「文学横浜の会」
エッセー
INDEX 過去のエッセー
2016年 9月 7日
「原子力発電の悲観論と楽観論」
緩やかにだが、日本の原子力発電は稼働し始めている。
安全性の問題に懸念は残るにしても、安価(?)、安定電源としての魅力から離れられないと言う事なのだろう。
地球温暖化への負のイメージから、二酸化炭素を排出しない大きなメリットも強調されて、原子力発電への誘惑は強い。
原子力発電が実用化されてからたかだか40年程である。これまで世界で稼働している原子力発電の数は、数百程度だと思われる。
その間に大きな事故を起こしたのは3件。その度に安全性は強化されているが、絶対的な安全性が得られた訳ではない。
3つの大きな事故の遠因は、2つが人為的な原因、1つは例の東日本大地震による千年に一度と言われる津波によるものだった。
遠因がどうであれ、一度大事故を起こせば、周辺に棲む住民には多大な影響を及ぼす。
原子力発電を利用する悲観論としては、
楽観論として言うより使用やむなしの根拠としては、
個々の論に対して、双方からの反論は無論ある。
どちらが良いとかいけないとかは一概に言えない事は確かだが、現実問題として原子力発電所が世界中に増えつつあるのは事実だ。
そして一度大きな事故が起きれば大きな被害を齎す。
ならば安全技術を優先して、安全技術が確立されてから、それから利用すればいいのでは、と言う考えもある。
尤もだと思うのだが、差し迫った地球温暖化問題に対処するには、そんなに悠長な事は言っていられない、と言う事なのだろう。
そこで問題になるのは楽観論者の中に、軍拡に積極的な考えを持つ方も多いと見受けられ、ぼくは危惧する。
と言うのは、悲観論者が言う、「自然災害よりも戦争等の人間による破壊活動から発電所を守る事は不可能だ」
の中には、無論、戦争も含まれている。自然災害、つまり巨大直下型地震や巨大竜巻、或いは巨大雷、等に直撃される恐怖より、
国家間の戦争の危険の方が遥かに確立は高い。
振り返れば、19世紀は戦争の世紀だった。つまりは領土の取りあいは国家間の力の勝負だった。
それ以前には略奪や皆殺しが民族間で当たり前のように行われていた。つまりは強い方が勝ち、全てを奪う。
人殺し道具の進歩・進化によって19世紀に入ってから、戦争による人命の殺戮は飛躍的に増大した。
同時に文化の勃興によって、人類はそれではいけない、と気づいたのは19世紀も半ば以降になってからだ。
それでもまだ国家間の疑心暗鬼から抜け切れず、軍事力に多大の予算を投じているのが現状だ。
その軍事力たるや、1世紀前と比べるととんでもない殺人兵器だ。たった一発で数十万もの犠牲者が出る。
つまりは原子力発電所を持っている国は自ら核兵器を抱え持っている状態で、
決して戦争など出来ない。だから軍拡には反対の筈なのだ。
原発に爆弾でも撃ち込まれたら、それこそどんな安全対策も無意味だろう。
今の時代、そうでなくとも本格的な戦争などしたら、双方の国民に多大の犠牲者がでるのは間違いない。
戦争は絶対にしない、との覚悟なら、原発を持つのはいいが、軍事力増強も、となると大いに疑問だ。
<K.K>
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000-2004 文学横浜