「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2024年 2月06日


「みずうみ」シュトルム

<「掲示板」に書き込まれた感想>

克己 黎さん 2024/1/16 22:09

シュトルム作・関泰祐訳「みずうみ」(岩波文庫)を読んで  
克己 黎

主人公のラインハルトが少年時代過ごした自然の中で、恋した少女エリーザベト。
彼女は「白い鳩」のようであり「妖精」であり、彼にとっては「森の女王」のような「おとめ」であり、「天使」であった。

彼女の容貌は「茶色の眼」「栗色の髪」「捲き毛」で、「赤い絹のスカーフ」が似合う5歳の幼き頃から、「麦藁帽子の緑色のリボン」が似合う少女になり、「白衣」「赤いリボン」の似合う女性となる。

ラインハルトは彼女に「紅雀」を与えたが、いつの間にか黄色い「カナリヤ」を与えたエーリッヒとエリーザベトは親しくなり、結婚をし、イムメン湖のある屋敷にて、エリーザベトは人妻として暮らすようになってしまった。

ラインハルトにとって「白い睡蓮の花」のようだったエリーザベトだったが、エリーザベトにとっては「妹のような眼で」見ていた年上の、物語を話してくれる兄のような存在であり、恋愛対象ではなかった。

翻訳でこれほど美しい文章なのだから、原文のドイツ語はよほど韻を踏んだ美しい文章に違いないと感じる。

読みながらエリーザベトを次のようにイメージした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
●「可愛いイレーヌ」(1880年・チューリッヒ美術館蔵)
●「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」(1876年・アーティゾン美術館蔵※旧ブリヂストン美術館)

またタイトルである「みずうみ」の「イムメン湖」のイメージは次の通りである。

クロード・モネ(1840-1926)
●「睡蓮」(1897-1898年・鹿児島県立美術館蔵)→白い睡蓮の花がはっきりしている。
●「睡蓮」(1916年・国立西洋美術館蔵(上野))→最初にイメージした「みずうみ」がこちらであった。

翻訳の題名「みずうみ」だが、原作本のドイツ原題がインメンゼー、すなわちイムメン湖のこと(おそらく架空)を直接示すのに対して、邦題は「みずうみ」としていて、読み手に誰もが少年少女時代に経験する夢のような恋と失恋を、身近に感じさせるものにさせていると感じた。

美しい文章であり、私は最近ドイツの文学や言語、音楽に影響を受けているため、北ドイツの詩人・作家であるシュトルムの本作を読むことができて大変うれしい次第である。

2024.1.16 克己 黎

池内健さん 2024/1/23 22:12

学問を志し故郷を離れた主人公ラインハルトが幼なじみエリーザベトと再会し、お互いの思いが今も変わらないことを感じながらも清い関係のまま別れる。恋は成就しないがゆえに永遠に美しい。月の光、森、暗く静かな湖…。けっして派手ではないが心に染みる自然美に囲まれ、俗世のあかはみじんも感じられない。森の中のイチゴ探しは青春そのものの甘酸っぱさで、ここも収穫がないから美しい余韻が残る。この作品を読みふけった旧制高校の生徒の多くは栄華の巷を低く見て、こうした人生に憧れたのではないだろうか。

老人となったラインハルトは独身で家政婦を雇っている。ドイツ留学経験がある英文学者・渡部昇一がかつてベストセラー「知的生活の方法」で、結婚は学問の大敵と言っていたのを思い出す。結婚には世俗的なあれやこれやが付きまとい、純粋な思索には邪魔になるという主張だった(渡部自身は結婚していたが)。この小説にも主人公が睡蓮を近くで見ようと水に入り、すべすべした茎に手脚を絡めとられる場面があるが、睡蓮はエリーザベト、ひいては結婚そのものを象徴している。

再会したエリーザベトは、農園経営で成果を挙げている堅実な旧友エーリヒと結婚していた。「母が望んだことでした、別の人に嫁ぐようにと」という民謡の歌詞に託して、エリーザベトの結婚は本人の本意ではなかったことが示されてはいる。ただ、主人公の名前ReinhardはReinheit(純粋)、旧友ErichはEhrlichkeit(誠実)を連想させる。女性はインテリの純粋さよりも家庭生活の充実に結びつく誠実さを選択する、という主張が隠されているようにも感じた。

今回は光文社古典新訳文庫(松永美穂訳)で読んだ。岩波文庫(関泰祐訳)は主人公の「〜したまえ」という口調が古めかしく、今読むとやや違和感がある。

野守水矢さん 2024/1/24 15:52

読んだのは岩波文庫版。
老人が、自分の迷い道のせいで失った恋を、後悔の念を抱いて追想する。心に浮かび上がるのは甘くて苦い記憶の断片。睡蓮はもはや、目の届かぬところに浮かんでいる。
読む人の感傷を誘う短編である。絵画的で詩的な表現には魅せられた。美しい作品に触れることができて、担当者に感謝。
原文も、おそらくは詩情に富んだものであろうと想像してkindleで入手。(\0でダウンロードできる)。
作中の詩はリズミカルで韻を踏んでいて、美しい。例えば「森の中」でラインハルトが詠んだ四行詩(岩波文庫P27-28)は以下のとおり(意味は岩波文庫を参照)

Hier an der Bergeshalde
verstummet ganz der Wind;
die Zweige hangen nieder,
darunter sitzt das Kind.


Sie sitzt in Thymiane,
sie sitzt in lauter Duft;
die blauen Fliegen summen
und blitzen durch die Luft.

Es steht der Wald so schweigend,
sie schaut so klug darein;
um ihre braunen Locken
hin fliest der Sonnenschein.

Der Kuckuck lacht von ferne,
es geht mir durch den Sinn:
Sie hat die goldnen Augen
der Waldeskonigin.

Storm, Theodor. Immensee (German Edition) (p.14). Kindle 版.

他の詩も同様。散文もきっと美しいのだろうと、想像して微笑む。

里井雪さん 2024/1/24 22:38

私はKindleで読んでいる関係上、新潮社の高橋義孝訳版です。

プロローグで老人が肖像画に「エリーザベト」と呟き、続いて「幼な馴染」章、冒頭数ページで「これは、幼馴染である女性が主人公とは結ばれず、他人の妻となる悲恋だな」と分かってしまう。だが、「そこがいい 」。

書き手のスケベ根性「劇的な展開で読者を驚かせたい」ではなく「日常」を抒情豊かに描いています。こういうの描けないな……とつくずく思い知らされた作品でした。

で、あるが故、野守さんがコメントしていらっしゃるように、是非、原文で読んでみたい。でも、さすがにドイツ語は厳しいですね。

演劇じゃないですし、シェイクスピア風のブランクヴァースではなく、韻を踏んでいる模様。韻脚は? うーーん、私の知識では無理です。誰か教えて!

余談ですが、ツィターと聞いて『第三の男』が蘇りました。
毎日JR恵比寿駅で聞いています。最近の人は、ヱビスビールのテーマ曲と思っているのかな?

上終結城さん 2024/1/25 16:56

1.老人の見る夢
 『みずうみ』(わたしは初読)は、老人が少年時代の出来事を懐古する、という構造になっている。巻頭と巻末に「老人」と名付けられた短い章があり、それが額縁のように、主人公の若き日の物語を囲っている。その物語とは、いつしか将来を心に決めていた、幼なじみの少女との成就しなかった恋である。
 聖書のヨエル書2章28節にこんな文章がある。「老人は夢を見、若者は幻を見る」ここでいう「夢」と「幻」の原語には大きな違いはないらしいが、わたしは勝手にこう解釈している。老人の見る夢とは過去へ向かう思いであって、もはや現実を変えることはできない。一方、若者が見る幻は、継続する意志によって未来を変えうるヴィジョン。だから幻を見ることができるものこそ若者……。
 もっとも60代後半になり老人の仲間入りをしたわたしなどは、この聖句やラインハルト老人の心境に共感できる。成就しなかった恋だからこそ、悔恨の念はいつまでも消えない。むしろ時が経ち、記憶が遠ざかるにしたがって思い出は美化され、「物語」へと育ってゆく。そしてその物語をこころの小箱に入れ、ときどき蓋をあけては胸の痛み、それも甘美な痛みを繰り返し味わう。
 岩波文庫の解説には、意外にも、シュトルムが30代でこの作品を書いたとある。当時(1850年頃)の30代は、現代よりずっと老成していて、老人の心境を想像できたのだろうか。

2.エリーザベトの想い
 エリーザベトは、なぜエーリッヒの求婚を受け入れたのだろうか? 二度までは拒んだのに、結局は承知した。これは当時(19世紀前半)の結婚観、価値観を想像しなければならない。おそらく、当時の少女は親(ここでは母親)の意向に逆らうことはできなかったのだろう。エリーザベトの母親は、ラインハルトが「以前のようにやさしくない」と感じていた(岩波文庫p46)。そしてエーリッヒは、ラインハルトの母親が「あの方は、そりゃよくものの分かった、ほんとうに可愛い」(同p42)というほどの好青年で、親から譲り受けた資産もある。エリーザベトの母親が、二年間も便りを寄こさず、学者としての将来もわからないラインハルトを待つよりも、熱心に求婚するエーリッヒと結婚したほうが、娘の幸福と考えたのも当然だ。
 しかしエリーザベトの想いはどうだったのか。事業(アルコール工場)を営む気のいい夫との生活は不幸とは言えないだろう。ただ、幼なじみラインハルト(植物や詩を愛し、浮世離れした文学青年)を想う気持ちは、彼女のなかにずっとあったと想像したい。エリーザベトは、いまその想いを口にすることは罪なことと、自分を戒めたのだろう。

3.象徴的なもの
 『みずうみ』は作品全体が、なにかフィルターがかかったように詩的で美しいイメージで綴られている。そして象徴的なものがいくつか登場する(しばしば繰り返し登場)。たとえばジプシーの娘、苺、鈴蘭など。なかでも湖の岸辺ちかくに浮かぶ白い睡蓮の花。これは届きそうで、ついに届かなかったエリーザベトの象徴だ。ラインハルトが睡蓮について「僕は以前この花と親しかったことがあるんだ。……もう遠い昔のことだがね」とつぶやく(同p68)。この場面は切ない。
 ところで、今回担当の保坂さんの諸作品(『窓』、『タウン・ハウス』)を読んで、シュトルムの作風がお好きなのが、なんとなくわかる気がしました。

成合武光さん 2024/1/28 12:07

1月『舞姫』の感想を書き忘れていました。すみません。福島さんにお礼を兼ねて少し述べさせてください。『舞姫』は鴎外としか知らない一人でした。しかし「美しい日本と私」の康成を私なりに理解させてくれました。読んだのは岩波社本です。康成夫人の思い出とE・Gサイデンステッカーの解説で雲が晴れたように思いました。ありがとうございました。

2月『みずうみ』の感想
全文、詩だと思いました。マジ! え? 本当かと思いました。素晴らしい。大人の童話。原文もこのように詩的なのだろうか、そうでなくては訳者もこのような文の流れには出来まい。訳者も素晴らしい。世に翻訳調と言う言葉があるが、それすら忘れさせる。叙情詩人だ、と思いました。
「森にはイチゴが…それを見つけられない者には…人生と言うものは…」これは、多くの童話にも通じる。そのまま世の真実を諭している。喜んでばかりにもいられない。
『広場にて』は祖母の昔語りの重みが伝わってくる。
人は老いて、誰もが過ぎし日を懐かしむ。喪失を悲しむ。そこに赤ん坊が生まれる。「名前は祖母と同じ名」、祖母が生まれ変わって、同じ日々をこれからも生きるかのように。それは去り行く人への最大の贈り物。「夢想家だね」と言う言葉に真実がある。
おお、青春、うるわしの薔薇咲くころよ?   失っていよいよ知る美しさです。

文横の掲示板にはドイツ語に堪能な人の感想がありました。羨ましいです。
手にした本は、1992年版で第50刷とありました。驚きました。文横の恵みです。
ありがとうございました。  1/28

いまほり ゆうささん 2024/1/28 22:12

今回読書会の課題となって初めてこの作者の名前を知りました。もちろん作品を読むのも初めてです。私は岩波文庫版で読みました。

 結論から言うと、残念ながら私にはこの作品の良さが分かりませんでした。ストーリーとしては、幼い頃から好きだったエリーザベトが二年間会わないうちに別の男と結婚してしまう。その後彼らが住む家に招かれ再会した折には彼女もラインハルトへの想いを失っていない事が感じられるがその後二度と会わない。しかし年老いてからもなおラインハルトの心には彼女への思いが色褪せず残っているというものだと思いますが、俗人である私にはどうしても実感が湧きませんでした。そんなに好きなのになぜ二年間も会うことも手紙を書くこともしなかったのでしょうか?全く会わないのに自分の気持ちを信じ続けてくれと言うのは残酷な事のように思います。それともこの作品ではストーリーを追うのではない読み方をする必要があるのでしょうか?
 他にも読みながら疑問に思った点があるので書き留めておこうと思います。

 1. 28ページあたりから ジプシーらしい顔立ちの琴弾きの娘 を登場させているのはどういう意味合いを持っているのでしょうか?

 2.37ページでラインハルトは宝石商から紅珊瑚の小さな十字架を買った事だけが書かれているのですが、それは47ページの「僕には美しい秘密がある」「二年たって僕が帰って来たら君にそれを話そうね」に繋がり大切なエリーザベトへの贈り物なのでしょうか?

 3.38ページではラインハルトが、そして72ページではエリーザベトが貧しい少女にお菓子やお金をあげる場面がありますがそれは何を伝えたかったのでしょうか?この短編の中でどういう意味を持っているのか、ただ単に彼らの優しさを表現したかったのかよく分かりませんでした。

由宇(ふくしま)さん 2024/1/29 20:51

『みずうみ』 について 新潮文庫 シュトルム・高橋義孝 訳

              由宇(ふくしま)

◆知らない小説を読むとき、先入観をもたないようにまず、概通読し、朧気な意識で全体の感じをつかみます。

で、本作のような作品(よく言えば叙事詩、悪くいえば輪郭がぼやけた)文学作品に
遭遇すると、自分はその作品を自分に落とし込むための作業を行わないと馴染めません。(不器用なんです〜)

自分の中にある、リアリテイと作品を参照しようと試みます。

◆ポップな日本(人)を、ラインハルトやエリザベートにあてはめるなら・・・と想像してみました。

◆大胆であはありますが「男はつらいよ」シリーズの寅さんとマドンナで、本作品を参照し、語ることに
挑戦させていただきます。

この場合のマドンナは限定的です、どういう事かというと、決して寅さんの片思いのマドンナではなく、両想いながらも、寅さんの「優しさ、
優柔不断さ、気の弱さ、寛大さ、俯瞰する力」が絡み合い、決して結ばれないところのマドンナです。(さしずめ、浅岡るり子演じるリリーが適任でしょう)

もし、寅さんが晩年、行き倒れた先のどこかの施設で、回想にふけっていたとしたら・・・

もっとも輝いていたころのはじける自分をよりどころにする黄昏老人であったら、回想するのはリリーではないでしょうか。

◆そういうフィルターを通じて、見ると、本作は一人(独り)老人心理の枠物語であることが見えてきます。

時を超越して、ラインハルトはエリザベートへの想いの中で快楽にふけります。ふと我にかえれば、学究の徒であることを、現実逃避への回避策として
確認するしかないのです。

寅さんならば、踏み切れなかった恋愛を、「俺はどうせ渡世人よ〜」と厭世家を気取るのでしょうか。

それでも、いつでも優しく老人見つめる視点こそ「みずうみ」に象徴される神の目(時空を超えた存在)です。

◆美しい叙事詩が背景ではあるのでしょうが、原文でもなく、また訳者を通じての表現なので、その描写は、本書からは「それ」を私には難解でしかなく、
感じられませんでした。

◆ただ、人物相関を見ると、どうしても疑問というか違和感がぬぐえません。

なかでもエーリヒの存在です。いい奴なのか?陰険な奴なのか?なぜ、そんな行動をする?
なぜ、わざわざラインハルトを呼ぶ?

ただそれも、回想の枠(心理)の中の一登場人物に過ぎないとなると、説明がつきます。
回想のなかでは、どうでもいい存在なのでしょう。

◆後の仏の心理小説家群、プルーストやジョイス、さらにはカミュ、ユダヤ人のカフカなどの
心理小説を(勝手に)彷彿しました。
(彼等がシュトルムの影響を受けたか否かまでの、研究はできませんでした。。。)

◆黄昏の一老人の回想の軸、「恋愛」を通じてその心理の繊細な襞模様
(だれにでもある、しかし、オンリーワンである自分だけの『青い春』)
が、言語化された心理作品であると感じました。

藤堂勝汰さん 2024/1/31 10:45

シュトルム「みずうみ」を読んで

今回初めてシュトルム作品を読みました。保坂さんは前回トーマスマン「トーニオ・クレーガー」を出され、印象深い作品に出会わせてくれました。

今回のシュトルム「みずうみ」もなかなかいい作品でした。
平易な文章で短い為、難なくあっという間に読めます。
最初の印象は単なる老人の回顧録位の印象でした。

2回目、3日目と読み直していくと、シュトルムの得意とする「詩」が叙情的で繊細な青年像を浮かび上がらせていくのを感じます。
この小説は1849年、シュトルムが32歳の時に書いた小説である。
解説を引用するのはあまり好きではないが、本人はこの小説を「この作品はドイツ文学の真珠であり、自分以後なお長く、老いたる者、若き者の心を、詩と青春の魅力とをもってとらえるであろう」「これは純粋な愛の物語である。愛のかおりと雰囲気とに作の隅々までも滲透されている」と書き記しているらしい。
ドイツに於いては、自他ともに青春小説の金字塔作品である。

主人公のラインハルトは5歳年下のエリーザベトと幼友達である。
知り合ったのはラインハルト10歳、エリーザベト5歳の頃である。
年齢は少し違うが、「禁じられた遊び」を少しだけ想い出した。
なんとなく大きくなったら二人は結婚するのではと互いに思っている。
ラインハルトは学業の為、町を出る。
町を出る前に、ピクニックが開催される。
そこでエリーザベトに2年間待っていて欲しいと思いを告げ、エリーザベトもそれにこたえる。遠距離恋愛の先駆けであろう。
エリーザベトはそのまま町にとどまる。
その間も互いの近況を報告し合う。クリスマスにエリーザベトからラインハルトにプレゼントが届き、ラインハルトもまたエリーザベトの為にプレゼントを用意する。
帰省した際に、ラインハルトはたエリーザベトに旧交を温めようとするが、しっくりといかなくなっていた。
互いに意識するが故に、他人行儀な雰囲気に陥ってしまう。
そしてまた離れ離れになって月日がたち、ある日ラインハルトの母からラインハルトに対してエリーザベトがエーリッヒの求婚を受け入れた連絡を受ける。
数年後エーリッヒからの招待を受け、ラインハルトはイムメン湖ちかくにあるエーリッヒ邸を訪れる。
二人きりになったラインハルトとエリーザベトは湖畔やさまざまな場所を歩き廻り、束の間の時間を過ごす。
そこでこれ以上いるとエリーザベトを苦しめることになると判断し、立ち去ることを決心する。
それ以降ラインハルトはエリーザベトに会うことはなく、数十年が経過する。
恐らくだが、結婚することもなく研究に没頭し老人になったラインハルトは若かりし日の初恋のキラキラした水面のような日々を思い出す。

この小説は男女の違いを如実に表した小説であると思う。
いつまでも初恋の思いを忘れ切れずに美化し思い続けるようなところが男にはある。
その点、エリーザベトは多少の躊躇はあるものの、あっさりエーリッヒとの結婚に踏み切り、自らの人生を踏み出している。
自分はラインハルトの心情を推し量ることはできるが、果たして女性がラインハルトの心情を推し図ることができるのかと疑問に思った。

石野夏実さん 2024/1/31 16:31

シュトルム作 関泰祐訳「みずうみ」岩波文庫版(S28年発行)感想
2024.1.31 石野夏実

 Wikipediaによれば、法律家としてほとんどの生涯を過ごしたシュトルム(1817〜1888)が1849年〈32歳)に書いた短編小説である。
因みにフランスの2月革命は1848年で、それはベルリンとウイーンに飛び火し3月革命となり、ナポレオン以前の保守体制に戻そうとしたウイーン体制が崩壊した激動の時代であった。この小説に、心情を表すやや古めかしい美しい詩は多いが、時代の背景が描かれていなかった(見落としがあるかもしれませんが)のは、法律家という肩書があるにもかかわらず少し残念だった。
しかし、シュトルムの略歴を読むと、デンマーク領であった故郷で反デンマーク蜂起を煽ったと書かれていた。その他、その激動の時代に判事や知事になったとの記載があり興味深かったが、作家としての関りでの詳細はわからなかった。 

 さて本題、全く初めて読む小説であったので「エリーザべト」とささやく書き出し辺りから推測して、亡き愛妻の追憶が始まるのかと思ったら、成就しなかった昔の初恋の回想であった。
実らなかった初恋は、実らなかったがゆえに何十年も思い続けるものであり、生涯で一番大切な恋であることが多い。
 実らなかった原因は、何であろう。
幼い頃より互いに思い合っていたし、今と違って親の考えや家柄財産が優先されるとしても、このふたりの結婚は、それほど家柄の違いもなさそうであったし、息子や娘が相思相愛であることを察することができないほど鈍感な双方の母親でもなかったと思う。
 ところで、今、母親と書いていて不思議に思ったのは父親の話が、両家ともに全く出てこなかったことである。家の職業も書かれていなかった、と思う。
 エリーザベトの結婚相手エーリッヒは、たしかに土地持ちで事業もやっている大金持ちかもしれないが、ラインハルトだって優秀な青年であるから、それほど悲観的な未来ではないと思うのであるが、、、研究者はお金に縁がないからか。
 結局、復活祭休暇が終わりエリザーベトが見送ってくれた日、ランハルトは2年後に秘密を打ち明けるという約束だけで求婚しなかったため、音沙汰なしの2年間が過ぎるうちに、恋敵のエーリッヒは積極的に行動を起こしているし、受け身のエリ―ザべトはラインハルトを待ちきれなかった。
 主人公のラインハルトも学業のため何年間も家に帰らないということが実際に当時はよくあることであったならば、エリーザベトにもっと頻繁に手紙を書いて互いの気持ちを確かめ合い結婚を約束する年頃に入っていたのではないだろうか。
 しかし彼も年頃の若者である。クリスマスイブの日にジプシーの娘と互いに惹かれあう感情を持ったりもする。深入りしなかったのは、エリーザベトからのクリスマスプレゼントのおかげであったのかもしれない。

 エリ―ザべトの心の変化が見て取れるのは復活祭に帰省した時だ。少しよそよそしい。心はやや離れていたのかもしれない。諦めようとする気持ちがでてきていたのかもしれない。おそらく女性の方が感情をコントロールする力が強い。女性には、近代まで受け身で諦めることで生きてきた歴史があるからだろう。
 互いに初恋の人であるふたりにとって、もし再会しなければ忘れようとする心を月日が手助けしたであろうが、結婚後のこの再会は時間を戻してしまう力があった。
 悪い人ではないはずのエーリッヒは、なぜ結婚後数年も経ってから、ふたりを会わせようとしたのだろうか。婿の館に同居しているエリーザベトの母親の言動や、エーリッヒとその母親との商用旅行は、いったい何故、この時なのか、との疑問も出てくる。
未練を断ち切らせるためなのか。どちらの?互いの?いまさら? 作者の実際にあった失恋を昇華させた?妄想は膨らみます。。

 場面ごとの情景描写は細かすぎるほど丁寧に描かれていて、詩人特有の目を感じる。
湖の描写は32歳の若さを感じるが、一方で一日を終え夜の入り口に佇むひとりの老人をありありと描写する筆力は老練さを感じた。 
 孤独な老人ラインハルトは今宵また、何十年も昔の初恋の人を、忘れられない人を追憶する。これがラインハルトの後悔を超えた最上の楽しみなのであろう。

※漱石の「こころ」とはテーマも読後感もちょっとちがうと思いました。

港朔さん 2024/1/31 17:05

この物語の舞台である北ドイツは、中世の前期は北欧諸国と同じバイキングの土地であり、も少し時代が下ればアングロサクソン発祥の地でもある(と理解している)。そしてこの時代は、資本主義経済の発達で農民たちが先祖代々の土地から追い出され、都市に集まりプロレタリアートとなった時代 ‥‥ 少数の気の利いた農民は、それらの土地を買い占めて規模を拡大し、大農場を経営するブルジョワとなっていった時代ではなかっただろうか。その一つの典型がエーリッヒであり、またラインハルトであり、エリーザベトの家族なのだろう。

 彼らの生活が美しく描かれているようだが、それは本当に美しいのだろうか。
 ラインハルトは「二年経ったら帰る」と云いながら帰らなかったから、エリーザベトはエーリッヒと婚約をした。エリーザベトにしてみれば、そんな男をいつまでも待っていては人生を誤る、と判断するのはごく自然である。二年経った後、さらに数年が経過してからの、P.69~73のラインハルトとエリーザベトのやり取りは、現代の言葉を借りれば「セクハラ」に近いと感じた。美し気に飾られてはいるけれど、客観的にみればそれは「ラインハルトの身勝手」と言われても仕方のないことばかりではないだろうか。この場面に、もしエリーザベトの父や母がいたならば、本人が自主的に帰るのを待たずに「もうあなたには用はありません。今すぐ帰ってください」と言うことだろう。
 p.72 l.6では「 ‥‥ それから彼女はいそいで身をそむけた。ラインハルトは、彼女がすすり上げながら階段をのぼってゆくのをきいた。」とある。作者はもしかして、美しい別れを演出したつもりなのだろうか。残念ながら、私にはそうは思えない ‥‥ 彼女は「セクハラに近い」言動を投げかけられて、どうしていいのかわからなくなり、悲しくなって泣いていたのだと思う。そしてそのすぐあとに(p.72 l.10)、ラインハルトは物乞いの少女に「まだ何か欲しいの?」という言葉を投げかける ‥‥ 小生は驚いた。とても無神経な言葉だと思うのだが ‥‥ 。19世紀の北ドイツでは、相手が物乞いの少女なら、こんな言葉を投げてかけても良しとされていたのだろうか。それともブルジョワだから「よし」なのだろうか。

 作者シュトルムは、解説によると「反デンマークの戦いに参加し、それに勝って郷里フーズムの知事となったが、フーズムはその後プロイセン領となったので彼は解職となり、その後は隠棲した、とある。ブルジョワの時代、自らもまたその一員として戦った勇士だったわけである。彼はハイリゲンシュタットの裁判所判事、またポツダムの陪席判事を歴任していたとのことだが、ハイリゲンシュタットは、ベートーヴェンが遺書を書いた町として聞き覚えているし、ポツダムは言うまでもなく、第二次世界大戦のポツダム宣言の街の名、シューレスヴィヒ・ホルシュタインとは、乳牛の品種名であるホルスタインに関係すると思われる。いずれも文学書で目にする名称では無かったから、この場で目にすることができたのは新鮮で、なんだか嬉しい想いがした。

山口愛理さん 2024/1/31 17:44

『みずうみ』を読んで

シュトルムという作家の名前は知らず、またドイツ文学に造詣も無かったので初めて読んだが、その情景描写と風景描写の詩的な美しさに打たれた。
物語のあらすじを追ってしまえば、長い年月のものでありながら比較的単純で所々謎も残る。幼馴染の年下の女性と互いに好き同士でありながら、言葉足らずや思い込みのために物理的だけでなく心の距離が広がって行き、遂には彼女の近くにいた裕福な友人に取られてしまう。それは彼女の母親の意思でもあった。
19世紀のドイツの家庭事情がどのようなものだったかよくわからないが、少なくとも今よりは親の権限が強かったのだろう。かつての日本もそうだったように。
また、音信不通が招く別離というのは、よくあることだと思う。新しい生活や勉学、仕事に忙しく、つい相手を信じすぎて甘えすぎてなおざりにしてしまう、ということは今でも男女問わずあるのではないか。
『みずうみ』はそのあたりのストーリーを美しい自然を背景に描いている。みずうみのほとりの広大な農園に住むかつて好きだった女性。幼い頃は彼女を「白い鳩」と形容していて灰色のカラスからいつでも取り返せると思っていた。だが今、彼女は手の届かない「白い睡蓮」となって闇の中で彼を苦しめる。
幼い頃の二人の会話、いつかインドに行こうというラインハルトに、「ママもいっしょなら」と言うエリーザベト。「僕の奥さんになるんだから」とそれを拒む彼に彼女は「わたしも一緒にインドに行く」と宣言する。でも「でもきっと無理だな、きみには勇気がないから」とラインハルトが言う。このあたりは将来を暗示するようで悲しい。
紅珊瑚の十字架は結局エリザベートにあげなかったのだろうか、女乞食に呼びかけた名前とは、などいくつか謎は残るが、全体的には印象派の絵のような光と影のある美しい短編だった。

金田清志さん 2024/1/31 19:30

「みずうみ」シュトルム(岩波文庫)関泰祐訳、感想

 一読して、男の哀しさ、ひいては人間の哀しさを感じた。
繊細な心の綾をおりなす作は、恐らく原文でないと正確に作品を読めたとは言えないだろうな、と思いつつ。

主人公のラインハルトと少年の頃から近しい初恋の少女エリーザベト、それに主人公の友達エーリッヒを絡めた物語りとして読みました。

クリスマス・イブ、市庁舎地下室の酒場でジプシーの女が歌う歌(P23)は何かこの物語を暗示している。

ラインハルトは大学進学のため故郷を離れる。心の中ではエリーザベトを愛し続けているのだが、一方で研究にものめり込んでいく。エリーザベトのなかでは依然ラインハルトから童話を期待している。
このあたり、男、いや人間は恋以外にも同時に熱中できる事があり、どちらも器用に潜り抜けるのは難しい。

ラインハルトの専門が植物学なのか、地方の歌を集める事なのか判然としないが、つまり恋以外にも熱中できるものがある、との暗喩なのかも知れない。

結局、エリーザベトはエーリッヒと結婚するのだがラインハルトは深く傷つく。
人間の悲哀を感じました。

初めて接した作家で、こういう機会がなければ読めなかった小説でした。

十河孔士さん 2024/2/1 11:16

初見。一読、ロマン主義の小説なら扱うだろうという要素の、ほぼすべてが含まれているように思った。
 自然描写が美しい、上質の童謡のような物語。小説中を流れる空気が高原の空気のように澄んでいて、清涼感あふれる作品。
 最後に誰か(エリーザベト)が死んで悲劇に終わるのかなと思ったが、そうではなかった。エリーザベトは死なないで、ラインハルトもエーリッヒのように散文的な世の中を生きることを選んだ。
 最初と最後に、老人の現在という「枠」が設けられている入れ子小説。時間の流れを強く打ち出したい時に使われるのだろうが、この小説では必ずしも成功しているとは言いがたく、なくてもいいように思った。

杉田尚文さん 2024/2/2 12:10

「みずうみ」シュトルム
・光文社、松永美穂訳で読む。1849年の作品だ。美しい話だった。しかし、違和感のある部分があった。しかし、うまく傑作に仕上がっている。
・日本でいえば、江戸末期の作品である。誰にもあるだろう初恋と伴う別れの記憶をこれ以上は無理というほど美化して、醜い部分はカットしている。
・悲恋の物語の典型として古典なのだろう。
・森鴎外に「雁」があり、池の中に、入っていく場面がある。この作品の影響か?
・紫式部は琵琶湖に浮かんだ月を見て源氏物語の着想を得たという。この「みずうみ」も月の光、みずうみ、すいれんなどの描写があり、日本人好みの短編になっている。
・絵を見て時間が変化する。さらに、光が消えると部屋は湖に変化し、白いスイレンが浮かんだ空間となる。時空がゆがんだ。この世は池に浮かぶ月でしかない、幻を見ているに過ぎない、実体はあるのかないのか。
・気高く、可憐な白いスイレンの花を取りにみずうみに入るが進めない。泥の上に茎が覆いつくし、足を取られて進めない、ラインハルトを取り巻く世界か……ラインハルトの心の支えでもあるのだが、永遠に手の届かぬ、確固とした生きたことの証……

・夕方、身なりの良い老人がゆっくりと散歩から帰ってくる。町を見下ろす丘の上に立つ自宅には家政婦だけがいて一人暮らしだ。「まだ、明かりはいらないよ」書斎に月の光が差し夫人の絵を浮かび上がらせる。エリーザベトといった。そのとたん、時間が変化した。ラインハルトは青春時代に戻っていた。
5歳のエリーザベトに10歳のラインハルトがお話を作ってやる。ブナの森に苺を取りに行って迷ったり、二人は仲の良い幼馴染として成長すが、ラインハルトは上級学校に進学し町を離れる。
やがて、彼女は生活のため資産家の男と結婚してしまう。ラインハルトの初恋は婚約の申し込みを言い出せないうちに破綻する。
 結婚後、その屋敷に招かれる機会があり、エリーザベトは「母のために強いられた結婚でああり、今でも心の中では、ラインハルトを思っている」ことを知る。
 ラインハルトはみずうみに咲く白いスイレンの花を摘み取ろうと、水の中に入る……
 老人の書斎はいつしか月の光も消え、暗闇となるが、みずうみがあらわれ、白いスイレンが浮かび上がる。
部屋に家政婦が明りを持ってくる。「その明りを机の上に置いておくれ」
机には収集した民話の自著がある。お話をつくる、詩作、民話収集、そこには、エリーザベトがいる。汚濁の世であるが、気高く、可憐な花を思うとき、残された時間を大切に生きようと思う。
「みずうみ」シュトルム
・光文社、松永美穂訳で読む。1849年の作品だ。美しい話だった。しかし、違和感のある部分があった。しかし、うまく傑作に仕上がっている。
・日本でいえば、江戸末期の作品である。誰にもあるだろう初恋と伴う別れの記憶をこれ以上は無理というほど美化して、醜い部分はカットしている。
・悲恋の物語の典型として古典なのだろう。
・森鴎外に「雁」があり、池の中に、入っていく場面がある。この作品の影響か?
・紫式部は琵琶湖に浮かんだ月を見て源氏物語の着想を得たという。この「みずうみ」も月の光、みずうみ、すいれんなどの描写があり、日本人好みの短編になっている。
・絵を見て時間が変化する。さらに、光が消えると部屋は湖に変化し、白いスイレンが浮かんだ空間となる。時空がゆがんだ。この世は池に浮かぶ月でしかない、幻を見ているに過ぎない、実体はあるのかないのか。
・気高く、可憐な白いスイレンの花を取りにみずうみに入るが進めない。泥の上に茎が覆いつくし、足を取られて進めない、ラインハルトを取り巻く世界か……ラインハルトの心の支えでもあるのだが、永遠に手の届かぬ、確固とした生きたことの証……

・夕方、身なりの良い老人がゆっくりと散歩から帰ってくる。町を見下ろす丘の上に立つ自宅には家政婦だけがいて一人暮らしだ。「まだ、明かりはいらないよ」書斎に月の光が差し夫人の絵を浮かび上がらせる。エリーザベトといった。そのとたん、時間が変化した。ラインハルトは青春時代に戻っていた。
5歳のエリーザベトに10歳のラインハルトがお話を作ってやる。ブナの森に苺を取りに行って迷ったり、二人は仲の良い幼馴染として成長すが、ラインハルトは上級学校に進学し町を離れる。
やがて、彼女は生活のため資産家の男と結婚してしまう。ラインハルトの初恋は婚約の申し込みを言い出せないうちに破綻する。
 結婚後、その屋敷に招かれる機会があり、エリーザベトは「母のために強いられた結婚でああり、今でも心の中では、ラインハルトを思っている」ことを知る。
 ラインハルトはみずうみに咲く白いスイレンの花を摘み取ろうと、水の中に入る……
 老人の書斎はいつしか月の光も消え、暗闇となるが、みずうみがあらわれ、白いスイレンが浮かび上がる。
部屋に家政婦が明りを持ってくる。「その明りを机の上に置いておくれ」
机には収集した民話の自著がある。お話をつくる、詩作、民話収集、そこには、エリーザベトがいる。汚濁の世であるが、気高く、可憐な花を思うとき、残された時間を大切に生きようと思う。

森山里望さん 2024/2/2 16:54

大倉れんです
はじめて読んだ作家です。岩波文庫 関泰祐訳で読みました。
作品のタイトルというものは、どの小説においても、読んでいる間ヴェールのようにその世界観を包むような役割を持っていると思っている。この作品も、平易で美しい文章にみずうみのようだと思った。
成就しなかった若かりし頃の淡い恋を題材にした小説は、多いと思う。「華麗なるギャツビー」「マチネの終わりに」「蝉しぐれ」前回の「舞姫」などなど洋の東西を問わずあるように思う。それは回顧する恋が痛みと美しさを持ち、そういう恋の経験を内に秘め、日々の暮らしをこなしている人が多いということではないかと思う。
ただ、現代と違い一、度離れたら気軽に連絡を取ることができない150年以上も前のこと。エリーザベトを一途に思いながら勉学に励んでいたラインハルトが彼女の結婚を知った時の絶望、エーリッヒ邸での再会、永遠の別離の切なさはいかばかりか。背景の湖畔の景色に余韻が重なる。

(文学横浜の会)


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