セピア色の絵コンテ


作  上村浬慧

 【その4】


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はじめて見た字

 憧子が今仲良しなのは、映画館の隣に住んでいる市子ちゃん。市子ちゃんの家で遊んでいると、映画館からの音が大きく聞こえてくる。憧子はその音が気になってしょうがなかった。だから毎日市子ちゃんの家に遊びに行った。このごろ評判になっているのは中村錦之介か美空ひばりが出ている映画。『笛吹童子』は、先だってお母さんと一緒に観て来たばかり。今はもう掛っていないはず。今日は何の映画だろう。憧子は市子ちゃんと遊ぶことよりも、映画館から聞こえてくる音の方に気を取られていた。

 市子ちゃんは慣れっこになっているのか、音なんかまるで気にしていないみたいに、次は何をして遊ぼうかと憧子を誘う。音が気になっている憧子は遊びに熱中できない。そんな憧子に業を煮やしたのか、市子ちゃんが言い出した。

「家にね、映画館から聞こえてくる歌の文句が書いてある本があるんだ。『平凡』って言うんだよ。お姉ちゃんの本だから勝手に見ると怒られるんだけど、憧子ちゃん見たい。」

 憧子が頷くと、市子ちゃんは得意げに胸をそらした後、急に体を縮めひそひそ声になった。

「じゃあね、憧子ちゃんにだけこっそり見せてあげるよ。誰にも内緒だよ。行こう!」

*

 市子ちゃんは薄暗く細い階段をとっとっと上って行く。憧子も息を潜めて市子ちゃんの後ろを、そろそろっとついて行った。お姉ちゃんの部屋から見ると、市子ちゃんの家は本当に映画館とくっついているのがよく分かる。お姉ちゃんの部屋の窓から映写室へは、跨いでも行けそうな気がした。

「あったあった、ほら、見てごらんよ。美空ひばりの歌の文句はこれなんだ。お姉ちゃんが自慢してたからほんとだよ。漢字がいっぱいあるけど憧子ちゃんなら読めるよね。」

 市子ちゃんの見せてくれた本は、それまで憧子が見たこともない、薄っぺらでザラザラした紙で出来ていた。何度もめくられた跡がページの隅に黄色くシミをつくっている。きっと市子ちゃんのお姉ちゃんは、この本を毎日読んでいるに違いない。お姉ちゃんがそれほど読んでいる本なら、きっと夢中になる訳があるのだろう。憧子は、市子ちゃんが開いてくれた『平凡』というその本に、青く印刷されている字を読み始めた。大抵の字は読めるのに、恋、忍、など、憧子のはじめて見る字があった。

「市子ちゃん、読めない字があるの。どうしたらいいのかしら。」

「憧子ちゃんにも読めないの。」

「うん、でも字を写して、家に帰ってからお父さんの辞書で調べて見るわ。」

「そんなことしなくていいよ。お姉ちゃんが読む本なんだから、うちの母ちゃんでも分かるよ。聞いてみよう。」

*

 市子ちゃんは憧子が字を真似て書き写した紙を握り締めて階下に下りた。市子ちゃんのお母さんは、昼だというのに裸電灯をつけた薄暗い小部屋で、コタツの上に広げた布に竹尺を当てていた。市子ちゃんはお母さんの傍にへたり込んでじっと動かない。憧子は、どうしてすぐに字の読み方や意味を聞かないのかなと思ったが、なぜかじっとしていなければいけない気がして、市子ちゃんの様子を息を呑んで見つめた。市子ちゃんがお母さんの耳元に何か言った。市子ちゃんのお母さんは市子ちゃんと憧子とをいぶかる目で見比べた。

「子どもがそんな字の意味を知ってどうすんだよ。馬鹿だね。そんな字のことは忘れっちまいな。まだ早いんだよ。もう少し大きくなったらひとりでに分かるよ。ほらほら、もっと友達と外で遊んできな。」

 市子ちゃんのお母さんが、市子ちゃんの頭を竹尺でパシン!と叩いた。憧子は、市子ちゃんのお母さんから、自分もパシンと、同じように叩かれた気がした。

 家に帰った憧子は、お母さんから「恋」という字の素晴らしい意味を、そして、恋が人の心を豊かにしてくれることを教わった。

おわり

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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