曲がり屋のある家


作  こいけ 志穂

 【その2】


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「繭ちゃん、ここに帰ってきたら?」

「えっ」

 鼻筋が通った面長の幸恵の顔が、春の日差しに揺れる。病室の入り口で真赤に腫らした目は、澄んだ黒い瞳に変わり、優しく繭子を見ていた。誰もが幸恵を振り返った。ミス福島に選ばれ、旅行に訪れた旅館の青年に見初められ、山形に嫁いでいった。

「この家は古くなったわね。叔父さんが言うように借り手を探さなくちゃ。でも、家を出た私が言うの可笑しいけど、繭ちゃんに戻ってきてほしい。お父ちゃんも同じだと思う」

「まさか」

 葬儀を済ませ五日たった昼下がりだった。滋賀から来てくれた田辺も義兄も親戚も引き上げていった。旅館をそう長くは空けれない幸恵も、明日にはここを発つという。

 もみじの枝の先端が奇麗に刈られている。当時祖父が職人に造らせたひょうたん池のそばに、枯れ草が積まれてあった。父が僅か数日前までここで仕事をしていた。思いもよらない父の急死に、庭の全ての生き物が時間を止めてしまったように思えた。だからだろうか、この家に入ったとき冷たさを感じた。父がいない、ただそれだけだろうか。父が使っていた食器や家具はそのままなのに、生活を感じさせない寂しさが、そこら中に転がっているような気がした。こんな寂しい家で父は一人で暮らしていたのか。そう思うと、あらためて繭子は十五年間の重みを感じた。

 母が作る煮物の匂い、姉妹で集めた薪を父が風呂のかまどに焼べる。柔らかな湯気に姉妹はこぞって湯に浸かった。

「どうだ、暖かいべ」

 無器用な短い指で薪を割り、顔に炭を付けながら、父は口ごもるように云った。母が亡くなり、幸恵が嫁ぎ繭子も去った。あの父が帰ってきてほしいなど思うはずがない。親不孝な娘を笑って許す父ではなかった。

「繭子が大学辞めるって聞いたとき驚いた。でも、陶芸をやるんだって手紙で知らせてきた時、やっぱりって」

「どうして」

 幸恵は答えずくすっと笑っただけだった。チュウリップの蕾が、僅かにひらいたような柔らかな幸恵の口元が小さく揺れた。旅館の女将として洗練されたしぐさが、幸恵をより美しく見せている。

「お父ちゃん、若い頃にこの先の鉱山で陶磁器の仕事をしていたの。繭子の生まれるずっと前のこと」

「陶磁器工を?」

 父が陶磁器鉱山の職人だったことは初耳であった。

「隣村で本郷焼きが昔沢山造られていたの知っているわね。お母ちゃんに連れられて、陶磁器工場を覗いたことあったわ」

 主に輸出用に造られていた陶磁器も戦後近代化が進むにつれて、その規模を縮小していった。繭子のいる窯元も、すでに登りがまから円筒形の灯油がまに切り替え、一部では大量生産を行なっている。

「でも、婿に入ってしばらくしてその仕事も辞めてしまった」

 繭子は父が縁側に腰をかけ、鎌を研いだり、地下足袋を履き、リヤカーに道具を積んで畑に出かける姿しか知らない。三人で旅行をしたこともなく、繭子は父を思い出すときは、いつだって作業着姿で畑に行く後ろ姿だった。繭子の知らない父の一面を語れる幸恵が羨ましいと思った。

「お母ちゃんには好きな人がいたの。東京から移り住んで陶芸をやっていた人。結局お祖父ちゃんに反対されて」

「それでお父ちゃんと一緒になったの?」

「お母ちゃん、一人娘だったから。先祖代々の土地を守っていくのに、芸術家の血はいらんって。でもお父ちゃんのこと、優しい人だって、お母ちゃんよく云ってた。繭子は覚えていない?いにしえの里のこと」

「夢街道のこと?」

「お母ちゃんは陶芸の里と呼んでいたわ」

 ふと、繭子の脳裏に駅で見たポスターが浮かんだ。人を刺すような鋭い目が印象的であった。むらい・・何だったろう。いにしえの里と書いてあったような気がする。

 繭子にとっていにしえの里は特別な思いがあった。その街道は飯盛山の先にあった。そこには白虎隊の墓がある。山の手前にある石部桜まで行ったことがあった。そのことを父に話したらひどく叱られた。十歳にも満たない歳で遠くまで行ったことを叱っているのだとその時は思った。しかし中学のときも父は同じことを言った。なぜあの山に近づいてはいけないのか。『いにしえ夢街道』そこは繭子にとって不思議な魅力のある場所になった反面、父への不信感に繋がっていった場所でもあった。

 あの山の向こうに母の秘密があった。そして父が働いていた鉱山がある。叔父は陽気な人なのに父が無口になったのは、母のことが原因ではないのだろうか。

「姉さんはその人に会ったことがあるの?」

「さあ」

 幸恵はそう言うと、昔のことよと呟いた。

 繭子はふと真彦のことを思った。地元で開かれる陶芸展に窯元全体が活気づいていた。繭子は燃え盛るかまどの前で、夜を明かした。毎晩寝不足の躰にむちを打ち、久しぶりの大仕事であった。これまで優勝した者の中には、中央への進出の足がかりをつかんだ者も少なくなかった。繭子の出品した作品は、福島に伝わるひびの技法を取り入れ、そこに紅色を流し込んだ抹茶椀で、袋物の多い地方にしては斬新な造りであった。しかし期待は大きく裏切られた。女流作家のハンディと旧来のしきたりやなと、田辺は云った。女だから女にしか出せない艶を真紅の色で表現したい、そう思ってがんばってきた日々だった。故郷が遠くなってしまったという気持ちと、後輩が三賞に入ったショックが二重に彼女を苦しめた。父に会わす顔がない、焦れば焦るほど気持ちが荒んでいった。

 翌朝真彦に送られた繭子のアパートで彼女は抱かれた。隙間だらけの心は、真彦を求めることで埋まったかのようにみえた。しかし事が終わってみれば、彼女の心には後味の悪い罪悪感だけが残った。繭子は幸恵と違って、幼い頃から内気な性格だった。奇麗と云われるたびに、この顔を背け小さく違うと答えた。そんな彼女が真彦に躰を預けているときは、人が変わったように大胆だった。竈の零れ火が紫色から紅色に変わるように、彼女の白肌が赤く色づいていく。そして真赤に溶けていった。自分は母のように、激しい血が流れているのではないだろうか。

 散り始めた庭の枝垂れ桜が揺れている。里に下りた雪解けの冷たい蒸気を含んだ風が、時々花弁を攫っていった。残された花が緩やかな弧を描き垂れている。

「いい人いるの?繭ちゃん」

 繭子は何度も首を横に振った。繭子の黒髪が、枝垂れ桜の枝に合わせて揺れた。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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