「文学横浜の会」

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2013年02月4日


「生きる」

 久し振りに「楢山節考」(深沢七郎著)を読んだ。以前読んだのは20代だったと思う。 その時は不気味な印象だけで、本当にそんな事があったのかなと思い、 ありふれた民話を小説化した作品だろうと、それ以上の読後感ではなかったと思う。

それが今回再読して、読後感は全く変った。この作品の内容は現代の考えから言うと惨めで凄惨だが、 主人公「おりん」の潔さと死生観は読む者に感動を与える。おりんの楢山行きは、ある意味、自死行為ではないかとの印象を強くもった。 前後してNHK番組「漂流老人」(番組名は?)と言う番組を観た影響があるかも知れない。

番組内容は、最低限の年金で暮らしている妻に先立たれた子供のいない80代の老人が寝たきりになって、 特別養護老人ホームへの入居目途もなく、 老人短期入所施設を点点とさせられて、やっと見つけた長期滞在可能な施設に落着く。

施設の担当者が老人に「もし何かあったら延命措置をしてほしいか」との問い掛けに、老人は「はい」と応える。 老人が惚けていたかどうかは不明だが、何があっても生き続けたいというのは本能だろう。

番組でも言っていたがこれからはこうした問題はもっともっと増えるだろうし、もう遅いかもしれないが今からもっと考えるべきだと思う。 番組に出ていた老人がもし生死不明の事態に陥ったとしたら、生命維持措置を付けるのだろう。 老人が医療費を支払える能力があるのかどうかは不明だが、医療現場の担当者には難しい問題だ。

「楢山節考」のおりんの生き様には感銘を受けるが、おりんはしっかりした意志をもって自死を択んだと改めて思う。

 もっとも今は昔のように貧しくはないとの意見もあるのは承知している。 恵まれた老人の中には有料特老ホームへの入居を計画している方もいるだろう。 しかしどんな境遇になろうとも、個々にしっかりとした死生観をもたなければいけない。

ぼく自身は自分で動けなくなったら、動ける見込みがなくなったら、 或いは惚けたら自分で正常な判断が出来なくなったら生きていたくないと思っている。 が、いざそう言う局面になったらそうした思いを貫くことが出来るかと心配でもある。 惚けてしまえば自分でなくなってしまうのではと心もとなくもある。

そうなら「おりん」のように意識のしっかりしているうちに自死できるか、それだけの覚悟は本当にできているのか、 強がりやはったりや見栄や恐怖や、そうしたものを超越して潔く自死できるものなのか気になる。

今の人生はその為の助走期間なのではないか、とふと考えたりする。

<K.K>


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