「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2024年 5月16日


『野火』大岡昇平

<「掲示板」に書き込まれた感想>

上終結城さん 2024/5/2 12:26

大岡昇平の『野火』はいつか読みたい小説ではあった。しかし作品解説などを見ると、凄惨な場面や重苦しいテーマが予想されて、なんとなく手が伸びないままだった。今回ゆっくり読む機会が得られたことを、担当の杉田さんに感謝したい。

1.『野火』の文体
『野火』は全編が格調高い文体とレトリック、文学的緊張感に貫かれており、一文たりともおろそかに書かれていない。多くの批評家が認めるように、この小説は日本文学がたどり着いたひとつの到達点だろう。ちなみに作家で批評家の丸谷才一は自著『文章読本』のなかで、『野火』の文章を多数引用し、優れた文体、修辞法の見本として解説している。
 ところで、ここで描写されるのは、フィリピンの島を飢餓と病気に苦しみながら彷徨する敗残兵の無残な姿である。主人公の「私」は島民の農作物を略奪し、無辜の娘を射殺し、人肉を喰らう。この異常な体験から「私」はついに発狂する。そして復員後、精神病院での治療のひとつとして、自分の体験を思い返し記録したのがこの作品、という体裁になっている。だからこそ、異常な場面(放置される日本兵の屍体、「私」が犯した殺人、人肉喰いなど)の客観性を確保するために、あえて明晰で冷静な文体で描く必要があったのだろう。
 ただ、この緊迫した文体がずっと続けば、読者はやがて息苦しくなる。そこで、ときに挿入される日本兵どうしの会話では、思い切ってくだけた言葉が交わされ、緊張をやわらげている。

2.『野火』のなかのキリスト教
 主人公の「私」は若き日にキリスト教に触れたことがあり、信仰への憧れがあったらしい。そのため「私」は島民に見つかる危険を冒してまで、十字架へ惹きつけられ教会(カトリック系)に来てしまう。「私」は無意識に、神による救いを渇望していたのだろう。しかし皮肉にも、この教会で恋人たちの逢瀬に遭遇し、偶然から娘を射殺してしまう。そして小説の最後は、キリストへの憧憬と呼びかけで結ばれている。

 この作品(エピグラフを含む)には、さまざまな聖句(文語訳聖書。詩編およびマタイ伝)が引用されている。このうちのひとつについて少し説明してみる。

 「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」(p137。マタイ伝6章3〜4節)。このイエスの言葉は本来、「善行(たとえば貧しい人への施し)は人に知られないようにしなさい。偽善者たちのように大げさにしてはならない。右手がしていることを左手が気づかないほど、秘かにおこないなさい」という意味である。
 しかし、作者(大岡)はそれを承知のうえで、あえて別の意味でこの聖句を使っている。「右手が恐ろしいこと(喰うために屍体の肉を切る)をしようとしたとき、左手が右の手首を握った(妨害した)」。つまり「私」のなかの葛藤を、右手と左手の対立として表現したのである。

3.大岡昇平と開高健
 『野火』には、たとえば「……その上に空は夕焼け、真紅の雲が放射線をなして天頂まで、延びて来た(p58)」など、南方の美しい自然描写がいたるところにある。これを読んで思い出したことがある。
 昨年6月の読書会で小生は開高健の短篇『貝塚をつくる』をとりあげた。この短篇でも南方の自然、たとえばベトナムの海に沈む夕焼けの描写が印象的だった。『野火』も『貝塚をつくる』も、人間の愚行である戦争と、太古から変わらない大自然との共存が描かれている。
 開高は大岡昇平との対談のなかで、自分が大岡作品の愛読者であり、とくに『野火』はかつてむさぼるように読んだと告白している(『人とこの世界』)。開高は自身のベトナムでの戦場体験を、『野火』のような文学作品へ結晶化させたかったに違いない。『野火』は、その後の作家たちが仰ぎ見るような高い位置にある作品なのだろう。

池池内健さん 2024/5/3 17:59

大岡昇平「野火」をどう読んだか

 戦時中のフィリピン・レイテ島を舞台に、飢えに苦しむ一等兵が人肉食のタブー破りをかろうじて逃れる物語。極限状況におかれても、信じるものがあれば人間らしさを捨てなくてすむというメッセージを感じた。

 主人公の田村一等兵は肺病持ちで中隊の食料集めに参加できず、厄介払いされる。一人でレイテ島をさまようなか、ふとしたはずみで現地女性を殺してしまう。やがてあちこちに横たわる死体に肉を切り取った跡があることに気づく。知り合いの若い兵隊が年配の兵隊を殺して解体をはじめたとき、田村は若い兵隊に銃を向ける。その瞬間、後頭部を打撃されて気を失う……。

 田村は子どもの頃、キリスト教に興味をもった。<その後私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、私の青年期は「方法」によって、少年期の迷蒙を排除することに費やされた。その結果私の到達したものは、社会に対しては合理的、自己については快楽的な原理であった>が、レイテ島をさまようなか、あちこちで見かける十字架に少年時代を思い出し、心を動かされる。

 では、戦場がカトリック国フィリピンでなければ、「合理的、快楽的な原理」に基づいて生命を維持するため意識的な人肉食をためらわなかったのか。実はフィリピンに到着してすぐ、豊穣な自然に「神」を感じていた。

<比島の熱帯の風物は私の感覚を快く揺った。マニラ城外の柔らかい芝の感覚、スコールに洗われた火焔樹の、眼の覚めるような朱の梢、原色の朝焼と夕焼、紫に翳る火山、白浪をめぐらした珊瑚礁、水際に影を含む叢等々、すべて私の心を恍惚に近い歓喜の状態においた>

 田村は死の予感のなかで東南アジア特有の「生の氾濫」を見せてくれた偶然に感謝し、実は「運命」に恵まれていたのではなかったかと思う。そしてこの「運命」という言葉は<もし私が拒まないならば、容易に「神」とおき替え得るものであった>。

 田村は女を殺したことで社会に戻れなくなると思い詰める。社会に戻れない(戻らない)なら、社会的規範である人肉食のタブーからは解放される。ましてや田村はすでに「猿」と称する干し肉によって人肉のうまさを覚えていたので、禁忌破りの誘惑は非常に大きかったはずだ。結果的にタブーを破らずにすんだのは、後頭部を打撃される「恩寵」があったからにすぎない。

 大岡は、帰国後の田村を精神病院に入れる。堕落した戦後社会と一線を画して尊厳を守らせたかったのだろうか。このあたりは坂口安吾の「堕落論」とも比べたくなる。堕落してでも生きた方が良いという主張も魅力的で、判断はわかれるのではないか。

 タイトルの「野火」は、山火事ではなく、トウモロコシの殻を焼く煙。つまりフィリピンにはフィリピン人が住んでいるという当たり前のことを示している。日本軍は米軍と戦ったが、その戦場となったフィリピンでは多くのフィリピン人が日米の戦いのとばっちりを受けた。田村に殺された女性もその一人だ。このことを忘れてはならないという戒めにも思える。

 エピグラフ「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」は旧約聖書・詩編23編の一部。この後は「あなた(主=神)がわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる」(新共同訳)と続く。敵陣のなか、飢餓に苦しめられる主人公の祈りの言葉としてふさわしいと思う。エピグラフ引用部の直前には「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(同)とあり、最終的に人肉食の禁忌を(意識的には)破らなかった主人公の運命に呼応している。

 ちなみにこの詩編はベトナム戦争を題材とする開高健「夏の闇」にも、米兵が弾よけのおまじない代わりにジッポのライターに刻んだ詩句として登場する。ただしパロディーの形で。

<たとえ、われ、死の影の谷を歩むとも、われ怖れるまじ。なぜってわれは谷のド畜生野郎だからよ>

港朔さん 2024/5/6 09:12

本作『野火』を読むのは二回目である。一回目は、物語の地理的な位置関係がハッキリしないままだったから、今回は地図を参照しながら読んだ ‥‥ やはり前よりよくわかって理解が深まったと思う。一回目は「戦争というものの悲惨を知るためには『野火』と、林芙美子の『浮雲』を読めばいい」という言葉を、何かの文章で目にしたのがキッカケだった。両作品とも読んで、どちらからも強いインパクトを受けた。
 インパクトが強すぎるからなのか、なかなか言葉にならないので、名言と思われる部分が多くあったのでそれを抜き出して感想に替えようと思う。

p.13 病気は治癒を望む理由のない場合、なにものでもない
p.16 いわゆる生命感とは、今おこなうところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。
p.74 ある行為をしたいと欲し、結果の確率が不明の場合、私はいつもやってみることにしていたのである。
p.193 人間どもが不思議でならない。人間同士の愛と寛大、つまりヒューマニズムについて、あれほど大言放語している彼らがである。
p.195 現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに騙されたいらしい人達を私は理解できない。 ‥‥ 戦争を知らない人間は、半分は子供である。
p.196 不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要にとって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であった。その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。

 敗戦後フィリピンで捕虜になった作家として、他に山本七平がいる。大岡はキリスト教シンパだが、山本はキリスト教徒である。どちらもキリスト教に近い人物であり、日本の作家の中でも同様の特色があるところは、自分としては気になる。両者ともに、宗教的・哲学的な面での活動が目立つように思われるけれど、それはやはり西洋的な(キリスト教的な)考え方の特徴が、そうさせるのだろうか。
 同じような(ジャングルをさ迷ったという)境遇でも、ニューギニア、ニューブリテン島のラバウルで敗戦を迎えた水木しげる(漫画家)などは現地民と親しくなり、そこに残ることを強く希望した(周りに説得されて帰国の道を選んだ)とのことだが、こちらの方はとても日本的な気がする。

十河孔士さん 2024/5/9 06:04

5月課題 大岡昇平「野火」
〔T〕
 戦争の悲惨さ、不毛さや暴力性などとともに人肉食(カリバリズム)などを扱った、まぎれもない「戦争小説」。だが、それとともに孤独な自意識を執拗に追い、死の淵にいる人間と神の関係を扱った「心理小説」と読んだ。

 純然たるフィクション。小説らしい小説。「野火」の文体は他の「俘虜記」や「レイテ戦記」などとは違う。他のは記録文学的な文体。

 今回読んで、フィリッピンの原野が舞台であるとともに、作者の頭の中も舞台になっているという印象をもった。また読みすすむうちに、2000年前にイエスがさまよったカナンの地が舞台かと勘違いしそうになった。マタイ福音書からの引用(P.157、P.160)があるし、ニワトリの鳴き声も何回か出てくる。なによりも、人間的苦悩を抱いて彷徨する姿がイエスを彷彿させる。(丸谷才一に「野火」の文体は文語聖書からとったのでは、との指摘があったと記憶する)

〔U〕
 この作品は若いころ読んで、とても影響をうけた。以下はその理由のうちの主要なもの。
・スタンダールに多くを学んだ理知的で透徹した分析眼。ヴァレリーはポーの作品について「数学的阿片」といったが、そうしたことをこの作品を読んで感じる。まるでパズルのピースが、ピタッピタッとはまっていくような快感がある。

・修飾語に修飾されない名詞主体で叙述される、硬質で簡潔な文体。川端「舞姫」を1月に読んだが、「舞姫」は作品のバックボーンに「源氏物語」があることを思わせた。ひるがえって「野火」は、日本的情緒から離れた欧文脈の文体が光る。

・地理・地形に対する作者の執着を感じるが、レイテ島の似かよった風景を書きわける描写力に感銘を受ける。丘、谷、窪地、原、川、河原、草、木、雨、風、陽、星などのイメージは、立ちのぼる野火のそれとともに、鮮烈で勁い。

・死の支配する小説世界に、十字架、教会堂、「われ深き淵より汝を呼べり(デ・プロフンディス)」などキリスト教のイメージ――それは甘美でもある――を併置することにより、極限状態に置かれた人間の精神の動きを奥行のあるものにしている。

・過度の精神状態に置かれた人間が少しずつ崩壊し、最後には精神病院にまで至る過程が見事に描かれている。

〔V〕
 若いころ(今でも)死ぬまでに一度でいいから、こういう小説を書きたいと願っていた。今までに7〜8回は読んでいるが、こんなことは他の作品・作家にはない。

 若き大岡昇平がその周辺にいた人たちと織りなす青春群像が好きだった。小林秀雄、中原中也、解説を書いている吉田健一、音楽評論家の吉田秀和などなど。こうした人たちからランボーを学び、ボードレールやスタンダール、モーツァルトなど文学や芸術のイロハを学んだ。
 「野火」はぼくにとって、自分の若いころを思い出させ、「昔の女を見るような(P.80)」気にもさせる作品である。
以上   

いまほり ゆうささん 2024/5/9 17:31

私にとって読書とは楽しみであり、小説家になろうとは1ミリも思っていないので、小説の作り方について論じることは出来ません。ミステリーは好きなのに、戦争を扱った小説は苦手意識が強く読書会で取り上げられなければ、読むことがなかったと思います。まず、読むチャンスを与えて頂いた事に感謝します。

読み始めてみると、確かに極限の中で人を殺したり、人肉を食べたりと非常に重い内容なのですが、文章がとても美しくて引き込まれていきました。あくまでも自分を深く見つめていくその眼、そして彼の左手に象徴される精神性を失うまいとする意志を越えたなにものかが深く心に残りました。

金田さん 2024/5/9 17:52

「野火」、感想

以前読んだ時の感想を、そのまま思い出した。

日本はどうしてこんな戦争をしたのか?

こんな戦争に駆り出されたのは、正に我々の親の世代。
当方の父親は海軍だと聞いていたから、このような悲惨な目にはあわなかったと想像するが、悲惨さは同じだ。つまり船の中では逃げ場がないから死の確率は高い。
親父が「あんな戦争はやるもんじゃねぇ」と言っていたが、正にどんな戦争でも、現在のロシアの侵略戦争を見ても、駆り出される兵士には悪夢しか残らないだろう。

前進は無理だから退却しようとすれば、後ろ(同国の軍)から発砲される。それが負けないための戦いなのだ。

当時の軍部、特に陸軍の乱れはその後、様々な戦争物を読むにつけ、明治の日ロ戦争時のような知性や先見性もなく、唯々、精神論のみで誇大妄想的に戦争に突き進んだ、としか思えず、そんな時代に生まれないで良かった、と密かに思ったものだ。

 そんな事は考えたくもないが、もし自分が「野火」作中のような境遇におかれたら、人肉(作中ではサルの肉)を食べるだろうか、と考え、安易に答えは出ない。
つまり人間はそうした状態になって初めて、自分が見えてくるように思うのだ。 そうは思うが、自分は潔く死んでやる。でもそう言う境遇になったらと考え、結局はどんな戦争もしないに限るのだ。

だから好戦的な事を云う人にこうした作品を読んで貰いたいと思う。

野守水矢さん 2024/5/10 16:06

この作品には三つの謎がある。
1)「野火」について。
作者はなぜ、この作品のタイトルを「野火」としたのだろう。主人公にとって「野火」はどのような意味を持つものだろうか。
2)「食人の禁忌について」
主人公はいつ「猿の肉」を人肉と知って食べたのか。本当に、自ら進んで食べなかったのだろうか。
3)「忘却」について
主人公はなぜ記憶を失ったのか、後に思い出した記憶は正しいのか。記憶を失っている間、主人公は何をしたのか。
この三つの謎について考えてゆく。

1) 「野火」
本隊から病院に戻る途中で見た野火は、死の象徴として描かれている。野火の下には住民であれゲリラであれ比島人がいる。そして比島人は全員が敵である。
記憶を失っていときに見た野火は、何だったのだろうか。「私はあの忘却の灰色の期間が、処々、粒を立てたように、野火の映像で占められているのを感じる(p. 203)」「火が来た。理由のない火が、私を取り巻く草を焼いて、早く進んで来る。首を挙げ、口を開いて迫って来る。煙の後ろに、相変わらず人間共が笑っている(p. 207)」
この時の「野火」は、心に現れた死の象徴だろうか。あるいは、記憶を失う原因となった衝撃と関係しているのだろうか。
では、病院で感じる野火は何の象徴なのか。「この病院を囲む武蔵野の低い地平に、見えない野火が数限りなく、立ち上がっているのを感じる(p. 203)」 
これがわかれば、作者がタイトルを「野火」とした理由もわかるであろう。後に検討する。

2) 食人への禁忌は徐々に薄れてゆく。最初は「或る日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を食べたいと思ったからである(p148)」。ただし、このときは「私は躊躇し、延期した(p149)」。二度目は「剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである(p156)」。結局このときは食人に至らなかった。食べようと思い直して屍体に戻った時には、すでに腐敗していた(p162)」。主人公の心は邪悪な欲望と崇高な神性の間で揺れ動く。安田と永松に出会って、主人公は正体を知らないまま人肉を食べた。永松は猿の肉だと言った (p167)。主人公は永松が敗残兵を銃撃するところを見て「猿」が実は人間であることを確認したが、「私はそれを予期していた(p184)」とあるように、うすうす人肉だと思って食べていたのである。これは永松との「お前も食ったんだぞ」「知っていた」というやりとりからも裏付けられる。迷っていたときに「猿の肉」という言い訳を突きつけられ、主人公は邪悪な欲望に突き進んだ。

3) 「忘却」について
偶発的な殺人も受動的な食人も受け入れてしまった主人公が受けた、記憶を失うほどの衝撃といえば「意図的な殺人、能動的な食人」しかないだろう。永松に銃口を向けた直後、記憶が途絶えた時、主人公は永松を射殺した。「食べなかった」と主張しているが、曖昧な記憶である。しかも、主人公の神性はすでに失われていた。
主人公は敗残兵を狩って食べたのだろうか。
「いた、人間がいた。射った。当らない。彼は勾配を走り下り、最早私の弾の届かないところまで行くと、自信ありげに背をのばして、すたすたと一つの林に入ってしまった (p206)」。この明瞭な記憶は、おそらく上書きされたものではあるまい。主人公は「食べなかった(p. 208)」と言うが、命中した狙撃もあっただろう。主人公は自らの意思で殺人を犯し、その肉を食べたのではないか。
主人公は全てを忘却した。苦しみから逃れるために忘却せざるを得なかった。常々、誰かに見られている感覚から逃れられなかった主人公を、実際に見ていたのは猿を獲る敗残兵の銃口かもしれないが、神であったのかもしれない。

4) 再び「野火」について
永松を殺した後に主人公が見た「野火」は本当の野火なのか。野火は何を象徴しているのだろう。本隊を追われた時のように、死の観念を象徴していたのだろうか。
「火が来た。理由のない火が、私を取り巻く草を焼いて、早く進んでくる。首を挙げ、口を開いて迫って来る。煙の後ろに、相変わらず人間共が笑っている(p207)。
人間共とは、誰だろう。主人公が殺した人たちか。彼らの怨念が、主人公を責め苛んでいたのだろうか。蓋をして閉ざした心から滲み出るわずかばかりの良心。
そして入院。
「この病院を囲む武蔵野の低い地平に、見えない野火が数限りなく立ち上っているのを感じる(p203)」
主人公にとって、見えない野火は何なのだろう。私には。それは、主人公の虚になった魂のような気がする。
「野火」、それは良心を責め苛む巨大な業火であり、立ち直ることのできない虚な魂であろう。

山口愛理さん 2024/5/10 18:14

「野火」を読んで
大岡昇平は、前知識無く初めて読んだ。じめっとした日本的な文章を予想していたが、良い意味で裏切られた。
肺病を病んで、自軍からも病院からも放り出され、敵が潜伏しているフィリピンの原野を飢餓状態で彷徨う。先ず、どうにも逃げ切れない極限に置かれたこの設定が効果的。主人公は意味のない殺人を犯したり、うすうす気づいていた人肉を食したりもする。だが、積極的に捕食することは最後までできない。
救いの象徴であるはずの遠くに見える十字架は、近づくとその用をなさない。一方、何度も現れる野火は、その下に敵がいるかもしれないにもかかわらず、原野における主人公の彷徨える魂の唯一の指針のようにも見える。
主人公は最後には狂人となる。後頭部に打撃を受けてからは朦朧とした幻想的な展開となるが、それは主人公の頭の中そのものであるかもしれない。声高に叫ぶ反戦文学よりもずっしりと重いものがある。
この悲惨な状況を、実に美しい文学的な表現で表す。フランス文学を専攻していた作者のこだわりが垣間見える。このギャップが「野火」の小説としての醍醐味である、と思った。

森山里望さん 2024/5/10 21:43

一人の歩兵がたどった、戦場の惨状があまりに生々しく、時折り本を閉じて深呼吸しながらでなければ読めなかった。それでもこの戦争から80年を経た今を平和に小ぎれい暮らしている自分には、この極限状態、惨状のなんたるかの幾分も想像し得ていない、感じ取れていないのだろう。だが、これが多くの人が目を背け、口を閉ざし公にされない事実なのだと思った。
戦場の地形、位置関係を把握するのが難しかった。
淡々とした冷静な描写、文が、戦争という愚かな所業をストレートに突き付けてくる。

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