「文学横浜の会」
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2014年 7月 5日
「集団的自衛権、について」
現憲法下において「集団的自衛権」の行使が可能との解釈変更が閣議決定されたそうだ。
新聞で報道された範囲でだが、その内容は如何にも日本的な言い回しで判りにくい。
判りにくさの原因は自民党の、と言うか、安倍首相のどうしても「解釈変更をしたい」との強い意志と、
どうしても与党の枠組み留まりたい平和政党を標榜する公明党との、どちらにも説明できるようにした結果だ。
今までの政権が現憲法下では「集団的自衛権」の行使は出来ないと解釈していたが、どうして出来るのかぼくには理解できない。
出来るか出来ないかは司法判断ではないのかと思うのだが、どうなのだろう。
これから「集団的自衛権」に関する色々な法律が出来るから、そこで司法の判断がでるのだろうか?
まぁぼくのような年齢になれば戦争に駆り出されるようなことはないと思うが、
若い人たちの事を思えば、そんな時代になってほしくない。杞憂だろうか。
守りをしっかりと固める事は大事だが、同時に、国としてあくまでも平和主義を掲げる勇気も大事ではないか。
*
ふとテレビを観ていて兵庫県議の「号泣会見」には、所謂、あいた口が塞がらない。
ぼく自身、地方議会には興味がなかったが、考えるまでもなく地方議員には身近な諸問題を任せている。
こんな地方議員が多くいるとは思わないが、調べれば同じような問題議員もいるんだろうな、と考えざるを得ない。
だいたい地方議員が必要かどうか、ぼくは懐疑的にみているが、このようなテレビを観ると、
やはり必要ないのではないかとの思いを強くする。
人口が減り地方財政が火の車になっている現在、地方議員一人に二千万を超える予算を掛ける必要はあるのだろうか。
地方議員が扱う問題は何も専従の議員を選んで任せるより、問題毎に担当者を決めればいいと思う。
予め問題毎にボランティアの担当者候補を選んでおいて、任せればいいのだ。
ボランティアが原則だが、必要なら必要経費や日当を払えばそれでいい。
団塊世代と言われる人材が続々定年退職し、そんじょそこらの地方議員より遥かに知識と経験をつんだ元気な人が沢山いる。
そうした人材に協力してもらえばいいし、協力してもらう体制を作ればいい。
それには住民の意識改革も必要だが、今のように地方議員に任せる必要はない。
一方、議会での女性議員に対する「野次」が問題視されている。
これは地方議会だけでなく国会でも同じだが、少子化問題について質問した女性議員に対する野次だ。
「早く結婚しろ」とか「自分で産め」とかの野次が女性蔑視だと指摘されているが、確かに背後に女性蔑視の響きがある。
これは残念ながら青年男子の思考の中に、そうした男女同権の意味が、
西洋諸国と比べて定着していないのが原因だと思う。
日本は民主主義にしろ男女同権にしろ、国民が自ら勝ち取ったものではない。
どちらも西洋から移入されたものだ。だから西洋先進国と比べて国民に根付いているとは思えない。
特に男女同権は長らく言葉だけが先行していたように思う。
やじられた女性議員にしても、その時はニタニタ笑っていたり、
他の野次と同じように聞き流していた。その場で野次をした議員をたしなめ、追及する事はなかった。
つまり女性の方でも男女同権の意味を理解していなかったか、反発するのははしたないとでも思ったのだろう。
いずれにしても男女同権が言葉だけだったのだ。
まあ、こうした問題が大きく取り上げられるのはいいが、
国の財政は借金だらけで、少子化で労働力も足りないからと、男女同権だから女性も働けと言わんばかりの傾向には反対だ。
<K.K>
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