「文学横浜の会」

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2006年 8月 6日


「話題作りと終戦日」

 亀田興毅とファン・ランダエタとのWBAライトフライ級王座決定戦を見た。 見たと言うより、見てしまったという感じだった。

 帰宅後の偶々テレビを点けている時間帯に見るべき番組が無かったこともあって、 番組表を見ると19時半から王座決定戦がある。もう終わっているかなと思いながらチャンネルを合わせると、 まだ始まっていない。これはラッキーとそのままのチャンネルにしていても、一向に試合の始まる雰囲気ではない。 亀田兄弟の親父を中心とした「話題作り」と思える放送内容には、いささかうんざり。 話題の選手だから試合だけは見たいものの、試合が始まるまで他のもっとましな番組にと、チャンネルを変えた。

もう始まるかとコマーシャルに合わせてチャンネルを変えてみるが、 「ゴングまで、もうすぐ!」の司会者の言葉を何度聞いたか。結局試合が始まったのは21時過ぎだった。 この時点で放送局の姿勢にかなり憤慨した。これだけでもう番組は見たくないとさえ思った。 しかし試合は本当に始まるようだし、こうなったら最後までみたい。「話題の先行した」選手だから、 どんな試合をするかと、そちらの興味の方が強かった。

プロは「見られてなんぼ」の世界だから、話題作りや話題が先行することには理解できるが、 それに報道メディアが関与して、それが過剰だと胡散臭く思う。 視聴率の確保を狙って、報道メディアが話題作りに積極的に関与するケースもある。亀田兄弟でもその傾向が強いのではないか。 亀田興毅の世界戦では放送開始の19時半から、試合が始まる21時過ぎまで、放送局は高い視聴率確保に成功した訳だ。

 話題作りと言えば、恐らく「文学」の世界にもあるのだろう。所謂、各種の文学賞がそれに当たる。 しかしマスコミに取り上げられる度合いが年々低くなって、話題性と言うことでは存在感が希薄になった。 ぼくらが小さい頃には「芥川賞」や「直木賞」を受賞すれば、それだけで10年は食べていけると聞いたが、 はたして現在はどうだろう。受賞した翌日、新聞に小さく載るが、ただそれだけだ。 出版社も話題作りに向いたノミネート作品を選んでいるのだろうが、活字文化の凋落傾向は止まりそうもない。 町から本屋さんが消えて、残った本屋さんには週刊誌や漫画本だらけになってしまった。

こんな状況になったら、文学を志す文学青年や文学オヤジ・老人、或いは賞は獲ったが、売れない埋もれた作家達よ、 活字文化を守る為に、話題作りに知恵を出したらどうだ。創作するより容易いだろうに。

例えば、「赤貧洗うが如く」、いやただそれだけでは駄目だ。「ホームレスを続けながらも創作に励み」、 うん、なかなかいいね。「創作の為に勤めを転々と、、」それだけじゃ駄目。「勤め先では不正には毅然と立ち向かい、 まあまあと口説く上司は悉く殴り、結果、会社は次々と首になる」これなら少しは話題になるな。 でも、現実はもっともっと創作者の想像力を超える事件・事象が報道されている。 ある意味、想像力が危機に直面しているとも言える。

それではと言う訳ではないが、こんなのはどうだ。 世界で一番危険な土地に行って、日本の平和を考える。でも、殺されたら「馬鹿野郎」と言われるだろ。

 でも話題作りは、考えているだけでは駄目なんだよね。

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 亀田興毅とファン・ランダエタとのWBAライトフライ級王座決定戦だが、結局最後まで見た。 12回のゴングとともに、放送局のあり方に不快感もあって早々に消した。 亀田興毅も負けることもある。19歳の若者がそう易々と世界王者になれる訳がない。 敗戦を経験することは若い人間には良いことだ。そんな事も思っていた。ところが翌日のニュースで亀田選手の勝ちを知った。 え!? と思ったのは無論だ。新聞を見ると、そんな感じを持ったのはぼくだけではない。 おいおい、本当かよ。

 ジャッジに放送局が関与していたとは思いたくないが、スポーツの世界に曖昧さが残ると、殊更後味が悪い。

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 安部官房長官が4月に靖国神社にこっそりお参りした、との報道があった。 小泉首相は相変わらず自説を曲げず、と言うより子供じみた意地を張り、内外の批判を浴びながらも靖国神社に行くと言う。 こうしたことは靖国神社にとっては不幸なことだ。祀られている「英霊」にとっても迷惑な話だろう。

そもそも、問題の発端は先の戦争の敗戦処理を国内でしっかり行わなかった結果が今日の混乱を招いている。 先の戦争終了を「敗戦日」とわず言わず「終戦日」と表現することにも現れているように思う。 つまり敗戦となれば、敗戦に至った責任者を明らかにしなければならず、終戦となればそうしたことは曖昧になる。 天皇の問題も絡んでいるから、日本人の心理としては易しく単純なことではない。 それでも責任問題は曖昧にすべきではなかった。 日本らしいと言えば日本人らしいが、それでは国際的に通用しない。

だいたい、天皇の意向に背いて戦火を拡大させたのは、A級戦犯と呼ばれる陸軍関係者に多くいる。 天皇の意向に背くことだけでも大罪だ。その上天皇の意向を傘に、当時、やりたい放題をして民衆を苦しめた軍部を、 戦後自らの手で日本国民は裁いただろうか。 虚偽の軍令部発表を続けた軍部を、軍部の言いなりの報道をし続けた報道機関を、国内問題としてしっかり検証しただろうか。

 つまり靖国問題は国内問題でもある。

<K.K>


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