「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2024年 1月18日


「舞姫」、川端康成

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん 2023/12/22 14:43

川端康成「舞姫」を読んで
 今回初めて本著を読ませてもらった。川端の作品は読みやすいが、様々な状況描画やセリフの中に微妙な心理の変化が散りばめられていて、中々詳細を理解することが難しいと感じた。
 表題が「舞姫」であるから、この主人公は波子か品子である事に間違いはない。

 まず初めに僕は舞姫の事を「舞妓(まいこ)」とか「舞子」(まいこ)と解釈した。

 戦後間もない時期にバレエ教室もバレエを習う人もこんなに多くいたのかとまず驚いた。川端自身もこの状況に驚き、バレエダンサーに「舞姫」と名付け、小説にしようと考えたのではないだろうか?
 資産家の令嬢だった波子。話し方や所作を見ていると、箱入り娘の世間知らずな側面が見え隠れする。その世間知らずのお嬢様の資産狙いではないだろうが、矢木は目を付け、疾風怒濤の如く結婚まで漕ぎ着けた様に思える。
 その思惑に多少気付きつつある様にも見えるが、親の意見を聞けないのか、元々お嬢様気質の楽観主義なのか、それ以上に疑う事はしない。
 矢木もそんな事に及びはしないという自信が伺える。
 お嬢様育ちの楽観主義の波子は、夫への愛情が育たず、竹原と不倫の関係を何年も継続させている。
 竹原も妻帯者である。
 竹原の言動を見ていると、波子との逢瀬は楽しんでいるが、決して妻と別れて波子と一緒になろうとは考えていない。
 どちらかと言うと、迷子になっている少女を見つけ、親を一緒に探している様にも映る。
 まだ大人になり切れていない波子。
 そんな波子と友達の様な妹の様な品子。
 二人を心配そうに見つめる高男。
 シャレではないが、川端はこの波子と品子の事を「迷子(まいこ)」とダブらせて書いたのだと自分は思った。

 川端なりのバレエ教室に群がる少女たちへの強烈な皮肉を込めた小説であると考えた。

池内健さん 2023/12/24 08:43

バレエ、仏像、朝鮮。川端康成の美意識のカタログのような作品だと思った。作中に登場する興福寺の沙羯羅像や広隆寺の弥勒菩薩はバレエダンサーのようなすらりとした姿態で男女を超越した美を示している。高男の美しい友人、松坂の描写もまるで仏像のようである。「半島の舞姫」崔承喜は戦前のアイドル的スターであるが、広隆寺の弥勒菩薩が半島伝来とも言われているなども考えると、現代の韓流スターも含めて朝鮮半島出身者の美的存在感の大きさは歴史的なものなのだろう。

波子と夫・矢木の関係は、同じく不倫を描いたトルストイ「アンナ・カレーニナ」の主人公アンナと夫カレーニンを思い起こさせる。日本文学史家の矢木は仏教美術にも関心を寄せるが、役人のカレーニンのように合理主義的・観念的で人間らしさに欠ける。官能を表現するバレリーナである波子とは価値観にズレがある。妻に面と向かって「この女」と、まるで(性的)商品のように扱い、<「魔界には、感傷がないのなら、ぼくは魔界を選ぶね。」と、矢木は捨てるように>(p.273)言い放つ。悪役である。

しかし、現実世界では理性的な矢木のような人間が社会的には模範とされ、別の男とつきあう波子は批判されるだろう。人間的であることと社会的であることは両立しないこともある。それが生きづらさにつながるのだと思う。

◆美と現実 官能に身を任せながら社会的にも許容される生き方は、非常に難しくなっている。かつて役者(特に歌舞伎役者)の女遊びは「芸の肥やし」と言われていたが、今は認められない。「セクハラ」「パワハラ」は別として、両者が合意し、妻が大目に見ているケースですら、世間(無関係の第三者)の批判にさらされ、役者としての商品価値が低減してしまうからだ。

◆生きるための幻想と必要悪 
美は、見る人、聞く人が感じるもの。自分にとって善いものに触れたときに「美」というシグナルを感じる。実体ではないから「幻想」だろうが、必要「悪」とは思わない(自分にとって「悪」なら美は感じない)。

里井雪さん 2023/12/25 11:54

『舞姫』について

 川端康成といえば『眠れる美女』が出てくるような偏向読者ですので、「らしい」作品をご紹介いただき、ありがとうございます。

>リアルの壁と一見は対立する軸におかれる芸術や美といったもの・・・。
>それらは、生きるための幻想、悪く言えば必要悪としての役割しかないのでしょうか?
 この二つで一つの問いとして考えさせていただきます。物語と関連をもって語れなくて申し訳ないのですが、一般論として……。

 リアルがリアルであることの哲学的意味はなんでしょう?

 最近のAIを見ていて思うのですが、感情とは脳科学的に脳シナプスの気紛れなんじゃないかと。すなわち「美を感じる」こともある種の物理現象に過ぎず、そもそも壁など存在しないという仮説は、いかが??

 戦後の風景と情感、不倫ストーリーでありながら、バレーをモチーフに、表面上は小綺麗に流れつつも、嫉妬や怨念、内なる醜さが溢れている。そのバランスはさすがだと思いました。

 でも、バレエといえば、私はコレなのです……。

『プリンセスチュチュ』
http://king-cr.jp/special/tutu/

 アニメですので流れる曲やバレエのマイムにより、物語を暗喩する手法がとられています。

 本作も「白鳥の湖」が出てきますが、ここで二幕なのはなぜ? 十二合掌のジェスチャーに秘められた意味は?

 ストーリーと何らかの関連性がありそうに思いますが、バレーにも仏像にも詳しくない私には、その裏側が見えませんでしたし、ネットを調べても出てきません。識者である主催者さんの方でご存知でしたら、読書会当日にでもお教えください。

 また、出だしの方、レースや宝石について、かなり詳しい描写があるのですが、例えば、チュールレース、ブリリアントカットといった踏み込んだ表現がありません。これは(1)専門的過ぎると文学的な格調が損なわれる(2)一般読者には分かりづらい(3)川端の時代にはネットがなかったので調べきれなかったーーどれでしょう? なんて考えてみました。

上終結城さん 2023/12/29 14:07

1.川端康成の作品および『舞姫』について
 川端康成の代表的作品は一通り読んだつもりだったが、本作は初読。川端の小説はストーリー展開が明確ではなく、情緒的な描写が続くものが多い(たとえば『雪国』なども)。本作もそのひとつ。いわゆる起承転結らしい起伏も劇的な出来事もなく、エンディングも、作中で提示された登場人物たちの諸問題をなにも解決しないまま唐突に終わる。
 小説の中心的存在である波子にしても、はっきりした人物像、性格がとらえにくく、自分の意志や人生の目標を持っているのか、読んでいてもどかしくなる。むろん、これらは作者が意図的におこなっている結果である。川端作品全般に感じることだが、女性は哀しく、美しく、はかない存在として描かれる。性愛描写は、具体性を極力避け、読者に想像させる隠微な表現になっている。
 おなじく女性を描き続けた谷崎潤一郎の作品と比較すると、谷崎作品の女性の多くが、明確な性格と生を肯定するバイタリティを与えられ、めめしさは一切ない。作家のタイプとしても、川端は自死を選択したが、谷崎はなんとしても生きて、最後まで美しい女たちと人生を楽しみたいと願い続けた(自殺しないタイプ)。好き嫌いは別にして、川端と谷崎は対極にある作家だ。

2.「寸止め」の恋愛
 波子は、肉体的には夫の矢木に身をまかせているが、夫への愛情は疾うに失われている。いまの恋人である竹原との逢瀬は、一線を越えない「寸止め」の恋愛である。このことがむしろ波子の官能を高めているようにみえる。抱かれないことが、波子の精神的エロスを掻き立てるのだろう。たとえば波子が勝手に想像して感じる、竹原の妻への嫉妬は、その一例である。波子のエロスは、漸近線における曲線のように、直線へ接近するがけっして重ならない状況のなかで、次第に高まってゆく。(ちなみに川端の後年作品『眠れる美女』は、この「寸止め」エロスの極点を描写した恐ろしい作品である)
 竹原と関係してしまった後、波子はなお竹原を愛し続けることができるだろうか。意地悪くいえば、矢木が言うように、竹原は波子を抱かないことだけが取り柄の、平凡な俗人かもしれない。

3.芸術と生活
 波子はもとプロのバレエダンサーで、引退後はバレエ教室をひらいている。このことを、わたしの身近にいるテニス教室コーチとのアナロジーで考えてみよう。なにかの芸事やスポーツの才能に恵まれた人が、職業としてその道を選び、プロになる。現役(プロのプレーヤー)を引退した後に、その技術を教えるレッスンプロになる。これはバレエもテニスも同じだ。その意味では、バレエやテニス教室の先生も単に生活手段としての職業であって、実生活との対立関係はない。
 『舞姫』のなかでも川端は、波子や品子が打ち込むバレエを、かならずしも「芸術と生活」との対立軸で描いていない。バレエだけが他の芸事や趣味とは異なる特別なものと信じる波子や品子を、矢木に「センチメンタル」と言わせているのも、そのあらわれだろう。
 しかし、試合に勝つための現実的スキルを教えるテニス教室とは異なり、バレエ(舞踏)は何かを肉体で表現・創造する「芸術」との考え方がある。三島由紀夫は解説(新潮文庫)のなかで「芸術と生活」の対立について言及しているが、この発言は、三島自身が私生活(家庭)と自分の芸術(文学)や行動(多分に演劇的な意識あり)を峻別した美意識に関係があると思う。

港朔さん 2023/12/31 16:39

なにかのコラムだったか、それとも対談だったか忘れたが、川端康成ほどの文豪となると、鎌倉や逗子辺りでちょっと散歩をしていても、その後ろには必ず何人かのファン ‥‥ だいたいが女性とのこと ‥‥ がぞろぞろと付いてくる、とのことで、それがちょうど昼時だったりすると、入るお店に全員を招き入れる。そしてその中の美人を傍に呼んで食事をしていた、という話を、どこかで読んだか聞いたかしたことがある。川端は、美人には目がないというか「女性の美」というものに執着する心が強かったのではないか、と思う。
 だから『舞姫』を書いた一つの動機は「日本の美しい女性」像を、自分の筆で書いてみたかったからなのではないか、という気がする。その形象化が波子であり品子なのではないだろうか。

 二つ目の動機は、巻末の見事な解説によって示されている。
 「敗戦後の ‥‥ 日本の『家』の徐々たる崩壊過程 ‥‥ 日本の民主化に伴ったこの一般的現象は『舞姫』全篇に極めて微妙に精彩に描かれている ‥‥(315頁) 」という、三島由紀夫の記述のとおりなのだろうと思う。
川端は、表面的には三島ほどの政治性はなかったが、本小説では各所に政治的なメッセージを感じることができる。それは例えば、冒頭の、波子と竹原とのかなり長い逢引の場面である。日本の中枢部の多くの建物がGHQに接収・占領され、日本人は立ち入ることができない、という状況がさりげなく書かれている。また、東大の図書館前に戦没学生の記念碑を立てようとして大学側に拒否された事件が、高男と矢木の会話という形で、これもさりげなく記されている(70〜73頁)。
 三島は外向的で情熱的な人だから、市ヶ谷のような事件を起こしてでも、日本をなんとか救いたいという行動を起こしたが、川端は内向的でそんな派手なことはしない。しかし作品の各所に自分の想いを、メッセージを、さりげなく埋め込んでいる。これが川端流のやり方なのかと思った。

 「解説」というものは、たいていおざなりで適当に褒め上げておけばいいや、といったものが多いけれど、本編の三島のものは本気度満開で凄みを感じた。
 ただ、矢木のことを「卑怯な平和主義者、臆病な非戦論者、逃避的な古典愛好家、もとは妻の家庭教師で、妻にたかって生きて来た男、打算的な母親の執念を体現して来た男、妻に内緒で貯金をし、息子をハワイの大学へ逃がし、自分はアメリカへ逃げようとしている男、妻の家をこっそり自分の名義に書き換えていた男、しかもこの男が生涯浮気をせず、妻だけを昆虫学者のような好奇心で愛し、妻の精神的な浮気を子供の前で難詰する。正にゾっとするような男である。」というのは、ちょっとかわいそうな気がする。
 本小説が書かれた昭和25〜26年は、ちょうど朝鮮戦争の時期(1950.6.25〜1953.7.27)と重なる。日本人ならだれしも、敗戦からそんなに経っていないのに、またこの戦争に、いつ巻き込まれることになるのだろう、という不安に苛まれていた時期である。通奏低音のように本小説のバックを奏で、物語の全体を支配している不安な暗い雰囲気は、そんなところに原因があるのだろう。矢木が防衛的な性向を示すのは、感心できないまでも仕方のないことではないかと思う。

金田清志さん 2024/1/9 18:56

「舞姫」川端康成、感想

この小説は初めて読みました。

一読した感想
「バレエ」については映像で観た程度であり、「仏像」についてもそれ程知識がなく、とっつきにくかった。

内容は戦後、上流階級の一家がバラバラになる人間模様を描いているようにしか読めなかった。

 作者はこの一家のことを、
「戦争中の方が、家庭が平和だったというのも、その通りで、乏しい食糧とあやうい生命とに、おびえながら、家族は小さく、抱き合っていた。波子が夫に疑惑を重ね、失望を深めたのも、敗戦後のことで、この父と母のへだたりが、品子や高男にも及んでいる。」(P112)
 と書いているが、それは波子と矢木の結婚の経緯がどうあれ、二人に亀裂が生じたのは戦後の自由な風潮から生じた、と言っているようにも思える。そうした夫婦の関係は自ずと子供にも影響を与える。

 それと共に敗戦後の日本について、作者は高男に、
「〜。家というものにも、国というものにも、夢はないんだ。親の愛情がなくてもひとりでいられるよ。」
と言わせ、 「〜。今の不安な世界の、ぼくらの不安な年齢にとって、〜〜、夫婦の不安なんて。なんですか。〜〜。時代の不安にたいしてでしょう。」(P181)
とも言わせている。

 つまり敗戦によってそれまでの価値観やモラルといったものが崩れ、それに代わる自由な風潮に翻弄された家族ともみえる。

この作品が書かれた時代、昭和25年〜26年は、一般の国民はまだ生きることに精一杯だったと思われるが、人間表現の原初が舞踊だったとしても、バレイ教室が国内にそれほどあったとは驚きだ。
つまり西洋的ものへのあこがれだったのだろうか。

当方の読後感が正鵠をえているかは全く自信はないが、少し長いので、再読する気力もなく、申し訳ない。

十河孔士さん 2024/1/10 17:00

高名な作家だけど、「伊豆の踊子」や「雪国」以外は読んでいなかった。この作品も初見。
 パラパラとめくって、会話主体で話が進んでいくようで、改行も多く、310ページと長いが、楽に読めるだろうと思った。しかし、実態は違った。なかなか読みすすめられなかった。川端の作品なので注意して読もうとしすぎたのが理由の1つだが、もっと大きい理由は以下のようなところにあったと思う。

@戦後すぐの社会の趨勢に対応できず、没落していく一家を描いているといえるが、様々な場面で交わされる会話のほとんどが、対話者の間ですれ違い、抽象的で中心がぼかされ、何について話しているのかはっきりしない。そして結論らしきものが出ないうちに終わる。そうした会話が連綿と続くが、登場人物たちはそれでよしとするようだ。しかし、読む方にはフラストレーションがたまる。

A物語が動き出すのが遅すぎるとの印象を持った。前半はゆっくりと話しが始まるが、これだけの助走が必要だろうか?

B小説中の家族のあり方は、読者一般には特異なものである。夫婦間は最初から冷え切っているし(「今夜も、竹原君といっしょか」(P.224)なんて会話はふつうの夫婦間にはない)、2人の子供も母が外に愛人を持っているのを知っていて、非難することもない。そんな危うい家族だけど、ひどく丁寧な言葉で話し、1つの家族として存在している。  描写は美しいが、現実感に欠け、雲の上の話のよう。
 ちなみにこの家族のあり様は、日本にふさわしいというよりも、ヨーロッパの貴族社会的と言えるかもしれないと思った。

Cきわめて日本的な情緒の中で物語が進む。描写が三文小説のように思わせぶりたっぷりで、花鳥風月がさしはさまれ、それがくり返されるのには食傷する。けれど、それでいて低俗に流れないのは、古典文学に裏打ちされた作者の力量なのだろう。  西洋の読者がこの小説を読んだら、とても読みにくいと思う。会話が成立しているのかいないのか、よく分からない中で物語が進んでいくからである。しかし、この分かりにくさを日本独特のものとして貴び、好奇の目を向けるかもしれない。

 藤原時代の文学や仏教美術、ニジンスキイやアンナ・パブロワ、崔承喜、などの挿話を効果的に使い、物語に厚みを持たせるのは、作者一流の手管なのだろう。

原 りんりさん 2024/1/10 18:21

舞姫というタイトルだったので、てっきり森鴎外だと思ってしまいました。川端康成にもあったのは、知らなかったです。時代背景がちょうど自分が生まれた頃だったので、いろいろ興味深く読ませていただきました。敗戦後まだ6〜7年で、こんなにもクラッシックバレエをやっている人がいたのにも驚きでした。作品としては、まだ若く文体も描写も雪国にはとうてい及ばず、解説の三島の文章でもどこを評価しているのか、よくわかりませんでした。かえって、三島がやたらに気を遣っていて、若い頃の双方の力関係をみる思いがして面白かったです。
 美学については、絶対的な美と相対的な美の問題があって、時代を超えて美しいものが存在するのか、という難しい命題に係わることはできませんが、すくなくともクラッシックバレエに関しては、観客の意識はだいぶ変化しているように思います。私は、バレーはマシュー・ボーンいちおしです。(白鳥の湖を男性ダンサーでやったひと。マザコン王子が恋をした白鳥は男性で、白鳥の持っている荒々しさを強烈に表現した作品。世界的に絶賛されクラッシックバレエの概念を変えてしまったといってもいい)
 余談ですが川端康成っていうと、私のイメージは大の骨董好きというのがあって、ノーベル賞の賞金もすぐ骨董品に消えたうえにかなり足りなかったという話をおもいだしました。ご遺族が相続しているのだとしたら、国宝級のものがゴロゴロあるのではないでしょうか。

野守水矢さん 2024/1/12 16:32

担当者の「みなさまにお聞きしたいこと」については、申し訳ありませんが回答がありません。
物語に起伏がなく、登場人物の感情も激しく動かないので、読み解くのが難しい小説だった。
読み進みながら、労わりあうことのない夫婦が、冷たい心で傷つけ合いながら、残照を背にして緩やかな下り坂を、ゆっくりと下ってゆくのを見ている感覚に囚われた。残照は徐々に暗くなり、前方の闇はどんどん近づく。それが分かりながら矢木は美術に逃避したまま、波子は資産の切り売りで糊口を凌ぐ。品子は波子の理解者だろうか? 竹原が奈美子に接近するのは愛情なのか憐憫なのか。波子の矢木と竹原に垣間見せる性愛もまた、激しさからはほど遠い。
このように不完全に燃焼する登場人物の心情が、一種独特な静的な美、静かなエロスとして描かれていると理解した。
さて、書かれていない結末を予想してみよう。矢木に家の名義を書き換えられ、竹原に再起を促された波子は、一歩踏み出すのだろうか。そのとき品子はどうするだろうか。
自分が続編を作るとしたら、どのようなものを書くだろうか、と考えて、拙文を終わる。

森山里望さん 2024/1/12 21:02

大倉れん です
川端康成の小説を読んだのはこれが4作目。一貫して感じ入るのは女性を描写が鋭く細密で艶めかしいこと。この「舞姫」も冒頭、波子の黒いスーツにレースのブラウス、ブローチ、イヤリング…とそのいでたちと佇まいを書きながら、波子の素肌と鼓動の鳴りを表しているようで怖いぐらいでした。。品子しかり、友子しかりです。反面、男性の描写は少なく、矢木も竹原も私にはうすぼんやりとしかその像がつかめませんでした。松阪の登場には光があたっていたようでしたが。
解説にある三島由紀夫の言「怖ろしい夫婦関係」に波子が20年以上も身を置いていられたのは彼女が生活の実を知らず、そこに両足をつけて生きることができなかったからではないでしょうか。ダンサーとして大成も成就もしなくても、踊ること、踊りにかかわることでしか心身を生かせなかったのではないでしょうか。自分の暮らしの現状を正視せず、その怖さ事の重大さを理解しなかったからだと思います。
私は、読了するまで矢木という人物に期待を抱いていました。隠して貯金をしていたのもいずれ財産がなくなったときに今度は自分が家族を守り養うためのものではないか、「この女にしか触れたことがない」のは歪な愛情の表れではないか…等々。だからどんでん返し的な結末を期待していました。そういうのは川端の小説ではないのに。
読み終えて、矢木は卑怯で狡猾で姑息で小心者、竹原は貴公子然としながら真意がわからずたよりない男でした。特に矢木は悪意ではなく、彼の中にある正当性に沿っての言動にみえることが一層恐ろしいと思いました。香川のところへ走ったであろう品子も、矢木に寄生される波子も、妻子ある男のために身を落とす友子も「白鳥の湖」の悲劇の結末の方のオデッセイと重なる。

質問の答えになるかわかりませんが
物質的、経済的な富を得ても、逆に貧困、天災、人災で生活が困窮する状況にあっても、暮らしに寄り添う芸術がなければ人は幸せに生きることができないと思う。

昨今、中国では川端康成の本が人気だとテレビで見ました。優れた翻訳、豪華な装丁で競うように出版されているのだそうです。検閲が厳しく優れた自国の文学作品がなかなか出版されない中、人々は、外国の作品で枯渇を潤そうとしているのだとか。中でも川端康成が人気なのは、小説の時代背と、現中国の社会背景が重なりあって、現代の日本の私たちより共感するものがあるのかもしれない。

克己 黎さん 2024/1/14 00:39

「舞姫(川端康成)」を読んで 克己黎

十数年前だろうか。父から招待券を受け取り、「谷桃子バレエ団」の公演を大崎まで観に行った。演目はたしか「白鳥の湖」であったと思う。バレエはテレビ放映や映画でよく観ていたが、劇場で観たのは初めてのことで、戦後の重鎮となった谷桃子のバレエ団は実に素晴らしかった。父の親しい人の妹もバレエ教室を開いている。私はバレエは習わなかったが、バレエは肉体芸術であり、スポーツで、物語であり、音楽である。美しい肉体の哲学、すなわち美学であるだろう。習わなかったことを今更ながら後悔する。

今回、再入会を1月11日にし、1月13日第二週土曜は仕事の当番の日のため、横浜での読書会に参加することができなかったが、この素晴らしい川端康成の「舞姫」に出会えたことに感謝したい。

1月13日夜7時から11時の4時間で読むことができたが、なめらかに、スラスラと読み進められ、美しい日本語で綴られた、日本の美と西洋の美、および朝鮮半島、ソビエトの美に、やはり川端文学はこうでなくては! と、感嘆した次第である。

この作品末尾に三島由紀夫の解説があるが、それは後のお楽しみとして、取っておくことにして、私なりの「舞姫」感想、読後感を述べたい。

本作において、下記の点から読むことができる。

●一、没落する日本の家、乗っ取られていく旧財閥(もしくは華族)の家(財産)と妻(肉体)
●二、日本の美と心
●三、西洋、朝鮮半島、ソビエト(ロシア)の美
●四、過去を持つ愛情とかなしみ

波子は資産家の娘であったが、家庭教師をしていた貧しい矢木とすすめられるまま、結婚をし、2人の子どもである、品子と高男をもうける。矢木は国文学や仏教美術に詳しい学者となり、文章を書いたりしている。ある程度生活力がありながら、妻に隠して資産を蓄えている。妻の波子はそれに気が付かず、資産を切り売りしてバレエ教室を開き、また娘の品子は外のバレエ教室に通って踊っている。

波子と「深い過去」(239頁)がある、竹原とは、頻繁にあいびきをしながらも、決して不貞行為をおかすわけではない。竹原と波子は二十年前に親しかったが、波子は矢木と結婚した。また現在、竹原も妻帯者であり、お互いに家庭がある身である。

「深い過去」はどのような内容かは本編では描かれていないが、情熱的な恋愛が、波子と竹原の過去にあったことをにおわせている。

しかし、波子は夫の矢木とはなかなか別れない。冷めた気持ちだが、夫婦の性愛は拒んではいない。というのも、矢木にとって、波子は
「バレエによる、女の体のきたえが、夫をよろこばせる」(235頁)
であり、
矢木は波子の肉体に対して、
「二十年の上、この女のほかの女に、さわったことがない。この女にしか、ひかれなかった」(203頁)
と、惚れている。

波子の肉体を征服し、家の資産を食いつぶし、私腹を肥やし、波子のものだった家の名義を密かに名義変更する矢木は、「魔界」(207頁)に入っており、「仏界」(207頁)には入っていない。

それに対して、「仏の手」「合掌」(75頁)を踊った波子はさながら「興福寺の沙が(※漢字が出てこなかったためひらがな※)羅像」(32頁)であり、仏のようであり、「源氏物語絵巻」(38頁)などにも教養のある優雅な婦人である。

本作では、@波子と竹原の二十年来のよろめき(過去を持つ愛情)A友子と妻子ある男性の不倫という、2つの不貞とともに、
B品子の香山への思慕C野津の品子への恋情が、描かれながら、作者川端康成の美意識というものも随所に描かれている。

「飛鳥乙女」(95頁)
「武者小路実篤」(159頁)
「一休和尚」(207頁)
「藤原の歌切れ」(209頁)
「紫式部」(209頁)
「魯山人の陶器」(243頁)
「和泉式部の歌」(248頁)

また、
銀座を象徴するものとしては、当時銀座六丁目にあって、現在もブランドとして存在する「銀座の吉野屋」(171頁)、
また艶をイメージさせる有名な香水「キャロンの黒水仙」(145頁)などが書かれている。

波子の優雅さ、趣味の良さ、財産をあらわすものとして、「レエス」「ブロオチ」「ダイヤ」「真珠」「指輪」(6頁)が描かれているが、

「ロンドンのスミス会社の、古風な銀時計」(39頁)がミニッツリピーターと呼ばれる富の象徴である懐中時計であり、それは元は波子の父の形見なのに、いまは夫の矢木が愛用してしまっている。

最後の『深い過去』の263頁から265頁は秀逸なラストシーンで、波子の邸宅の名義を矢木に勝手に変えられていたことを、竹原は娘の品子に告げ、このように言う。

「お母さまの人生は、まだ、これからですよ。品子さんが、まだこれからなのと、同じですよ」(264頁)

竹原の波子への深い過去を持つ愛情があふれている。

また、本編では戦争についても度々記されており、敗戦国日本について、「悲しみと怒り」(61頁)、「原子爆弾」(54頁)
「戦歿学生の記念像」「きけわだつみのこえ」「ノオ・モア・ヒロシマ」(61頁)、

「コカコラの車」(80頁)※コカ・コーラ
「マッカアサア司令部」(14頁)
など戦勝国アメリカに対して

「日本が敗けて、矢木の心の美がほろんだと、いうんですの」(10頁)
「こんな風に、木にもそれぞれの運命があるのかしら」(13頁)

と、敗戦をかなしみ、 「皇室を日本の美の伝統に、神と見たものであった」(37頁)と、かつての戦中の聖戦を振り返る。

「ニジンスキイ」「トルストイ主義者」(109頁)を書き、戦後の失われていく日本の美を没落する波子の家、そして、ラストシーンの竹原の言葉に「人形の家」のノラを感じさせる。女性の解放、妻の解放、自立を予感させる。

「舞姫」を読んで、学生時代の研究発表で「雪国」を取り上げたことを思い出し、また川端康成の文学を読んでみたいと思った。

※投稿遅くなり申し訳ありませんでした。

2024.1.14克己 黎

(文学横浜の会)


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