忍び駒


作  七浦とし子

 【その7】


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 翌朝は、寝坊はしなかったまでも寝不足の目で身仕度をして家を出た。名倉の家に寄ってみようかとも考えたが、やじ馬めいて気がひけた。

 公民館に集まる民謡仲間の間でも、名倉の家の火事は話題になった。やはり名倉の評判の悪さにつながる話しで、しかし代里子の存在はあまり知られていないから、知香はただ相づちをうっていられた。

 本間が今日はさすがに早くやって来た。知香を見つけて大股に近寄って来るその目に、知香は首を横にふってみせた。代里子が来ているわけがない。あの火事騒ぎの後でと思いはしながら、知香もさっきからホールにはいって来る人から目が放せないでいた。

 「後で行ってみるから、そう気をもんだってはじまりませんよ」

 ぽんと言って控室に入った。半端な気安めは頭にうかばなかった。

 手早く衣装を着替えているうちに、舞台から家元のあいさつが聞こえてきた。知香と弟子の出番は五番目にあって、その前の奏者が舞台にあがるのと同時に舞台のそでに控えることになっている。帯や裾の丈をたしかめ、楽器を用意している間に一番目の演奏が聞こえてきた。

 知香の耳は尺八の音をおっていた。尺八は民謡にはなくてはならない鳴りもので、そのわりに吹き手が少ない。だからこうした演奏の場ではお師範たちからひっぱりだこになる。本間も例外でなくほとんど舞台に立ちっぱなしという状態で、そこへ肺呼吸いっぱいに鳴らすわけだから、けっこう重労働だと本間もよくぼやく。でも演奏はいつも崩れることなく最後まで臈々と吹きあげる。

 夕べのことに気を散らしたりしたら承知しないから・・・。耳をすまる知香の目のはしで、控室のドアがこそりと開いた。

 「代里子さん・・・」

 ふだん着も何かの煤で汚したまま、目の隈も濃い代里子だった。その手には三味線と着替えらしい包みをしっかりと抱えている。

 「あなた、大丈夫なの」

 訊きかける間に一曲目が終わり、次ぎの演奏の紹介が聞こえた。

 「すみません、実は・・・」

 口ごもる代里子を奥に連れこんで着替えをさせた。どんな状態で家を出てきたかは知らない。胸騒ぎはともかく、演奏の用意をしてきたなら今なら間に合う。

 着替えた代里子の後ろに回って帯を整え、櫛のあとのない髪を梳かしなおして持ち合わせの櫛簪できちんとまとめた。頼りなげな首が白く細い。顔をあげさせて口紅をさしてやると、普段は飾りけのない代里子の整ったうりざね顔がすがるように見上げた。

 「しゃんと胸をはって、二の糸にはしっかりばちをあてること。いいわね」

 両の肩をくいと叩いた時、三番目の演奏が終わった。

 代里子の演奏はたしかで、今日の曲は仕上がっている。問題は本間で、案の定、いつも三味線弾きには目もくれない本間が、落ち着きのない目を舞台のそでに向けていた。代里子の姿を知香は目立たせた。こういうわけだからしっかり吹いてちょうだいよとひとつ睨んで舞台にあがると、あとは音取りから演奏へと余計な気を巡らす余地はなくなった。

 その後も知香は出番が幾度かあって、代里子を構っているひまはなかった。でも出番の終わった代里子が客席のすみにひっそりと座っているのは見えていた。昨夜火事をだした家の人間が音曲の場にやって来て、出番が終わっても帰らずに残っている。どういう事かと余計な気が巡りかけた。でも出番の合間に控室でひと息いれる時間もわずかな知香だったし、舞台で姿勢を正せば忘れていた。

 そうしておさらい会は予定通りに終わった。誰も疲れたなりにほっとして、控室は一とき華やかなほどにぎわう。お疲れさまと声をかけ合い、好き勝手なおしゃべりのうちに街に繰り出す話しがまとまる仲間もいて、三々五々公民館を出ていった。

 気がついた時には控室には知香と本間と、そして何か思いつめたような顔を伏せた代里子が残っていた。室のすみに立ちすくんで、でも知香がさぁ帰りましょうと声をかければ、一緒に公民館を出ることになるだろう。それからどこかで代里子の話しを聞くといった筋書きが、この場にはふさわしい。でもそこに知香が居なければならない理由は、考えてみればなかった。

 「やれやれ、今年は家元も機嫌がよくてよかったこと」

 そんな事を言って知香は一人で控室を出た。廊下はもう人気もなくなっていて、公民館の外はとっぷりと日が暮れていた。

(続く)

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[「文学横浜」23号に掲載中]

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