「文学横浜の会」

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2018年 1月 6日


「紛争を引き起こさない」

 正月番組で第一世界大戦から第二次世界大戦への激動と、戦後の混乱期を描いたドキュメントを観た。 歴史は繰り返すとは言うけれど、絶対に繰り返してはいけないと改めて思った。

当時と比べて明確に言えることは、使用される兵器が格段に異なるということだ。第二次世界大戦末期に開発された核兵器が、 その威力といい、当時のいかなる兵器とも比べようもなく残酷な兵器だと言うのは間違いない。 一度戦争が起これば、前線で兵士が戦う、と言った古典的な戦争ではなく、空から何処にでも砲弾、或いは核兵器が飛び交う、 そんな戦争になってしまう。 そんな事にはなってはいけないし、してはならない。

そしてもう一つ、国内での紛争は絶対に起こしてはならないとも思った。 幸い日本では明治維新における「西南の役」以来、国内での軍事衝突は起きていない。 明治維新後および第二次大戦後の混乱期を除いては国内も安定しているが、目を世界に向ければ、 様々な理由によって国内が乱れている国がある。民族や宗教、或いは複雑な歴史を背景に、国内が混乱している国もある。

国家間、或いは国内で一度紛争が起これば、犠牲になるのは国民である。そしてそうした騒動を引き起こすのも、 残念ながら国民なのだ。それは矛盾しているようだが、歴史を振り返れば明らかだ。 心の安らぎを与える筈の宗教が、残念な事に紛争や戦争の引き金にもなる、と言う矛盾した出来事も多々ある。

民族問題は人間が作り出し、そして宗教問題はその宗教を強く信じた結果、或いは解釈の違いから生じたとも思える。 しかもそうした問題に関わる人は誰もが自分の方こそ正しく正義だと思い込んでいる。 悲しいかな、人間は強く思い、固く信じることのできる生き物であり、その帰結が人間同士の対立を生み、 その結果として紛争や戦争を引き起こす、と考えられなくもない。

古典的には領土の拡張に起因する紛争や宗教的な対立が多くあった。 今でも領土的な対立はあるが、宗教に根ざす対立が顕著に見られるのはどうしたことか。 なんとも皮肉な事だ。

歴史は繰り返すという事は、人間の営みが続く限り、人間同士の対立は続くと、言う事でもあるのだろう。 だからいつか何処かで、全面戦争が起きる、等と言いたい理由ではない。 その可能性があり、その理由はつまらない人間の心の持ち様だよ、といいたいのだ。

紛争の当事者に、対立の原因について「そういう事はそんなに熱くならないで、どうでもいいではないですか」 等と言おうものなら、何がどうでもいい事か! 神を冒?するのか!  等と怒り狂って難詰されるだろう。殺されるかも知れない。だから類が及ばないように見ていればいいとは思うが、 そうもしていられないのが今日の状況だ。つまり同じ地球上で生きているのであり、 地球を汚染させるような兵器を使用されては困るし、関係のない人達まで巻き込まれるのは見ていられないし、 いつ火の粉が我々にも及ぶのか不安でもある。

自分達は生きるために戦う、と言いながら被害を受け、他者も犠牲にされては困るのだ。 もめている当事者に対しては、
頭を冷やせ! 
冷静になれ! 
と言い続けるしかないが、幾らそう言っても、人間にはメンツと言う厄介なものがあり、人間はそんなに賢くはない。

先のドキュメントを観て感じるのは、その時は民衆は圧倒的に支持するのだ。 そしてそれを非難する意見はいつも少数で、しかも弾圧されるか抹殺される。 歴史を振り返るとその繰り返しのようにも思う。民衆が熱狂している時には正常な議論などできない状況だと思って間違いない。

でも紛争を引き起こさないためには粘り強く、何度でも説得するしか道はないが、それさえ圧殺されるのが過去の歴史だ。 しかも圧殺する法はちゃんと用意されている。日本の例では「治安維持法」だった。 政府を批判すれば治安を乱す者として罰せられたのだ。

何年か何十年か先、所謂「共謀罪」に関する法が、どのように運用されるのか見守っていたいが、気になることである。

     *

 さて、ここに来て北朝鮮と韓国との連絡が再開したそうだ。 韓国と米国との軍事訓練も、韓国で開催される冬季オリンピック期間中は行わないと決まったようだ。
良い事だ。
北朝鮮と米国のトップによる罵りやハッタリだけでは、国民も本音ではうんざりだろう。

北朝鮮には核は放棄してほしいし、米国には冷静に対処してほしいと願うのみだ。

<K.K>


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