窓の明かり


作  金田清志

 【その9】


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 美知恵からはその後音信はなかった。仕事先は照会したものの、美知恵が面接に行ったかどうかも訊いていなかった。照会したとは言っても私が有力なコネになれるような会社ではなく、それは美知恵も承知しているから、その後どうなったか気になっていた。世間知らずとは言え、その気になって仕事を探すなら、その方法はいくらでもある。

 その後どうなったか私の方から電話をしてみたい気持もあったが、出来なかった。気楽に電話を掛けられなかったのは、私の思い過ごしかも知れないが、美知恵に女の危うさを感じたからだ。それは怪しさにも通じて、美知恵と夫との事は知らないが、夫婦関係はどうなっているのだろうと思う。美知恵の話によれば仕事かどうか、亭主は殆ど家にはいないと言うが、それは本当だろうか。美知恵は羽目を外したがっているように思う。それは傍から見ると危なっかしく思う。もし私が独身だったら、仮に倫子との生活に倦怠感を感じていたら、もっと違った対応をしたかも知れない。

 美知恵から連絡があったのはそれから三日後だった。電話に出ると仕事は決まったと言い、色々と話があるから今日逢えないかと言う。照会された会社には行ったけど、詳しくはその時に話すと言った。私は逢う約束をして電話を切った。

 逢うなり、美知恵は言った。

「照会して貰ったのにご免なさい」

 照会先に電話をして、面接に行ったのだが、駄目だったと。働いた経験がない上に、ワープロもさわった事がないようでは、二十歳ぐらいの年令なら兎も角、三十を過ぎた身では諦めざるをえない。改めて自分がおばさんなのだと自覚した。ワープロといいパソコンといい、私が学生の頃は一部のマニアが使用していた物が、仕事の中に定着している事も知ったと言う。

「悪かったね、もっとふさわしい仕事を照会してあげればいいんだけど…」

「とんでもない。いい社会勉強になったわ。事務系の仕事をしたいと思っていたけど、現実を知れば諦めざるを得ないわね。それが解ったわ。結婚する前に何か資格でも取っておけばよかった」

 その資格にしても、資格内容にもよるが、現実的にはそれがあるからと言ってすぐ仕事に結びつくとは言えない。

「何処でもいいから働きたかったの」と美知恵。

「そんなに働く必要はないんじゃない」

「働きたいのよ、どんな仕事でも。もう子供には手が掛からなくなったし、夫の帰りを待っているだけの生活なんて…」

「相変わらず亭主の帰りは遅いんだ」

「あの人は会社人間よ。家庭とかは全く頭にないみたい。あの人はあの人で勝手にやってるのよ」

「会社で働くって言うのは大変だよ。ストレスもたまるし…」

「だからって自分の好き勝手にしていいの? 家にいるのは能力のない馬鹿のように言うけど、私だって外で働けるわよ。今時、うちの人ってすっごく古いって思わない」

「最近は会ったことがないからなんとも言えないけど、確かにそう思う」

「ね! そうでしょ。絶対そう思うわよ」

 子育てをやっと終ったら、たとえそれが本心ではないにしても、無能呼ばわりされたら反発するだろう。美知恵が言うように古い考えの男なのかも知れないし、自己中心的な男なのかも知れない。美知恵が反発したのは要するに、それを受け取められなくなったからなのではないか。愛し合って一緒になった二人だが、十五年も経って子供も大きくなり、どうやら二人の愛情には行き違いが出来ているようだ。

「仕事が忙しいと、家の事にまで気が回らなくなるんじゃないかなぁ」

 私は美知恵の夫を弁護する積もりで言った。美知恵にはなんの力にもならないかも知れないが…。

「それがおかしいいと思わない、仕事はそんなに忙しくなくても、帰りはいつも遅いのよ。自分で暇だって言っているから間違いないわ。どうして普通に帰れないのか不思議でしょ。会社に電話するとちゃんといるの。仕事がなくっても残っているんですって。上司がいれば残っているんですって。それも仕事の一部だって言うの。そうなのかしら」

 確かにそう言う職場もある。職場と言うよりそう言う社員もいる。色々な理由があるだろう。仕事熱心、会社への忠誠心もあるかも知れないし、他に行く所がない、する事がない者もいるだろう。

 美知恵は家庭を顧みない夫に不満を抱いている。子供に手が掛からなくなった分だけ余計にその不満が高じてきた。自分に対する愛情も感じられなくなった。美知恵の心を理解しようとすればそんな事ではないだろうか。

「新婚さんにこんな事を訊くのはなんだけど、毎日が楽しいでしょ」

「それは勿論。君だってそうだっただろ」

 私は笑いながら応えた。

「子供はほしいの?」

「まあね。俺は今更っていう気もするけど、やはりいた方がいい」

「毎日はげんでいらっしゃる」

「それは勿論」私はおどけた表情で言った。

「いいわねぇ」と美知恵。

「いいわねえって、そんなに真剣に言われると、参るな。君達だって…」

 私は笑いながら言って途中で止めた。男友達の親しい仲なら、君達だってまだ現役だからやってるだろ、と言いたかったのだ。すると美知恵は私が言いたかった言葉を察したかのように言った。

「そうよね、そう思うでしょ」

 もっと突っ込んで聞きたくなったけど自制した。

「うちの人は自分の事で一杯なのよ。仕事熱心だし、趣味には夢中だし、そのゴルフだって仕事の一つなのよ。出世して会社でいいポストを得て、ただそれだけが生き甲斐みたい。家の事は二の次、私の事なんか頭の片隅にあるのかしら。お給料はきちんと振り込まれるから、不満を言ったらお門違いだと言われるかも知れないけど、主人に感謝しなければいけないと実家では言われるけど…」

 と美知恵はとうとうと話し出した。

 それでどんな仕事に決まったのかと訊いたら、スーパーで働く事になったと言う。準大手と言われるスーパーで関東を中心に全国に二十店舗を持つ。来週から一週間、本社で研修を受けて、出勤する店舗も決まっていると言う。スーパーなら買物に出掛けて、だいたい働き場の感じは掴めていると美知恵は言った。外で働くのは初めてなので多少の不安はあるが、どんな仕事でも是非やってみたいと意欲的だった。

 こんなご時勢によく仕事が見つかったと思いつつ、私が遅い一歩を踏み出したのと同じように、きっと美知恵も新しい一歩を踏み出すに違いない。その先どうなるのか多少の不安があるのは、どんな世界でも同じだろうと私は思った。

 倫子からはその後山本の話は出なかった。私は山本が結婚祝いに食事に誘うと言う事が気になって、もしそう言う話が出たら、私は断ろうと心の中で決めた。しかし一日経ち二日経ち、三日目になっても倫子から何も言われないと気になってくる。それで何か連絡があったかと訊いてみた。もしあったら俺は遠慮するからと言うと、そんな必要はないわと言った。山本に金銭的な負担を掛けてしまうこともそうだが、やはり私は遠慮すべきだろう。あの時は大人気なくああいう結果になってしまったが、山本には倫子へのお祝いで、私は一歩下がるべきだろう。それで山本の気が済むのならそれでいい。そんな私の気持を何処まで解ってか、倫子は山本が言い出した事にたいした関心もないようだった。

「自分から言い出したんだから、こちらで遠慮する事ないわ」

 とまるで平気だった。女とは男に浪費させる事には慣れているのかも知れない。それとも本当に当然だと思っているのかも知れない。

 二日後、倫子から会社に電話があり、山本が明日二人のお祝いをしたいからと私の都合を訊いた。予定はなかったので、私は構わないけどと歯切れ悪く応えた。

「じゃあ大丈夫ね」と倫子は何時もの調子で言って電話を切った。今更、どう考えてみても山本が倫子の気を引くためにお祝いをしようとしているのではない事は明らかだ。結婚する前に山本を知っていたら、恐らく倫子と一緒になるには色々なごたごたが起っただろう。そうしたごたごたが結婚後に起ったと言えなくもない。

 その日の夜、明日は急用で行かれなくなったと言うと、二人で行くことになっているのに、山本君に悪いわと倫子が言った。

「だって急用なんだから仕方ないじゃない。山本はお前のお祝いをしたいんで、俺は付録のようなものだからいいじゃないか」

「二人で来てほしいと言うんだから、なんとかならないの。山本君の気持なんだから行きましょうよ」

「急用なんだから仕方ないじゃないか。君はお祝いされていいけど俺は関係ない」

 倫子の顔を立ててあげたい気持もあったが、私は頑なだった。

「君一人の方がきっと山本も悦ぶ」

 倫子一人で行かせるのに、全く気にならないかと言えばそうではない。やはり気になる。でも一度行かないと言った以上、私にも意地がある。私と倫子は結婚しているのだ。山本ごとき男に我々の関係は乱されない。

 翌日、私は嫌がる同僚を誘って飲みに行った。まだ新婚なのに遅く帰ったらまずいんじゃないかと冷やかされながら、十時過ぎまで飲んでいた。

 同僚と別れて私は家路についた。駅から自宅までは歩いて十分余り。殆ど閉まっている商店街を通って住宅街に出る。街路灯が灯る道をまっすぐ歩いて、信号のある交差点に出る。そこから少し行くと自宅のマンションの一室が見える。

 窓に明かりが灯っていた。私の足は心持ち早くなる。

(了)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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