「文学横浜の会」

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2017年 6月 5日


「今の日本はどう評価される?」

 退職してから自宅で予算審議のテレビ中継を観る機会が増えた。別に観たくて見るのではないが…。

テレビ中継される議員さん達の審議は見ていて実に不思議だ。文字に起こして読むと何を議論しているのか全く判らない、 と言うような遣り取りもある。

野党が質問すると、それにはまずまともに応えない。的を外した、それとは関係のない答弁をするのが多くみられる。 毎年見ていた訳ではないから判らないが、これが普通なら国会審議など無駄、としか言いようはない。

最近の議論で特に気になるのは「共謀罪」議論で「一般人は対象にしない」との答弁だ。 テロを防ぐための法案と言う事だが「一般人は対象にしない」と言うのは誰にでも解るごまかしだと思う。 何故なら既に前科があれば別だが、テロを考えるような人、或いは犯罪を起こすような人は、実際に起こすまで、 全ては一般人に違いないのだ。

だから「一般人を対象にしない」法案など、あり得ない。 でも、「一般人」の意味が僕の想っていいる意味と違うのなら別だ。 例えば、気持のムカついた人がつい「ぶっ殺してやりたい」とか、 「あんな政策には反対だ」等と言ったり書いたりする国民は一般人ではないとでも言うのか? 

そんな事はあるまい。答弁する側もそんな事は承知だと思う。 今は兎に角、この場を乗り切って、兎にも角にも早く法案を通したい、そんな姿勢が見え見えだ。 野党の質問に取るに足らない質問があるにしても、真摯に応える姿勢がないのは与党の数の力に違いない。

そして「共謀罪」には、運用によって一般人の何気ない一言が命取りになる危険性を孕んでいる。 それで各界からの批判があるのだ。 運用によっては、それこそ戦前戦中の「治安維持法」に匹敵するとも言われている。

 森友問題に続いて、加計学園問題が紙上を賑わせている。

新聞社によって取り上げ方は異なるが、これも日本特有のおかしな問題だ。 おかしいのは実際に官邸側の圧力が実際にあったかどうかではなく、問題が生じてからの政府、官僚の対応だ。 官邸側は兎に角そんな公式文書はない、そんな文書は確認されていないの一点張り。 挙句はこの事を発言した元次官の人格攻撃や何故今発言したかの推測だ。

日本の最高権力側からの個人への人格攻撃とは、なんとも情けない。 問題のすり替えだし、どんな人間でも、最高の人格者なら兎も角多少の瑕瑾があるのが生身の人間。 それに権力側は個人を犯罪者に仕立てられることだって出来る、怖い存在だ。

そして官僚側はそんな事は公式文書に残せられる筈はないから、つまりは忖度の世界で動いたのは見え見え。 一般国民からのお願いや陳情には、法律や慣習を盾に梃子でも動かない官僚が、 権力側からの言葉で、いそいそと忖度する姿が浮かんでくる。

本来なら、特区の方針に則って加計学園に決まった経緯を、担当者を国会に呼び書類を示して説明させればいいだけなのに、 それさえ放棄して、どうやら「何も問題はない」との方針でこの問題を突っ走る腹らしい。

森友問題にしても加計学園問題にしても、何れも実際に官邸側からの意向が働いたかどうかは置いて、 日本の官僚はどうやら権力側への忖度で動く傾向があるとあまねく国民示した。

日本の問題はそうした事が起こった時に、権力側とは独立した捜査機関がない事だ。 三権分立が正しく機能しているのかも問題だが、検察側と裁判側が権力側とそれぞれがはっきり独立していないのも大問題だ。

そんな日本で「共謀罪」が施行され、20年後、50年後、日本はどんな社会になっているのか気になる。 現在の政治は何年後か、或いは何十年後かに振り返ってみなければ評価できない。

未来の日本人は、今の日本をどう評価するのだろう。

<K.K>


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