やぐら太鼓


作  七浦とし子

 【その2】


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 貞吉は小さい頃から口が重く、どこにいてもすみっこで一人うずくまっているような子供だった。たまたま弟が愛敬のあるひょうきん者だったから、それに比べてずいぶんと可愛げがなかったのだろう。親も貞吉をひねくれた息子だと邪険につき放し、学校でも友達一人いなかった。

 でも貞吉は何とも思わなかった。一人でぼんやりしている方が気楽で、人と口をきくのは面倒くさいだけだった。

 しかし高校生になった頃、変わり者の兄をしつこくからかう弟に我慢しきれず、つい腕をあげて殴ってしまった。父親はえらい剣幕で怒り、言い訳ひとつしない貞吉を足蹴にして、家から出て行けと怒鳴りたてた。その激しさに煽られて、貞吉はその場から家を飛び出してしまった。

 夜中にでもこっそりと家にもぐり込めば、なんとかなるとは思った。でも戻れば戻ったで、弟に謝れとやかましく責め立てられるに決まっている。想像しただけで煩わしかったから、そのまま家を捨て、郷里を捨てた。

 幸い顔かたちが大人びて丈夫な貞吉だったから、見知らぬ街で素姓や年齢をはぐらかして工事現場にでももぐり込めば、喰いぶち程度はなんとか稼げた。身体ひとつが頼りのその日暮らしも、思ったほど辛くはなく、気ままに寝ぐらを変えるうちに、高砂演芸場のあるこの街へ流れついている。

 ゆったりと流れる広い運河に沿った街は、近代化した都会とはひと足離れた家並の低い住宅街と、そう大きくはない商店街が隣り合わせている。古い地元っ子の多い下町で、悪ささえしなければ、身なり構わぬ流れ者の貞吉に白い目を向ける者もいないし、要らぬ干渉をする者もいない。商店街の裏通りで探せば安い手間賃仕事にありつけたし、貞吉にはなかなか住み心地がよかった。 街はずれには貞吉に似てどこの誰とも知れぬ人間の寝泊まりするドヤがあって、安い宿泊賃で寝ぐらにできた。

 ドヤを寝ぐらにして相変わらずのその日暮しをしている貞吉に、ある日でっぷりと貫禄のある男が声をかけてきた。高砂演芸場の先代の社長で、演芸場で舞台裏の雑用を手伝わないかと言う。改まって真面目に働くといったつもりもなかったのだが、入口にどっしりと瓦のひさしを構え、看板も重々しい歌舞伎文字で掲げた高砂の造りは、写真で見覚えのある東京の歌舞伎座に似ていて、その風情も貞吉の気に入った。

 仕事はじっさい雑用ばかりだったが、人に気をつかわずに黙々と働くのは貞吉の性に合った。明日の仕事を捜す手間のいらないのも悪くはなく、気がついたら高砂の使用人になっていたという格好だった。

 当初はドヤから通っていた貞吉を、社長が高砂の楽屋で寝起きするようにすすめてくれた。勘の鈍い手に呼び込み太鼓のばちさばきを根気よく教えてくれたのも、先代の社長だった。

 素姓の知れない無愛想な自分を一人前に扱ってくれるのが、貞吉にはうれしかった。恩だの義理だのといった畏まった意識ぬきにして、この高砂に腰をすえようと本気で思った。それは二代目の社長になった今も変わっていない。

 賭事にも女にも目の向かない貞吉だったが、三十をすぎた頃に一回り近く年下の女房をもらった。同じ高砂で働いていた民子という娘で、売店の売り子をしていた。貞吉に似て身寄りらしい身寄りはいないらしく、口数の少ない所も似ていた。でも控えめな愛敬があって、誰にでもおっとりと親しむところがあった。

 無愛想な貞吉にも、民子は屈託なくなついてきた。貞吉が背を向けて相手にしなくても、そばで黙って貞吉の仕事を見ていたりした。そばに居てもうるさいおしゃべりをするわけでなし、そばに来るなと追い払う理由も貞吉にはない。そのまま好きにさせているうちに、仕事が終わって楽屋裏の寝床に戻る貞吉にもふらふらとついて来て、なりゆきで一夜を共に明かす結果になった。

 妙なことになったと思うものの、貞吉も男だから、女に寄りつかれて悪い気はしない。それからも度々民子が楽屋に来るのに任せているうちに、民子は洗濯の世話などもするようになった。

 そうした事実はじきに使用人仲間に知れ、社長にも知れた。社長も黙認はしてくれたが、事情はどうあれ、若い女を寝床に連れ込んだ意識は貞吉にもある。仲間たちにも気まりが悪いし、どうしたものかと困惑する反面、親も郷里も捨てた独り身に、民子はどこか懐かしさを感じさせる存在だった。

 そんな頃、高砂の裏手の古いアパ−トの部屋がひとつ空いたという話しがあった。いつまでもこのままでいるわけにはいけないと思い切った貞吉は、社長の勧めもあってその部屋で所帯をもつことにした。

 所帯をもってからも、民子は高砂に通って働いた。売店の仕事は貞吉より遅い時間に出かければよく、舞台が終われば店をしめてすぐに家に帰れる。あとは貞吉が劇場の後片付けをすませて帰るまでに、夕食の支度をして待っていた。

 貞吉と一緒になっても、民子はひっそりとおとなしい女房だった。六畳一間のアパートで、いつでもおっとりと目を細めて炊事や洗濯をし、貞吉の世話をする。貞吉は元々無口だから、やさしい言葉のひとつもかけない。でも不満そうな顔をしたことはない。貞吉が仕事から帰ればお膳を用意し、貞吉が黙って箸をはこべば、自分も黙って食べながら給仕をする。貞吉はコップ一杯の酒をあければごろりと寝そべり、じきにいびきをかく。その肩にはいつの間にか毛布がかけてある。遅くなって民子に寝床にはいるようにと起こされると、目の覚め具合で時には夫婦の夜をもつ。仕事が休みの日でも、貞吉が部屋でごろりと寝そべっていれば、自分も黙って針仕事でもしている。そんな毎日の繰り返しだったが、民子は文句ひとつ言ったことはなかった。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載]

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