窓の明かり

作  金田清志

 【その1】

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 美知恵と出会ったのは、私が結婚して一月近く経った頃だった。美知恵は学生時代の知人で、同じ大学の佐藤と学生結婚してそのまま退学した。あと半年すれば卒業なのに、どうして待てないのかとその時はクラスの話題になった。学校に来なくなってから出会ったこともなく、私の中ではまだ野中美知恵のままだった。美知恵に声を掛けられなかったらそのまま擦れ違って、何処かで見た顔の人だとの思いを残しただけかも知れない。大学を卒業してからもう十年以上は経っている。

 その日は確か木曜日か水曜日だったと思う。仕事の都合で代休を取って、と言うより組合から代休を取るように言われて、私には休日だった。それで繁華街に出掛けていた。妻は仕事なのに私は一人ぶらぶらしている、なんとなく後ろめたい気分だった。結婚した直後は二人でドアを閉めて出勤したこともあるが、今は私の方が少し早く出勤している。

「あら、お久しぶり」

 そう声を掛けられたのは私にとってはふいの事だった。目的もなく歩いていたから場所ははっきりしないが、商店街の中だった。

 声を掛けられた私は、最初は誰なのか判らず、私に声を掛けたのかといぶかった程だ。

「中山さんですわよね」

 そう言われて、かすかに過去の記憶が蘇ってきた。

「野中さん? え−と、結婚して佐藤さんだよね。何十年振りだろ、こんなところで出会うなんて」

「何十年なんてオ−バ−よ」

「十五年ぐらいは経つんじゃない」

「そんなになります」

「余り変わってないですね」

 私は愛嬌のつもりで言った。

「何をおっしゃるの、もうすっかりおばさんよ」

 確かに、妻の倫子と比べても三つ年上だと言うことを差し引いても、はるかに美知恵の方がおばさんらしい。子供が二人もいれば当然といえば当然だった。

 その日、どうして美知恵と一緒に繁華街を歩き、喫茶店に立ち寄ったのかはっきりしない。きっと美知恵は学生時代の知人と出会って、その頃が懐かしくなったのだろう。私にしてみれば目的もなくただぶらぶらしていただけだから、誰でも相手がいればよかった。

 学生時代から知ってはいたが、美知恵と二人で喫茶店に入ったのはその時が初めてだった。体型が少し変わったとは言え、一見おっとりとした感じの表情は昔と変わらない。

「今日は代休で、代休を取らないと組合がうるさいから。家に一人でいてもしょうがないから出てきたんですよ。よかったら付き合ってくれる」

 私は自嘲気味に休日でもないのにぶらぶらしている言い訳をするように言った。無論美知恵は用事があるだろうし、断ってくると思った。別に他意はなかった。

「いい会社ね。いいわ、ご一緒しますわ」

 学生時代の共通の知人の消息などを話しながら、しばらく繁華街をぶらぶらと歩いた。喫茶店に入ると美知恵は言った。

「奥さんお仕事続けていらっしゃるの、偉いわ。大変でしょ」

「大変だと思うけど、本人が続けたいというから、子供が出来るまでは働くつもりなんじゃないかな」

「そうよ、その方がいいわよ。私なんか子供が出来てすぐ結婚したから大変だったわ」

「確か、出来ちゃったから結婚したんだろ。でもそう言う大変なのもいいんじゃない」

 と私は笑いながら言った。

「経済的に大変よ、若かったから。ギリギリの生活で、余裕なんてなかったわ」

「もう子供は大きくなって、いいなぁ」

「上のが十五で、下のが十三で中学生。子供が小さい時は大変だったわよ」

「子育てももうそろそろ終わりだね。うちなんかこれから…、出来たらの事だけど」

「努力してるの?」

「そりゃ、まぁ。毎日とは言えないけど」と笑った。

 美知恵の夫、佐藤信夫とは個人的な付き合いはないがまったく知らない訳ではなかった。今でも年に一回程度、つまり学生時代のクラスの忘年会では会う。最も最近は欠席しているが…。集まると昔は美知恵の事が話題になり、酒が入るとお前は悪い奴だと決まってそう言う事になった。でももうその話はでない。

「佐藤、仕事は忙しいの?」と訊いた。

「いつも遅いのよ。最も仕事かどうか判らないけど、」

「まだ山に行ってる?」

「最近はゴルフよ。子供が小さい頃は出掛けるのを我慢してたみたい。その頃はお金もなかったのよ。今でもお金はないけど…」

「いいじゃないの、それぐらい」

「そうかしら、」

「そうよ。俺なんか何処かに行ったら、なんて言われて。今日みたいにぶらぶらするぐらいしかする事がないよりいい」

「代休が取れるなんていい会社ね。うちの人ならきっと…」

「私みたいに趣味のない男はただぶらぶらするだけ」

 私は自嘲気味に笑った。

「奥さん、お仕事から帰ってきて夕食の支度をするの、大変でしょうね。偉いわー」

「私だって手伝いますよ」

「あら、うちの人に聞いてもらいたいわ。うちの人はまるっきり駄目なの。自分のことばかり」

 私は笑って応えるしかなかった。結婚する前は私も早く帰って来たら家事を手伝うと宣言したが、お互い外で働いていればそれは当たり前だと判っていても、私は意識して遅く帰るようになった。

「今日は無給の残業だったの?」

 と言われるようにもなった。私には皮肉に聞こえる。お互いに三十を過ぎての結婚だから、結婚生活がどんなものなのか判っていた筈だった。理想的な事ばかりではなく、極端に言えば赤の他人同士が同じ屋根の下で生活しているのと変わらない。結婚した直後は我慢していた事も、言うのをためらっていた事も、一月経った今は少しづつ言うようになった。炊事が苦手かと訊かれれば私は面倒臭いと思う。もともとそう言う事をしていなかったからだと思うが、要するにそう言う事が嫌いなのだ。妻の倫子は皮肉を言いながらも家事をするから、好きなのだと私は勝手に思った。それを言うと倫子は怒るから、機嫌を取る意味も込めて、私は邪魔にならない程度に手伝う。

「あなたが手を出すと狂うからやめて!」

 と言われると、私はすごすごと手を引く。私はそう言う事に無能なのかも知れない。倫子には能力があって、私を必要としないのかも知れない、と思ったりする。

 一時を過ぎた頃だった。私がぶらぶらしていた唯一の目的と言えば昼食を摂る事だった。そして面白い映画があれば見ようかなとも思っていた。面白い映画がなければビデオショップに寄ってビデオを借りてくる。それともぶらぶらと足の向くままに、パチンコをするかも知れない。要するに私は会社を離れれば身の置き所さえ定まらない。

 私は美知恵を食事に誘った。

「あら、そんな時間ね」と美知恵は言った。

「久しぶりだわ」とも言った。

 外食するのが久し振りなのか、それとも夫以外の男と食事するのが久し振りなのか理解できなかった。

「佐藤と、よく出掛けるんでしょ」

「うちの人はそんなこと全然、いつも一人で出掛けるわ」

「子供が出来る前は、よく行ったでしょ」

「結婚する前よ。結婚してからは全くないわ、すぐ子供が出来たし…」

「子供が出来て結婚したんだっけ」

「お腹の中にいたときよ。その子ももう十五才、早いわねぇ」

「そうか、結婚してから出来たにしては計算が合わないって、その頃はよく言ってた」

「あらやだ、そんなこと言ってたの」

「だってどうしても計算が合わないから、どうしてだって佐藤に訊いたんだ」

「うちの人、なんて言ったの」

「なんて言ったかなぁ、忘れた。学生時代から仲がよかったから、みんな羨ましがってたんだよ。きっと」

「みなさんもう結婚してらっしゃるのよね」

「そうですね。まだ結婚してないのもいるけど…」

「まぁ、どうして」

「結構いますよ。私だって結婚したのつい最近ですから」

 ひょっとしたら私もその中の一人だったかも知れないと思った。

(続く)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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