「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2024年 5月16日
『野火』大岡昇平
<「掲示板」に書き込まれた感想>
上終結城さん 2024/5/2 12:26
大岡昇平の『野火』はいつか読みたい小説ではあった。しかし作品解説などを見ると、凄惨な場面や重苦しいテーマが予想されて、なんとなく手が伸びないままだった。今回ゆっくり読む機会が得られたことを、担当の杉田さんに感謝したい。
1.『野火』の文体
2.『野火』のなかのキリスト教
この作品(エピグラフを含む)には、さまざまな聖句(文語訳聖書。詩編およびマタイ伝)が引用されている。このうちのひとつについて少し説明してみる。
「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」(p137。マタイ伝6章3〜4節)。このイエスの言葉は本来、「善行(たとえば貧しい人への施し)は人に知られないようにしなさい。偽善者たちのように大げさにしてはならない。右手がしていることを左手が気づかないほど、秘かにおこないなさい」という意味である。
3.大岡昇平と開高健
池池内健さん 2024/5/3 17:59
大岡昇平「野火」をどう読んだか
戦時中のフィリピン・レイテ島を舞台に、飢えに苦しむ一等兵が人肉食のタブー破りをかろうじて逃れる物語。極限状況におかれても、信じるものがあれば人間らしさを捨てなくてすむというメッセージを感じた。
主人公の田村一等兵は肺病持ちで中隊の食料集めに参加できず、厄介払いされる。一人でレイテ島をさまようなか、ふとしたはずみで現地女性を殺してしまう。やがてあちこちに横たわる死体に肉を切り取った跡があることに気づく。知り合いの若い兵隊が年配の兵隊を殺して解体をはじめたとき、田村は若い兵隊に銃を向ける。その瞬間、後頭部を打撃されて気を失う……。
田村は子どもの頃、キリスト教に興味をもった。<その後私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、私の青年期は「方法」によって、少年期の迷蒙を排除することに費やされた。その結果私の到達したものは、社会に対しては合理的、自己については快楽的な原理であった>が、レイテ島をさまようなか、あちこちで見かける十字架に少年時代を思い出し、心を動かされる。
では、戦場がカトリック国フィリピンでなければ、「合理的、快楽的な原理」に基づいて生命を維持するため意識的な人肉食をためらわなかったのか。実はフィリピンに到着してすぐ、豊穣な自然に「神」を感じていた。
<比島の熱帯の風物は私の感覚を快く揺った。マニラ城外の柔らかい芝の感覚、スコールに洗われた火焔樹の、眼の覚めるような朱の梢、原色の朝焼と夕焼、紫に翳る火山、白浪をめぐらした珊瑚礁、水際に影を含む叢等々、すべて私の心を恍惚に近い歓喜の状態においた>
田村は死の予感のなかで東南アジア特有の「生の氾濫」を見せてくれた偶然に感謝し、実は「運命」に恵まれていたのではなかったかと思う。そしてこの「運命」という言葉は<もし私が拒まないならば、容易に「神」とおき替え得るものであった>。
田村は女を殺したことで社会に戻れなくなると思い詰める。社会に戻れない(戻らない)なら、社会的規範である人肉食のタブーからは解放される。ましてや田村はすでに「猿」と称する干し肉によって人肉のうまさを覚えていたので、禁忌破りの誘惑は非常に大きかったはずだ。結果的にタブーを破らずにすんだのは、後頭部を打撃される「恩寵」があったからにすぎない。
大岡は、帰国後の田村を精神病院に入れる。堕落した戦後社会と一線を画して尊厳を守らせたかったのだろうか。このあたりは坂口安吾の「堕落論」とも比べたくなる。堕落してでも生きた方が良いという主張も魅力的で、判断はわかれるのではないか。
タイトルの「野火」は、山火事ではなく、トウモロコシの殻を焼く煙。つまりフィリピンにはフィリピン人が住んでいるという当たり前のことを示している。日本軍は米軍と戦ったが、その戦場となったフィリピンでは多くのフィリピン人が日米の戦いのとばっちりを受けた。田村に殺された女性もその一人だ。このことを忘れてはならないという戒めにも思える。
エピグラフ「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」は旧約聖書・詩編23編の一部。この後は「あなた(主=神)がわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる」(新共同訳)と続く。敵陣のなか、飢餓に苦しめられる主人公の祈りの言葉としてふさわしいと思う。エピグラフ引用部の直前には「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(同)とあり、最終的に人肉食の禁忌を(意識的には)破らなかった主人公の運命に呼応している。
ちなみにこの詩編はベトナム戦争を題材とする開高健「夏の闇」にも、米兵が弾よけのおまじない代わりにジッポのライターに刻んだ詩句として登場する。ただしパロディーの形で。
<たとえ、われ、死の影の谷を歩むとも、われ怖れるまじ。なぜってわれは谷のド畜生野郎だからよ>
港朔さん 2024/5/6 09:12
本作『野火』を読むのは二回目である。一回目は、物語の地理的な位置関係がハッキリしないままだったから、今回は地図を参照しながら読んだ ‥‥ やはり前よりよくわかって理解が深まったと思う。一回目は「戦争というものの悲惨を知るためには『野火』と、林芙美子の『浮雲』を読めばいい」という言葉を、何かの文章で目にしたのがキッカケだった。両作品とも読んで、どちらからも強いインパクトを受けた。
p.13 病気は治癒を望む理由のない場合、なにものでもない
敗戦後フィリピンで捕虜になった作家として、他に山本七平がいる。大岡はキリスト教シンパだが、山本はキリスト教徒である。どちらもキリスト教に近い人物であり、日本の作家の中でも同様の特色があるところは、自分としては気になる。両者ともに、宗教的・哲学的な面での活動が目立つように思われるけれど、それはやはり西洋的な(キリスト教的な)考え方の特徴が、そうさせるのだろうか。
十河孔士さん 2024/5/9 06:04
5月課題 大岡昇平「野火」
純然たるフィクション。小説らしい小説。「野火」の文体は他の「俘虜記」や「レイテ戦記」などとは違う。他のは記録文学的な文体。
今回読んで、フィリッピンの原野が舞台であるとともに、作者の頭の中も舞台になっているという印象をもった。また読みすすむうちに、2000年前にイエスがさまよったカナンの地が舞台かと勘違いしそうになった。マタイ福音書からの引用(P.157、P.160)があるし、ニワトリの鳴き声も何回か出てくる。なによりも、人間的苦悩を抱いて彷徨する姿がイエスを彷彿させる。(丸谷才一に「野火」の文体は文語聖書からとったのでは、との指摘があったと記憶する)
〔U〕
・修飾語に修飾されない名詞主体で叙述される、硬質で簡潔な文体。川端「舞姫」を1月に読んだが、「舞姫」は作品のバックボーンに「源氏物語」があることを思わせた。ひるがえって「野火」は、日本的情緒から離れた欧文脈の文体が光る。
・地理・地形に対する作者の執着を感じるが、レイテ島の似かよった風景を書きわける描写力に感銘を受ける。丘、谷、窪地、原、川、河原、草、木、雨、風、陽、星などのイメージは、立ちのぼる野火のそれとともに、鮮烈で勁い。
・死の支配する小説世界に、十字架、教会堂、「われ深き淵より汝を呼べり(デ・プロフンディス)」などキリスト教のイメージ――それは甘美でもある――を併置することにより、極限状態に置かれた人間の精神の動きを奥行のあるものにしている。
・過度の精神状態に置かれた人間が少しずつ崩壊し、最後には精神病院にまで至る過程が見事に描かれている。
〔V〕
若き大岡昇平がその周辺にいた人たちと織りなす青春群像が好きだった。小林秀雄、中原中也、解説を書いている吉田健一、音楽評論家の吉田秀和などなど。こうした人たちからランボーを学び、ボードレールやスタンダール、モーツァルトなど文学や芸術のイロハを学んだ。
いまほり ゆうささん 2024/5/9 17:31
私にとって読書とは楽しみであり、小説家になろうとは1ミリも思っていないので、小説の作り方について論じることは出来ません。ミステリーは好きなのに、戦争を扱った小説は苦手意識が強く読書会で取り上げられなければ、読むことがなかったと思います。まず、読むチャンスを与えて頂いた事に感謝します。
読み始めてみると、確かに極限の中で人を殺したり、人肉を食べたりと非常に重い内容なのですが、文章がとても美しくて引き込まれていきました。あくまでも自分を深く見つめていくその眼、そして彼の左手に象徴される精神性を失うまいとする意志を越えたなにものかが深く心に残りました。
金田さん 2024/5/9 17:52
「野火」、感想
以前読んだ時の感想を、そのまま思い出した。
日本はどうしてこんな戦争をしたのか?
こんな戦争に駆り出されたのは、正に我々の親の世代。
前進は無理だから退却しようとすれば、後ろ(同国の軍)から発砲される。それが負けないための戦いなのだ。
当時の軍部、特に陸軍の乱れはその後、様々な戦争物を読むにつけ、明治の日ロ戦争時のような知性や先見性もなく、唯々、精神論のみで誇大妄想的に戦争に突き進んだ、としか思えず、そんな時代に生まれないで良かった、と密かに思ったものだ。
そんな事は考えたくもないが、もし自分が「野火」作中のような境遇におかれたら、人肉(作中ではサルの肉)を食べるだろうか、と考え、安易に答えは出ない。
だから好戦的な事を云う人にこうした作品を読んで貰いたいと思う。
野守水矢さん 2024/5/10 16:06
この作品には三つの謎がある。
1) 「野火」
2) 食人への禁忌は徐々に薄れてゆく。最初は「或る日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を食べたいと思ったからである(p148)」。ただし、このときは「私は躊躇し、延期した(p149)」。二度目は「剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである(p156)」。結局このときは食人に至らなかった。食べようと思い直して屍体に戻った時には、すでに腐敗していた(p162)」。主人公の心は邪悪な欲望と崇高な神性の間で揺れ動く。安田と永松に出会って、主人公は正体を知らないまま人肉を食べた。永松は猿の肉だと言った (p167)。主人公は永松が敗残兵を銃撃するところを見て「猿」が実は人間であることを確認したが、「私はそれを予期していた(p184)」とあるように、うすうす人肉だと思って食べていたのである。これは永松との「お前も食ったんだぞ」「知っていた」というやりとりからも裏付けられる。迷っていたときに「猿の肉」という言い訳を突きつけられ、主人公は邪悪な欲望に突き進んだ。
3) 「忘却」について
4) 再び「野火」について
山口愛理さん 2024/5/10 18:14
「野火」を読んで
森山里望さん 2024/5/10 21:43
一人の歩兵がたどった、戦場の惨状があまりに生々しく、時折り本を閉じて深呼吸しながらでなければ読めなかった。それでもこの戦争から80年を経た今を平和に小ぎれい暮らしている自分には、この極限状態、惨状のなんたるかの幾分も想像し得ていない、感じ取れていないのだろう。だが、これが多くの人が目を背け、口を閉ざし公にされない事実なのだと思った。
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