「文学横浜の会」
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2011年10月6日
「若者よ、怒れ!」
怒れる若者がアメリカのウォール街でデモをしているニュースを目にした。
国よって事情は異なるが、ヨーロッパでも国民による抗議行動が報じられている。
イギリスでは若者のデモ、と言うかこちらは社会に不満をもつ若者達による実力行使に近い騒動が報じられていた。
ヨーロッパの事情とアメリカの事情は本質は同じなのかも知れないが、アメリカの若者達によるウォール街での金融機関に向けてのデモは、
ヨーロッパのデモとは違う。
アメリカの若者達は、サブプライム問題の折りに、金融機関に巨大な公的資金が投入されたのに、
その金融機関の一部の者がが巨大な利益を得ている事を怒っているのだ。
アメリカでは1パーセントの国民が国の利益を独占し、99パーセントの国民が利益の恩恵に預かっていないと言う。
巨大な利益を得ている人々は、考えられないような収入を得て、住む場所も高級住宅街と言われる地域に住んでいる。
ぼくはそうした傾向は前々から良くないと思っているが、アメリカではそうした事を黙認していた。
アメリカンドリームとか言って、寧ろそう言う事を、成功の証しとして美化する風潮があるように思う。
同一には扱えないかも知れないが、超一流のプロ野球選手やバスケットの選手の年収が何十億円だと聞くが、
ちょっと貰い過ぎじゃない、と思った事がある。同じ競技をして対峙するプロ選手の収入が、例えば何千万とかの選手だとする。
現実には多々ある事だが、果たしてそんなに差があるのか、と思うのだ。つまり収入格差がひらき過ぎでは……。
これもよく言われる事だが、日本と比べて西欧企業における企業トップの得る報酬と一般社員の得る賃金との格差問題もある。
営業における成功報酬の考えに近く、利益を上げたから、このくらいの報酬は当然だ、と言う考えなのだろう。
確かに、会社のトップに立つ者の指導力で企業の命運は左右されるが、社員が能力を発揮しなければ利益は生まれない。
超一流選手が実力を発揮できるのも、普通の選手がいてこそだ。
と言って、何が適正か、幾らが適正なのかをぼくが言う権利も知識もない。
ただ何となく格差が大きいと感じるだけだが、中にはそんな事はない、と言われる方もいるとは思う。
怒れる若者のウォール街でのデモを見て、ぼくはシンパシーを感じている。
努力した人が報われる仕組みは絶対に必要だが、過度なアメリカンドリームにはレッドカードを突きつける事も必要だ。
と同時に、グローバル化と言う事を、このまま進めていいのだろうかと考えている。
金融機関にみられる一部の者による利益の独占、所謂、過度なアメリカンドリーム現象が世界に浸透し、
何処の国でも貧富の格差問題に直面して、国民の怒りは募るばかりだ。
国それぞれにに見合った分配の仕組みがあり、それはその国の或いはその地域独特の文化、しきたりに違いない。
本来、人間はその土地土地に合った生活をしてきた。北国では冬はじっと家の中で寒さをしのぎ、
南国では暑いさ中は木陰で体を休めてのんびりと過ごす。
そうした生活が基本的には、この地球上で人間が生命を維持する為のスタイルだった。
それが日本で言えば明治維新以来、徐々に、文明化・産業革命の名の下に、北に行っても南に行っても、生活スタイルは同じになった。
そのために北国では冬に暖房を効かし、南国では冷房設備を整える。生活の豊かさと称して、生活スタイルが欧米化する。
そして特定の国だけだった食物や食習慣が、美食の名の下に世界に広まって行く。
これでは地球はますます疲弊するばかりだ。
地球上での温度差は恐らく+60度程度から−70度程度だと思われるが、地球を離れれば、月でさえ温度差は地球のそれより格段に大きく、
宇宙は暗黒の世界だと言う。
つまり人間が普通に生活できる環境は太陽系の中では地球しかない。
その地球を疲弊させて、人間の将来はないとぼくは思うのだ。
だからと言って江戸時代の生活には戻れない。
ならば地球にやさしい生活スタイルを求めなければならないのだ。
若者にはこういう事でも大いに怒ってほしい。君達こそまだまだ地球にお世話にならなければいけないから。
<K.K>
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