「文学横浜の会」

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2004年8月1日


「今年の夏は暑い!」

 参議院選挙が終って、まだ一月経っていないのに、そんなことさえ遠いことのように思える。 今年はオリンピックの年で、と思っていたらもうすぐ始まる。国会議員選挙とオリンピックがぶつからないでよかった。 ぶつからないようにしたのかな? テレビの選挙放送は、出勤前の時間に、見るとはなし聞くとはなしに目にしたが、 真剣に聞いている人はどのくらいいるのだろう。

本当は、とっても重要なことなんだけど、そう感じられないのは一体何が原因なのか?  政治意識が低いとも、国民の程度が低いとも思えないのだが……。 将来の年金が幾ら貰えるか気になるが、気になるだけで、なんとかなると、みんなそう思っているのではないか。 要するに、不満はあるけれど、みんな平和で平穏な生活をしているんだと思う。 イラクやアフガニスタンのような状況だったら、もっと真剣に、選挙に取り組むだろう。 そんなことを考えると、平穏だけど、やっぱ何かが引っかかる。

 オリンピックが始まれば、テレビはオリンピック一色になる。 日本の選手が活躍してくれるのは嬉しいが、競技の多様さに、些か疑問に思っているのは僕だけだろうか。 スポーツには地域性やお国事情があるから、門外漢がとやかく言う筋合いではないのかも知れない。 開催国の特権で1種目を追加できる(確かそうだったと思う)、で開催国だけで行われるのならいいが、 それが続くとなると問題だ。

古くからの競技でも射撃とか、アーチェリーとかがスポーツなのか、僕はヒジョーに疑問に思う。 競技をしている者にはそれなりの意見もあるだろうが、僕のスポーツ観からはずれているし、 平和な祭典に、相応しくないと思う。

それに、採点がからむ競技もしっくりしない。採点者のエゴがでて、兎角、自国の競技者へ甘くなる。 人間が採点している以上、そうした懸念は消えまい。それなら、同じ国の採点者は排除するとかの配慮も必要だ。 そうしても、やはりすっきりしない。 美を競ったり、難易度を競うのなら、何もオリンピックでなくてもいいのではないかと思うのだ。

 今回もふれておきたい記事があったので紹介する。

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宇宙の底で −根深きもの、それが戦争ー
柳澤 桂子(生命科学者)

 観察結果から、チンパンジーなどの類人猿が残虐性を持っていることを、前回述べた。

類人(最古の化石人類)やそれより進化した原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)については、 残っているのが化石だけなので、結論を出すのはむずかしいが、 旧人(ネアンデルタール人)や新人(クロマニヨン人)については、 人々が争って殺し合いをした、と思わせる形跡が、骨の化石からみられると言う。

 現代の狩猟採集民について調べた結果を見ると、穏やかというイメージとはほど遠く、 世界各地に残る三十一部族の狩猟採集民を調べたエンバーの報告(1978年)や、 ニューギニア高地の狩猟採集民についてのシャノンらの報告(1988年)では、 戦争や暴力による死因が何れも無視できない比率になると言う。

 これらの結果から、
「人は類人猿の時代から現在までずっと暴力を振るってきたということには疑いの余地がない」 と言い、
「原始的な戦争では武器も未開で、人々の組織力も弱かったが、時代とともに、戦争の技術は向上し、 殺される人の数もそれにつれて増えていった」 と述べる。

 そして厄介なことに、
「ムートンらによると、人はどこにいても集団を形成し、集団のメンバー同士特別な感情を持ち、 外部の人間に対して攻撃的になる。この気質的な固定観念は、『内集団・外集団偏向』と呼ばれる。 このような傾向は、年齢、性など何についても起こるが、宗教や民族中心主義という形で起こることが多く、 その場合は固定観念が特に強固である」

心理学者たちによると、この偏向は他のどのような心理学的な事柄とも比較にならないほど「普遍的で根深い」 のだそうだ。「確かに」とぼくは納得する。

 また、こうも言う。
「いったんこのような偏向に人々が陥ると、自分のグループ以外の者は、人間と見なされなくなってしまう。 そして、彼らをどのように扱っても罪の意識が起こらない。もちろん殺してもさしつかえない。 こうして、内集団・外集団偏向は、奇怪といっていいほどの残忍さを見せることがある」
イラクの戦争でもそうだが、どんな戦争も必ずそうした一面を持つ。

 戦争における兵士の要因として、三つをあげる。
 @残忍性
 A内集団・外集団偏向
 B人間の誇り(戦争に勝たなければならないと思わせる気持や出世欲)

 そして筆者は、
「1986年ユネスコは『暴力についてのセビリア声明』を出し、 『戦争は人間の本能だという暗い考えを捨てて、平和な世界を築こう』と呼びかけたが、 この声明の骨子となっている考え、つまり『戦争が人間の本能であるという考えは科学的にまちがっている』 と考えるのは間違っている」と言う。

 少なくとも筆者は「今の段階で戦争は本能であるともいえないが、 本能であるという考え方は科学的ではないともいえない」と言う。

筆者は「戦争というのは、非常に根深い問題で、『平和、平和』と唱えたくらいではなくならない」というが、 この言葉の意味を、ぼくらは深く噛みしめなければいけないと思う。

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反時代的蜜語  −− 東アジア文明の語るもの −−
  梅原 猛(哲学者)

 西田幾多郎や和辻哲郎の東西文明論を紹介し、それぞれを批判して始まる。

 梅原は、人類は農業を発明することによって都市文明を創ったと考え、 夏に雨の多い東のモンスーン地帯の稲作農業と、雨の少ない西の小麦農業、 それが東と西の文明を創り、決定的な違いになったという。

「小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。 このような文明においては、人間の力が重視され、 一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配さるべきものとされる」 そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。

「それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。 その雨水を蓄えるのは森である。したがってそこでは自然に対する畏敬の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、 自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい」

 西の文明、近代ヨーロッパは科学技術というすばらしい文明を生み出したが、 二十世紀後半になってはっきりとこの文明の限界もみえ始めた。

「人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。 そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、 二十世紀に起こった人間の大量殺戮が二十一世紀にはより大規模に起こる可能性すらある」

このような状況において、筆者は、 人類の末永い繁栄のために、西の文明の二つの原理である「人間中心主義」と「一神教」を批判する必要があると説く。

「人間中心主義は西洋哲学の発生及びその発展と深く関係している。 哲学はギリシャのソクラテスープラトンに始まるが、彼らは循環する自然を重んじるイオニアの哲学を批判し、 人間のみがもつ理性を重視し、その理性の上に哲学を樹立した。この思想はキリストに受け継がれる」

「キリスト教は、理性を人間のみに付与された神の似姿と考え、 それによって人間に他の被造物に対する無条件の支配権を与える。 デカルトに始まる近代西洋の哲学は、神を棚上げして世界の中心に理性をもつ人間をおく。 これが近代科学技術文明の土台をなす哲学となったが、この文明によって環境破壊が起こった」

「現代の哲学のもっとも重要な課題は、理性を人間中心主義の思想から開放し、 生きとし生けるものとの共生の思想と結合させることにある」とも言う。

 また、筆者は一神教を厳しく批判する。
「なぜなら、多神教は人類の原始時代の妄信にすぎず、 一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるが如く存在しているからである」

筆者は「多神教は、 もともと森に住んでいた人類が森の中のさまざまな生きとし生けるものに人間の力の及ばない霊妙なものをみて、 それを崇拝することによって興った」とみる。

「今もなお自然は人智の及び難い霊性をもっていて、多神教の成立に地盤は決して失われていない。 また他者の信じる神を認める多神教は、人類の平和共存を図るためにも一神教よりはるかに有効な宗教であると思われる」

「一神教は、 森が破壊されて荒野となった大地に生まれた種族のエゴイズムを神の意思に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。 この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能である」

 これらの考えは昨今跋扈するテロリズムや、戦火の絶えない中東情勢をみれば頷ける。 ぼくは「一神教は砂漠という厳しい気候風土から生まれた宗教」と考えていたが、 梅原氏の指摘した視点も大いに納得できる。

 この暑い夏も「人間中心主義」による環境破壊の結果に違いない。
 先の柳澤氏の記事とあわせて大いに考えさせられる。

<K.K>


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