「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
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2024年 6月06日


「墓堀り男をさらった鬼の話」「信号手」ディケンズ

       「ディケンズ短編集」岩波文庫  より

<「掲示板」に書き込まれた感想>

克己 黎さん 2024/5/16 19:49

『ディケンズ短篇集』「墓掘り男をさらった鬼の話」「信号手」(小池滋・石塚裕子訳・岩波文庫・1986)を読んで

克己黎

持病の頚椎椎間板ヘルニアが見つかったことや、過重労働へのストレスから前職を退職し、次の会社まで有給休暇を消化していた頃に、文横読書会の課題図書に取り組んだ。

岩波文庫の赤228-7のこのディケンズ短篇集は、文字の字体が古い字体で小さくつぶれたような文字のため、読みにくい。昔の時代の人は目が良かったのだなあ、とか、読みづらくても読んだのだなあ、とか、感心せざるを得なかった。

今回、担当の林さんがディケンズを選んでくださったことにまずはお礼を言いたい。
映画で何度も観ている「オリヴァー・ツイスト」、「クリスマス・キャロル」「大いなる遺産」の作者であるディケンズの著作は、文字で読んだことが一度も私は無かったため、今回、初めて、ディケンズの作品を読むことが出来た。またディケンズ原作の映画を5本ほど見て、感覚を感じた。

短篇のため、受け入れやすく、取り掛かりやすかった。あまり長い文章は好きな文体の小説でないと、読みづらいことがある。今回は短篇で、非常にありがたかった。 

「墓掘り男をさらった鬼の話」を読んで

●「一生懸命仕事をして、働きづめなのにごくわずかの食い扶持しか稼げないでいる人々がにこにこして仕合わせだったし、まったくの無学の人たちにとっては、自然の慈愛あふれる顔が必ずといっていいほど慰めと喜びの源になることが判った。」(頁21?頁22)
に、おだやかな共感を感じた。

「信号手」を読んで

●エドガー・アラン・ポーや、「トワイライト・ゾーン」「世にも奇妙な物語」のようで、ミステリーとして大変面白く読めた。

添付ファイルはこの読書会のために父から借りたディケンズの映画です。

港朔さん 2024/5/24 21:26

ディケンズを読むのは初めてである。
 またイギリス文学と呼ばれるものを読むこと自体、あまり無かったことに気がついた。この文学横浜の、私が入会してからの読書会を振り返ってみたが、イギリス文学はアガサ・クリスティーを読んだのが唯一であった。
 キャサリン・マンスフィールド、エドガー・アラン・ポーは読んでいる。どちらも英語で書かれていて、英連邦内の国の人ではあるが、マンスフィールドはニュージーランドであり、ポーはアメリカであって、イギリス本国の人ではない。どちらも数百年前までは植民地であり植民地の人として、そちらの自然と歴史の中で育った人たちであった。

 イギリスは、面白い国だと思う。他のヨーロッパ諸国とはちょっと違う。私は音楽が好きだけれど、イギリスにはこれといった有名な音楽家がいない。美術家についても同様のようである。ドイツやフランスなど、またイタリアやロシアなどは、いくらでも名前が出てくるけれど、イギリスにはその類(たぐい)の人が、いないわけはないのだろうけれど、すぐには思い浮かばないのである。つまり芸術関係の有名人ということでは数が少ないのではないだろうか。
 それとは対照的に、イギリスは戦争に関してはもっぱら強い。ここ数百年の世界史をみてみれば、イギリスが戦争に負けたことが一度だってあっただろうか。アジアに進出し、東インド会社を設立して以来、富を一手に引き受け、それをせっせとロンドンに運んで大金持ちになった。ヨーロッパの他の国々も、それを真似て東インド会社を設立したが、この巧妙な錬金術を発明したのはイギリスであった。
 ロンドンからは多くのイギリス人がインドへ渡ったが、その人数の半数は帰って来なかったという。現地で、とくに疫病などで死亡したのが原因だったとのことである。しかしそんな事はもろともせずに、男たちはインドへ繰り出していったのだ。よほど冒険が好きな国民性のようである。
 課題提供者の林さんは「イギリス文学にはファンタジーが多い」と書かれている ‥‥ なるほどそうか、と思わせられた。ファンタジーと冒険は共通点が多い ‥‥ ファンタジーに行動が伴えば、これはすなわち冒険ではないか。そんな国民性は、あきらかに文学にも現われているように思われる。

『墓掘り男をさらった鬼の話』
 この話は、人を教化しようとする意図を持った教訓物語である。いわばイソップ童話の長編版、あるいは大人版とも言えそうな物語だ。クリスマスに集まった子供たちに聴かせる物語としてはとてもふさわしい。

『信号手』
 過去に(子供の時に)読んだかもしれない、既視感のある物語だった。怪談として、名作だと思う。解説では、ディケンズがこの物語を書いた年の前年、すなわち一八六五年の六月九日に列車事故に遭っている。そしてその五年後の同じ六月九日に彼自身が死亡しているとのことだ。偶然だろうけれど不気味な偶然であり、この事実は物語の不気味さと呼応して、気味の悪さをさらに増大させている。

池内健さん 2024/5/26 13:11

「墓堀り男をさらった鬼の話」

民話のような短編。めでたいクリスマスに他人をいやな気分にさせて喜んでいる主人公ゲイブリエルが鬼がさらわれ、肉体的に打ちのめされる。そして貧しい人々が慎ましくも幸せに感謝するイメージを見せられていく。そのなかには子だくさんの家庭で一番小さな子が死ぬ場面もあった。家族は穏やかに死を受け入れる。

ゲイブリエルはこうしたイメージを見るうちに、貧しい人たちが苦しみを乗り越えられるのは<幸福と満足と安らぎを胸のうちに貯えていたから>であり<愛情と献身のけっして涸れることのない泉があるからだ>と悟る。眠りから覚めた後、夢かとも思うが、肉体に残る痛みから実際にあったことだと考え、改心する。しかし、これまでの嫌な自分のことを知っている人々には理解されないだろうと、住み慣れた町を離れていく。

より有名なディケンズの小説「クリスマスキャロル」の主人公スクルージも他人をいやな気分にさせるろくでもない人物で、精霊に過去、現在、未来のイメージを見せられて改心する。よく似た筋立てだが、ゲイブリエルと違うのは裕福な商人であること。ゲイブリエルは貧しく、他人からあまり評価されない仕事に従事しているので、ひねくれた性格にも一定の理解が得られやすい。その分、改心の必然性が小さくなっている気がする。

また、スクルージが改心に至るもっとも大きな理由は、孤独死する自分の将来にショックを受けたことだ。家族思いの使用人クラチットの家で素直な末っ子ティムが亡くなり、多くの人たちが悲しむのとは対照的に描かれ、スクルージの「死」の惨めさがいっそう効果的に強調されている。いつかは訪れる「死」を実感することで「生」を大事にしようという気持ちがスクルージに芽生えたことを、読者は無理なく受け入れるだろう。これに対して「墓堀り男」のゲイブリエルは日頃から職業的に「死」に接している。「死」と「生」の対比は弱く、単に鬼に懲らしめられたから心を入れ替えた、というふうに見えてしまう。ディケンズはそのあたりの効果もふまえ、主人公の設定を調整したのではないか。

もう一つの課題作「信号手」は、鉄道員が事故を防ぐため身代わりになる話。三浦綾子の「塩狩峠」を連想させる。

野守水矢さん 2024/5/26 15:20

@自由に感想をお願いします。
課題として挙げた以外の他の短編についての感想でも構いません。
また、「ディケンズ短編集」以外の他のディケンズの作品の感想とを合わせてお答えいただいても構わないです。

★ディケンズは小学生か中学生の時に読んだ「二都物語(おそらく新潮文庫)」以来である。二都物語は、内容は覚えていないが、革命を背景にした冒険物語だったような記憶が残っている。
 課題の短編集を読んで、二都物語とは全く印象が異なるので、「これは同じ作家の手になるものだろうか」と不思議な気になった。あるいは、昔の読書の記憶が不確かなのかもしれないが。
 ディケンズの真髄は何なのだろう。もう一度「二都物語」を買いなおして読もうか。

A「墓堀り男をさらった鬼の話」は、解説にもありますように7年後に刊行された「クリスマス・キャロル」の原型ともいえる短編です。「墓堀り男をさらった鬼の話」と「クリスマス・キャロル」との比較や、7年間の間にディケンズがどのように思索して「クリスマス・キャロル」を執筆するにいたったのかなど考察がありましたらお願いします。

★ディケンズは、クリスマスに霊的な何者かが現れて、主人公が改心するストーリーを描きたかった。これは二作とも変わっていない。
★「墓堀り男をさらった鬼の話」では会心のきっかけが鬼による暴行である。おそらく、ディケンズは、この作品では満足できなかった。クリスマスには、キリスト教的ではなく暴力的な鬼や、墓地のように陰気な場所はふさわしくないと考えたのでしょう。それに小説としての完成度も低い。鬼を精霊に変え、場所を墓から家に変え、筆力を向上させてしっかりと書き上げたのが「クリスマス・キャロル」であろう。「クリスマス・キャロル」は「墓堀り男をさらった鬼の話」の完成形。

B「信号手」には幽霊が登場しますが、日本の幽霊とは様子が異なるように感じました。
恐怖だけではなく、事故を警告してくれていたと捉えることもできますが、薄気味悪い印象はぬぐえません。
日本の怪談との比較で何か感じるところがありましたら、感想をお願いします

★実態の見えない超自然現象で、人を救うことも害することもしない。ただ、危険の予兆として現れる。実体は見えず、幽霊の出現から時間をおいて、必ず事故が起こる。
日本の幽霊・妖怪と比べると、実態が見えないところ、出現から時間をおいて事故が起こる点、幽霊は自分で手を下さない点が異なり、このような違いのせいで、本作品の幽霊は日本の幽霊より不気味さが増し、切迫した恐怖感が低くなっている。

・日本の怪談:
「牡丹灯籠」のお露、「番町皿屋敷」のお菊など、生前の強い思い(愛欲、怨恨)を持ったまま死んだ人間の魂が、その思いを遂げるために現れるもの。
「ろくろ首(小泉八雲)」は幽霊というよりむしろ妖怪。狢・狸と同類の、人を驚かす異形の妖怪。
「雪女(小泉八雲)」は妖怪。直接人を殺す。

金田さん 2024/5/26 18:47

ディケンズと言う作家は初めてです。
どこの国の人かも知りませんでした。

感想

「墓堀り男をさらった鬼の話」感想

 一読して、日本の「浦島太郎」の噺と似ているのかなと想い、映画「ハリーポッター」を想った。
最も、「ハリーポッター」は一作しか見ていないが。

 墓掘り人・ゲイブリエル・グラブがクリスマスイブの夜、墓場に住まう鬼の住処に連れていかれ、その後、失踪して年を経て戻ってきた、と言う噺として読んだ。
鬼の姿・形から映画「ハリーポッター」を想ったのだ。

 墓場に現れるのは、日本の場合は幽霊、おばけ、人魂だが、西洋では鬼なのだろうか。
とすれば日本で言う処の鬼のイメージとは違うのかも知れない。

 墓掘り人が鬼からもらった物は「肩のひりひりする痛み」だけとは「浦島太郎」が手土産に玉手箱をもらった事と比べれば、なんとも乏しい。

 この噺を墓掘り人がクリスマスイブに行く子供に悪さをしたのを懲らしめる、教訓譚として読むには些か疑問だが、外国ではどのように読まれているのだろうか?

「信号手」感想

 淋しい陰気な場所で、しかも一人で、正確と重い責任を背負わされた信号手が、超自然現象になやまされ、事故死に至る物語り、として読んだ。

「おうい! そこの下の人!」で始まる物語りは、現実と信号手の妄想が入り乱れて、その言葉の信号手に与える意味を読者に知らしめる作者の力量に感服。

上終結城さん 2024/5/28 09:32

チャールズ・ディケンズの小説は初めて読んだ。サマセット・モームの『世界の十大小説』(岩波文庫)にディケンズの『ディヴィッド・コパーフィールド』が取り上げられていて、世界的作家であるとの認識はあったが、残念ながら読む機会がなかった。今回、短篇ながらこの作家の作品に接することができ、担当の林さんに感謝したい。

1.『墓掘り男をさらった鬼の話』について
 巻末の解説によると、当時(十九世紀)の英国では、クリスマスの晩に子どもたちを集めて怪談を聞かせることが、家庭のだんらんの一項目だった、とある。日本の夏休みの林間学校で、先生が生徒たちを集め、子どもが怖がる怪談を聞かせるようなものか。
 他人の家庭の幸福を苦々しく思うひねくれ男を、鬼(Goblin)がからかい罵倒し、改心させる話。一種の教訓話のように読める。

2.『信号手』について
 未来予知(とくに災いの予知)などの超常現象や幽霊をあつかった話。解説によると、ディケンズが旅行中鉄道事故に遭遇し、その恐怖体験が背景にあるとのこと。

3.自由感想
 怪異譚や幽霊譚は、最も古くからある物語素材のひとつだろう。しかし小説の中で怪異や幽霊話を効果的に、かつ美的に、グロテスクにならず、それでいてひやりとした鬼気を描くこと、これは至難である。小生は(無謀にも)文横へ投稿した過去の作品でそのまねごとを試みたが、その困難さを痛感した。日常的なストーリーのなかに、違和感なく怪異を挿入させる塩梅が微妙なのだ。佐藤春夫は「文学の極意は怪談である」といったらしいが、このあたりの事情を指しているのだろう。

山口愛理さん (8vvw80xm)2024/5/29 16:47

「ディケンズ短編集」を読んで

若い頃、ファンタジー・ノベルを書きたいと思った時期があった。入れ込みたいエピソードやアイディアはたくさんあったが、それをまとめて小説にするとなるとめちゃくちゃ難しかった。個人的意見になるが、通常の小説よりもファンタジー小説(もしくはファンタジー要素のある小説)の方がずっと難しく高度な技術を要すると思う。というわけで、自分で書くのは遠いゴールとなりそうだが、そんな要素を持つ日本の好きな現代作家は、村上春樹、森見登美彦、村田喜代子、多和田葉子などである。彼(彼女)達の頭の中はどうなっているのだろうと、尊敬しかない。

・イギリスのファンタジーと日本のファンタジー
イギリスのファンタジーで私が惹きつけられたのは、児童文学のフィリパ・ピアスだ。SFファンタジーとして有名な『トムは真夜中の庭で』や想像上の犬を飼う『まぼろしの小さい犬』などを大人になってからも夢中で何度も読み返した。庭の描写にしても幽霊の描写にしても、やはりイギリスの気候風土が効いている。これを日本で表現しようとすると、ちょっと違ったものになるだろう。一般に日本の幽霊はその姿を見ておどろおどろしく怖いので視覚的、海外の幽霊は聴覚や触覚や第六感も伴っていて、姿を見なくても怖いのでより一層感覚的だと言われている。

・墓堀男をさらった鬼の話
ディケンズを読むのは初めてで「クリスマス・キャロル」も読んだことは無いが、この話はその原型らしい。墓堀男という職業があったのも知らなかったのだが、鬼の存在は面白い。この鬼は日本の鬼と違って、イメージとしてはトランプのジョーカーのようだと私は思った。鬼が普通に人間と話をするところが良い。鬼が教会墓地で、男の生涯を映画のように見せてくれたシーンが印象的だ。

・信号手
少しホラー的な要素のあるミステリータッチの小説。非常に構成が上手いと思う。主人公が出会った、陰気で不思議な雰囲気を漂わせる信号手の男。主人公の気持ちになってちょっとおびえながら、この先何が起こるのだろうと読み進めることができる。ディケンズが実際に汽車の事故に遭ったことをもとにしたという。幽霊と予言の物語。

十河孔士さん (8cgoi80h)2024/5/29 20:43

「墓掘り男をさらった鬼の話」
・クリスマスを題材とした、ディケンズらしい物語。

「信号手」
・人里離れた淋しいところでひとり働く信号手が幽霊と出会い、最後には列車事故で死んでいく話。
・信号手の話を通じて、信号手だけでなく物語の書き手である「私」も幽霊の住む異界に取りこまれるような話。
・日本にもこうした物語は、小泉八雲の怪談物など、あるように思った。

 2作とも読者をもゾッとさせる、ホラー的要素に富んだ読み物。しかしそれは現実の世界とは一線を画した「読み物」であり、読者は安心して物語を楽しむことができる。ヴィクトリア朝の作家と読者の幸福な関係を、垣間見る気がした。ところどころに挿入されたイラストも、物語の効果を高めている。

大倉 れんさん 2024/5/31 12:45

読みたいと気になっていながら読めずにいた本なので、取り上げてくださり嬉しかったです。
「墓堀男をさらった鬼の話」
書き出し、構成が昔話のよう。中でもアイルランド(ケルト族)の昔話の要素、世界観を濃く感じた。常に生活の中に妖精、小人、鬼などの存在を感じ認めながら暮らしている(いた?)というケルトの人々の口承文学をベースにして書いたかと思ったほど。
また、かの「クリスマスキャロル」のための習作でもあるように思った。

「信号手」
主人公「信号手」が、私には謎めいて物静かで品性と知性を感じるとても魅力的な人物だ。
それだけに結末が、ドキリと悲しかった。
ストーリー中の謎が、パズルを当てはめるように解かれるのだが、幽霊とねじれた時の介在が探ってはいけない謎を残しているようで、重い余韻を残す。
日本の幽霊は思う人がいてその人を目指して出てくる、また、何かの事情で成仏できず、助けを求めてさまよい現れ出るというものらしい。そのため日本の幽霊話は情に走り涙をさそう怖さがあるものが多いと思う。

その他
全編を読んで挿絵が良かった。当時のイギリスの生活様式、風俗を描くのに助けになった。
私が読書の醍醐味を味わう多くは、ファンタジー短編、妖精物語にある。中でもエリナー・ファージョン、メアリー・ド・モーガンが好きだ。ただの美しい空想物語ではない。しなやかな力強さがある。人間と違う妖精や鬼のやり方で人の心の深部に入り込んでくる。交わることはあっても、住人にはなれない世界ではあるが、この世界を心内に持ち描いていたい。視聴覚で確認出来て、物理的に存在するものの中だけで生きていくのは貧しく味気ないものだから。

成合武光さん (8ne9k260)2024/5/31

『墓掘り男をさらって行ったもの』 感想

「墓掘り」という仕事だけでも寂寞な感じがします。その仕事を続けるだけでも孤独な世界に耐える忍従が居るのではないでしょうか。その仕事をしている男が何者かにさらわれる。誘拐? お金? ・・事件? 十分に気持がそそられます。
 現れたのは、ゴキブリの爪のような靴を履いた男だ。いっぺんにおとぎ話の世界になる。このような手法、アイデアに驚きます。感嘆します。世の中の人の目にも入らないような人間が物語に登場する。させるという頭脳はどんな頭脳だろう、とも思いました。
 物語は「孤独」です。「心の貧しさ」です。これはすべての人に心当たりがあり、文筆に関わる人の一時も心離れない関心ごとです。どうやったら人々に幸せをもたらせられるでしょうか。・・答えは「愛」でした。
 しかし、ここでもその「愛」はキリスト教が背景にあります。「愛」に宗教は関係ありません。その通りでしょう。しかしキリスト教を持ち出さないと何故物語が出来ないのか? やっかみです。そうだと十分に分かっています。宗教には所属していない私だからでしょうか、それが私の第一印象、感想・・でした。
すぐには感想が書けませんでした。掲示板を開き会員の方の書き込みを読み、慧眼しました。なにを?…秘密です。創作秘密。大げさな!全く。何ものになるかも分からない。諸先輩方にとっては、なーんだそんなこと!と言われるでしょうから、今だけ秘密にします。本の提案ありがとうございました。私の前に掲示板に書き込まれた会員の皆様に感謝します。
浅学で誠に申し訳ありません。ついでにもう一つ教えて頂けると有難いです。難聴のためリアル読書会には出席をしていませんので、恐縮なのですが出来たらお願いします。
前回の『野火』(大岡昇平)について、この作品は「日本的な手法で成功した…」とありましたが、「日本的な手法」とは、どのようなことなのでしょうか? 教えて下さい。
長々と書き込みすみません。(5月31日)

いまほり ゆうささん 2024/5/31 21:39

「墓掘り男をさらった鬼の話」感想

 日本の昔話「こぶとりじいさん」を思い起こしました。どちらも鬼が出てきますが、日本の鬼ととイギリスの鬼ではイメージが違うのでしょうね。日本の鬼の方が少しユーモラスな気がします。勧善懲悪な所も似ていますが、「墓掘り男・・」はキリスト教の思想に貫かれている点が大きく異なります。
 「クリスマスキャロル」も読んでみました。やはりこちらの方がストーリー性があり洗練されていますね。

「信号手」感想

 不思議な物語でとても興味深く読みました。この中に出てくる幽霊は後に起こる悲惨な出来事を予告する不気味な存在です。予告は単なる予告でしかなく、事故は防ぎようもなく起こり、結局信号手自身が予告されたように命を落としてしまいます。こうした物語の展開に引き込まれてゆき、読み終わった後も印象に残る物語でした。
 日本の幽霊は恨みつらみや怨念といったおどろおどろしい感じがありますが、この作品の幽霊は只ただ謎めいている所が大きく違います。ざっくり比べるなら、日本のお化け屋敷とデイズニーランドのホーンテッドマンションとの違いとでも言いましょうか。

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