俎板の上の恋


作  金田清志

 【その10】


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 昨夜、日出子を自宅に送って帰宅したのは十二時を廻っていた。慣れない場所に引き回されて疲れてもいた。でもあと一週間で結婚式ともなればそんな事は言っていられない。何やかやと雑用に追われて、とうとう結婚式が目前に迫ってきたと言った感じだった。

 一度決って事が進んでしまうと、その流れを止めるのは難しい。と言うより面倒臭い。あれこれとその影響を思うと流れに身を委ねていた方が何処にも角が立たない。でも、やめた止めた、と周りに言えばそれでおしまいのような気もする。

 日出子との結婚に戸惑いを感じてはいたが、ここまで来るともうそれは忘れている。お互いに欠点ばかりを見ていたら、うまく行く事も行かなくなる。欠点があるからこそ結婚して一緒になるのだ、と誰かに言われたような気もする。そんなに嫌いでないなら一緒になった方がいい、一緒に生活していれば別の愛情も生まれてくる、とも聞いた。昔は、と言っても六・七十年程も前の事だが、お互いに結婚式場で初めて出逢う、と言った例も珍しくなかったと言う。付き合っていても何処まで理解し合えたか本当の処は判らないなら、全然知らない者同士で一緒になるのとそんなに違わないような気もする。

 結婚して一緒に生活すれば、どんなに愛した女でも、例え百パーセント愛し合っていたとしても、違った面も見えてくるだろう。目に見えぬ束縛も生じるだろう。これから日出子と向き合って生きていく事になり、二人の関係がこのまま変らずに続くとは考えられない。それを乗り越えて行くのが夫婦とは言うけれど、なんだかとても恐くて、納得いかない事のように思う。無論、愛情が感じられなくなったのがそもそもの原因だとは思うのだが…。

 しかし私の戸惑いはそんな事ではなく、愛、そのものではないだろうか。私は日出子を愛したのではなく、日出子を求めるために、ただそのために愛を語らったに過ぎないのではないか。欲望を満たすための愛だったのではないか。日出子は百パーセント愛されて結婚したいと言うが、こんな私でも言葉で「愛している」と言える。心がこもっていないと言われれば、心を込めて言えた。日出子はそれで満足したのだろうか。満足したとしたら、それは彼女自身、自分を欺いているのではないか。幸せを演じなければならない私には、ただ苦痛になる。

 私はこうも思う。日出子に近づこうとした男達より、日出子を愛しただろうか。ただ日出子の気を曳く為に、或いは男への対抗心だけの為に、私は夢中になったのではないか。どんな女にもああした事をすると言う、あの海辺の竹山のように、周りからおかしく愚かだと言われようと、日出子を求め続けられただろうか。

 確かに、日出子の言うように愛のない結婚式などやらない方がいい。言葉だけの愛など棄ててしまえばいい。今になれば、愛などはもう関係なく、このまま流れに任せてもなんとなくうまくいくような気もするが、日出子の言うように愛のないままに結婚してもいいのかと絶えず私を苦しめる。私には恋愛など出来ないのではないか、してはいけないのではないかとふと思う。

 翌日、会社から日出子の携帯に電話をすると、眠気声で出た。

「もしもし、私」と言った。

「なんだ、まだ寝てたの」

「だって疲れてるの。昨夜、寝たの三時過ぎよ。オフロに入って髪を洗って、乾かしてから寝たでしょ。潮風に当ったから、髪を洗わないと気持悪いのよ」

 日出子は私の持っている物は汚いものばかりだと言って、捨てるように言っていた。しかし私には愛着のある物もある。それで今週中に休暇をとって、大きな荷物は運ぶ積もりだと言おうとしたのだが、何故か私は不愉快な気分になった。私の中の何かが、急激に崩れていくような気がした。

「やめよう。もうやめようよ」

 と私は言った。自分でも予期しない言葉だった。

「なに、何をやめるの?」と日出子。

「けっこん」

「え? なにさ」

「二人の結婚…」

「どういう事?」

「どう言う事って…」

 日出子の様子がおかしくなった。受話器を通して伝わってくる。

 予期せぬ言葉だったが、私は落ち着いていた。口に出した事で、私の気持は定まった。もう何も迷う事はない。戸惑うこともない。どんな結果になるか、もう頭にはなかった。

 受話器を置いて「終わった」と私は呟いた。仕方がないと思った。このまま結婚して、何日か経って、或いは何年か経って壊れるより、どうせ壊れるものなら、今壊れた方が日出子にとってもいい事ではないか、と自分に言い聞かせた。

 日出子がどんな事を言って来るか、気になるが、

「あなたがそんな風に言うなら、いいわ、止めましょう」

 そんな風に思っているかも知れない。どんな結果になろうとも、すべての責任は私にある。

 午後、三時過ぎだった。日出子から電話があり、これから会いたいと言った。私は予期していた事なので、判ったと応えた。

 会社近くのいつもの喫茶店で日出子と会った。気のせいか日出子がとても憔悴しているように感じたが、口から出た言葉は私をとても勇気ずけた。急に泣かれたら、それこそ私は何を言ったか判らなかった。

「電話での話だけど、どういう意味だかちゃんと説明してくれないかしら」

「君が嫌いになった訳じゃない。だけど…、そんなに君を愛していないと気づいたんだ。それでこのまま結婚しても申し訳ないと思って…」

「私にプロポーズしたじゃない。どうして?」

「愛していたと思っていたから、」

「どうして心が変ったの」

「判らない」

「そんな言い方は卑怯よ」

 と急に日出子は泣き出した。

「愛のない結婚式は、君はいやだと言ったじゃないか」

「そうよ。そんなの当たり前じゃない。だけど、だけど今になって…、私、どうしたらいいの」

 と声を詰まらせながら言った。

「それは…、俺も同じだけど。仕方がない」

「そんな、仕方がないで済む事なの。私、困ったわ。どうしたらいいの。私、何かいけない事をしたかしら」

「困ったな。そう言う事じゃないんだけど…」

「どうして私を愛せなくなったの?」

 どう応えたらいいか、私は言葉に詰まった。日出子には心の内を正直に言うべきだろう。しかし言葉で言う事はとても難しく、どう言ったらいいのか…。例えば何故好きになったかと言うのと同じで、どんな風に言っても、それがすべてではない。

「色々言っても、言い訳じみて、何かとって付けたようで、理解して貰えないと思う。君には正直に言うべきだとは思うけど、俺としては君への愛情がなくなった、と言う実感だけで、ただそれだけなんだ。そんな俺でいいと言うのなら…、」

「どう言う意味?」

「今の俺でもいいと言うのなら…」

「結婚するの?そんな言い方はないわ」

「君は拒否するだろ。愛のない結婚なんて、」

「みんなに、どう説明するつもり」

「そこまではまだ考えてない」

「私、困ったわ」と日出子はまた泣き出した。

 口に出して言ってしまった以上、私としてはもう後へ戻れない。日出子も「それでも結婚したい」と言うとは思えなかった。

 日出子との婚約が決まって「幸せそうね。今が一番いい時よ」と言われる度に絶えず私の脳裏を掠めた不安は一体なんだったのだろう。ひょっとすると「日出子への愛は本物なのか」と自身に対する問い掛けだったのではないか。そして愛を感じられなくなった結果がこうなのだ。結婚という形式が、例えば一度熱愛した二人の一つの証だとすれば、この結婚になんの後悔も躊躇も後ろめたさもないのだが。一緒に生活していれば、プロポーズした時とは違った愛情が生まれてくるかもしれないのに…。しかしもう終わったのだ。

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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