「文学横浜の会」
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2018年 5月 6日
「民主主義の危機」
国の指導者を択ぶ方法について、アメリカ型と中国型がある。
無論、その他にも色々あるだろうが、世界のGDP1位、2位の国家の政治体制の違いだから、
今のような混乱した世界情勢の中で、どちらの政治体制がいいのかと穿った眼で見つめる向きもある。
アメリカ型の政治体制は、様々な意見や対立事項、或いは異なる宗教や民族、それらの価値観が混然として、
真偽こもごも、混沌とした状況の中で、全ての国民の投票で指導者を択ぶ。
中国型は、他国からはよく判らない中で指導者が選ばれる。国内に様々な意見や考えがあるにしても、
異なる宗教があり民族がいて色々な考えの人がいるに違いないが、一党支配の独裁国家。
つまりは中国共産党の指導者がそのまま国の指導者となる。
日本はアメリカ型により近い政治体制だが、これからも中国型になる事はないし、してはならないが、
アメリカ型の政治体制にも近年様々な問題点が浮き彫りになってきた。
1については、昔も今も変わらない、とは思うが、やはり昔と比べれば世の中の動きは格段に速くなっているのではないか。
例えば、北朝鮮の動きをみても、去年、いや2,3ヵ月前は、今にも危険な動きが起こるのではないかと誰もが心配していた。
現に、日本はそれを口実の一つに国会を解散して総選挙を実施したのだ。
で、今の北朝鮮状況と言えば、南北の融和ムードに包まれている。
最もムードだけで終わるかどうかは今後を見なければいけないが、
左様に世の中の動きは速い。だからワン・イシューだけで指導者を択ぶわけにはいかない筈なのだが、
選挙は往々にしてその時のムードに流されるのは人間社会の常だ。
2と3について言えば、近年の情報化社会の進展に伴い、新たに生じた問題点と言えるだろう。
いや、そうした問題はきっと以前から内在していたことだが、情報化の進展でより顕著になったと言える。
日本ではメディア(報道機関)の中立性が謳われているが、人間がなす事で、
どうしてもメディア毎の傾向が生じるのは仕方ないが、ネットの中ではそんな中立性などない。
偏った論調が一部の方々に流れ、そうした情報しか接しない人にはそれが世の中の全てになってしまう。
アメリカではさらにその傾向は強く、つまりメディアの中立性は担保されていないから、
ある人々は決まったメディア、或いは所属する宗教等から発せられる情報しか接しない、
と言うことが言われて人々の間での情報格差、或い情報断絶が生じて、社会混乱の要因にもなっている。
それに宗教における価値観の相違も甚だしい。
キリスト教原理主義者の一派では、今でも進化論を信じないで、そういう教育を行うのは信念に反する事だと、
公共の学校には行かないでその宗派で教育する、と言う事もあるようだ。
トランプ大統領を支持する一部にその宗派も含まれている、と言う。
それも少なくない数だとの事だ。
トランプ大統領が世界からどんなに不評であってもアメリカでは30%の絶対的な支持があると言うのも頷ける。
こうした情報の偏りはアメリカが特に顕著だが、アメリカだけと言う訳ではない。
原因は無論、インターネットの普及で情報の多様化、及び情報過多、が各国で生じているからに違いない。
つまり人々は全ての情報を理解し、読むことは不可能。
おのずと自分の関心のある情報しか見ないし、自分の心地よい情報しか見ない、と言う傾向になる。
民主主義とは、本来、色々な意見があり、互いの違いを認め合って、それぞれの考え意見を聞いて、
それで投票する、と言う前提で成り立っていると思う。
それなのにとてもそんな状況ではなく、民主主義の危機だとまで言う者もいる。
確かに、このままこの傾向が続けば、さらに民主主義国家内の混乱は益々深まるだろう。
民主主義に代わる新しい政治体制はまだないが、かと言って中国型がいいとは断じて思わない。
恐らく、これから色々な失敗をして、新しい民主主義が生まれるか、
情報偏りの弊害に対する新たなルールが生まれるに違いない。
悲しいかな、人は、或いは国家は、大きな失敗をしないと中々現状を変えようとしない。
それで問題になるのはどんな失敗をするのかだ。
くれぐれも戦争にだけは突き進んでほしくない。
<K.K>
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