「文学横浜の会」

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2011年7月5日


「7月、雑感」

 今の時期、雑草との戦いだ。

一度むしり取った処でも何日かすれば元のように生い茂り、一雨降れば元気を取り戻す。 雑草だと言って煙たがるが、それぞれ名がある。 我々はそれを知らないだけだが、食用にでもなればもっと大切にされるだろう。

しかし雑草はどうして強いのだろう。 何の肥料も与えないのにすくすく伸びて、日照りが続いて畑は見るに忍びない程うなだれているのに雑草は逞しい。 「雑草も育たない土地」と言う言葉は貧しい土地、極寒極暑の土地を言うが、日本の平地にはそんな土地はまずない。

新種改良によって北海道の土地でも稲が栽培されるようになって、日本では何処でもお米の採れる稲穂の国だ。 今回の東日本大震災と同じような規模の起こったとされる869年の貞観地震の頃は、 恐らく、東北地方にはまだ稲の文化はまだ根付いていなかったに違いない。 生活していた人達も原日本人と言われるアイヌの人達が集落を作っていたのだろう。

稲の文化を齎した大陸からの移住者達は少しずつ、今の関西から中部、そして関東へと生活空間を広めた。 そして原日本人のアイヌの人達との軋轢、対立関係を起こしながら、現在の日本の形態が形作られた。 そうした痕跡はアイヌの儀式が日本古来の神道儀式に残っていて、 土地の名称や日本語の中にもアイヌ語からのきたと考えられるものが多々あるとの言われている。

つまり大陸からの移民者は圧倒的に多かった原日本人と戦いつつ、原日本人の文化に吸収されながら、 稲の文化と共に現在の日本が形作られた。

 こんな事を考えたのは、貞観地震が起こった時の犠牲者を考えたからだ。 文書に残っているから、当時の主要都市だった奈良・京都にも情報は届いて、人の交流はあったと思われる。

原日本人には文字の文化はなかったから、彼らが代々言い伝え経験した事は言葉では残っていない。 しかし原日本人は、きっともっと大きな震災体験したに違いなく、なんらかの形で子孫に伝えているに違いないと思う。 アイヌの研究をもっと進めれば、何かが判るかもしれないが、残念ながら歴代の日本人は原日本人を排斥し蔑んだ歴史がある。 これは自らの生い立ちを知る元を絶ったに等しい。

我々日本人の中に残る、原日本人から引き継いだ大震災からの教訓はと言えば、自然と共存し自然を慈しむ心だろう。 これは西洋における自然を征服し思い通りにコントロールしようとする思想とは大いに異なる。

震災によって誘発された原発事故も絡めて、今回の大震災は我々の生き方も含めて、改めて考えさせるきっかけを与えてくれた。

<K.K>


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