「文学横浜の会」

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2016年 8月 5日


「オリンピックに国旗、国歌は必要か」

 2020東京オリンピックでの新規・追加種目、5競技18種目が決まったとのこと。

関係者にはグッドニュースなのだろうが、オリンピックの競技種目が増えて、益々大きな大会になってしまうのを危惧する。 これから同じような競技種目が行われるとしたら、今でさえ開催国が限られてしまうのに、益々中小国での一国開催は難しくなる。 となればこれからは複数国での開催も考えた方がいい。

例えばセーリング競技は内陸国での実施は難しいから、中小の国で競技種目を振り分けて実施すればいいと思う。 オリンピックの実施方針がどうなっているのかは知らないが、一国開催となっているのなら、それは変更すべきだ。

それからオリンピックでの表彰式で、国家並びに国旗の掲揚を止めて、オリンピック賛歌でも流したらどうだろう。

と言うのは今のオリンピックは国威発揚の場となってしまい、国家の争い、と言うイメージが強いからだ。 本来、オリンピックとは個人或いは団体の競技を競うための大会ではなかったのか。

それにもう一つ、国歌の詩の内容も、国によってはとても平和な祭典にはふさわしくないものもあるように見受けられるし、 国歌そのものが、国民・民族の戦意、或いは優位性を高めるために作られたものが殆どだ。 それも一時代前の、それこそ領土拡張時代の弱肉強食時代の国歌をそのまま使用しているから、 やれ戦え、やれ攻めろと言った言葉を含んだ歌もある。

ロシアの薬物疑惑が持ち上がってもいるが、これも一時代前の産物だろう。 社会主義か資本主義、それぞれの陣営が対立していた時代の陰の部分がそのまま残っていて、それが現れたとする見方もあるが、 オリンピックでの優勝者が国を挙げて称えられる今の状況では、それが行き過ぎると、薬物を使ってでも、と考える者も出て来るだろう。

国によってはオリンピックで優勝すれば、国力が誇示されたと、大きな恩賞が与えられると言うが、 果たしてそれがオリンピックの本来の姿なのだろうかと思ってしまう。 オリンピックとは本来個人が競技を競うものなのだ。

国同士の争いをスポーツで置き換えるのなら、それでいいではないか、と言う議論もある事は承知しているが、 オリンピックはやはり純粋に競技を競う場にしてほしい。

国家、或いは民族がその国家・民族を愛する心は誰しももっており、それが強すぎると諍いが起こる。 過去の戦争や紛争の大きな遠因はそこにあると言っても過言ではない。愛国心、民族心は強すぎると厄介な化け物になる。

団体競技についても一言。

個人では軽量級や重量級、無差別級があるのに、団体競技ではそれがないのは何故か。 例えば一億以上の国民がいる国と、千万以下の国民しかいない国では競技人口には差がある。だからそれは別けるべきだと思うのだ。 無論、無差別クラスへの出場は自由だが。

<K.K>


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