曲がり屋のある家


作  こいけ 志穂

 【その3】


戻る次ぎへ


 葬儀が終わり六日目の朝は珍しく暖かかった。庭に出てみると、遠くに野火の煙りが見えた。まるで地平線ごと地上を奪っていくように、炎が上っている。繭子がこの町を去って、滋賀に行ったのもちょうど今頃だった。畑に行くのか、夫婦の乗ったトラクターが通りすぎた。元気で農作業をしている父の姿が見られないのが寂しい。その寂しさは昨日より今日というように、だんだん募ってくる。幸恵を乗せた電車は今頃どの辺りを走っているだろう。彼女もまた、父の思い出に涙しているだろうか。

「四十九日まで繭子がいてくれるので安心して帰れるわ。子供達や旅館のことお姑さんにお願いしたらなるべく早く戻るわね」そう言って幸恵は山形に帰っていった。

 繭子は仏壇の前に座り線香をつけた。手を合わせあらためて父の写真を見た。写真嫌いな父が、神妙な顔で俯き加減に収まっている。今にも逃げ出しそうな格好は、いかにも父らしかった。姉の結婚式に撮ったものを叔父が選んで引き延ばしたものだった。高校の卒業式に父は来てくれたが、友達と写真を取り合ってふと見ると、父の姿はなかった。大学の時は、わざわざ幸恵が山形から来てくれた。だからこの写真が繭子と父が並んで撮った最後である。繭子は父の側に母の写真を並べてあげた。繭子が幼いときに亡くなった母と父の顔は、まるで親子のようであった。スナップ写真を引き延ばしたのか、母の顔はブレていた。口元の優しそうなところが、姉に似ている。繭子には母との思い出がない。五歳の時までの記憶は不確かだし、母と写した写真も少なかった。

 姉との年齢も離れているので、繭子は幸恵から母との思い出を聞いたことはなかった。だから昨日の彼女の言葉は鮮明に繭子の心を掴んだ。

 畳に手をつき繭子は横になった。春とはいえ部屋の空気はひんやりとする。湿気を含んだ畳特有の淀んだ匂いが鼻を突いた。黄ばんだ畳のへりのほつれをひっぱると、糸は簡単に切れた。姉の結納の年に慌ててこの部屋の畳を取り替えた。あれから十九年、畳は一度も修繕されなかったのだろう。糸も年月とともにほぐれ、見事にぷつんと切れた。と同時に繭子の心の中で、何かが弾けたようだった。真彦への気持ちのようでもあり、父へのこだわりのようでもある。母に好きな人がいたという事実が、過去に拘わっていた繭子の心を現実に引き戻したようだった。神秘の『ゆめ街道』に密かに母は通い、その頃父は陶磁器の仕事をしていた。母と父そして別れた男の間に何かがあった。父が姉妹を遠ざけようとまでして守ろうとした何かが、あの街道にある。

 じっとしていると、畳の感触が繭子の体を包み込んできた。その冷たさは徐々に指の先からつま先へと移動していく。

ー寒いー

 そう思った瞬間繭子は思い出した。ポスターに書かれた追悼二十年という文字。彼女を睨んでいた村井という男の鋭い目は、ただ繭子の足を止めただけではないような気がした。二十年前に父と村井の間に何かがあった。だから父は村井の工房がある、あの街道を嫌っていたのではないだろうか。

 四十九日の法要を明日に控え、料理の手はずを済ませ、叔父の車で家に着いたのは夕方だった。寺での法要は叔父の提案でもあった。簡単にお茶漬けで夕食を済ませると、八時半だった。風呂につかり、休むまでに悔みの電話が二件あった。そのあと、田辺からゆっくりしてこいという連絡があり、繭子は身内が帰るように云っていると告げた。田辺はうーんと唸った後、帰ってから相談しようと言って電話を切った。こんな大事なことを軽はずみに云ってしまったことを繭子は悔いた。自分の気持ちの中でまだ決めたわけでもないのに。それなのに真彦の耳に入るのを知っての当てつけだろうか。繭子の脳裏に、姑の側でかいがいしく家事をこなしている典子の姿が浮かんだ。いつかは知られてしまう。いやアパートの住人は知っているのでは。夜の静けさの中に、繭子のため息の意味を、壁の向こうで感じているはずであった。知られてもいいという感情は、真彦の中にもあるだろうか。窯元の長男に生まれ、揺るぎない地位、伝統というがんじからめの世界に守られて生きる男に、失うものなどないはずであった。彼女もまた、別な意味で何もない。滋賀を離れ、知らない土地で、ひっそりと生きていけばいいのだから。

 寺での法要を済ませ、叔父夫婦を送り義兄の車で家に着くと、時刻は四時を回っていた。旅館の経営を姑から任せられている義兄は、幸恵より一足先に山形に帰っていった。がらんとした家に幸恵と繭子が残された。着物は着慣れているせいか、喪服の幸恵は美しく、アップにした髪のほつれがより彼女を色っぽく見せている。

「曲がり屋の家がよく見えるわ。囲炉裏も馬屋もそのまま残っていた頃は、生活の匂いもあったのに、納屋になってしまったのね」

 納屋になる前に、屋根裏で繭が作られていた時期に生まれたから、繭子と名付けたと、父から聞かされたことがあった。祖父が元気な頃は、繭業も盛んに行われていたらしい。二人は座敷に戻り、仏壇の見える位置に座った。

「姉さんはあの家で暮らしたことはないの」

「ないわ、一度でいいから茅葺きの家で、母と暮らしてみたかった。だからあの家には父と私の匂いはないの。繭子もね。祖父と祖母そして母」

「そして、村井という人」

 繭子は覚えていた名前を口にすると、幸恵は一瞬言葉を探しているようであったが、否定することはなかった。静寂な部屋に柱時計の音が一瞬大きく聞こえると、鐘のこだまするような音が五つ鳴った。薄暗くなったせいか部屋の電気が急に明るくなったように感じる。開け放された縁側の方角にくっきりと月が見える。

 姉が立ち上がり縁側の戸を閉めた。戸を閉めても掻き消される音は何もなく、繭子達のいる奥の座敷で、線香の煙が隙間風に細長く揺れた。幸恵はそのまま台所へ行きポットを持ってきた。心を静めるかのように茶を入れると、繭子の前に置いた。二つの湯飲みから寄り添うように湯気が上がった。

「まだ祖父も祖母も元気な頃に、東京から祖母の知人の息子が遣ってきて、曲がり屋の家で暮らしていたことがあったの。農業を手伝ったりして祖父も気に入っていたそうよ。そのうち田圃仕事に駆り出された先で、焼物を知り、祖父には内緒で勉強をしていたらしいの。しばらくして祖母が亡くなると、毎晩のように工房に通うようになった。その頃母と彼は魅かれていたのね。一緒になりたいと祖父に話したら、だったら陶芸を捨てろと言われた。だから二人は曲がり屋を出ていったの。苦労知らずの母が生活を続けることは困難だった。祖父に見つかり、すぐに戻されたそうよ。行く末を心配した祖父は、親戚が勧める縁談を強引に母に押しつけたの。昔のことだから、思い通りにならないこともあったのね。祖父だけ責められないもの」

 幸恵は一つ息を付き、繭子に話したことで、安堵の胸をなでおろしたようだった。繭子は母のどんな小さなことも見逃すまいと黙って聞いていた。

「小さな村のことだから、すぐに噂は広まったはずよ。当然見合いした父だって承知で一緒になった。ただそれだけのことなの」

 ただそれだけと幸恵に言われ繭子は黙った。遠くで犬の遠吠がした。しばらく震えるように泣いていたが、急に止むと、より確かな静けさが戻ってきた。二人はそれぞれの想いの中で、茶を啜った。

(続く)

曲がり屋のある家( 戻る次ぎへ
[「文学横浜」30号に掲載中]

ご感想・ご意見など、E-mailはこちらへ。

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜