「文学横浜の会」

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2022年 5月16日


「沖縄が本土に復帰して今年で50年」

 沖縄が本土に復帰して今年で50年経った。
 復帰した時期、ぼくは20代で、はっきり記憶に残っている。

社会人になって間もない頃で、東京で一人暮らしをしていた。その頃は長い休暇が取れるのは正月休み、ゴールデンウィーク、 そして夏期休暇に限られていた。まだ土曜休みも定着していなかった頃だ。土曜は半日出勤の会社も多かった。

出勤時の電車の本数や出勤者数の違いもあるのだろうが、出勤時のラッシュアワーは酷いものだった。 それに当時の国鉄労働組合のストがあると出勤するのも大変な時代で、詰めすぎて電車の窓ガラスが割れるのも目撃したことがある。

それが50年経った現在、コロナの影響もあるのだろうが、出勤形態も大きく変わった。 たまに昔の出勤時間帯に東京に行く用があって電車を利用しても昔のような混雑は感じない。 コロナによる緊急事態宣言下の車内は、出勤時間帯でも昔の平日の昼のような車内だった。

50年経った今、週休2日制は定着し、3日休暇の会社もあるという。 テレワークとやらで、月に何度か出勤するだけでいい会社もある。

何故休暇にこだわるかと言うと、ぼくの若い頃はちょっとした旅にでようとすれば正月、GW、夏に限られていた。 だからその時期に実家に帰ったことはなかった。実家には2時間もかからなかったから、用があれば顔を出していたにせよ、 今思えば親不孝な息子だった。

で、その頃復帰したばかりの沖縄に何年か続けて出掛けた。首里城もまだなかったと記憶していいるが、 1度行って取りつかれてしまったのだ。 行きは船、帰りは飛行機の事もあったが、与那国等のさらに離島にいくとなると飛行機代もバカにならない額だった。 若い時の安月給でよくぞそんな旅ができたものだと思う。

無論、その頃は九州から北海道まで、当時の周遊券を片手に、時にはバイクに乗って出掛けた時期もある。 沖縄ばかり行ったわけではないが、年に1度は必ず沖縄に出掛けた年が5年ぐらい続いた。 沖縄の青々とした空と大きな海原、そんな中で、のんびりとした間がとても心地よかった。 特に離島に行くとそんな気分にひたれ、3年続けて目的もなく与那国に行き、同じ民宿に泊まった。

与那国の最初年に泊まった民宿の親父さんが早朝ヤシガニを取ってきて、夕食に出してくれた。 とても美味しかったが、だんだんヤシガニも少なくなった、と漏らしたことを覚えている。 本土からの観光客が増えた影響もあるようなことを言っていた。

台風のシーズンに、1週間も外に出られないような大きな台風が居座り、旅行者も足止めを食った話も聞かされた。 自然の怖さを教えられたのも民宿のおじさんだ。

それから何年も何年も経った。放浪癖も修まり平凡な会社勤めをしていた頃、与那国に自衛隊基地を置くと言うニュースに接した。 ニュースでは島民の間で賛成反対と別れて揺れているとの内容だった。 それぞれに必要性や思惑はあるのだろうが、複雑な気持ちだった。沖縄の戦争の傷跡を思えば基地など無いに越したことはないのだ。

現在は自衛隊の基地も定着して、与那国の島民も増え、小学生の数も当時と比べると多くなったとの報道だが、 あれから沖縄には行っていない。
多分、当時とは大きく変わっているとは思うけど、あののんびりとした間はまだ残っているだろうか。

<K.K>


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