「文学横浜の会」
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2010年3月5日
「冬季オリンピックが終わって」
冬季オリンピックが終わってその余韻も遠ざかっていく。
結果だけを見ると日本と比べて韓国の強さが目に付いた。
これは国の勢いの差なのかとも感じるが、それだけではないように思う。
かつての東ドイツやソ連のスポーツ大国振りをみると、国のスポーツに取り組む姿勢、
或いは選手育成システムの違いによることも大きいと思う。
つまり国としての意気を挙げるためにスポーツを利用する、国威発揚としてはそう言うことが必要なのだ。
国威発揚が何故必要なのかは様々な理由がある。
国としての“誇り”を高めるためであったり、自国民の目を反らせる為のもであったり、
国を纏めるための手段であったり、とその理由は様々だろう。
ただいたずらに自国の優位性を宣伝するだけなら、世界から顰蹙をかうだけだ。
いずれにしてもどんな事でも良い面と悪い面があり、オリンピックもそう言う事だろう。
選手個人としては国を背負ってではなく、ただ単にオリンピックに出場したいと言う者もいる。
出場できるなら国を変えてもいいと言う選手も出てきた。これは悪い事ではない。
一方では国の予算を使って派遣するのだから、国の代表だと言う意識を持ってほしい、と言う意見もある。
確かに団体競技では国の威信をかけた試合等は見ている方も面白い。
試合をする選手のプレッシャーは想像を絶するものだろう。だからこそ見ている方も面白い。
それでオリンピックの表彰式で国家を流すのも仕方がない、とは思うのだが、このままでいいとは思えない。
オリンピックがただ国威発揚の場にしないためにも何らかの改革が必要だ。
どう改革するのかは難しい。
改革してつまらない試合になっては元も子もないし、国家を背負っているからこそ頑張れると言う選手もいるだろう。
そこで団体競技での表彰式では従来通り、表彰式での国旗掲揚は個人競技では止めたらどうだろう。
個人競技では国の枠を外した方がいいと思うのだ。
つまり個人競技は個人の参加で、団体競技では国家としての参加だ。
競技を通しての国威発揚なら、戦争による国威発揚よりはいい、という考えもある。
国を纏める事は大変な事なのだ。複雑な国ほど、多様な問題を抱えている国ほど大変だ。
オリンピックでそれが叶うなら、国としても多大な援助をするだろうし、それはそれで良いのではと思う。
オリンピックにそれ程国家が拘わらない国は、国威発揚をする必要性を感じていないか、
或いは国力がそれ程ない国だ。
そう考えて、日本は? と考えて、日本は中途半端だなと思う。
それは悪いとは思わないが、これから日本は世界とどう向き合っていこうとするのかが見えてこない。
それが一番の問題なのかも知れない。
<K.K>
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