
最近のAIを見ていて思うのですが、感情とは脳科学的に脳シナプスの気紛れなんじゃないかと。すなわち「美を感じる」こともある種の物理現象に過ぎず、そもそも壁など存在しないという仮説は、いかが??
戦後の風景と情感、不倫ストーリーでありながら、バレーをモチーフに、表面上は小綺麗に流れつつも、嫉妬や怨念、内なる醜さが溢れている。そのバランスはさすがだと思いました。
でも、バレエといえば、私はコレなのです……。
『プリンセスチュチュ』
アニメですので流れる曲やバレエのマイムにより、物語を暗喩する手法がとられています。
本作も「白鳥の湖」が出てきますが、ここで二幕なのはなぜ? 十二合掌のジェスチャーに秘められた意味は?
ストーリーと何らかの関連性がありそうに思いますが、バレーにも仏像にも詳しくない私には、その裏側が見えませんでしたし、ネットを調べても出てきません。識者である主催者さんの方でご存知でしたら、読書会当日にでもお教えください。
また、出だしの方、レースや宝石について、かなり詳しい描写があるのですが、例えば、チュールレース、ブリリアントカットといった踏み込んだ表現がありません。これは(1)専門的過ぎると文学的な格調が損なわれる(2)一般読者には分かりづらい(3)川端の時代にはネットがなかったので調べきれなかったーーどれでしょう? なんて考えてみました。
上終結城さん 2023/12/29 14:07
1.川端康成の作品および『舞姫』について
2.「寸止め」の恋愛
3.芸術と生活
港朔さん 2023/12/31 16:39
なにかのコラムだったか、それとも対談だったか忘れたが、川端康成ほどの文豪となると、鎌倉や逗子辺りでちょっと散歩をしていても、その後ろには必ず何人かのファン ‥‥ だいたいが女性とのこと ‥‥ がぞろぞろと付いてくる、とのことで、それがちょうど昼時だったりすると、入るお店に全員を招き入れる。そしてその中の美人を傍に呼んで食事をしていた、という話を、どこかで読んだか聞いたかしたことがある。川端は、美人には目がないというか「女性の美」というものに執着する心が強かったのではないか、と思う。
二つ目の動機は、巻末の見事な解説によって示されている。
「解説」というものは、たいていおざなりで適当に褒め上げておけばいいや、といったものが多いけれど、本編の三島のものは本気度満開で凄みを感じた。
金田清志さん 2024/1/9 18:56
「舞姫」川端康成、感想
この小説は初めて読みました。
一読した感想
内容は戦後、上流階級の一家がバラバラになる人間模様を描いているようにしか読めなかった。
作者はこの一家のことを、
それと共に敗戦後の日本について、作者は高男に、
つまり敗戦によってそれまでの価値観やモラルといったものが崩れ、それに代わる自由な風潮に翻弄された家族ともみえる。
この作品が書かれた時代、昭和25年〜26年は、一般の国民はまだ生きることに精一杯だったと思われるが、人間表現の原初が舞踊だったとしても、バレイ教室が国内にそれほどあったとは驚きだ。
当方の読後感が正鵠をえているかは全く自信はないが、少し長いので、再読する気力もなく、申し訳ない。
十河孔士さん 2024/1/10 17:00
高名な作家だけど、「伊豆の踊子」や「雪国」以外は読んでいなかった。この作品も初見。
@戦後すぐの社会の趨勢に対応できず、没落していく一家を描いているといえるが、様々な場面で交わされる会話のほとんどが、対話者の間ですれ違い、抽象的で中心がぼかされ、何について話しているのかはっきりしない。そして結論らしきものが出ないうちに終わる。そうした会話が連綿と続くが、登場人物たちはそれでよしとするようだ。しかし、読む方にはフラストレーションがたまる。
A物語が動き出すのが遅すぎるとの印象を持った。前半はゆっくりと話しが始まるが、これだけの助走が必要だろうか?
B小説中の家族のあり方は、読者一般には特異なものである。夫婦間は最初から冷え切っているし(「今夜も、竹原君といっしょか」(P.224)なんて会話はふつうの夫婦間にはない)、2人の子供も母が外に愛人を持っているのを知っていて、非難することもない。そんな危うい家族だけど、ひどく丁寧な言葉で話し、1つの家族として存在している。
描写は美しいが、現実感に欠け、雲の上の話のよう。
Cきわめて日本的な情緒の中で物語が進む。描写が三文小説のように思わせぶりたっぷりで、花鳥風月がさしはさまれ、それがくり返されるのには食傷する。けれど、それでいて低俗に流れないのは、古典文学に裏打ちされた作者の力量なのだろう。
西洋の読者がこの小説を読んだら、とても読みにくいと思う。会話が成立しているのかいないのか、よく分からない中で物語が進んでいくからである。しかし、この分かりにくさを日本独特のものとして貴び、好奇の目を向けるかもしれない。
藤原時代の文学や仏教美術、ニジンスキイやアンナ・パブロワ、崔承喜、などの挿話を効果的に使い、物語に厚みを持たせるのは、作者一流の手管なのだろう。
原 りんりさん 2024/1/10 18:21
舞姫というタイトルだったので、てっきり森鴎外だと思ってしまいました。川端康成にもあったのは、知らなかったです。時代背景がちょうど自分が生まれた頃だったので、いろいろ興味深く読ませていただきました。敗戦後まだ6〜7年で、こんなにもクラッシックバレエをやっている人がいたのにも驚きでした。作品としては、まだ若く文体も描写も雪国にはとうてい及ばず、解説の三島の文章でもどこを評価しているのか、よくわかりませんでした。かえって、三島がやたらに気を遣っていて、若い頃の双方の力関係をみる思いがして面白かったです。
野守水矢さん 2024/1/12 16:32
担当者の「みなさまにお聞きしたいこと」については、申し訳ありませんが回答がありません。
森山里望さん 2024/1/12 21:02
大倉れん です
質問の答えになるかわかりませんが
昨今、中国では川端康成の本が人気だとテレビで見ました。優れた翻訳、豪華な装丁で競うように出版されているのだそうです。検閲が厳しく優れた自国の文学作品がなかなか出版されない中、人々は、外国の作品で枯渇を潤そうとしているのだとか。中でも川端康成が人気なのは、小説の時代背と、現中国の社会背景が重なりあって、現代の日本の私たちより共感するものがあるのかもしれない。
克己 黎さん 2024/1/14 00:39
「舞姫(川端康成)」を読んで 克己黎
十数年前だろうか。父から招待券を受け取り、「谷桃子バレエ団」の公演を大崎まで観に行った。演目はたしか「白鳥の湖」であったと思う。バレエはテレビ放映や映画でよく観ていたが、劇場で観たのは初めてのことで、戦後の重鎮となった谷桃子のバレエ団は実に素晴らしかった。父の親しい人の妹もバレエ教室を開いている。私はバレエは習わなかったが、バレエは肉体芸術であり、スポーツで、物語であり、音楽である。美しい肉体の哲学、すなわち美学であるだろう。習わなかったことを今更ながら後悔する。
今回、再入会を1月11日にし、1月13日第二週土曜は仕事の当番の日のため、横浜での読書会に参加することができなかったが、この素晴らしい川端康成の「舞姫」に出会えたことに感謝したい。
1月13日夜7時から11時の4時間で読むことができたが、なめらかに、スラスラと読み進められ、美しい日本語で綴られた、日本の美と西洋の美、および朝鮮半島、ソビエトの美に、やはり川端文学はこうでなくては! と、感嘆した次第である。
この作品末尾に三島由紀夫の解説があるが、それは後のお楽しみとして、取っておくことにして、私なりの「舞姫」感想、読後感を述べたい。
本作において、下記の点から読むことができる。
●一、没落する日本の家、乗っ取られていく旧財閥(もしくは華族)の家(財産)と妻(肉体)
波子は資産家の娘であったが、家庭教師をしていた貧しい矢木とすすめられるまま、結婚をし、2人の子どもである、品子と高男をもうける。矢木は国文学や仏教美術に詳しい学者となり、文章を書いたりしている。ある程度生活力がありながら、妻に隠して資産を蓄えている。妻の波子はそれに気が付かず、資産を切り売りしてバレエ教室を開き、また娘の品子は外のバレエ教室に通って踊っている。
波子と「深い過去」(239頁)がある、竹原とは、頻繁にあいびきをしながらも、決して不貞行為をおかすわけではない。竹原と波子は二十年前に親しかったが、波子は矢木と結婚した。また現在、竹原も妻帯者であり、お互いに家庭がある身である。
「深い過去」はどのような内容かは本編では描かれていないが、情熱的な恋愛が、波子と竹原の過去にあったことをにおわせている。
しかし、波子は夫の矢木とはなかなか別れない。冷めた気持ちだが、夫婦の性愛は拒んではいない。というのも、矢木にとって、波子は
波子の肉体を征服し、家の資産を食いつぶし、私腹を肥やし、波子のものだった家の名義を密かに名義変更する矢木は、「魔界」(207頁)に入っており、「仏界」(207頁)には入っていない。
それに対して、「仏の手」「合掌」(75頁)を踊った波子はさながら「興福寺の沙が(※漢字が出てこなかったためひらがな※)羅像」(32頁)であり、仏のようであり、「源氏物語絵巻」(38頁)などにも教養のある優雅な婦人である。
本作では、@波子と竹原の二十年来のよろめき(過去を持つ愛情)A友子と妻子ある男性の不倫という、2つの不貞とともに、
「飛鳥乙女」(95頁)
また、
波子の優雅さ、趣味の良さ、財産をあらわすものとして、「レエス」「ブロオチ」「ダイヤ」「真珠」「指輪」(6頁)が描かれているが、
「ロンドンのスミス会社の、古風な銀時計」(39頁)がミニッツリピーターと呼ばれる富の象徴である懐中時計であり、それは元は波子の父の形見なのに、いまは夫の矢木が愛用してしまっている。
最後の『深い過去』の263頁から265頁は秀逸なラストシーンで、波子の邸宅の名義を矢木に勝手に変えられていたことを、竹原は娘の品子に告げ、このように言う。
「お母さまの人生は、まだ、これからですよ。品子さんが、まだこれからなのと、同じですよ」(264頁)
竹原の波子への深い過去を持つ愛情があふれている。
また、本編では戦争についても度々記されており、敗戦国日本について、「悲しみと怒り」(61頁)、「原子爆弾」(54頁)
「コカコラの車」(80頁)※コカ・コーラ
「日本が敗けて、矢木の心の美がほろんだと、いうんですの」(10頁)
と、敗戦をかなしみ、
「皇室を日本の美の伝統に、神と見たものであった」(37頁)と、かつての戦中の聖戦を振り返る。
「ニジンスキイ」「トルストイ主義者」(109頁)を書き、戦後の失われていく日本の美を没落する波子の家、そして、ラストシーンの竹原の言葉に「人形の家」のノラを感じさせる。女性の解放、妻の解放、自立を予感させる。
「舞姫」を読んで、学生時代の研究発表で「雪国」を取り上げたことを思い出し、また川端康成の文学を読んでみたいと思った。
※投稿遅くなり申し訳ありませんでした。
2024.1.14克己 黎
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