「文学横浜の会」

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2004年6月6日


「今は、平穏期?」

 先月は年金の未納問題から民主党の代表選びのゴタゴタがあり、 小泉首相の未納会見と同時に、首相の北朝鮮訪問が発表されて、 北朝鮮での2時間余りの首脳会談が行われた。そして拉致家族の子供5人が帰国した。 イラクでは依然として不穏な状態が続き、また日本人の犠牲者が出た。 一方、皇太子の外遊に絡んでの会見内容から、我々下々の窺い知ることの出来ない皇室内での「?」が週刊誌を賑わし、 と5月を振り返ると色々な事が起こって、話題には事欠かない。

それにしても色々な事が起こる。それとも過大報道なのかな?

こんなに色々な事が起こると、事の本質がなおざりにされてしまう、と心配になる。 しかし情報化と共に、その伝達速度のスピード化、多様化の傾向は益々進む。 恐らく、多くの人はそれらをじっくり読む時間はないから、見出しだけで判断する事になる。 情報伝達には、イメージ・印象も大きな要素だと言う。つまり事の本質よりイメージで判断してしまう。 それを効果的に演出する職業もあると言うから、なんとも厄介な世の中だ。

 ともあれ、拉致被害者の5人の子供が親の元に帰ってきたのは良かった。 でも、帰国した本人達は言葉の問題等で、これからが大変だ。 拉致問題は曽我さんの事を含めて、まだまだ解決にはほど遠いが、二度目の小泉首相訪朝の成果だと思う。 これ程に人権意識が芽生えたのは、日本が平和だからに違いない。

 百年後、いや千年後に今の時代をみたらどんな時代なのだろう。

日本史をみると平和な時代(平穏期)と動乱の時代が交互に来ている。 平安時代、鎌倉時代、室町時代とそれぞれの時代の変わり目には動乱期があり、 戦国時代の動乱期を経て、江戸時代の平穏期が長く続き、 そして幕末の黒船来航から動乱時代が始まり、先の戦争で動乱期は終わった、と考える。

戦後、半世紀過ぎたが、何千年もの年代スパンの中ではほんの一時にすぎない。 動乱期の中にもつかの間の平穏時はあるから、 「今という時」が動乱期なのか平穏期なのかは後の世代が判断するとして、 「現在の日本」は間違いなく「平穏」ではないかと思う。

我々の生まれるほんの少し前(と言っても100年のスパンで考えた場合だけど)、人は戦争で死ぬ事が当然と教育され、 国同士で蹂躙しあい、拉致はおろか国籍が違うと言うだけで虐殺したりされたりした。 個人の人権なんて、そんな考えは全くなかったし、そう言う発想さえなかった時代が長く続いた。 だから、個人の人権意識をもてる「今の時代」にいる僕はラッキーだ。

でも今を生きる我々と、弱肉強食の時代に生きていた人と、どちらが幸せかと訊かれたら、 間違いなく今の我々だと言えるだろうか? 

人が作り出した色々な物に囲まれて、確かに物質的には豊になったが、 それらは生きている間の暇潰しの道具に過ぎないし、同時に人類は自分を守る道具として様々な兵器も作った。 それも全人類を絶滅させるにたる核兵器等も……。

そうした兵器は生きる為に本当に必要な物ではない。 生き抜いてきた人類が、綿々と受け継いできた闘争心と生命力、或いは防衛本能によって、 まさに自分(或いは同族)が生きんが為の産物に過ぎない。それが自身をも亡ぼす。

この平和は何時まで続くのだろう? 
今を生きる我々は本当に幸せなのだろうか? 
と、拉致被害者の子供の帰国をテレビで観ながら、ふとそんな事を考えた。

*****

 今月になって、また暗澹とさせる事件があった。 インターネットの「チャット」・「掲示板」をめぐる殺人事件で、被害者・加害者が小学生だった事に大きな衝撃を受けた。 文字だけで表現するのは、本当は難しいんだよ。インターネットは単なる道具で、ただそれだけ。 道具には慣れる事も必要だけど、やはり心の教育、人と人とのコミュニケーションがこれからは益々大事になると思うよ。

 それから他人を思いやる心、それが大事だ。便利な道具を持ったからと言って何をしてもいい、 何を書いてもいい、と言う事ではないんだ。

<K.K>


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