「文学横浜の会」

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2020年 8月19日


「コロナ騒動で思う事」

 もういい加減、コロナ騒ぎから目を反らしたいがそうならないのが現実だ。

 今、メディアで大きく取り上げられているのは「新型コロナ関連」「アメリカの大統領選」そして「米中対立」だろう。 いずれも日本も関係しているから日本のメディアで大きく取り上げられるのだが、 日本で対応できるのは国内での「コロナ感染者数」だけである。

その対策と言っても「不要不急の外出はしない」と言う事で、なるべく人との接触を避け、 外出する際にはマスク着用が言われているだけだ。 これでは経済活動が阻害されるというので、国家としての「緊急事態宣言」は解除され現在に至っている。 そして皮肉な事に、と言うか当然の帰結として、自粛度を緩めた結果、国内での感染者数が増大している。

 どうも世の中は、経済的視点から考えざるを得ない仕組みになっているようだ。 何故なら、今回のコロナ騒ぎは中国の武漢から始まり、経済活動の世界的な流れの中で、アッと言う間に世界中に広がった。 そのスピードたるや経済の広がり速度と比例している。

この問題の日本での対応を振り返ると、中国での新型コロナニュースはあったものの、 今年の1月頃、さあ今年は東京オリンピックだ、との気分が蔓延し、 成功させなければいけないとの空気があった。 同時に中国の春節を前に多くの中国人観光客の訪日を期待する雰囲気もあった。 いずれも日本の経済的理由であり、国内で多く消費してほしいとの胸算用に違いない。

そのうち武漢発のとんでもない新型コロナ騒動のニュースが衝撃的に飛び交い、 何かただならぬ事態が発生しているらしいとの実感は持てても、他国の出来事として眺めていた。 中国からの観光客も春節に向けて増える傾向にあった。それが1月末から2月にかけてだ。

それから新型コロナは日本へ、世界へと拡散した。その間の経緯は後年詳細に整理されるだろうが、 このコロナ騒動をきっかけに「人は何故、何のために生きるのか」を思うのも一興だ。

人は何故、何のためにいきるのかと問われれば「人は楽しむため、好奇心を満たすために生きる」と言う論がある。 現代人をみればそれも肯ける。「人は食べるために生きる」と応える人は、所謂、先進国ではあまり居ないだろう。

日本の経済を考えれば、多くの場合「楽しむため、好奇心を満たすため」のものではないか、と思う。 つまり食にかかわる一次産業の就労者は少なく、それも高齢化している。 我々の多くは経済活動で得た賃金で食材を得て、或いは直接「食」を得て生きていると言える。

だけど人類の歴史を見れば殆ど、食べるために多くの時間をさいてきた。つまり食べるために生きていた、とも言える。 我々の曾祖父以前の世代、つまり150年ぐらい前の人は、食べ物を得るために生き、そのための戦いもした。 無論、その中でも楽しみを見出し、好奇心も持ち合わせていただろうが、 多くの時間は食べ物を得るために割かれていたに違いない。

それを考えればこのコロナ騒ぎの中でも、飢え死にや飢餓が生じないのは有難い事だが、 我々は余りに経済の仕組みに組み込まれすぎてはいないだろうか。 経済活動を効率的に行うために都会に人は集中し、食材を算出していた地方はすたれるばかりだ。

コロナ騒動の中でも日本が餓死しないでいられるのは他国から食材を輸入しているからであり、 主食のコメは自給できているとは言うものの、他国からの食材や家畜用の餌の輸入が途絶えれば、 現在の食生活は覚束なくなる。

コロナ騒動でテレワークが普及しているようだが、それなら何も都会に住む必要性はない。 買い物もネットで検索し、配達。そんな経済活動も盛んだと言う。 それなら地方に住み、仕事の合間に放置された畑で何ほどかの食材を自給する事を考えてもいいのではないかと思う。

気のせいか近頃のテレビ画面に食に関する映像を多く観る。 人は食べるために生きてきた期間がずっと長く続いていた事を考えれば、 人類の一番の関心事は食に関するものだ、と言っても言い過ぎではない。

このコロナ騒ぎはいずれ収まるだろうが、問題はその後だ。 テレワークは廃れてしまうか定着するか、社会はどう変化するか、をしっかり見てみたい。

このような歴史的現象をリアルに体験でき、幸せだとは言わないが、そう体験できる事ではない。 新型コロナの収束後、世の中がどうなっているのかとても興味がある。 これも好奇心の一つだろう。

どうなるか見届けるまで、死ぬ訳にはいかぬ。

<K.K>


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