やぐら太鼓


作  七浦とし子

 【その1】


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「ちょっと誰なの、こんなところに紅筆をころがしたの」

「おい、俺の草履を蹴飛ばすなよ」

 大衆演芸場『高砂演芸場』の楽屋は、舞台の支度をする役者たちの声もあわただしくなった。五時半の開演を控えて、舞台化粧も衣装の着付けもあらかた出来上がっている。

 床にちらばった化粧道具や服をざっと片付けて、貞吉は懐の古い懐中時計をのぞいた。高砂で役者の支度から舞台裏の雑用までなんでもやる使用人の貞吉は、開演時間が近づいてくると時計をのぞきのぞき仕事をする。毎日正確に合わせている時計は、五時三分前。いそいで楽屋をでた。楽屋からせまい舞台裏をぬけて階段をのぼると、二階からはり出したやぐらに出る。

 高砂演芸場には、全国各地を回る旅役者の一座が月替わりでやって来る。どの一座も開演の三十分前には、貞吉がやぐらにすえた大太鼓で客を誘う呼び込み太鼓を打つ。これが貞吉には密かな自慢で、一日たりとも欠かした事はない。

 高砂演芸場は古い運河に面していて、やぐらからは家並の低い街が遠く見渡せる。運河には柳の並木がゆったりと枝を垂れ、一座の役者の名を染めぬいたのぼりが風になびいている。

 大太鼓の前に足をかまえて、貞吉はばちをにぎった腕を勇ましくのばした。高砂演芸場で働いてもう四十年、いつもうす暗い楽屋裏でもっそりと背中を丸めて雑用をする貞吉だが、このやぐらに上がった時は別人になる。自分の打ち鳴らす太鼓で客が集まり、舞台の幕があき、役者たちが拍手喝采をあびる。貞吉にとっては他の誰にも真似できない一人舞台で、高砂の名のはいった法被に額の鉢巻きもきりりと締め、思い切りばちをふるう。

 ドンドドン、ドンドドンと打ち鳴らす太鼓は、ただ叩くだけではいけない。ばちの微妙なはずませ具合で、どんと来い、どんと来いと聞かせなければいけない。そのばちも今では腕の一部ほどになじんで、わずかな狂いもない拍子で太鼓を連打する。

 ドドンと一発、終いのひと打ちをひときわ高く空に放って、貞吉はばちを懐にしまった。今日も無事に終えた一人舞台に満足して、やぐらをおりた。

 舞台裏にもどると、役者たちはもう舞台のそでに詰めていた。今月の舞台の一幕目は、座長はやくざな旅がらす、その後をつけ狙う悪党役、旅がらすに惚れてつきまとうすりの姐ごや岡っ引き役が、出番を待っている。

 幕間に舞台装置を出し入れするのも貞吉は手伝う。手順を考えて確かめているところへ、 「貞さん、ちょっと」

 高砂演芸場の恩田社長が声をかけてきた。おっとりとした風格のある二代目の社長で、古い使用人の貞吉を先代同様、貞さんと呼ぶ。「へい」

 貞吉は答えて、恩田に続いて事務所にはいった。

「実は、来月の興行が決まったんだ」

 旅役者の興行というのは、その交渉に時として暴力団が介入してくることもある。そんな世界で堂々と興行を仕切る恩田社長が、何やら言いづらそうに口ごもる。

「来月は、藤千太郎一座を呼ぶことにした」 貞吉はぼんやりと顔を上げた。藤千太郎…。濃厚な流し目で客席を沸かせる人気役者で、以前は年に一度は高砂演芸場に来ていた。しかし五年前、一ヵ月の舞台を終えて千太郎一座が次ぎの興行地へ発った後、貞吉の女房が姿を消した。女房が千太郎の後を追って行ったのを、貞吉はその後で知ったのだった。それ以来、藤千太郎一座は高砂演芸場へやって来ていない。

「あの一座はけっこうご贔屓さんも多くて、なぜ呼ばないのかとうるさいんだ」

 黙りこくった貞吉に、恩田はせわしなく続ける。

「貞さんには当然許せない相手だろうし、太鼓だって…」

 藤千太郎のために太鼓を打つのはいやだろうと、その目が気づかう。五年前の経緯を知っている恩田社長の、心底からの気づかいにちがいない。

「太鼓は、誰かほかの者に打たせたっていいんだ。考えたら貞さんにはまとまった休みのひとつもとらせた事もなかったし…」

「親方が小屋に来るなって言うなら、来ませんがね」

 ぶすりと貞吉は恩田社長の言葉を遮った。先代の社長の頃から、貞吉は社長を親方と呼び、劇場を小屋とよぶ。ぶっきら棒な貞吉の言い様に、恩田はあわてて手を横にふった。「来るななんて誰が言うもんか。高砂の舞台は、貞さんの太鼓がならなけりゃ幕はあがらないんだから」

 愛想はないが小狡さもない働き者の仏頂面を、恩田は本気でなだめる。

「済まなかった。気を悪くしないで、ひとつよろしく頼むよ」

 拗ねてくれるなと頭をさげる恩田に、貞吉は無愛想に頭をさげ返して事務所をでた。舞台裏には客席の盛んな拍手が聞こえてきていた。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載]

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