「文学横浜の会」

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2005年3月6日


「セカンド世代」

 さてっと、これからは老人の時代である。 老人なんて言うと、一寸、味気ない。よぼよぼで杖をついて、そんな連想を持つ輩も多かろう。 なんの、これからの老人はそんなイメージではないぞ! 

世間では07年問題とやらで、まるで高齢者がどっと市場、いや世間に追い出されて高齢者問題が生じる、 と心配する論評が多い。第一次戦後ベビーブーム世代が定年を迎えて、会社と言う枠から放たれる。 まるで野獣が野に放たれるような言い方だが、それで何が問題かと言うと、年金問題だという。それはそうだろう。 今の制度だと、現役の働いている世代が年金世代を支える仕組みになっているからだ。

でも一寸待ってほしい。
そんな事はずっとずっと以前から言われていた事で、年齢構成から来る歪みは何十年も前から指摘されていた。 それなのに「いずれ少子化傾向に歯止めがかかって、人口構成の歪みも改まる」と、 時の為政者はその場限りの治世を続けてきた。 今更、年金問題を持ち出して「大変だ」なんて言われても「なんだこりゃ」と思いたくなる。

 これから定年を迎える世代を、老人問題にすり替えるのは止めようではないか。 考えてみよう、これらの世代は大量消費を支えてきた世代であり、会社と言う組織の束縛から解放される世代でもある。 そしてまた多くは子育ても終わり自分自身のためにお金も時間も自由に使える世代であり、 中には親を看取った者も多かろう。 要するに自由な時間を沢山もち、自由になるお金を手にした世代でもある。

60才を過ぎたとはいえ、昔の老人とは違い、気力も体力もまだまだ衰えていない。 会社の束縛から解放されて、ストレスも無くなり、かえって活き活きと若返った者もいる。 子供の世代が、いや孫の世代が子作りに精を出さないなら、 なんなら代わりに子作りだって、なんて言い出しかねない輩もいる。 「まだまだ若い者には負けない」なんてとんでもない「老人」も出てくるかも知れない。

無論、会社にしがみついて肩書きに頼ってきた連中の中にはいきなり肩書きが無くなって、 或いは会社以外に行くところの無かった者には急に目標物が無くなって、途方にくれる者も出てくるだろう。 中には、急に老け込んでしまう者もいるらしい。でもそれは一時、何せ体力はまだまだ有り余っている。

 定年年齢をもっと後ろに、と言う意見があるらしいが、反対だ! 

子育ても終えて、親も看取った世代を、どうして会社組織に縛り付けておく必要がある。 これこそ第二の人生ではないか。まあ、人によってはスタート時点は異なるだろうが、 定年というエポックは第二の人生をスタートさせるきっかけになる事は間違いない。 そうした人種を社会が利用しない手はないし、人手不足だと言われる職種にはそうした人物を活用する手だても考えよう。 無論、会社に縛り付けるような遣り方ではなく。 つまり働くという概念を全く変えてしまうような、例えば、週に2日或いは3日だけとか、 働く時間も自由に設定できるようにするとか、仕事によって色々な形を取れる筈だ。

 そうした世代を「セカンド世代」と呼ぼう。

セカンド世代は、自由になるお金を、自分のことだけに遣おう。 将来を考えて貯蓄する必要はないし、子供に投資する必要もない。 自分が遣うことでそれでだけで社会に貢献することになる。それも単なる物質的な物ではなく、 文化的な事にお金を遣おう。「振り込め」の電話が掛かってきても、 例えそれが我が子であっても、「そんな金はない」と一蹴すればいい。

セカンド世代は経験と知識をもった世代であり、脂ぎった野心とは無縁の世代でもある。 老後のためにお金を貯めようなんて考えず、お金に余裕のある者は、自分のためにどんどん使おう。 お金はただ銀行に預けておくだけでなく有効に使うことは、それだけで社会貢献ですぞ。
本当の人生は、これからだ! 

 社会貢献と言えば、地球温暖化をゆるやかにするために貢献することも、大きな貢献だ。 地球温暖化は人間の営みによるエネルギーの大量消費によって、急速に進んでいる。 残念な事に、人間はただ存在しているだけで、地球温暖化の要因にもなっている。 我々はこの地球上で進化と絶滅を繰り返して、結果的に進化を繰り返して生き残った生命体の一部であり、 繁栄を謳歌した生命体はいずれ絶滅する。
 そんなサイクルの中に人類が置かれている事を忘れてはならない。

<K.K>


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