「文学横浜の会」

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2014年 8月13日


「豚の解体ショーは残酷?」

 長崎での女子高校生による女子高校生の殺害事件に少なからぬショックを受けた。

当初、原因は感情のもつれのようなものでは、としか理解できなかったが、報道される度に、家庭環境が原因かと思い、 父親をバットで殴ったりした行為や問題行動があったとの報道がされるに及んで、 問題を起こした高校生になんだかの精神的要因があるのでは、と思うようになった。
精神鑑定されると言うことで、その結果が待たれる。

高校生の殺人に至る問題行動の中で、猫を殺して解剖したと言うのがある。殺人の動機として「人を殺してみたかった」 と供述したそうだ。うろ覚えだが「人の身体がどうなっているのか知りたかった」との報道もあり、 なんとも引っかかるものを感じた。

動物や人の身体がどうなっているのか知りたい、と言うのは誰しもが持つ疑問だ。だが、それを殺人を犯して実行する、 と言うこととは大きな隔たりがある。それをいとも簡単にやってしまう事に異常性を感じてしまうのだが、 専門家と言われる先生方も人間の異常性を見極めるのは大変だと思う。 犯人に刑事罰を問えかどうかを判定するのは、辛い作業だと思う。

 ここで想うのは命の大切さと言う事が、今の社会は正しく子供達に伝えているだろうかと言う事だ。

例えば、テレビ等では、動物の屠殺、解体場面を残酷だと言って流さないようにしているが、 それが果たして命の大切さを伝えることになるのか疑問に思う。 自粛している理由は残酷だとか、子供には刺激的だというのだろうが、それを避ける事が本当の教育なのか疑わしい。

思えば、日本でも昭和の初期のころは、自宅で飼っていた鶏をつぶして食する事は、そんなに珍しくなかったと聞く。 私の子供の頃にも、そう言う習慣は耳にしている。 東欧では鶏に限らず豚や羊等、今でも自宅で処理(屠殺・解体)して食しているし、そう言う食習慣のある国々も多い。 処理作業では子供達も手伝うのが当たり前だ。

豚や牛の肉を当たり前のように食しているが、処理作業を見る事もなく過ごしている日本人も多かろう。 処理作業を見ずに、どうして動物の命を食していると実感できるのだろう。

核家族によって親族の<死>に出会った事もなく、 パソコンやスマホによってゲームによる架空世界での死、そしてリセット再生、そうした世界に慣れ親しんだ若者が、 本当の命とはどういう事なのか、実世界で想像できない若者が多いのでは、と危惧する。

 それでマグロの解体ショーに習って、鶏や豚の解体ショーでもして、豚肉の販売をしたらどうかと思う。 ショーは屠殺から行った方がなおいい。無論、屠殺を行う前に命を頂く厳かな儀式を行う。 それこそ新鮮な豚肉であり、命を頂く事になる。

何処かにそんな売り方をすす肉屋はないものか。

<K.K>


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