窓の明かり


作  金田清志

 【その2】


戻る次ぎへ


 倫子を知ったのは今から三年程前になる。知っていたとは言っても親しく話した事はなく、顔見知りと言うか、同じフィットネス・クラブに出入りしている女として知っていた。出会う時、倫子は女友達と一緒の時もあったが、一人で来る時の方が多いのでまだ独身だなとは思っていた。その頃の私は三十才を過ぎて、急に増えた体重をもて余していた。学生時代は五十八 だったウェストが六十五になり、ズボンを穿く時はムリにボタンを締めなければならなくなった。今ではその六十五よりさらに太って、しまりのない体型だが、その頃はなんとか学生時代のウェストに近づけようともがいていた時期だった。後から訊いた話だが、倫子も同じ悩みを抱えてフィットネス・クラブに入会したと言う。

 たまたま隣りあわせになってランニングマシンで汗を流していても、親しく話した事もなかった倫子と親しく話したのは、フィットネス・クラブとは関係のない場所だった。確か六月初めの休みの日で、私は靴下かネクタイを買う目的でデパ−トの衣料品売場をうろついていた。余り出掛けた事のないデパ−トなので、目的の商品が何処に置いてあるのか判らず、探し歩いていたフロアで出会った。クラブで何度か見掛けても挨拶程度の言葉しか交わさなかったが、何故かその時は親しいような思いになった。

「こんなところで出会うなんて、彼氏のプレゼントでも探しているの」

「そうなら楽しいんですけど、残念ながらそうじゃないの。父の日のプレゼントに何を送ろうかと見てるのよ」

 と倫子も私を見知っていたせいか気軽に応えた。

「父の日か、偉いなぁ。俺なんかそんな日があることさえ忘れてた。もう決めたの?」

「それが判らないのよ。ネクタイにしようか、それとももうすぐ停年を迎えるからガラの半袖シャツにしようか…。どちらがいいかしら」

「まだ働いているなら、俺だったらネクタイだな」

「じゃあネクタイにしよう」

「俺もネクタイをみに来たの。自分のだけど」

 私と倫子はネクタイ売場に向かった。

 倫子は既に売場は何処か知っていて、私は倫子の後を付いて行った。

「うちの父は派手なのが嫌いで、地味なのよ。もっと明るい感じにしてほしいのよね」

 と言いながらネクタイを見て廻り、三本のネクタイを持ってきた。さらに店員に言ってショ−ウィンドウの中から三本出してもらって並べた。私にどれがいいかと意見を求めた。年令が停年間近、とただそれだけしか判らないので、私にははっきり応えられなかった。どだい私にそう言う意見を求めたのが間違いだった、と後になって倫子は言った。それでもその時は四つを指さして、私の好みならこれだと言った。倫子はしばらく迷って、さらにショーウィンドウを見て、結局三本択んだ。

「あら、御免なさい。私のばかりで」

「いいえ、私はどんなものでもいいんです。いつも安物で、値段で決めちゃうタイプですから」

 私は売場を見て歩いた。本当を言えばもっと安物でもよかったのだが、その時は比較的値段のはった三本を取って、

「どれがいいですか」と倫子に訊いた。

「そうね」と言って倫子は売場に戻ってさらに二本持ってきた。

「こっちの方がいいと思うわ」

「なる程。センスがいいなぁ。これに決めた」

 さすが女は違う、と思った。

 一度親しく話すと、ずっと親しかったような気持になった。倫子の方も同じなのか売場を出てからも二人でデパ−トの中をぶらぶらして、その日は食事をして別れた。

 親しく倫子と付き合うようになって、私のフィットネスクラブ通いにもう一つの目的が出来た。倫子と会う事だった。その頃はいくら運動して躰を動かし、その時は1キロ減らせても、次の日には同じ体重に戻って、結局食事を減らすのが最もいい方法なのだと思うようになっていた。同僚は飲むのを止めればいいと言う。禁酒をしろと言いながら帰宅時間になると飲みに行こうと誘う。禁酒中だと言うと、そんなの長続きしないからと無理に誘う。私にしてみれば躰のどこかが悪い訳ではないから、体重が増えるのが気になりながら誘いに乗ってしまう。一人で帰宅した時でも、夕食を摂るのは近所の居酒屋という生活だった。

「中山さんは独身主義なの」

 と倫子に訊かれた事がある。確かクラブの帰りに一緒に食事をした時だった。ビールを飲みに誘って、そのまま食事になったのだ。

「別にそうじゃない。どうして?」

「だってずっと一人なんでしょ」

「ずっとと言われるとそんな感じはしないけど、結果的にそうなるか。西田さんは」

「私だって違うわよ」

 と倫子はやけにそっけなく応えた。そうした応え方が何故か結婚を意識しているように思えた。本心はどうか判らないが私を意識しているように思えた。それは軽い気持で俺と結婚しない、と言おうとした私を思い留まらせた。私にしても恐らく倫子にしても、今すぐ結婚してもおかしくないし、むしろ一人でいる事の方が何かと言われる年頃なのだ。

「お見合いとか、そう言う声がかかるでしょ」と訊いてみた。

「一度したわ、お見合い」

「やっぱり…」

「中山さんは」

「俺は一度もない。写真を見せられた事はあたけど、全然そんな気がなかったから断った。それからは全然そういう話はない」

 実を言うとそれに近い事があった。実家に帰ると見知らぬ女性がいて、その女性はすぐ帰ったが、あの女性は知人の姪だという。その女性が何故実家にいたのかその謎はすぐ解けた。母があの女性はどうかと言うのだ。まだ二十代中頃だった私には、どうかもへったくれもなかった。たとえその女性がどんな人であっても全くそんな気持はなかった。

 二十代も終わり頃になって、実家で見合い写真を見せられて、会ってみるかと言われたこともあった。私はどうでもいいように思ったが、見合い写真を撮れといわれて私は断った。若かった私は何もそんなにまでして会う必要はないと思ったのだ。それは今も同じだ。

 私と倫子が一緒になったのは、お互いにその気があったからだと思う。無論私は倫子を心から思うようになったし、愛してもいた。しかし倫子以外に夢中になった女がいなかった訳ではない。ある女は私と付き合っていながら他の男と結婚したし、ある女はプロポーズした私を避けるようになった。勿論、積極的に近づいてきた女もいたし、人を介して付き合いを求めてきた女もいる。

 倫子にもそれなりの事はあっただろう。私が言うのもなんだが、美人のうちに入る。本人は太ったと気にしているが私は痩せている女よりはいい。本人が気にしている程そんなに太ってはいない。

 食事をしながら「結婚しないか」と言おうと思い、出かかった言葉を思い留まった。軽い気持でそんな事を言った事がある。同じ会社の女子社員で私とは年の離れた女だった。「愛があれば年の差なんて」などと殆ど冗談で女も応えた。確かに年の離れた男の方がいいと言う女もいるし、年の差を気にする女もいる。私が軽い気持で言えなかったのはやはり倫子を意識していたからだろう。

 倫子と親しく話すようになって、漠然と一緒になれたらいいなぁと思っていたが、私ははっきり意識するようになった。付き合い始めてまだ三カ月経っていなかったと思う。勿論倫子の全てを知った訳ではなく、知っている事は親しくなる前と同じだった。

 その翌週だったか、私は気力を奮い立たせて言った。

「まだ三カ月ぐらいしか付き合ってないけど、結婚しないか」

 倫子は返事をしなかった。

「誰か、もういるの」

 倫子は黙っている。

「そうか、いるんだ」

「いません」

「じゃあ…」

「中山さんとは会ってから三年ぐらいになるでしょ。私にはそんな気がするわ」

「俺の方が早かったよな、このクラブに来たのは」

「私はちょっと様子をみる積もりで来たのよ、最初は。それがもう三年にもなるなんて、早いわ」

「はっきり応えてくれないか。断られても、別にいい。気にしなくてもいいよ」

「そんないい加減…」

「そうじゃない。俺ははっきり言っただろ。きみと結婚したいって」

「……」

「なんで応えてくれないの」

「急に、…困るなぁ」

「困る事なんかないじゃない。今すぐ結婚しようと言うんじゃない。結婚したってすぐ仕事をやめろなんて言わない」

「うれしいわ」

 ノー、と言った訳ではないが私の心は不安だった。もっとはっきりした返事が聞けなかった事が不安だった。うれしいと言いながら、結局私から遠ざかった女もいた。一度プロポーズしたからには、私としてはどうしてもはっきりした返事が訊きたかった。

 翌日、倫子の勤め先に電話を掛けた。六時までは職場を離れられないと言うので、七時に会う約束をした。無論倫子のはっきりした返事を訊きかたったのだ。そして私の気持も伝えたかった。

 定時に会社を出た私は本屋に立ち寄り繁華街をぶらついて時間をつぶした。待ち合わせの喫茶店に行ったのはそれでも三十分近く早かった。私は買ったばかりの文庫本を取り出してページを捲った。三ページぐらい読んで時計をみるとまだ十分ぐらいしか経っていない。文庫本を開いて活字を追う事だけに集中した。

「ご免なさい、待ったでしょ」

 と倫子が来た。私は何故か強ばった顔で文庫本を閉じて脇に置いた。心の中ではにこやかに笑いたいと思うのだが、なんとなくぎこちなくなっている。時計を見ると七時四分だった。

「仕事、忙しいいんだ。呼んで悪かったかな」

「よかったわ、電話してくれて。私の仕事じゃないのにもっと付き合わされそうだった」

「偉い人?」

「細かい人なのよ。人に頼む割りには色々注文つけて、それなら初めから自分でやればいいのに」

「大変だね」

「うちはそんなのしょっちゅうよ」

 倫子は一度座ったがすぐ、

「お腹すいたでしょ、ここ出ましょうか」と言った。

 注文を取りにくる前にここを出ようと言うのだ。私は自分のレシートを持って席をたった。

 その日は近くの繁華街の中にある店に入った。私にすればいくらでもお金を掛けてもいいと思い、もっと高級な店にと思ったのだが倫子の「そんなのいけないわ」の一言でその店に入った。倫子は私にお金を使わせては悪いと思ったと後で言った。

 前日のプロポーズからの再会だから、初めはお互いなんとなくしっくりいかなかった。料理を頼むのもぎこちなかった。話す話題も後から思えばつまらない話だった。私にすればプロポーズのはっきりした返事を聞きたかった。どんな返事であれ、いや絶対にOKであってほしい。ただそれだけしか頭になかった。

 訊こう、言い出そうと思いながら、とうとう言い出せないままにその店を出たのは九時近かった。結局一時間半ぐらいその店にいたことになる。支払いを済ませて外に出ると「ご馳走様」と倫子が言った。何時もなら割勘にさせてと言うのだが、私はそれには応えなかった。しばらく駅に向かって歩いた。私は言うのは今かなと思いつつ、また次の機会にと思い、いややはり早くはっきりさせなければと思った。私は立ち止まって倫子を見た。歩道には昼間程多くはないが人は歩いている。

「俺と一緒になろうよ」

 倫子は私に寄り添ってきた。私の腕に手をからめて、

「こんなところで恥ずかしい。でもうれしいわ」

「いいんだな。OKだな」

 倫子は頷いた。私は倫子の手を握りしめた。

(続く)

窓の明かり( 戻る次ぎへ
[「文学横浜」29号に掲載中]

ご感想・ご意見など、E-mailはこちらへ。

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜