「文学横浜の会」

 エッセー


3月「2000年Y2K」

2000年4月


 「警察の不祥事とオーム問題」に思う

 今、この国で一番関心が持たれているのはオーム問題と警察の不祥事だろう。

 テレビのワイドショーは見る機会がないが、新聞記事に出ない日はない程に 連日眼にする。飢餓や戦争とは無縁のこの国で、見方を変えれば 平穏に満ちている、とも言える。

 国内に多くの問題を抱えているとは言え、飢餓の心配もなく戦争に狩り出される憂いもない。 昭和初期に青春時代を過ごした世代には、今の世は平穏過ぎて、 よい事ではあるが、平穏過ぎる弊害が生じていると感じている向きもあろう。

 警察の不祥事は、日本が”制度疲労”しているとの指摘がある。 明治維新によって築かれた日本の統制機構のうち、その一つである軍事機構は国民に多大な犠牲を齎して 戦後解体された。しかし文政組織としての官僚機構は脈々と続き、今日に到っている。 百年以上も続いている訳である。制度疲労を起していて当然なのだ。

 では改めればいいではないか、と誰しも思うのだが、これが難しい。 何故難しいかと言えば、それぞれの言い分があり、それぞれの正論がある。 つまりそれぞれの組織があり縄張りがあるから、ほんのちょっと変えるだけでも大変なエネルギーがいる。 彼らには国民や個人の利益より組織の利害が何より優先する。

 いっそのこと五十歳以上、いや四十歳以上の者は、この際みんな一線からお引き取り願い、 利害関係のない若者に総てを任せる。明治維新のように革命を起し、 二・三十代の純粋に日本(現代は世界を見据えた視点を持つ事も必要)を思う若者が中心になって 改革を断行する。それとも独裁者が現れて…。

 それが不可能ならば、どんな組織も情報公開を徹底させて、 絶えず相互監視が働くように制度を改める事がまず肝要だろう。しかも早急に。

 一方オーム問題である。宗教とオカルト教団とは厳然と区別しなければならないが、 物質的に豊かで平和な時代と宗教は無関係でないように思う。 ニュースで目にするオーム信者のそれは何処にでもいる、 ぴょっとすると市井の人間より心根の優しい、 恵まれた家庭で育った人達のように思うのは私だけだろうか。

 物質的な豊かさと平穏な世の中は、一方で人間関係を希薄にする。 科学技術の発展と生活の便利さは、集団として助け合わなくても、個々が容易に社会生活を営めるようになった。 そうした中で精神的に心が不安定になり、自分を見失い、自分を見出せない者も出て来る。 心が飢餓状態になるのかも知れない。

 そうした者には(そうでない者にも)、宗教は心の支えになる。

 一方、宗教(オカルト、と言った方がいいのかも知れないが)には、 救いを求めれば求めるほど、人間そのものを変えてしまう力を持っている。 オーム信者にしてみれば、偶々信じたのがオームなのであり、 勧誘されたのがオームだったのだろう。 無論、勧誘方法が巧みだったせいもある。

 しかし、勧誘が如何に巧みでも、易々と自己の総てを捧げ、殺人まで犯してしまうとは どうにも理解できない。多くの者はそう思っているだろうが、 一度信じてしまった信者には何を言っても通じまい。

 確か曽野綾子さんだったか、良い宗教と悪い宗教を見分ける方法として、「お金」の事を言っていた。 悪い宗教の見分け方の一つに、分不相応なお布施や物品の販売等で、お金に汚い宗教をあげていた。 最も、信じてしまった信者には客観的に見分ける事は困難だろうが。

 警察の不祥事とオーム問題に共通して言える事は、平和ボケして自己を失った”個”だろうか。

(K.K)


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