俎板の上の恋


作  金田清志

 【その9】


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 私は初めてきたクラブハウスから海を眺めていた。東京湾に出入りする船が見えると聞いていたが、確かに沖には貨物船らしき船が見える。

 日出子は宴会の準備を手伝っていた。私は訳が判らず、邪魔にならないように窓際にあつた椅子に座って海を眺め、外で作業をしている人達を見ていた。時折ハウス内に入って来る人に日出子は私を紹介した。

 紹介された人に、

「よかったら今度はヨットを乗りに来ませんか」

 そう言われて私は軽く頷く。最初の人にだけは婚約者と紹介したが、面倒になったのか名前だけを紹介する。恐らく紹介された人は私と日出子の関係を想像しているだろう。それとも既に知っているのだろうか。私には居心地のいい場所ではなかった。

 そのうち宴会の準備が整ったようでクラブハウスに人が集まってきた。まだ外で作業をしていた人も、兎に角乾杯しようと言う事で集まった。メンバーが買出しに行って用意したつまみ類がテーブルに並んでいる。幹事らしき男が「酒が入る前に」と今日の会費を徴収する。

 宴会が始まった。まだ自分のヨットの後片づけの終っていないメンバーがヨットとの間を行き来する。昼食をまだ済ませていない人もいるようで、空きっ腹ではと握り飯を頬張る人もいた。

 初めはビールを飲んでいたが、焼酎の栓が抜かれて、日本酒の栓も抜かれた。アルコールを飲まない者もいたが、飲みっぷりのいい者も何人かいた。私は車できた事もあって、お酒は控えていた。飲めと勧められても車で来たからと言って断った。車で来ている者も飲んでいるし、酔ったらここで少し休んでいけば車の渋滞からも時間をずらせる、とさかんに酒を進められた。そう言われても飲めたものではない。私はコップに注がれても飲まなかった。日出子が通常のペースより、つまり私が知っているより遙に早いペースで飲んでいる。私が飲まない分だけ代りに飲んでいるような感じだった。日出子の気分が高ぶっているのが判る。

「前沢さん、皆さんに報告する事があるんじゃない?」

 と初めに紹介された男が言った。

「もういいわよ。なんだか恥ずかしいな」と日出子。

「日出ちゃんもついに結婚するんだって」

「え! 本当!」

 皆は口々に驚いた。

「本当なの?」

 と男達はわざとらしく驚いて見せた。

 私はこの場にいる事が場違いのように感じている。いくら日出子の誘いとは言え、来なければよかった。ここは日出子の馴れ親しんだ世界なのだ。結婚後も日出子が付合いを続けたいと言うのなら、それはそれでいい。日出子だけの世界があってもいい。だけどもし仮に日出子が結婚後も通うようだとしたら、私は黙って見ていられるだろうか。

「前沢さん、お目出とう」

 と男がビール瓶を持って注ぎにきた。私のコップにも注ごうとする。仕方なく少しだけ飲んだ。

「前沢さん、この人のどこに惚れたの」

 ともう既に酔った顔つきの男が言った。

「そんなのいいじゃない」と日出子。

「福島さん、と言うんですよね。前沢さんのどんな処がよかったんですか」

 と同じ男が私に訊いた。

 私は笑って、その男の顔を見た。酔っているようでもあり、まだそれ程酔っていないようにも見える。酔っていても酔っていなくても、そう言う事は応えにくい。私はただ笑っていた。

「前沢さんのどこに惚れたんですか」

 と男はなおも執拗に訊いてくる。

 私はどう応えようかと思いつつ、男の様子が酔っているようなので、どう返事をしたらいいのか迷った。

「竹山君、そんな事はいいから、」

 と別の年配の男が竹山を遮るように言った。一瞬、場が白けたような雰囲気になった。竹山と言われた男は廻りの人が注意しているにも係らず、焼酎にビールを入れて、かなり強いアルコールをぐいぐいと飲む。だんだん酔っていくのが判る。

「僕とこの男とどっちがいい男か…、」

 竹山は呂律の廻らない口調で、私を指差しながら言った。

「誰が見てもお前よりいい男だ」

 と何処からか男の声がした。

「お前は酔っているから」

 と廻りの男は竹山を黙らせようとする。

「前沢さんに、僕はもう一度話したい事がある。前沢さん、僕とデートして…」

「竹山! お前いい加減にせんか!」

「まだ結婚した訳じゃないでしょ」と竹山。

 周りの男達は白けた顔付きで見ていた。そうだそうだ、とけしかけるような事を言う者もいる。何がどうなっているのか、予期しない事で私は面食らっていた。どうやら日出子に言い寄っていた男のように思えるのだが、周りの男達がなんだかはやし立てているようにも思える。日出子を見ると意外にさばさばとした顔付きだった。またあの人がと言った表情をしている。私の不審そうな表情を見て、小声で「あの人はいつもああなの。一寸おかしいのよ」と言った。

「最近、前沢さんが来なかったから、どうしているのかなって思っていたら、やっぱりいい事があったんだ」

 と別の男が言った。

「ついに前沢さんも結婚するんだね。だんだん離れちゃうね」と違う男。

「私、結婚しても来ます。子供が出来たらヨットに乗せるのが夢なんです」

「前沢さんが結婚しちゃうとなんだか淋しい。紅一点で、前沢さんがいなければ始まらなかった。ここに来るようになってもう十年ぐらいになるんじゃない。女性が少ないのに、また少なくなっちゃう」

「これからもなるべく来ます。もっと若い女の子も来るわよ。会社に若い女性が一杯いるじゃない。皆一人づつ連れて来ればいいのよ」と日出子が言った。

 私は何となく男達の視線を感じていた。この世界の中で日出子がどんな存在だったのか、ふと想像してみる。恐らく男の多い中で貴重な存在だったのだ。女性が一人でもいれば男だけの世界とはまた違った雰囲気になる。あるいは竹山のように言い寄っていた男もいただろう。竹山は酔った勢いで言っているが、他にも心の中で同じように思っている男もいるかも知れない。考えたくないが、ひょっとしたら付き合っていた男もいたかも知れない。

 もし、竹山が必要以上にしつこく日出子に絡むなら、私は怒るべきだろう。そんなことはさせないように日出子を守るべきだろう。どんな男も日出子に近づかせてはいけない。私がいる以上、もうそんな事をさせてはいけない…。

 竹山はだいぶ酔っているようで、椅子にじっと座っていられる状態ではなかった。

「前沢の馬鹿野郎!」と何度か叫んだ。

 周りの者達はそれを聴いてニヤニヤ笑って、日出子も笑いを含めた表情をしていた。

「福島さんはおとなしい人なんですね」

 と隣の男に言われた。別にそうではないが、ただ笑って応えるしかなかった。初めて来た場所で少々面食らってもいた。

「ヨットをやってみませんか。前沢さんと一緒に乗ればいい。是非来てくださいよ」

 と隣にいた男が言った。

「全然やった事がないから…」と私は応えた。

「最初は皆そうですよ。一度やれば楽しいから、是非来てください」

 私は頷いた。

 日出子は宴会の席から離れて、中村という女性となにやら話している。私はそれほどお酒は飲んでいないのだが、なんだか顔が火照ってきた。宴会は盛り上がっていて、酔っている人もかなりいる。私は外気に触れたくて外に出た。

 宴会を始める頃は明るかったのに、辺りはもう暗くなっていた。街の明かりが遠くに見えた。近くの岸壁に沿って走る国道の街路灯が明々と何処までも連なって、遠くの街の明かりが綺麗に輝いていた。ずっと真っ直ぐ先に見える明かりが横浜方面で、その右方向が川崎・東京方面だと言われて、本当だろうかと眺めてみるが確認のしようがない。しかし真っ正面に見える小さな光のアーチのようなものがベイブリッジだと言われれば、確かに横浜で、その右が東京方面になる。

 東京湾の海面は静かだった。都会の喧噪もちっぽけな宴会場の騒音も海の中に溶け込み、岸辺にゆらめく街路灯やネオンの灯までも溶け込ませてしまう。宴会場のクラブハウスを一歩外に出ると、そこは波音だけの静かな闇だった。

 気付かなかったが、海辺の岩場に男が一人腰掛けていた。男は私をちらっと見て、軽く頭を下げた。

「綺麗ですね」と私は挨拶した。

「前沢さんとは何処で知り合ったんですか」とその男が訊いた。

「同じ会社です」と私。

「そうですか」

 会話はそれだけだった。男はそれ以外一言も喋らなかった。ただじっと暗い海を眺めている。私はなんとなく近づき難く感じた。

 海を眺めていると日出子が近寄ってきて、

「もう暗くなったわね」

 と言ってキラキラと煌めく夜の海を一緒に眺めた。この夜景が好きでここに出入りするようになったと聞いた事がある。

「あら、田村さんもこんな処にいたの」

 と岩場に座っていた男に気付いて日出子が言った。

 男はちらっと日出子を見て、視線を沖に向けた。そのまま沖に目を向けたまま、

「前沢さん、お目出とう」と言った。

「有難う、田村さんもいい人がいるんでしょ」

 男はふふふと笑った。二人の間に居た私には何か感じる物があった。ひょっとしたら二人には何かがあったかも知れない。デートぐらいはしたかも知れない。それは有りえる事で、頭では判っていても、何故か私は身構えた。

 私は日出子にそろそろ帰らなければ遅くなると言った。日出子ももう潮時だと思っていたのか、帰りましょうかと言った。

 ハウス内ではまだ何人か集まって飲んでいた。挨拶をして出ようとすると、椅子に座ってぐったりしていた竹山が急に起き出して、

「前沢さん、送ります」と言い出した。

「ばか、そんな必要はないんだ」と誰かが言った。

 そう言われても竹山は日出子の方に来て、送ります、送ります、と言っている。

「有難う。でもいいわよ」と日出子。

「竹山! いい加減にしろよ」

 男達は笑いながら、また始まったと言った表情で呆れ顔で見ている。

「竹山さん、酔っ払ってるじゃない。運転しちゃあぶないわ」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないわよ」

「送ります。家まで送ります」

「いいわよ」

「竹山! 前沢さんには迷惑なんだよ。もう送って行く人がちゃんといるよ」

 日出子は呆気に取られている私を促し外に出た。私は後ろに気を取られながら日出子の後につづいた。ハウス内では何やら騒がしくなっている。どうやら竹山が大きな声で騒いでいるようだ。

 夜の道を車の置いてある処まで歩いた。

「賑やかな人達だね」と私。

「びっくりしたでしょ。竹山さん、お酒を飲むと何時もああなっちゃうの。どんな女の人にもああだから、初めてきた人なんか、それで来なくなっちゃう人もいるのよ」

「変った人だね」と私。それ以上いいようがなかった。

「お酒が強い人ばかりで驚いたでしょ。車で来ている人もいるのよ、」

「事故は起さないのかな」

「少し休んでから帰るんじゃない」

 ふと空を見ると、光が点滅しながら少しづつ動いている。微かな轟音が追いかけてきて、夜空を横切って行く。

「飛行機だ、」と天空を指差した。

「何処に行くのかしら。綺麗ね」

「羽田から一度太平洋側に出て、きっと九州か沖縄に行くんだよ」

 日出子に連れられて来た海辺の世界だったが、聞いていた通りの景色のいい場所だった。しかし私には息苦しい処だった。日出子を除けば知っている人は誰もいなかった事もあるが、私はきっと身構えていたのだ。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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