「文学横浜の会」

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2014年10月 5日


「自然との共存とは」

 御嶽山の噴火で多くの人が亡くなり、まだ被害者の数ははっきりしていない。 噴火以前から小さな振動はキャッチしていたようだが、噴火の予報を出すには至らなかったそうだ。

どんなに科学が発達しても、自然を完全にキャッチ/コントロールできないと改めて自覚すべきだろう。 そうした自省の上に、自然の中で生活している我々人間は、少しでも自然の思いを聞き質す気持ちで、 科学の質を向上させなければいけないと思う。ゆめゆめ自然を制覇するなど、そんな事は考えてはいけない。

それにしても我々は随分と自然のいとなみから隔絶した生活をしているように思う。 例えば、多くの人は家を出ればコンクリートの上を歩き、電車や車に乗って、コンクリートで作られたビルの中で過ごす。 家もマンションと言うコンクリート造りと言う方も多かろう。 つまり、自然のいとなみとは少し離れた処で生きている。

それゆえにと言う訳ではないが、多くの方が束の間の休日、海山に出掛けるのだろう。 御嶽山で事故に遭い命を落とした方々のご遺族には言葉の掛けようもない。 先月の広島での豪雨による崖の崩落事故にしても、いつ何時、災害に遭う可能性はある。 そうした中で生き抜くには、平凡な言葉だが、本能的な生命力が大きな要素になる。

本能的な生命力の要素とは、事前の準備心構え、咄嗟の状況判断であり、臭覚でではないか。 その中で特に昔の人と比べて特に衰えているのは嗅覚だ。 よく笑い話にでてくるが、それこそ昔は食物が食べられるかどうか、臭いで判断したものだ。 それが最近は食品の包装紙に書かれた賞味期限によるし、矢鱈に消臭剤と称する商品が出回っている。

汗の臭いや加齢臭などの体臭はまるで悪者の代表のよな扱いで、テレビのコマーシャルには消臭剤の商品が並ぶ。 体中に消臭剤を振りまき、靴箱や衣装ダンス、トイレや部屋の隅々に消臭剤に囲まれた生活。 これはちょっと大げさだが、テレビのコマーシャルに踊らされ、そんな生活をしている人も多かろう。

確かに悪臭は困るが、多少の臭気はこれも個性の一つであり、自然の一部だとの自覚を共有すべきだ。 何処に行っても同じ臭い、そんな世界は、彩ある世界と言えるだろうか。 それは人間の臭覚を衰えさせる事にはならないだろうか。

人間の臭覚を衰えさせないことこそ、人間の生命力を維持させる大きな要素だ。 自然のちょっとした異変を臭いによって知らせてくれくのは、災害にあった方々から多く聞く。 臭気の感覚を衰えさせる事は、自然の中で生き抜く力を衰えさせる大きな要素だ。

オナラだって陰でこそこそするのではなく、臭いを嗅いで、その変化を確認するのもだいじだ。 自分の身体の中からの貴重な情報なのだ。血液やお小水検査だけが身体の中からのシグナルではない。

コマーシャルの事で言えば、観ていると余りに綺麗好きな人間に仕立てているように思う。 だがそれは自然の営みとは異質な世界となるのではないだろうか。 自然の中はダニや蚊と言った小さな生物から様々な微生物に満ちていて、人間はその中に生きている。 人間を含めて生物はその中で共存している。 それを忘れて、ただただ一部の生物を殺し駆除する事だけをしていると、後々しっぺ返しがくるのではないか。そんな気がする。

綺麗好きな人間ばかりの集団なんて、耐えられない。

<K.K>


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