絵コンテ

作  上村浬慧

 【その1】

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桜一輪                                     

 空は青く、桜の蕾が灰桃色の墨を刷いたように染めだされている。陽だまりに温もっていると、戦時中であることも、決戦非常措置要綱が発令され、宝塚大劇場の最終公演や人間魚雷の試作命令といった戦況の不安を思わせる噂などもかけ離れた所の出来事に思える。よしのは、どんと下に突き出し固くなった臨月の腹を両手で抱え、まだ日の高い西の空を見上げた。

 俊一郎はやはり戻れなかった。今ごろどの辺りにいるのだろう。非常時である。夫の俊一郎は陸軍大佐として多くの軍事秘密を抱えていたらしく、家にいてさえ心から寛いでいるようすがなかった。ひと月前に家を出る時、いつも以上に厳しい顔をした俊一郎は、子どもたちひとりひとりの顔をじっと見つめていた。よしのに言い残した俊一郎の言葉がことさらに腹の固さを際立たせてくる。

「行く! 腹の子は誇り高く育ててくれ。男なら仁、女だったら憧子。頼む!」

目が最後の挨拶をしていた。誇り高く…、そう呟きながら腹をさすった時、激痛が襲ってきた。陣痛であった。

*

 奥まった部屋は光が入り込まないよう閉め切られ、雨戸が立てられた。子どもたちは、家の中の異常な雰囲気に緊張しているのであろう。里から回されて来た女中に付き添われ、離れたところでひっそりと物音ひとつ立てずに静まり返っている。

 どの位時が経ったのだろう。ひとしきり続いた陣痛が遠のき、よしのは耳をそばだてた。

「子どもたちはどうしているかしら…」

「お里の姉やさんと一緒にお部屋に…。心配あらしゃりません。もう夜が明けました。お子達はまだぐっすりと休んでおらしゃります。」

寝物語を聞かずに四歳の滋子はぐずりはしなかったのだろうか。よしのはふうーっと大きく息を吐いて柱時計に目をやった。八時を少し回ったところである。障子の桟はしっかり見える。部屋の造りも歪んではいない。陣痛の始まったのは午後、そろそろ産まれても良い頃なのに…。腹に手を当て直したよしのを再び激痛が襲った。

 陣痛の間隔がせばまり意識が朦朧としていく中で、よしのは甲高い産声を聞いた。男の子なら仁、女の子だったら憧子。俊一郎の声がよしのの中でこだまする。誇り高く…、俊一郎の言葉を繰り返し噛みしめるよしのの耳に産婆の声が静かに沁みた。

「女のお子です。嬢やであらしゃります。」

 産湯に漬かった憧子がよしのの傍に連れて来られた。あかくしわくちゃな顔が百面相を繰り返している。真っ白な産着の中で力む憧子は小猿を思わせる。憧子の泣き声が薄暗い部屋の中いっぱいに広がった。鼓膜を突き破りそうな鋭い声を張り上げ、憧子は自分の誕生を主張している。憧子! この子は父親がいなくてもきっと芯の強い子になる。

 産婆が窓を開けた。急に射しこんできた光に憧子が大きく伸びをした。小さな手を開ききって空を掴むようにしている。窓ガラスに反射した朝の陽ざしが顔に当たり、憧子はひときわ甲高く泣き声をあげた。誇り高く育てよ! 俊一郎の声が泣き声に重なる。憧子の小さな手をしっかりと包み込み握り締めたよしのの目に、真っ青に澄んだ空が飛びこんできた。その空に向かって伸びる大樹の枝先に、一輪だけ開いた桜の桃色が鮮やかに映えていた。

(続く)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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