「文学横浜の会」

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2020年 2月 9日


「真実と嘘」

 真実と嘘、その違いが判然としない時代となった。

いや、ネットワーク社会による情報過多時代になって虚実の違いがより判然としなくなった、と言うべきかもしれない。

アメリカのトランプ大統領のウクライナ疑惑の報道をみていると、民主党は黒だと結論し、 共和党は白だと断じた。どちらが本当なのかは神のみぞ知る、という事なのだが、議員が裁定するからまさに政争になっている。 政争になっているから「真実はどうなんだ」という事はそっちのけだ。 真実を追求したいのなら、どちらの側からも参考人の証言は必要な筈なのに、それさえ拒否している。

同じような事が日本の国会でも問題になっている。「桜を見る会」における安倍首相の後援会の一連の行事に関する疑惑だ。 最も日本における「桜を見る会」の疑惑は、野党の数不足や制度上の問題もあって米国程の追及とはなっていない。 が、安倍首相の国会答弁は噴飯ものだ。「広く募ったが、応募した訳ではない」とか、それに類する答弁が多々ある。 そんな日本語が国会で通るのだから、なんともあいた口が塞がらない。

真偽を見極めるに、所詮国会でのやり取りでは無理で、本来なら第三者、裁判所で行うべきだろう。 それには制度上の問題があり、実現はかなり難しい。

世界中で情報が氾濫している現代社会では、あらゆる事がツイッター等で発信されている。 最近では政治家も発信している。トランプ大統領などは頻繁に発信して、それが世界を駆け巡る。 その手軽さから、安易に発信し、後々問題が起こらないかと心配になる。

政治の世界はより多くの投票を得た政党・政治家が力を持つ。 だから政治家や政党はあらゆる手段を尽くして支持を得ようとする。その手段としてネットが使われている。 支持を得るためには手段を択ばないから、相手に不利益な情報を、真偽こもごも流す。 つまりネット社会では、多くのためになる情報もあるが、同じくらいの偽情報もあり、それが身近に溢れている。

だから政治家が発信する情報は、どういう背景で発信されたのか見極めねばいけない。

米国でも日本でも、事の決着をつける手段としては裁判に持ち込むのが一般的だ。 だから国会で真偽を問うのはやめて、裁判所ですればいいのに、と思うのだが、先に言ったように実現はほぼ不可能。

その裁判にしてもなんだか考えざるを得ない事が多々みられる。 一つに有罪・無罪の分かれ目として弁護側の能力も物をいうが、現代のような格差社会では、 裁判制度を歪める現象も垣間見える。 つまり優秀な弁護士を付ける資力があれば無罪を勝ち取れる確率も高くなるのだそうだ。 無罪とまではいかなくとも、少なくとも罪を軽くできる。

以前、米国で著名な元フットボール選手が殺人事件をおこしたが、無罪を勝ち取ったという例もある。 担当したのは有名な弁護士で、一時話題になった。お金の力で死刑を逃れたと。

米国では何でも裁判で物事を決める事が多いと聞くから、優秀な弁護士を雇えるかどうかは大きな問題だ。 だから余計、裁判における有罪・無罪がそのまま真実だとは受け取れない。 そんな事を言うと、裁判をボウトクすると言われそうだが、実感としてはそうした思いは残る。

まぁ、所詮人間が人間を判定するのは無理筋で、それを頭に入れておかなければいけない。 でも何らかの決着をつけねばいけない事もあり、長い時間をかけて人間が考えたシステムだから、 致し方のないことなのかもしれない。それに世の中、必ずしも二択ではない。 それが世の中を複雑にしているのだが、基本は迷惑はかけない、傷つけない、不正はしない事ではないか。 そう思っていても心ならず迷惑をかけたり傷つけたりしているのが、人の世だ。

それにしても世の中、混迷を極めるばかりだ。

情報が氾濫している中で、人間は自分の関心のある、自分にとって都合のいい情報しか受け付けない傾向があるから、 価値観の異なる相手との距離は大きくなるばかりだ。

<K.K>


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