「文学横浜の会」

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2018年 2月11日


「オリンピック考」

 平昌冬季五輪オリンピックが始まった。 オリンピックが終わるまで暫くは沢山の映像や、聊か上気した甲高い音声に嫌でも接するだろう。

今回のオリンピック程、政治色を色濃く感じたオリンピックはない。 連日、北朝鮮情勢が伝えられ、文化使節だの美女軍団だの、およそオリンピックとはかけ離れた話題が報道され、 本来のスポーツの祭典と言う言葉が、見掛け倒しのように思えてくる。

最も、オリンピックがスポーツの祭典という本来の意味合いから逸脱している、 と感じたのは今回に限った事ではない。まるで国家の威信の発揚の場に利用されているし、 スポーツメディア或いはスポーツビジネスに振り回されているように思えて仕方がない。

開催地が何処であろうと、決勝の実施される時間を、 欧米或いは米国の視聴者向けに、最も視聴率が上げられるように時間設定されるのは今は当たり前のようだ。 それで開催国の午前中に当たる時間帯に決勝が行われる種目もある。

選手達には本来なら午前中はウォーミングアップの時間帯なのだが、 オリンピックでは何時もと違うパターンで競技をしなければいけない。 こうなると誰のためのオリンピックか、と言いたくもなる。

前々から思っている事だが、今のオリンピックはお金がかかり過ぎだし、 その原因の一つは競技の多すぎにある。どうしてもそんなに沢山の競技をしたいのなら、何も一国で開催する必要はないし、 短期間に集中して実施する必要もない。競技種目毎に、それぞれの実施場所と日程を決めればいいし、 日程はおよそ三か月ぐらいの期間で競技毎にスケジュールを組めばいい。

それにスポーツの祭典を標榜するのなら、どうして国旗や国歌が顔を出すのか理解に苦しむ。 勝者の属する国家や国旗が掲揚されなければいけないのか私には不可解だ。 そんな事をするから国毎にメダルの数を比べ、国家間の競争になり、 ドービングだのの不正が蔓延るのではないか。勝者は純粋に競技者のものではないのか。

メダル授与セレモニーではオリンピック賛歌を流し、オリンピック旗を掲揚すればいい。 そんな事をしたら国からの支援が無くなって、オリンピックそのものも危うくなる、との意見も出てきそうだが、 そもそもスポーツの祭典に国がしゃしゃり出るというのがおかしい。国威発揚の場ではない筈だ。 国の代表との意気込みがなければ頑張れない、と言う選手もいるだろうが、それはスポーツとは次元の異なる認識だ。

兎も角、オリンピックの競技数が増え続ければ、開催できる国は限られてしまう。 実施に際しても開催国にあった時期が組めるようにすべきで、 少なくとも実施期間を大幅に広げて、実施時期も開催国に任せるべきだ。

まぁ、日本の選手には頑張ってほしい。

<K.K>


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