窓の明かり


作  金田清志

 【その8】


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 倫子が仕事で遅く帰宅する事はめったになかった。そんな時には必ず連絡する。仕事上の付き合いがあって、前もって遅くなる事が分かっている時は出掛ける前に知らせる。結婚してから倫子自身も自覚しているのか、周りでも遠慮しているのか、以前程には声が掛からなくなったと言う。結婚したからと言って付き合いをおろそかにする必要はない、と言ってはいるが倫子自身、そうした付き合いに出るのが億劫になったと言う。それはおばさんに一歩近づいた証拠だと冗談の積もりで言ったら、あっさりそうかも知れないなどと応えた。結婚によって倫子自身が変ったのか、それとも私の見る目が変ったのか、倫子から受ける印象が以前とは違ってきた。独身時代の倫子は私の中ではキラキラと輝く星のような存在だった。その冷たく輝く星が少しづつ、私の中では月夜の月の温もりのように感じるようになった。その変化は倫子を少しづつ知ってきたからだと思っている。

 その日、外出先から帰宅したのは六時過ぎだった。仕事の用事で出掛けた先が自宅と同じ方向で、会社に戻らずそのまま帰宅したのだ。郵便受に入っていた夕刊を取り出した。他に届いている物はなかった。倫子宛の郵便物もなかった。その後、山本からは何もなくなったのか、二人の間で話題にする事はなかった。私にすればこのまま山本が諦めてくれればよく、兎に角山本が普通の男であってくれる事を願うばかりだ。普通の男だったらいずれ諦めるだろう。私には気になる事だが、かと言って自分から話題にするには遠慮があった。幾ら結婚したからと言って、そう言うことはプライベ−トな事だと心の何処かで思っている。もしまだ山本が倫子に対して迷惑を掛けるような事をしたら、その時はと気負ってみても、私の出番はなかった。それはそれでいいのだが、なければないでそれも気になる。そんな事はない筈だが、倫子は私に黙って、私に気兼ねして山本の事を話題にしないのかも知れない。そう思って昨夜、山本から何かあったかと訊いてみたら、別にと応えただけだった。

 六時過ぎだろうか、電話が掛かってきた。出ると倫子だった。一度会社に電話したら外出で、そのまま直帰だと聞いて、家に電話したと言った。

「山本君から電話で、どうしても会いたいと言うのよ。どうしてもって、仕方がないから一度だけ…」

 と倫子が言ったのを遮って、

「ダメ!」と言った。

「だってど−してもと言ってきかないのよ。仕方がないでしょ」

「だめ駄目、そう言うのが重なるんだよ。もし行くなら俺も行く」

 倫子はそうねとつぶやいた。私は構わず言った。

「今何処、会社?」

「そうよ。だけどもう出るわよ」

「会う場所は何処、俺もすぐ行く」

「解ったわ、あなたが来てくれるなら安心ね」

 倫子は山本と会う場所を説明した。メモを取って、私は取り敢えず外出用のズボンに穿き替えた。自宅からは一時間近く掛かりそうだが、絶対に行かなければ、と強い思いが沸いてきた。何がなんでも行く、倫子がなんと思おうと行く。問題は山本なのだ。山本に対する敵愾心なのか、まるで敵に突進するような心意気だった。

 すれ違う電車は帰宅する乗客で満員だが、都心に向かう電車は空いている。空いている座席を見つければ座れない事はなかったが、私はドアにもたれて立っていた。

 電車に乗って私は少し冷静になった。何もわざわざ出てくる必要はあっただろうか。ひょっとしたら山本は軽い気持で、昔の友達に会いたいだけなのかも知れない。妻が昔の友達に会うのにいちいち出て行ったら、大人気ないと思われるかも知れない。倫子にしたってたまには夫以外の男と親しく話したい時もあるだろう。でも相手が山本と聞けば家でじっとしていられなくなる。相手の顔が見えるだけに、それに結婚した後もまるでストーカーのように倫子に近づこうとする山本と知っては黙っていられない。私が行けば倫子もきっと安心するだろう。

 駅に着いて喫茶店に向かう間、私は考えた。素知らぬ風にただ見守っているだけにしようか。山本に気づかれぬように遠くから見ているだけにしようか。倫子は私が行くと山本に言っただろうか。なんと言っただろうか。そうした思いが脳裏をよぎったが、まとまった考えも浮ばないままに喫茶店に着いた。

 中を見ると倫子がいる。山本もいた。着いたらどうしようか、との迷いも忘れて私は二人に近づいた。山本が先に気づいて、おやっというような表情をした。それに反応して倫子が振り替えって私を見た。席を横にずれて、私はそこに座った。山本は不審そうな表情をしている。

「早かったわね」と倫子が言った。

「この時間は逆方向だから空いてた」と私。

「もう話は終ったの」とどちらに訊くともなく言った。

「山本君、もう終ったわよね」

 山本は苦笑いしながら顔を少し振った。

「どんな話か知らないけど、それはよかった」

 と私は倫子に向かって言った。

「僕はあなたに迷惑は掛けません」と山本。

「私より、ワイフに迷惑かけないでほしいな」

「それは…」と一息おいて「僕は迷惑を掛けてる積もりは全然ないです」

「君がその積もりでも、迷惑なんだよ。そんなこと言わなくとも判るだろう」

「あなた、そんな大きな声で言わないで」と倫子が心配そうに言った。

「山本さんが私に結婚のお祝いをしたいって言うのよ」

「そうですか。でもそんなことしてもらったら悪いんじゃない」

「いいですよ」と山本。

 山本は憮然とした表情をしている。

「どんなお祝いをしてくれるの」

 と倫子に向かって訊いた。

「お食事に…」

「そりゃあいい。私も一緒なんですよねぇ」

「ええ、勿論」

「山本君、そんな事しなくていいのよ。気持だけで十分よ」

「君一人じゃなく、俺も行くんだからいいじゃないか」

 倫子は私の言葉は無視して、

「山本君、本当よ。私はその気持だけで嬉しいの」

 私はいささか自分が大人気なく思えてきた。勢いで言ってしまったのだが、私は後悔した。後悔しつつ、しかしやはり倫子一人で山本と食事をさせる訳にかいかないと思った。何が理由かと言えば、そういう事自体が危険な行為であり、女を誘う為の口実であり、女の心を引き寄せる為の口実であり、と数え上げればきりがない。要するに倫子を山本と二人にさせたくない。お祝いとは言うが、山本はもう倫子への思いを棄てきれたのか、それが気になる。

「実は、急用ができて、これから行かなければいけなくなって、また日を改めてお祝いさせて下さい」

 と言って山本が席を立った。

「あら、折角なのに、大変ね」

 と倫子が言った。こう言う時には意味はないけど場を繕ってくれる事を言ってくれるとたすかる。さすが倫子だ。山本は自分のコーヒー代を置いて立ち去った。

「なんだ、アイツ! 自分で呼び出して用があるなんて」

 私は呟くように言った。倫子は顔で笑った。

「俺が来たんで、びっくりしてびびったのかな。俺が来るまでどんなこと言ってたの」

「五分ぐらい前よ、私遅く来たから。お祝いしたいって言ったわ」

「おかしな奴だなぁ」

 私は何故か山本が憎めなくなった。結局実行はしなかったが、私にも同じような経験がある。付き合っていた女が突然結婚すると言い出し、その時は「何故だ!」と頭の中が真暗になった。打ち明けられてからは女を誘い出す口実がなくなり、そうかと言ってすぐ心の切り替えが出来る訳でもなく、悶々としていた。そして思いついたのが「何かお祝いをしてあげよう」と言う事だった。私の心境としては愛しさと悔しさとそれに心から祝ってあげたい、そうした思いがないまぜになったものだった。

(続く)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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