忍び駒


作  七浦とし子

 【その8】


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 家に帰って衣装をかたづける手をとめては、あれから二人はどうしたかと知香は考えた。お茶を飲む手をとめては、代里子は家に帰ったのかどうかとも考えた。夕べの火事の後の名倉の家の中の様子は、凡そ察しがつく。その家にあれから代里子が帰ったとは考えられない。そう思うと、今代里子の居る場所にいやでも想像が向く。

 そんなことあたしの知った事ですか・・・大きなため息と一緒に一人言をはいて知香が立ち上がった時、表玄関から戸をたたく音がした。知香の家はお弟子さんや人の出入りは裏手の庭の格子戸からしてもらっていて、表玄関に訪ねて来る人はめったにない。おかしな者でなければよいがと玄関脇ののぞき窓をそっとのぞくと、門灯の小さな明かりの下で男が顔をあげた。知香の家に来たこともない名倉が、この時間に訪ねて来ている。一瞬考えて、知香は玄関を開けずにのぞき窓を開いた。

 「今日は三味線の会があったとか・・・」

 名倉はのんびりとした調子で訊いてきた。知香は察した。代里子はやはり家に帰っていない。それで名倉はわざわざこうして捜しに来て、しかしのんびりとしてみせている。

 「それがなにか?」

 知香は素知らぬ顔で訊き返した。

 「それがどうかしましたか」

 黙っている名倉にもう一度訊いた。それでも妻が帰って来ないと明かせない男が、返事につまって口ごもっている。

 「それとも、あたしに何か・・・?」

 尚も意地悪く訊くと、名倉はうろうろと目をそらせた。

 「いや、うちのやつがもう帰ったかどうかと思って・・・。こっちも出先から今戻っ たところなんで・・・」

 ポケットから煙草を取り出す姿を見ると、名倉はしゃれたスーツ姿をしていて、しかし足には普段履きらしいサンダルをひっかけている。どこへ出かけていたものか家に帰ったら女房が居なくて、あわてて飛び出して来た様子が見えすいている。それを名倉は、つい遅くなっちまってなどと時計をのぞいてみせ、やがて夜分にどうもと愛想笑いまでして、ぶらぶらとした足つきで帰っていった。

 のぞき窓をしめて知香は座敷の電話にかけ寄った。本間の家の番号は覚えている。かければいつも、よぉ、お知香さんかと心地好い声が返ってくる。

 ダイヤルを回すと、呼び出し音が三回、四回となった。普段は三回目までには出る。五回、六回となり、七回目にやっと向こうの受話器がはずれた。

 「もしもし、」

 呼んでも何も言わない。

 「もしもし、裕さん?」

 名を呼ぶと、ほっとつく息づかいが聞こえた。

 「裕さんなのね」

 「うん」

 ようやく声が返ってきた。本間らしくなく困惑した様子が、手に取るように伝わってくる。

 「たった今、名倉の旦那がうちに来たわよ」

 誰に聞かれるわけもないのに、知香はつい声をひそめた。

 「女房が帰って来ないと言うわけでなし取り乱すわけでなし、何だかわけの分からな いことを言って・・・」

 本間の傍らで身をすくめる影が、知香には見えるような気がする。

 「あたしは何だか分かりませんって顔してたら、黙って帰って行ったけど」

 「お知香さん、すまない」

 受話器から気弱な声がこぼれた。あんなにいつも余裕綽綽とした本間が、叱られた子どものように頭を垂れているのが分かる。

 「あたしに謝ったって仕方ありませんよ。あたしはなにも・・・」

 何も謝られるような覚えはない。でも知香の胸はしくしくと痛んだ。この痛みは本間のせいにちがいないのに、でも本間が知香に何をしたわけでもない。

 「そんなことよりも裕さん、お互い片をつける事はきちんとつけなさいよ」

 代里子には言うまでもなく夫があり、本間にも別居中とはいえ妻がいる。一時の感傷から半端な寄り道をしたままでいてくれるなと、せめてひとつ釘をさしてやりたかった。

 「分かってる、それはきっと・・・」

 「あーぁ、おかげで二日続きの寝不足になりそうだわよ」

 何か言いかけたのを声高に遮って、知香は電話を切った。そうしないと、妙に鼻のつまった声を相棒に聞かせてしまいそうだった。

*

 夜も更けて、暗い庭に風がでてきた。しめきった障子から明かりがもれて、三味線の音が聞こえる。ずいぶんと激しくばちをふっているらしいのに音がかすれて聞こえるのは、忍び駒をつかっているのだろうか。何を忍ぶのか衣ずれに似た糸の音に、花の終わった椿の枝がかすかにゆれた。

(おわり)

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[「文学横浜」23号に掲載中]

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