俎板の上の恋


作  金田清志

 【その2】


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「ちょっと待ってよ。それってどういう意味」

 と日出子は言った。

 どうしてそんな事を言ってしまったのかと私は後悔した。でも一度言ってしまった事は悔やんでも仕方がない。変に誤解されないように言い訳しなければ…。

「別に意味はない。そんなに向きになるなよ」

「結婚するのが間違いだって、それどういう意味?」

「だから、そんなに怒るな」

「怒ってないわ」

「色々と面倒臭い事があるだろう。こんなに面倒臭いなら、と思うと…。勝手に変な意味に取るなよ」

「そんな紛らわしい言い方しないで。例えあなたがそんな積もりじゃなくても、傷つけるような事は言わないでよ」

「俺の気持は解ってるだろうに」

「解っていても傷つくものよ」

 私は冷汗をかいた。隠し事をしてはいけないと思いつつ、やはり言ってはいけない事だった。心に思っていた事、心のありようを正直に曝け出す事が正しいとは思はない。例え夫婦であっても、ましてや夫婦になる相手に洗いざらい曝け出す必要はない。勿論、隠し事は無いに越した事はないが。所詮どんな夫婦でも裸で向かい合っている訳ではないのだ。私にしても日出子と結婚するのがいやになった訳ではなく、ただ以前程の愛情が無くなっただけなのだ。

 日出子への愛の告白は心ときめき、私自身を奮い立たせた。もし仮にそう言う事の終りがあるとしたら、やはり告白すべきだろうか。いやそんな必要はない。逆告白など聞いたこともないし、そんな事は言わなくともなんとなく判るものだ。

「もし私に隠し事があるなる、正直に言って下さい。どんな事でもいいです。そういう事は結婚する前に聞いておきたいの」

 と日出子が言った。その言葉に誘発されるように、

「そうだよね。君には言っておいた方がいいと思う…」

「借金? それとも、あなたの両親と将来一緒に住むとか、そういう話? まさか…」

 日出子は一呼吸おいた。

「まさか私の他に女性がいるとか、もしそう言う事だったら、絶対に許さないわよ」

「ばかな。そんなんじゃない」

 私は慌てて言った。日出子の言葉にはそれを言う訳があって、私は強く否定した。勿論本心からではないが、以前喧嘩した時、勢いで別れて違う女と付き合う、と言った事がある。その時はお互いに謝って仲直りしたが、その時の事が急に私の脳裏に浮かび上がったのだ。

 私は言葉を択んで言った。

「このまま結婚してもいいのかなぁ、と思うんだ」

「それって、どういう意味。どういう事よ」

 と憮然とした表情で日出子が言った。

「俺自身どう言ったらいいか、よく訳が解らないんだけど…」

 日出子の表情がだんだん険しくなっていく。私が何を言おうとしたのか解ったのだろうか。

「どうして自分で訳が解らないことを言うの」と怒り出した。

「あなた、自分が何を言ったのか解っていないの」

「だから、結婚式の前に言っておいた方がいいと思って…」

「なんなのさ。はっきり言ってよ。おかしいわ」

 確かにおかしい。結婚式を控えているのに、私は愛情が無くなった、感じなくなった、と言おうとしている。もし言わなければいけないものなら結婚式を終ってからでもいいのではないか。日出子への愛が感じられなくなったとは言え、何も結婚式まで止めようとは思ってないし、日出子との結婚を解消しようとも思っていなかった。愛があれば、それだけでいいと言うものでもない。二人揃って愛し合っているなんて、それにこしたことはないだろうが、同じ度合いで愛し合っているなんて有り得るだろうか。結婚してから愛のなくなった夫婦だっている。初めは愛がなくとも仲良く暮らしている夫婦もいる。日出子と結婚しても、二人で生活していく自信はある。

「今になって結婚しないなんて言うんじゃないでしょうね。もしそう言うことだったら卑怯よ。私はどうしたらいいの、今更どうしたらいいって言うのよ」

 と日出子は泣き出した。

 泣かれると、私はおろおろして、どうしたらいいのか途方に暮れる。私は強く言った。

「馬鹿な! そんな事じゃない」

「どう言う事なのさ。私には隠し事はしないって約束したじゃない」

「君との結婚式はちゃんとやるし…」

「いやよ、そんな言い方は絶対いや」

「だけど、今更止めるなんて言ったらカッコつかない。俺だって君と結婚したいし、それは変らない」

「それはあなたの都合でしょ。そんな事で結婚できないわよ。それに何処まであなたを信じていいのか判らなくなったわ」

「そんなこと言わないでくれよ。俺は嘘は言ってないし、今までだって一度も君に嘘なんて言わなかった」

「じゃあどうしてあんな思わせぶりな事を言うの。これは大事な事よ。ああいう事から誤解が生じるのよ。あなた解っているの」

「君を愛していた。それは嘘じゃない」

 と言った後、愛していると言うべきだと思った。

「信じられないわ」と日出子。

 自分で撒いた種とは言え、大変な事になったと後悔してきた。結婚式への招待状は既に出した後だし、新婚旅行の行き先も決めて代金も支払ってある。そのための休暇届も、早く出しておけと言われて今日出したばかりだ。周りの全てが私と日出子の結婚式に向かって動いていると言ってもいいのに、今止めると言い出したらどんな結果を招くだろう。会社でどんな風に言われるだろう。仲人を頼んでいる部長になんと言ったらいいんだ。何がなんでも結婚式だけは済ませたい。そう考えた私は愚かだろうか。

 愚かといえば確かに私は馬鹿だ。大馬鹿だ。自分に正直にするのが決して正しい事ではない。それなのに今になってこんな失敗をするなんて。ここで日出子との婚約を解消したら、社内はもとより、どんな笑い種にされるかは明らかだ。それを思うと私は身の縮む思いがする。

 しかし結婚は私の一生に拘る。私の一生にそんな世間体など些細な事柄ではある。一度は惚れて惚れ込んでプロポーズしたのだが、一昨日からの心のありようは自分でも理解に苦しむ。このまま結婚してもいいように思うが、一生のことだと思うと…。でも、と私は思い直した。一度自分で決心した事ではないか。自分で決断した事ではないか。心が揺れるのは男として情けない。日出子への愛情が何故消えてしまったのか、それは愛情がなくなったからだ、と言ってしまえば身も蓋も無い。もう全てはそれでおしまいになってしまう。そんな結果にだけはしたくない。現に私は日出子との結婚にはなんの疑念も持っていない。今更取り止めるのが面倒に思うからでも、責任上そう思っているからでもない。私がプロポーズしたのも、それを受けてくれたのも、縁あっての事なのだ。無論、今婚約を解消したら、その責任は全て私にある。

「プロポーズを受けてくれたのは、俺を信じたからだろ。今まで通り俺を信じてくれよ。どうして今になって俺が信じられないの」

 私は日出子の手を取って言った。プロポーズした時と同じように思いを込めて言った。

「だって、後悔してるって言ったじゃない」

「それは違うよ。全然意味が違う。もし変に受け取ったら誤るって言ったじゃない。君と一緒になるのにちっとも後悔なんてしてない。どうして後悔するんだ」

 私は一言づつ言葉を択んで言った。もしここで拗れると取り返しがつかなくなってしまうと思った。

 日出子は黙っていた。少し安心したのかふっと溜息をついた。日出子にしても今更私との結婚式を止める訳にはいくまい。私より多い親戚関係と友人関係に招待状を発送している。付き合っていた時から薄々気付いてはいたが、結婚式の段取りを共に決めていく過程で、改めて日出子の友人関係の多さと、何かにつけて賑やかなのが好きなのを知った。結婚式にしても私は極端に言えば家族だけでもいいと思っていたのに、なんだかんだと百人近く呼ぶようになった。六十人余りが日出子の関係で、私もその釣り合いから人数を揃えた。

 でもそれはプロポーズする前からある程度は判っていた。日出子は男の友人も含めて友達は多いいし、私より性格は賑やかだ。だから惚れて夢中になって、一直線にプロポーズにまで進んだと言えなくもない。だけどもし愛情が希薄になった理由をしいてあげるとしたら、ひょっとするとそうした事が原因かも知れない。無理に日出子に合わせていたのが、その無理が来て…。

 そこまで思って私は自然体にしようと考えた。日出子の性格に惚れたとしても、私がそれに合わせる必要はない。似たもの夫婦とは言うけど、性格がまるで反対という夫婦だっている。むしろその方がお互いにおぎない合って上手くやっていけると聞いた事もある。

「私、福島さんにはちゃんと愛してほしいわ。そうでなければいやよ」

 日出子が急に脹れた顔をして駄々をこねるように言った。あ、きたなと私は思った。不機嫌になると態度で表わす。私は機嫌を取るのに四苦八苦する。いつもの日出子に戻った。

「そんな子供じみたことは言わないで、言わなくても判っているだろうに」

「ちゃんと言ってほしい」

「しょうがねぇな。わかったよ」

「そんな言い方じゃ駄目!」

「どう言えばいいんだよ。俺の気持は言わなくても判るだろ」

 日出子は不満そうだったが、その時はそれで別れた。

 その日の夜だった。日出子から電話が掛かってきた。

「私、電車の中で考えたんだけど…。いい、しっかり聞いてね。私、どうしてもあなたの愛が必要なの。お願いだから私への愛がほしいの。愛のない結婚式なんて、わたし、絶対にいや」

 それだけ言って一方的に電話を切った。私に話す間も与えず、切ってしまった。

 私の言った言葉に、日出子が心を乱しているのは判らない訳ではなかった。納得させて別れたつもりだったが、やはり彼女には大きなショックだったのだろう。声も何時もの陽気な張りのある声ではなかった。十二時を過ぎていたが日出子の携帯電話のダイヤルを廻した。電源をオフにしてあるのか留守番電話になっていた。電話帳を取り出して日出子の家の電話番号を確認してダイヤルを廻した。

「もしもし、前沢です」と母親が出た。

「夜分遅く済みません。福島です。日出子さんの携帯が繋がらなかったもんで…」

「あら、福島さん、お世話様です。ちょっと待って下さい…」

 なんと挨拶していいか困るけど、そんな間も与えず母親は受話器から離れた。

「もしもし、私」と日出子が出た。

「なんですぐ切っちゃうんだよ。それに携帯の電源切ってるだろ」

「だって、私怒ってるんだよ」

「だからって切らなくてもいいじゃないか」

「話したくないもん」

「判った。悪かった。謝る」

 私は日出子の周りにいるだろう家族を意識して言った。恐らく母親は何を話しているか聞き耳をたてているに違いない。無関心を装いながら子供の事が気になるものだ。だから日出子は家への電話も携帯にしてと言うのだろう。

「今度のはすっごく高いよ」

「判ったよ。しょうがねな」

「その言い方は何よ。私の言った事、理解してるの」

「勿論、判ってる」

「言葉だけじゃ、私絶対に許さないわよ」

「判った。あのさぁ、成瀬友香里がお前の事、羨ましいって言ってた」

「友香里ちゃんが? どうしてかなぁ」

「俺にもよく判らない」

「何を話したの?」

「別に。結婚式に着る服を君があれこれ言うからもうどうでもいいって言ったら、そんな事を言った」

「へーえ、そうなの。彼女、いい人いるのにね」

「やっぱりそうなんだ。隣にいるからなんとなくそんな匂いはしてたけどね。俺の事を冷やかすから参っちゃうよ。今度冷やかしたら逆に言い返してやる」

「なんて言うの」と笑い声で日出子は言った。

「なんて言おうかなぁ。余り遅くなるといけないからもう切るよ」

「そうね。あなたはお仕事があるのよね。じゃあおやすみなさい」

 なんとか乗り切った、と私は受話器を置いて思った。電話とは言えまさか愛情の話などできないし、以前程の愛情はまだ戻っていないなどとは言えない。日出子がどんなに取り乱してしまうか、それを思うとその話は絶対に言えなかった。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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